ほんとうのボランティアとは
朝日新聞1994年3月21日社説より抜粋

 ボランティア活動は恋に似ている。
 それが、楽しいから、好きだから、ロマンがあるから、共感するから、つい、自発的(ボランタリー)にしてしまう。損得勘定とは縁が薄い。ボランティア活動のしにせ、大阪ボランティア協会事務局長の早瀬昇さんは、そう考えている。

 青少年問題審議会が先週末、首相に意見書を出した。ボランティア活動を体験する機会をつくり、「ぬくもり」と「輝き」の時代を実現しよう、という提案だ。
 実現するには、そこに盛られた手だてを一つずつ実行していく地道な仕事が残っている。両親や教師の意識、競争万能の社会の仕組みも変えていく必要がある。
 意見書は、「受験競争が過熱し、青少年は学業、塾通いに多忙で、主体的に行動する自由時間を確保できない」「同質的な仲間との付き合いに終始し、心の奥まで許し合うつきあいを避ける傾向がある」と分析している。
 そう分析した上で意見書は、多様な背景の人たちと接する体験の「機会」と「場」を提供すれば、かれらは社会には様々な人が生活していることに気づき、相手の立場に立ってものを考える態度や社会的に弱い立場にある人への配慮を身につけていくだろう、という。
 役所は従来、ボランティア活動を「善行」や「奉仕」といった領域に押し込めようとする傾向があった。そこから踏み出そうとしている。

 また、受け手への配慮を強調し、「ボランティアで人生の充足感を得ようとするあまり、受ける側が誇りを傷つけられる可能性がある」「自分の都合を優先した無計画な取り組みが迷惑をかける可能性がある」と注意を求めている。
 2年前、全国社会福祉協議会の「ボランティア情報」が「嫌われボランティア」を特集した時、またたくまに在庫がなくなるほど評判になった。
 自主性の意味をとり違えた「好きなときに好きなことだけやるボラ」、相手の誇りを傷つける「やってやるボラ」、あてにならない「無責任ボラ」などを洗い出し、これをプラスに転じる方法を提案したものだった。
 ボランティア活動の作法を青少年の時代から身につければ、こうした迷惑ボランティアも減ることだろう。

 恋と似ているところはもう一つある。
 一方が与え一方が受け取る、という関係が次第に変化していくことだ。
 たとえば、日本アルプスを望む長野県四賀村の子どもたちの作文には「四賀アイアイ」という名が度々登場する。
 「アイアイは私たちにとって、なくてはならない場所になってしまった」
 「私たちの村にアイアイが出来て本当に良かった」

 「アイアイ」というのは、知的なハンディを負った人たちが暮らす、木の香のただよう館だ。
 小中学生が「気の毒な人たちにボランティアしてあげる」という常識が、ここでは覆されている。知的ハンディをもつ人たちの分けへだてしない振る舞いと笑顔が、訪れる人の心を温かく変えていく。