千葉・ちいき発

千葉県・障害者差別をなくすための研究会座長・野沢 和弘さん

(1)何が差別か

 「障害者だからといって馬鹿にするような言葉を投げつけられた」「普通の学校への登校をさせてもらえない」「就職試験すら受けさせてもらえなかった」「スイミングクラブの入会を断られた」「レストランの入店を断わられた」「車椅子で乗車できない」
 県民から寄せられた差別事例を眺めていると、社会のあらゆる領域で障害者は<障害を理由に不本意な扱い>を受けていることがわかります。
 詳しく見ると、「差別」と思われていることの中にもさまざまなレベルがあることに気づきます。

 @悪意のある差別
 A悪意はないけれど、知らないうちにしている差別
 Bできればしたくないけれど、やむを得ず障害者を不利な状況に置いている
 C制度や法律の中に組み込まれている差別
 D建物・道路・設備などに組み込まれている差別
 E障害者を排除している情報のツール
  …………

 また、作為的・意図的な差別だけでなく、雇用の場などで障害者の特性に配慮しないために働けない状況を作り出している「不作為」についても差別と認め、企業などに合理的配慮義務を課すのが、諸外国では一般的な流れとなっています。

(2)どうして差別は生まれたか

 さまざまな領域、さまざまなレベル・性質の差別ですが、どこかに境界があるわけではなく、悪意のある差別も知らずにしている差別も、連続性があると思います。
 そもそも、障害者はどうして差別されているのでしょうか。
 人間はだれだって自分や自分の家族が一番かわいいものだと私は思います。そんな人たちが同じ社会で暮らしているわけで、知らないうちに相手の思いや権利を踏みつけたりして生活しているものです。相手がすぐに抗議してくれれば、「あ、そうか」と気づき、謝ることもできます。そんなことを繰り返していくうちに、踏んだり踏まれたり、助けられたり助けたり……。私たちが暮らしている社会なんてそんなものだということが分かり合えるようになろうというものです。
 また、いろんな局面で利害が相反する人々が小さなパイを分け合って生きていく場合、誰もが100%満足する社会なんて不可能なので、誰かが少し得をすれば誰かが少し損をするようになっています。仕方がないので、できるだけ多くの人が得をするか、得をしなくても納得するように利害を調整する仕組みについて考えるようになります。少数者でもみんなを説得できるような言葉と機会を持っていれば、利害調整システムに参加し、それを有効に活用することができます。

 ところが、ここに踏みつけられても文句を言わない人、文句を言えない人がいます。彼らは単に少数者だというだけでなく、障害の特性や育ってきた環境ゆえに文句を言わ(え)ない。だから、みんな知らないうちに彼らを踏みつけたり、仲間はずれにしたりしているのです。そして、いつの間にか文句を言えない人のことを考えずに建物や道路を作ったり、町を作ったり、制度を作ったりしているのではないでしょうか。そうすると、少数者(障害者)たちはますます社会に参加する機会から遠ざけられ、教育や情報からも遠ざけられ、ますます文句を言えなくなって行きます。
 一方、多数者の側もこのような「文句を言えない少数者」と接触する機会が少なくなってくるので、彼らの気持ちや置かれている状況がますます理解できなくなるわけです。そうすると、少しぐらい少数者(障害者)を邪険に扱っても平気になってくる。文句も言われないし、自分自身の心も痛まなくなる。みんながそうしているのだから、あまり深刻に考えずにそのようなものだと思い込んで日常生活を送っているのです。

(3)罰則は有効か

 踏みつけられる少数者(障害者)にとっては、このような状況は腹立たしいでしょう。「こういう差別には厳罰をもって対処すべし」などとこぶしを振り上げたくなるのはよく分かります。たとえば、罰則付きの差別禁止条例ができれば、これまで障害者のことを差別してきた人々は罰されるのが嫌だから、「差別」をしないように気をつけようと思うでしょう。そのくらい強く出なければ差別なんてなくならないと多くの人は思っているのかもしれません。そうすれば障害者の積年の腹立ちも少しは収まるでしょうか。
 特に、悪意をもって障害者を差別している人には罰は有効かもしれません。一般の人々にとっても「差別はいけない」という教育的なメッセージを発することができます。ある種の差別やある差別的な状況にとっては、強制力を伴った規範が必要なのかもしれません。制度を変えたり、建物や設備などを作り変える場合には有効でしょう。
 だけど、ちょっと待ってください。障害者と触れ合う機会も少なく、障害者が何を差別だと思っているのか分からない、という人は多いはずです。障害者を意図的に差別する人よりも、知らないうちに差別している人の方が現在は多いのではないでしょうか。

 よく効く薬には副作用が強いのと同じで、罰を恐れて過度に萎縮したり、障害者とかかわらないようにしたり、反感を強めたり…。自分が差別していることに気づけば、反省して改める人に対してまで、罰則を適用していくと、どんなリアクションが起きてくるのでしょうか。罰則のもたらす副作用についてもよく吟味しなくてはなりません。罰則規定は、人々の外見上の振る舞いは変えることができるかもしれないけれど、人の心の中を変えることがどこまでできるでしょうか。
 明瞭な判断能力があり、周囲の人々や社会と交渉できる障害者の場合には、それでもいいのかもしれませんが、重度の知的障害者や精神障害者など判断能力にハンディのある人の場合のことを考えると、周囲の人々が外見上だけ変わっても心の中の差別意識や反感がそのままでは何となく不安です。

(4)心の中の差別はなくせるか

 差別禁止条例は、けしからん差別を見つけ出して糾弾したり厳罰を科すのではなく、同時代に生きる者として互いの「違い」を認め合い、社会のありようを見つめていくための装置(きっかけ)であるべきだろうと思います。
 差別する心は誰の中にもあります。それを自覚し、見つめるところから始めなくてはなりません。では、差別を生んでいるものの正体は何でしょう。無知、不信、優越的な位置に立ちたいという利己心、コンプレックス、恐怖……。人間の心の中に潜む<負の心理>の塊が、社会の中で化学反応を起こしている状態。それが差別なのかもしれません。
 相手のことをよく知るようになると、踏みつけられている痛み、声を上げられないことの切なさのようなものが見えてくる場合が多いものです。慣れていないことには不信や恐怖や嫌悪感を感じたりするものです。

 障害者の奇声やヨダレを嫌い、差別する人はいます。一方、赤ちゃんの泣き声やヨダレを生理的に嫌だと思う人はいるかもしれませんが、だからといって赤ちゃんはあんまり差別されたりはしません。赤ちゃんの泣き声に嫌悪感を露骨に表す人はいるかもしれないけれど、おそらくそんな人は周囲から顰蹙を買うことでしょう。また、よく知っている人の赤ちゃんだったりすると、ギャーギャー泣かれても不快感が薄くなるのはなぜか。大人になった障害者の奇声やヨダレを不快に感じるのは、障害の特性についてよく知らないためであり、その障害者のことを見慣れていないせいであり、不快に感じて差別することで相手がどれだけ傷つくかを知らないためではないでしょうか。

 知らないうちに障害者を踏みつけながら築いてきた社会の中で自分たちが生きていることを多くの人は知らないことでしょう。悪意はなくても故意ではなくても自分たちが少数者(障害者)を踏みつけていることに気づいていないのです。少数者(障害者)の涙が、自分の心に潜む無知や不信や利己心によってもたらしていることを気づいてはいないのです。そうした状況に無自覚なまま、多数決を延々と繰り返していることを知ることは、多数者にとっても有益なのではないでしょうか。そういうことを知ってもらい、少数者の意見に耳を傾ける必要性・必然性を理解することがとても大事です。

(5)「公平」とは何か

 差別とは「正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと」(広辞苑第五版)です。「正当な理由」とは何なのか、「劣ったもの」という認識があるのかないのかも問題ですが、もっとも重要なのは「不当な扱い」とは何なのかということでしょう。  「不当な扱い」とは公平ではないことです。では、「公平」とは何なのか。堂々巡りのようですが、少し考えて見ましょう。

 「公平」といってもいろいろです。たとえば、大学入試では高得点を上げた順に合格者が決められていくのは当然です。ここに家柄だとか容姿の美醜だとか身長の高低など、ほかの要素が加味されて合否を判定されたのでは、とても公平な合格基準とは言えません。ここでは、それぞれの個人が獲得した成果に応じて利益を受けられることが公平です。
 もって生まれたIQ(知能指数)や得意科目などは人それぞれです。たぶん、IQが高い人の方が低い人よりは少ない努力で高い点数を取ることができるでしょう。だから、同じ90点を取ったとしても、IQ120の人よりも、IQ70の人の方がたくさん努力はしたのだろうと思います。私は個人的には同じ点数ならばたくさん努力をした人に良い思いをさせてあげたいと思いますが、現在の大学受験で努力の「量」とか「質」で合否を決めるというのは、あまり馴染まないでしょう。
 この数年ほどは日本企業の中に「成果主義」が導入されるようになり、年功序列や学歴などよりも現実に挙げた成果に従って給与や社内の地位が与えられることがふつうになってきました。利潤の追求が企業活動の最大の目的であり、その企業で働く人々の共通理解もそのようになっているでしょうから、成果主義は企業にとっては「公平」であろうと思います。

 一方、お父さんが家族のためにケーキをお土産に買ってくる場面を想像してください。お母さん、おばあちゃん、高校生の長男、中学生の長女、小学生の次男に、おなじ大きさのショートケーキを買ってきました。ここでは「成果主義」などを考えるのはナンセンスでしょう。食欲旺盛な長男も、体の小さな次男も、年を取ったおばあちゃんも、みんなに同じケーキを買ってくることが、家族の親密さを守ることにおいては、「公平」であろうと思います。
 また、日本国民である以上、公民権停止になるようなことをしでかさない限り、成人になれば誰しも投票権を持つことができます。どれだけたくさん税金を納めている人も1票、税金を納めるほど収入のない人も1票です。選挙によって選ばれた首長や議員たちが法律を作ったり、集めた税金の配分について決めるわけで、たくさん税金を納めている人にとっては、税金を納めていない人と同じ1票しか持てないことは不公平だと感じるかもしれませんが、同じ日本国民として誰もが等分の選挙権を持つことが公平であると多くの人は思っているでしょう。

 また、貧しくて栄誉失調になっている人と、お金持ちで元気な人がいた一緒にいて、1個のりんごを分けようとしている場面を想像してください。まったく同じ大きさに半分に割って分けることが公平なのか、税金をたくさん払っているお金持ちが多くりんごをもらうことが公平なのか。こういう場面では、目の前のりんごを必要としている貧しい人に与えることが、多くの人は公平だと思うことでしょう。必要の度合いに応じて分配する…という場合の公平の原理は、福祉や医療などの現場ではごく自然に機能しています。
 ところで、貧しい人はなぜ貧しいのかも考えてみる必要がありそうです。イソップ童話でキツネとツルの話があります。キツネはツルを食事に招待したけれど、くちばしの長いツルは浅い皿のスープを上手に飲むことができません。逆にツルがキツネを食事に招待した時には、首の細長い花瓶のような容器にスープが入っているので、くちばしの長いツルにしかスープを飲むことができません。
 世の中にツルが大勢いて、くちばしが長いツル用に食事の容器が規格化されてしまったとしたら、少数派のキツネにとってはさぞ生きにくい世の中ではないでしょうか。また、羽があって空を飛べるツルにあわせて交通設備や学校や住居が作られるようになったら、羽のないキツネは生きていけないかもしれないのです。
 キツネは羽や長いくちばしがないけれど、ツルに比べて「劣っている」のでしょうか。地上を速く走ること、小さな獲物をとること、林の中に隠れるのが上手なこと……ツルにはできないこともたくさんあります。しかし、空を飛べるツル用に社会が作られてしまうと、なかなかそのような才能を発揮することもできず、多数派のツルから蔑視されたり哀れみの目でみられたりしているうちに、自信もなくしてしまおうというものです。
 貧しい人がなぜ貧しいのか、貧しいままの状態にさせられているとすれば、それはなぜなのか。私たちが暮らしている社会の歴史や構造の中に踏み込んで考えていくと、差別の本質が見えてくるようです。

 背景となる母集団がどのようなことに価値を置いているのか、何を目的に集団を形成しているのかによって、「公平」も変わります。障害者の側から見て、「不当な扱い」「差別」と思えることも、時と場合によっては「不当」や「差別」というのが不適当なケースもあります。価値観や活動の目的が異なれば、差別観や公平観が大きく異なるのは自然なことです。「差別」とはそのようなものだということを、いろいろな立場や価値観の人たちがよく理解したうえで、障害者の差別について考えないと、無用な誤解や軋轢を生むことになります。
 私たちが問題にしようとしている「差別」「公平」は、企業内の能力主義におけるものでもなく、家庭内の親密さにおけるものでもなく、福祉などを考える文脈における「差別」であることは言うまでもありません。貧しい人と豊かな人がいる場合、必要に応じて分配する公平さを大事にする文化や地域社会を築いていこうというのが、差別禁止条例(仮)が目指すものではないかと私は思います。
 能力主義における公平だけでも、家族内の親密さにおける公平だけでも、暮らしやすい社会になるとは思えません。それぞれの「公平」を健全に育てていくことが、本当の意味での差別をなくすことにつながるのではないでしょうか。

(6)一般の人のためにも

 理不尽な理由でつらく悲しい思いをしている人は、障害者だけではありません。「(2)どうして差別は生まれるか」をもう一度読んでみてください。この文脈では<少数者=障害者>ですが、「障害者」をたとえば、別の言葉に置き換えてみましょう。被差別部落の出身者、いじめの被害者、痴呆(認知症)のお年寄り、自殺遺児、犯罪被害者、薬害エイズの被害者、元ハンセン病患者、希少難病の患者、ホームレス、リストラされた人、引きこもりの青年、リストカットしている女子高生……。
 このように考えていくと、人生の中で「元気で健康な多数者」である時期は意外に短いのかもしれません。また、自分自身は「元気で健康な多数者」であったとしても、家族や知人の中に「少数者」が出てくる確率はかなり高いでしょう。そうすると、「少数者」のことは他人事には思えなくなってくるのではないでしょうか。

 また、「少数者」は社会に対して貢献したり何らかの影響を及ぼしたりできない存在なのでしょうか。役に立たないお荷物なのでしょうか。
 人間の可能性とは不思議なもので、踏みつけられ声も上げられない少数者にしても、社会にさまざまな影響を与えており、有形無形の貢献もしています。重度の知的障害者が近親者を通して社会に文化的・経済的・政治的貢献をしていることは、大江健三郎や近松門左衛門や井深大などを例に引くまでもありません。そんな有名人ではなくても、世の中の片隅で生きている障害者一人一人が社会に向けて「光」を放っている…そういうことを知らずに生きていくことは果たして多数者にとって幸せなのでしょうか。
 そうした社会と人間の多様性にあふれた魅力を知ることは多数者にとっても有益であるはずです。自分の中にある「差別する心」を見つめ、自分の知らない世界に目を向ける<きっかけ>を与えるような、差別禁止条例であるべきではないでしょうか。

▲上に戻る▲

千葉・ちいき発・目次に戻る

トップページに戻る