★流山の勉強会
5月8日に流山市で条例の勉強会が開かれました。地元の親の会の人々、若い職員ら計60人以上に混じって、県議会議員が1人、市議会議員が4人も参加して最後まで耳を傾けてくれました。条例案の説明に何度も深くうなづいたり、熱心にメモする姿が印象的でした。勉強会のあと、数人の県議、市議の先生が「ぜひ、この条例案を成立させたい。協力したい」と力強く話してくれました。
この条例案は、障害者だけが良くなるのではなく、地域社会を良くしていくためのものです。同じ社会で暮らす仲間同士が互いに理解し合い、相手の痛みや悲しみや喜びをわかることによって「生きる力」を育む条例案です。障害者や福祉関係者だけでなく、一般の人々にも条例案について伝えていかねばなりません。流山での勉強会はそういう意味でも本当に素晴らしいものでした。
★議会を傍聴しよう
継続審査になった条例案について、5月12日に県議会健康福祉常任委員会が開催されます。多数の傍聴で私たちが条例を切望していることを県議の先生たちに理解してもらいましょう。
@健康福祉常任委員会
A5月12日(金)10:00
B議会事務局に電話で申し込んでください。
C043−223−2515 および 043−223−2518
D団体で申し込まれますと、代表者だけになる可能性もあります。個人で申し込んでいただけますように。
<シリーズ> なぜ条例が必要なのか
「被害にあったのは私たちの方なのに、どうして裁判でこんなにひどい目にあわなければならないんでしょうか」。知的障害者施設でわが子が虐待を受け、その施設を相手に訴訟を起こした人から言われたことがあります。ひどい虐待を受けながら、施設側がそれを認めないため、シロクロはっきりさせて責任を認めさせるために提訴したのですが、実際に裁判になってみると、相手側からは思っても見なかった反論が返ってきたというのです。被害者であるわが子のことを、いかに他の利用者や職員に迷惑をかける障害者であったのか、虐待被害にあったなどということはいかにウソであるのかを執拗に主張してきたそうです。「人格まで否定されるような反論をされる。こんなことが許されるのでしょうか。いったい何のために提訴したのかわからない」とその人は言います。
裁判になると、訴えられた相手は必死になって反論してきます。負ければ多額の損害賠償金を払わなければならないうえに、判決で虐待をしたことを認定されると社会的生命を失いかねないので、当然です。その結果として、訴えた側が裁判によってさらに傷つけられるというようなことがよく起こります。
また、被害者側は裁判所に虐待の事実を認めてもらい、心からの謝罪と社会的制裁を求めているのに、民事訴訟では損害賠償を求めての提訴にならざるを得ず、周囲からはカネ欲しさで裁判を起こしたように中傷されるケースなどもよく聞きます。それだけでなく、ふつうは弁護士費用もたくさんかかります。被害を立証するために休みの日を返上して自ら調査に動いたり、資料を集めたりしている人もいます。そのうち会社を休みがちになり、社内でも冷ややかな目で見られるようになって、結局は退職して、訴訟だけが人生の目的になってしまうような人もいます。
刑事訴訟ではどうでしょうか。千葉県浦安市の小学校で、知的障害を持つ2人の女の子の体を触ったとして、強制わいせつ罪に問われた男性教諭の控訴審判決が3月に東京高裁でありました。裁判長は「わいせつを受けたことについては、疑問を差しはさむ余地はないと思われるが、証拠により合理的な疑いを入れない程度までの証明がされたとは認めがたい」と述べ、1審の千葉地裁の無罪判決を支持し、検察側の控訴を棄却しました。
起訴状によると、被告は小学校の知的障害児らが学ぶ教室内で、当時6年と4年の女児の胸を触るなどわいせつな行為をしたとされました。裁判長は「(2人の女児が)わいせつな行為を受けたことは疑問をさしはさむ余地がないと思われる。女児の証言には相応の信用性が認められる」と述べましたが、「被害を受けた時と場所に関する証言の信用性には疑問の余地が残る」と指摘しました。
「教室内のカーテンで仕切られたスペースでわいせつ行為を受けた」という女児の証言の信用性が問われ、裁判長は「他の教員や児童らが在室しており、女児らが声を上げればもちろん、カーテンを閉じたとしても下部が見えるため、(わいせつ行為が)露見する可能性がある。女児の証言は不自然さを否めない」と判断したのです。
刑事裁判は事実認定のハードルが高く、少しでも不自然な点があれば有罪とはならない、つまり判決が必ずしも真実かどうかを判断しているわけではないという指摘もあります。たとえ真実だとしても、それを十分に裏付けられる証拠がそろわなければ無罪判決を出さざるを得ないからだというのです。知的障害や発達障害のある女児がわいせつ被害を受けたとされる事件はほかにもたくさんあるのですが、なかなか起訴には至らないのが現状です。犯行日時がはっきりしないために起訴を見送られたり、一日ずれていたために相手側のアリバイが認められたりして罪に問えなかったケースもあります。
知的障害のある人の性被害の立証が難しいことはこうした過去の事件を見ても明らかです。浦安市で性被害を受けた女児たちは今も深い傷を抱えています。先生や学校と対立関係になったことで、誹謗中傷も受けました。女児のきょうだいは学校に通えなくなりました。家族も地域で暮らせなくなり、転居を余儀なくされました。一人の女児は後遺症から中年の男性と一緒にいられなくなり、実の父親でさえ拒絶反応を示すようになりました。結局、両親は離婚をせざるを得なくなりました。
裁判で「わいせつな行為を受けたことは疑問をさしはさむ余地がない」と認められながら、被害者はまったく救われないばかりか、このような理不尽極まり状況に置かれているのです。
クロロキンという薬はマラリアの特効薬として太平洋戦争末期にアメリカ軍が使用していた薬ですが、日本では1950年代末期に腎炎にも効くとして認可され大勢の腎臓病患者たちに投与されました。ところが、外国では失明に至るクロロキン網膜症という重大な目の病気を引き起こすことがわかり、製造中止になっていました。何も知らされていない日本の患者はずっとクロロキンを服用し続け、多数の人が視力を失いました。これが「クロロキン薬害」です。
裁判の場では、厚生省製薬課長(当時)が実は自らリュウマチに効くとしてクロロキンを服用していたのが、海外の副作用情報を知り、自分だけ服用をやめていたことを認めました。製薬課長とは、薬の副作用などをチェックし認可の取り消しをする立場の人です。もしも、その時に製造中止などの措置をとれば、自分だけでなく、大勢の人が視力を失わずに済んだのです。
怒った被害者たちは国などを相手に訴訟を起こしました。投与した病院の過失などは一審で認められましたが、国の責任は最高裁まで争われ、結局は退けられました。この最高裁判決が出たのが1995年のことです。腎炎の薬として国内で認可されてからちょうど40年後のことでした。自ら被害者であるクロロキン薬害訴訟の事務局長に言われた言葉が今も鮮明に記憶に残っています。
「はじめの10年は、私から光を奪った製薬会社が憎くてたまらなかった。しかし裁判で闘っているうちに、利益を上げるのが会社の本分であるのだから仕方がないようにも思えてきた。しかし、それをチェックするのが国の仕事じゃないのか。そのために私たち国民は税金を払っているじゃないかと思うと、厚生省が憎くてたまらなくなった。それで次の10年は厚生省を憎んで裁判を闘った。しかし、厚生省のポストにその時にたまたま座った役人にどれだけのことができるのか、業界との長年のしがらみの中で彼らにだけ責任を求めても仕方がないようにも思えてきた。だからこそ、こういうときに裁判所があるんじゃないのか。裁判所はどうなっているのだ。裁判官たちは製薬会社とも医療機関ともしがらみがないはずだ。それなのにどうして行政寄りの判決ばかり出すのだ。そう思うと今度は裁判所が憎くてたまらなくなってきた。そうしてまた10年が過ぎた。私の人生はいったい何だったのか。裁判をするために生まれてきたのかと思うと、むなしくなってくる」
今は裁判の迅速化が図られているのでこのような長期裁判はなくなりましたが、それにしても原告団の事務局長の言葉は、裁判というシステムの本質を言い当てているような気がしてなりません。
もちろん、裁判の意義や役割を否定するものではありません。虐待や薬害のような生命や健康を失いかねない被害には、刑事・民事の司法的解決が被害者の救済の面でも社会の秩序の維持の面でも重要な機能を担っていることは疑いようがありません。しかし、ここまでに述べてきたように、現在の日本の司法は改革が進んでいるとはいえ、一個人にとってはまだまだ大きなリスクと重荷を背負わなければならず、敷居も高いものです。
特に障害者が日常的に直面しているさまざまな「差別状況」はけっして司法的解決になじむとは言えないものがかなりあります。障害を理由にレストランの入店を断られた、「バカにつける薬はない」と言われた、汚いものを見るような目で見られた……このような目にあうたびに訴訟を起こしていたのでは、途方もない負担が被害者側にのしかかってきます。また、実際に裁判所に持ち込んだところで、こうした日常レベルの「ささいな差別」に現在の司法が有効な機能を果せるようにも思えません。
そもそも「汚いようなものを見る目」を相手がしていたことを、私たちはどうやって立証することができるでしょうか? 小さな差別であればあるほど、客観的に差別かどうかを立証することは極めて難しい問題です。しかし、小さな差別でも被害者側の気持を大きく傷つける場合がよくあります。
ひどい差別や虐待、悪質な差別には司法的解決への支援が必要な場合もありますが、私たちが本来目指しているのは、差別者から賠償金を取ることでもなければ、罰則を課すことでもなく、互いに理解し合い誰にとっても暮らしやすい地域社会をつくることです。そのためには、裁判に持ち込まなくても日常的な問題解決の場をつくり、それを機能させていくことが必要です。政府の人権擁護法案や鳥取県の人権救済条例は、司法に至らないところでの差別状況の解決を目指したものです。差別の定義があいまいなのに罰則規定があることや、表現の自由に抵触する恐れがあることなどを理由に法曹界やマスコミから批判が起こり、人権擁護法案は成立には至らず、人権救済条例は成立しましたが凍結されています。
千葉県の条例も裁判に持ち込まなくても日常レベルの差別状況を解消し、互いの理解を深めるために有効な「問題解決システム」を目指しています。世の中の仕組みが複雑になる一方で人間関係が希薄になるような社会においては、それほどの強制力や権限はなくても、個々のケースに対応できるきめ細かい問題解決システムが必要なのです。
(文責・野沢)