成立しました
条例が成立してから10日も過ぎたのに、明け方、眼がさめて胃に痛みを感じるときがまだあります。暗闇の中をトイレまで歩き、静まり返った中でふと我に返り、条例が成立したことに気づいてホッとする……。それだけ長くて厳しい日々でした。最後の最後までハラハラしながら、条例は成立しました。
先週末、東京駅の構内で考え事をして歩いていたら、すれ違った人から「野沢さん!」と声をかけられました。誰だろうと思って振り返り、声の主を探したら、そこには何と浅野史郎さんが立っていました。前宮城県知事で、厚生省課長時代から障害者福祉を強力に推し進めてきた人です。
「おめでとう。よかったね」
浅野さんとは各地で開かれる地域福祉を進めるフォーラムでご一緒することがあり、そのたびに千葉県の障害者条例のことを話していました。浅野さんも宮城県知事時代に障害者差別を解消する条例をつくろうとしました。千葉よりも早くできる予定でしたが、浅野さんが知事をやめてから宮城県では条例づくりの動きがストップしています。それだけに千葉の条例のことが気にかかっていたようです。
「ぜひとも千葉で条例をつくってくださいよ。全国の人々に知ってほしいなあ」
浅野さんからは何度もそう言われていました。障害者や家族にとって差別をなくす法律や条例は長年の夢でした。日本弁護士連合会やDPIが障害者差別禁止法案をつくって発表し、山梨や宮城や鳥取県が差別をなくす条例をつくろうとしましたが、なかなかうまくいきません。そうした中で、日本で初め千葉県がつくったのです。
条例が成立してから1週間のうちに、私自身、鳥取、愛媛、大阪の障害者や弁護士会に招かれて千葉県の条例について話してきました。東京都の民主党議連の勉強会にも講師として招かれ千葉の条例づくりの経過を話す機会を与えられました。そのほかにも各地から問い合わせや原稿依頼が相次いでいます。それだけ注目されているのです。
多くの人々に支えられ
千葉県第三次障害者計画で条例のことが提案され、05年1月から千葉県障害者差別をなくすための研究会がスタートしました。800以上の差別事例が県民から寄せられました。研究会には視覚障害者、聴覚障害者、車いすの人、精神障害者、知的障害者とその家族などさまざまな障害当事者が顔をそろえました。医療や福祉や教育関係者も委員になりました。それだけでなく企業関係者も4人が参加しました。丸1年、計20回にわたって研究会の議論は続きました。毎月2回は開いたことになります。
研究会だけでなく、さまざまな団体からのヒアリングも実施し、いろんな立場の人々から意見を聞きました。県内各地で開催したタウンミーティングは30回以上に上り、3000人以上が参加しました。それぞれ市民や障害者たちが自ら企画してくれたタウンミーティングです。
堂本知事、ありがとう
淑徳大学で開催したタウンミーティングでは精神障害者自身が企画したものでした。少し遅れて行った私は一番後ろの席で参加者の意見を聞いていました。「病名を家族にも隠さなければ生きていけない」「名前を隠さなければ生活できない」。重い言葉が続きました。会場の中ほどで必死にメモを取っている女性がいました。障害者や関係者とは少し違う雰囲気です。ひょっとしたら…と思って前の方に行ってみたら、やっぱりそうでした。堂本知事だったのです。
ふつうは挨拶だけして知事は帰って行くものですが、その日は「障害者の人の話を勉強にきたから、あいさつはしないつもり」と堂本知事は語っていました。障害者も市民も知事も一緒になってつくってきた条例なのです。
しかし、議会では賛同が得られなくて、2月議会では継続審査になり、満を持した6月議会では撤回にまで追い込まれました。もうだめかと思いました。しかし、堂本知事は政治家としてのメンツを捨て、顔に泥を塗られても障害者のために、いったん撤回することを決断してくれました。そうしなければ条例案は否決されていたことでしょう。自らの政治生命と引き換えに、条例の灯火を守ってくれたのです。当初は「知事が一部の障害者を利用してパフォーマンスをしているだけ」などと中傷されました。私たちは決して堂本知事のためにやっていたわけではありません。障害のある人のために条例を作ろうとしてきただけです。しかし、堂本知事の存在なしではこの条例は絶対にできなかったと思います。
県庁のみなさん、ありがとう
20回の研究会にはいずれも県庁各課から20人前後の職員たちが身じろぎもせずに傍聴してくれました。議論が白熱して深夜に及ぶことがあっても、じっと研究会の議論に耳を傾けてくれました。6月議会で撤回されてからは、5人専従体制で条例成立に向けて寝食を惜しんで働いてくれました。障害者自立支援法が10月に完全実施されるという状況の中で、障害福祉課の職員たちの獅子奮迅の活躍ぶりは瞠目すべきものがあります。体調を崩した職員もいます。課長も体重が8キロも落ちたそうです。条例成立を見る前に厚生労働省に戻った竹林課長は、文字通りゼロから県内を奔走して条例成立の土台をつくってくれました。彼がいなければこの条例はできなかったと思います。
自民党、ありがとう
2〜6月議会では自民党から条例案に批判的な意見が噴出しました。私たちの説明不足もあり、誤解されていた面があったと思っていましたが、今になってみると批判のかなりのものが重要な点を指摘したものでした。
堂本県政に対して野党的立場を鮮明にしていた自民党が7割の議席を占めるのが千葉県議会です。私たちは誰が県議会議員なのか、いつ県議会は開かれるのか、どうすれば傍聴できるのか。そんなことすら知らずに条例を成立させようと思ってきたのです。そんな無知や思い上がりは議員のみなさんの目にはどのように映っていたのでしょうか。
しかし、健康福祉常任委員会の委員をはじめ条例を通してやろうという議員の皆さんの懸命の尽力で、自民党内に賛成の声が広がっていきました。反対意見も根強く、ずいぶんいろんな逆風を受けたことかと思いますが、最後まで揺るがずに障害者や家族の思いを守ってくれたことはどれだけ感謝しても足りないと思います。そのような自民党の先生の姿に障害者や家族がどれだけ勇気づけられたことでしょう。本当にありがとうございました。
民主党、公明党、共産党、社民党、市民ネット……ありがとう
条例案が2月議会に提出されたとき、民主党、公明党、共産党、社民党、市民ネットなどの会派からは賛同の意見が相次ぎました。本当にうれしかったです。県内各地で開催した条例の勉強会にもこうした会派の先生がたが参加し、障害者や家族に混じって熱心に耳を傾け、メモを取ってくれました。議会との一体感を感じて私たちは勇気づけられました。6月議会で堂本知事が自民党から撤回を迫られた時、私たち研究会は知事に対して「なんとかして条例の灯火を守ってほしい」と頼みました。それは、小さな勉強会にも県会議員の先生方が参加して障害者のことを私たちと一緒に考えてくれた姿が目に焼きついて離れなかったからでもあります。このような状況をつくってくれた条例案をゼロにしてしまうことは私たちには耐え難いことでした。
9月議会にむけて条例原案が大幅に修正されました。県当局と自民党がすり合わせをしながら修正したものです。私たち研究会も逐一修正作業に参加したり、情報を得たりしましたが、各会派のみなさんには充分な説明や情報提供がないまま、修正案を取りまとめることになりました。
本来ならば、メンツを汚されたとして9月議会には反対に回ってもおかしくはありません。むしろ、政党・政治家としてはその方が筋は通るのかもしれません。しかし、大幅修正されたとはいえ、条例に私たちが込めた理念や骨格は残っています。なんとか修正案を成立させてほしい、という障害者や家族の痛切な願いを最後に受け止めてくれたとき、涙が出そうになりました。そのほかにも、表に出ないところで、各会派の先生方は実にいろいろな努力を重ねてくれました。そうしたことを思い返すたび、議会を信じてやってきてよかった、と心底思いました。本当にありがとうございます。
みんな、ありがとう
「やっぱり必要! みんなで作ろう」。9カ月にわたってこのニュースレターを発行してきました。初めは土日を除く連日発行しました。朝起きて出勤する前にパソコンを叩き、未明に帰宅して寝る前の数十分をニュースレターづくりにあてました。それでも間に合わなくて、職場でこっそり書いていたこともあります。
この最終号で、ちょうど60号になりました。いま、読み返してみると、どれもこれもが切羽詰った空気が漂っていて、みんなで危機感を共有している雰囲気が伝わってきます。正直なところ、千葉県でこのような条例ができたのは「奇跡」だと思います。それを成し遂げたのは、私たちみんなの強い思い、障害のある人を守ろうという、何にも負けない意思だったと思います。
さあ、条例はできました。これからが大変です。みんなで力を合わせて、歩んでいきましょう。これからの新たな挑戦の前に、手を携えて一緒に闘ってくれたみんなに私からお礼を込めて、言いたいと思います。
やっぱり必要! みんなで作った!
(文責・野沢和弘)
<呼びかけ人> 田上昌宏(千葉県手をつなぐ育成会会長)/竜円香子(同権利擁護委員長)/大屋滋(日本自閉症協会千葉県支部長)/土橋正彦(市川市医師会長)/植野慶也(千葉県聴覚障害者連盟会長)/野内恭雄(千葉県精神障害者家族連合会会長)/成瀬正次(障害者差別をなくすための研究会委員・全国脊髄損傷者連合会副理事長)/佐藤彰一(同・法政大大学院教授)/高梨憲司(同・視覚障害者総合支援センターちばセンター長)/野沢和弘(同・全日本手をつなぐ育成会理事)