●第2部 タブーへの挑戦 ◆コーディネーターから 金谷 勇歩さん:株式会社ツクイ内部統制室  この度はゆきさんからの一本の電話で断る間もなくコーディネーターを担当させて頂くことになりました。金谷勇歩(かなやゆうほ)といいます。なにぶん初めての大役で不手際があるかもしれませんが、みなさんどうぞお付き合いよろしくお願いします。  わたしはゆきさんの指導の下、2013年に国際医療福祉大学大学院の修士課程を修了いたしました。12年程前から在宅介護サービスを中心とした株式会社ツクイの本部で15,000人ほどの従業員の教育や事業所運営等をチェックする内部監査、制度改正時の厚労省への質問窓口等の仕事をさせて頂いています。修士作品ではデンマークと日本の比較から見えるものをテーマにいたしました。現在は、医師になるため、予備校に通いながら医学部受験勉強の真っ最中です。  本日の素敵なゲストの3名の方々とも不思議なご縁でつながりました。当時私が所属していたグッドエイジングエールズの活動がきっかけでメディコロルのレズビアンカップル山下&清水さんと出会い、お二人の結婚式にも出席させて頂きました。  同年代のセカンドチャンスの才門さんとは院の授業でお会いして以来FACEBOOKで繋がらせて頂いています。また、骨形成不全症で活動をされてきた安積遊歩さんとは「ユウホ」という名前繋がりで、ゆきさんよりご紹介頂きました。みなさん素晴らしい活動をされており、「タブー」への挑戦をされていらっしゃる方々です。本日はご一緒させて頂き、感謝しております。 ◆わたしの思う戦後のタブー〜祖父 長谷川保の生き方に思う〜  わたしの祖父はクリスチャンであり社会事業家の長谷川保で、戦後、結核で迫害をうけ行き場のなかった青年を受け入れたことで村八分の度重なる迫害をうけていました。今では信じられないが、当時結核は死の病で家族に一人でると村八分にあい迫害されるということが当たり前だった時代。「この子の、この子の五尺の体を天地の間にいれてやるところがないのですわ」という嘆きの下、結核患者を全国から受け入れることは当時のタブーでした。  長く続いた迫害はクリスマスに天皇陛下から頂いたご下賜金をきっかけになくなりました。そんな行き場のない方たちを静岡県浜松市三方原で受け入れていったことをはじまりとして、その後日本では当時だれもやっていないことに次々に取り組み、それはタブーへの挑戦だったのだろうと振り返ることができます。  日本ではじめてのホスピスや特別養護老人ホーム、有料老人ホーム、障がい者支援など現場での実践にとどまらず、医療福祉教育にわたる聖隷福祉事業団の活動に繋がり、代議士として生活保護法や老人福祉法、年金など戦後の日本の社会保障制度の構築に尽力していきました。常に周りには反対され、道なきところに道を作るような激しい歩みだったのだろうと思います。右上のドクターヘリも大変な赤字の中日本で先駆けて取り組んだものだそうです。当時子どもだったわたしはそのドクターヘリのモデルをしたことを思い出します。モデルをして500円もらえたことがとてもうれしかったという記憶ですが、表では大変厳しく怖かった祖父も孫にはやさしいおじいちゃんでした。だが生涯敬虔なクリスチャンとして財を残さない生き方を祖母長谷川八重子と貫きました。  タブーというものはその時代時代によって異なるのかもしれませんが、タブーへ挑戦する「心意気」には共通するものがあると思います。  本日は、素敵なゲストと参加者の方々みなさまと一緒に「タブー」への挑戦をテーマとして考え、話し合い、有意義な時間を過ごせられたらと思います。 タブー【taboo】大辞林より 言及したり行ったりしてはいけないこと。 聖・俗、浄・不浄、正常・異常を区別し、両者の接近・接触を回避・禁止し、それを犯した場合には超自然的制裁がくだるとする観念・慣習の総称。特定の人間(王・死者・妊産婦など)、事物(動植物・鉱物・食物など)、状態(出産・月経・成人・死など)、行為(戦闘・狩猟・近親相姦・食事・言語など)、日時、方角などをめぐるものがある。禁忌。 写真:中央の二人が長谷川保・八重子右下が私 写真:ドクターヘリとモデルの私たち(左が兄、中央後方が私) モデル料500円貰って大喜び ---------------------------------------------------------------------------------------------- ●LGBTと医療〜誰にとっても他人事じゃない、性と生のはなし (文)清水真央さん:群馬大学医学部医学科6年 (イラスト)山下奈緒子さん:聖路加国際大学看護学部4年  この上なく私事ではございますが、先日、結婚式を挙げました。ウエディングドレスを着てのお式です。ただでさえ歩きにくいものなのに、ふたりともドレスだと移動のときにやっぱり気を遣いますね。  ――はい。今、皆さんが想像していたものと異なる情景が描出されたのではないでしょうか。私は女性です。先日結婚式を挙げたその相手も女性です。ふたりとも、女性だけを好きになる女性です。レズビアンの書く文章を読むのは初めてですか? レズビアンを名乗る人の文章を読むのは、初めてかもしれませんね。  「LGBT」という言葉があります。L=レズビアン(女性を好きになる女性)、G=ゲイ(男性を好きになる男性)、B=バイセクシュアル(男性も女性も好きになり得る人)、T=トランスジェンダー(社会的・身体的に割り当てられた性別に違和感を持つ人)の頭文字をとった言葉で、典型的でないとされる性の在り方をする人たちを指します。なお、その人々を総称する言葉の選び方については日夜議論が絶えず、LGBTという単語を使うことの是非を問う声もあります。しかし、紙面の都合と、通りの良さを考慮しまして、この記事ではLGBTという表記を用います。ご了承ください。 ◆LGBTは、あなたの隣にも  電通総研が日本人約7万人を対象に行った調査(2012年)では、5.2%がLGBTだという結果が出ています1)。20人いれば、1人はLGBTだということです。あなたは今まで、何人の人と会ってきましたか。何人の方の話を聞き、何人の方の書く文章を読んできたのでしょうか。レズビアンなんて初めてだ、と思ったあなた。あなたの出会った初めてのLGBTは、きっと私ではないと思います。ただ知らなかっただけで、家族の誰かや親友が、実はそうかもしれません。LGBTは当たり前に、あなたの隣にいるのです。当然のことながら、あなたがかかわる患者さんの中にだっているでしょう。  あまり知られていないことですが、LGBTの人たちはしばしば医療や病院に対して居心地の悪さを感じています。突然そう言われても、ピンときませんよね。ちょっと具体例を挙げながら考えてみましょう。 ◆笑われるのも、びっくりされるのも……  どうしてすぐ隣にいるはずのLGBTになかなか気付かないかといえば、多くのLGBTは自分がそうであることを語らずに暮らしているからです。日常のさまざまな場面で、LGBTであることで差別されたり、好奇の目にさらされたりした経験をもつ方も少なくありません。  医療の現場だって、その例外ではないのです。LGBTであると告げたら、診療には関係のない性生活や身体のことについて根掘り葉掘り聞かれたり、心ない噂話をされたり。もちろん、そんな医療従事者ばかりではないのですが。そのことを伝えなくたって、「○○先生ってちょっとオネエっぽいよね」なんて医療従事者同士のおしゃべりが耳に飛び込んで来たら、それだけでぎくりとしてしまいます。LGBTであることでどんな扱いを受けるかわからないと感じた当事者は、間違ってもそのことがバレてはいけない、と悲愴な決意を新たにすることになるでしょう。  患者にLGBTであることを告げられて、興味本位の気持ちや悪意なしにただ、びっくりしてしまうこともあると思います。しかしLGBT当事者としては驚かれるのも申し訳なく、気が引けてしまいます。そもそもどうしてLGBTだと知らされてびっくりするのか。それはLGBTについてよく知らず、すぐそばにいるものと思っていないからです。  ここまで読んで、どうしてLGBTであることを医療の現場で知らせなくてはいけないのか、という疑問が湧いてきた方、いらっしゃいますか。それはごくごく個人的な、趣味の話なのではないか、と。確かに診療上、LGBTであることを明かす必要がないときだってあります。しかし、LGBTであることは、ただの趣味や好みの問題を超えたその人の生き方や暮らしにかかわることです。その人がどう生きたいか、ひょっとしたらどう死にたいかの話でもあるかもしれません。  医療に携わることは、患者さんの人生の一部に携わることでもあります。医療従事者によるLGBTへの無知と偏見は、患者さんの人生に大小さまざまな影を落とし得るのです。 ◆「普通の家族」って、なんだろう  前述の通り、私はこのあいだ結婚式を挙げました。しかし私もパートナーも女性であるため、日本で法律婚をすることはできません。つまり、法律上は私とパートナーは家族ではなく、他人同士ということです。  患者に意識がない、でも緊急に治療上の重要な決断をしなくてはならない。そんなときには家族に判断を求められることが多いけれど、多くの場合、法律上のつながりがなければ「家族」として扱われません。パートナーの最期、ずっと疎遠だった親戚がやってきて病室から突然追い出されてしまい、死に目にも会えずただ「友人」のひとりとして葬儀に行くことしかできなかったLGBTの人もいるのです。結婚なんて、たかだか紙切れ一枚の話じゃないか、という声も耳にします。しかし、その紙切れ一枚のことが、時に何よりも重くLGBTの上にのしかかってくるのです。  また、LGBTの人たちは子どもを持つことはない、と考えている方もいらっしゃいますが、それは大きな間違いです。法律婚を経験するなどして子どもがいる方や、精子提供により子どもを授かる方もいますし、レズビアンカップルとゲイカップルが協力して体外受精により子どもを産むことだってあります。もちろん、子どもを持たない方々も多くいます。  家族の在り方にはさまざまなかたちがあります。それはLGBTでも、LGBTではない人たちでもそうです。しかし今の日本社会では、法律や制度や慣習によって決められた在り方に沿う人たちだけが「普通の家族」とされ、その枠からはみ出した人たちは、ときに遠まわしにさりげなく、ときにはっきりと突きつけるように、異端なものとして線を引かれます。家族を持たない人たちも、また然りです。同時に、「普通の家族」であれ、という社会からの無言の要請は、その枠内にある人をも息苦しくさせているような気がしてなりません。 ◆LGBT情報を発信する「medicolor」  私と私のパートナーは共に、レズビアンであると同時に医療系学生でもあります。せっかくそんなふたりが一緒になったのだからと2012年の春ごろ、LGBTと医療に関する情報を発信する団体「medicolor」2)を立ち上げました。現在、medicolorはwebでの発信や講演会、セミナーの開催などを中心に活動しています。LGBT当事者の方向けの健康や医療に関する情報提供を行っていくのはもちろん、医療者や医療系学生に向けても医療現場でLGBTのために配慮すべきことやその必要性、そもそもLGBTとは何なのか、ということについてお伝えしていきます。LGBTの抱える生きづらさを、少しずつでも軽くしていけたら、と考えています。  繰り返しになりますが、LGBTはテレビの向こう側の存在でもなく、フィクションの中だけの登場人物でもない、ごくごく当たり前にいる人たちです。私たちの抱える悩みや問題は、皆さんのすぐそばで多くは気付かれないままに息づいています。「LGBTについて理解してください」と言うつもりはありません。理解する、という言葉はどこか傲慢な危うさを孕んでいるように私には感じられるからです。  LGBTについて語ることは、常識とされていたことを「性」や「家族」を介して一度解体し、問い直すことでもあります。人によってはLGBTについて考えを深めていくことで、それまで確かだと思っていた価値観が揺らぎ、途方に暮れてしまうこともあるかもしれません。それでもどうか皆さんには、LGBTについて知ることをためらわないでほしいのです。すぐ隣の誰かが抱える生きづらさをすくい上げることを、どうか、ためらわないでほしいのです。 注1)電通総研LGBT調査2012.データ・グラフ集 注2)medicolor?LGBTと医療に関する情報サイト 週刊医学界新聞 第3065号 2014年2月24日より ---------------------------------------------------------------------------------------------------- ●僕たちのリスタート 才門 辰史さん:「セカンドチャンス!」代表  私は、現在31才で、長野県で別荘地管理の仕事をしています。仕事とは別にまっとうに生きたい少年院出院者の全国ネットワークであるセカンドチャンス!という活動をさせていただいています。私自身、少年院出院者です。  セカンドチャンス!とは、元法務教官の津富宏(現・静岡県立大学教授)の呼びかけで始まりました。全国のまっとうに生きたい少年院出院者社会人が、法務教官、弁護士、保護司、親の会の方などのサポーターの方々に支えられ、ご協力いただき、見守っていただきながら活動しています。  少年院の中で、もうこれからはまっとうに生きようと決意しても、誰に頼っていいのかもわからなかったり、心のドロドロした部分を誰にも打ち明けられなかったりします。そして一度少年院の中で決意したものの、出院後、いきなり手にした自由に戸惑い、空白の期間を取り戻したくなったり、何をどうしていいのかわからなくなったり、寂しくて、孤独になり、結局オレのことをわかってくれるのは元いた不良仲間しかいないと戻っていき、再犯してしまうケースが多いと思います。非行や再犯には必ずと言っていいほど、孤独というキッカケが存在すると思います。自業自得ではありますが、私自身もそうでした。  セカンドチャンス!は少年院出院者が経験と希望を分かち合い、共に成長し合うことを目的としています。ここでは悪ぶる必要もなく、また逆に無理して真面目ぶる必要もありません。上下関係やしがらみなく、互いに自然にありのままの自分を出し合えるような、私たち少年院出院者にとって今までになかった真新しい人間関係を築いていきます。  セカンドチャンス!の参加資格は、まっとうに生きたいという願いを持っているということ、過去の経歴などは問われません。  セカンドチャンス!の主な活動は地域交流会と全国合宿です。  交流会は、少年院を出てきた若者と少年院出院者社会人と地域の方々とが出会いつながる場です。現在は、東京、大阪、福岡、名古屋、広島、長野、静岡、京都、佐賀の9カ所で定期的に開催しています。その他スポット的に札幌、仙台、横浜、高松などでも行ってきました。ミーティングやレクリエーションなどの企画を通して仲間のつながりを深めています。  合宿は年1回から2回、全国のメンバーでつながり合うために企画しています。  第1回は、長野県で開催、約15人参加しました。テニス、フットサル、バーベキューなどをして、その後、みんなで温泉に行きました。夜には、セカンドチャンス!ポリシーについて話し合い、正直、平等、尊敬という3つのポリシーを大切にしていこうということが決まりました。  第2回は、広島県で開催、約30人参加しました。みんなで広島散策をしたり、広島焼きを食べに行ったり、夜は、セミナー室でゲーム大会をしました。次の日は、初心を忘れないということで、早朝より起床→整列→点呼→行進→体操をしました。修学旅行に行ったことのないメンバーも多く、修学旅行みたいだというような感想もありました。  第3回は静岡県で開催、約20人参加しました。河口湖でキャンプをしながら、登山組、観光釣り組に分かれて、おっさん出院者が少年院を出てきた若者に助けられながら10数名で富士山山頂につきました。  私自身、セカンドチャンス!に参加し、独りじゃない!全国に同じ経験した仲間がたくさんいるんだということを実感しました。そしてそのつながりは日々、本当に心地良いものとなっています。  少年院出院者がまっとうに生きたいと思ったら孤独になるのではなく、むしろ全国にたくさんの仲間が増えていく、その決意をみんなから手ばなしで祝福され、仲間から必要とされる。こういう社会になったらいいな〜、そんなことを考えながら、これからも、この輪を大切に広げていこうと考えています。 ------------------------------------------------------------------------------------------------ ●多様性の宇宙へ  安積 遊歩さん:作家  私は1956年、昭和30年代の初めに生まれ、先月58歳になりました。  歳を重ねることは、私にとってはとても嬉しいことなのですが、タンパク質の代謝が人とは違っているということで、小さい時から骨がもろく、この歳まで20回以上の骨折をしてきました。  折だけなら子供ながらにも耐えられたと思うのですが、私の場合、医療からありとあらゆる介入を受けたことが、その後の人生に様々な影響をもたらしました。そのことと向き合い、その辛い事実と闘うことに、実に多くの時間を割き続けてきました。  特に、0歳から2歳までの男性ホルモンの投与と、骨折の合間になされた8回程の手術、そのための夥しい数のレントゲンは、娘の子育てに、完全に反面教師として役に立ってきました。  1994年に、私はエジプトのカイロで開かれた「人口と開発世界会議」に参加し、NGOフォーラムで、その当時日本にまだ法律としてもあった「優生保護法」の差別性を訴えてきました。 障がいを持つ人たちの運動に関わる前から、街なかに見受けられた『優生保護法指定医』という看板は、何かうまく言葉にはできないけれども、私に辛くて嫌な気持ちを感じさせていたのでした。  運動に関わってから、その法律が障がいをもつ人たちの『リプロダクティブ・ヘルス・アンド・ライツ(性と生殖に関わる健康と権利)』を著しく侵害するものであることを知り、それを変えたいと思い続け、障がいを持つ仲間や女性運動の仲間たちと共に活動し続けました。そのことの結果として、1996年にはその法律の優生思想の条文は取り払われ、名前も「母体保護法」と改められました。 「母体保護法」という名称自体もたくさんの問題を提起しています。まるで母となる人だけが、命に対して責任を持たなければならないという認識を持たせてしまう、という事など。 考え続け、変え続けていく必要があります。  しかし、奇しくも優生思想に満ち満ちた条文が削除されたその年に、私は同じ障がいを持つ娘をこの世界に産み落としました。  娘を産んでから、私の闘いは娘の命を徹底的に守ることに向けられました。  それまで私は、世界の子供たちは私の子供でもある、すべての命は繋がっているので、一人でも多くの子供の命を守れるのであれば守りたいと思っていました。そうした命に対する想いの中で、フィリピンの貧しい状況の中で一生懸命生きている子供たちと出会い、その子たちを応援する会を立ち上げていました。先にも書いたとおり、男性ホルモンの投与と夥しいレントゲンを受けてきたので、自分の血縁としての子供は出来ないだろうと思っていましたから、自分の子供に執着する気持ちがなかったことも、すべての命は一つに連なった大切なものであるという認識をもたらしていたのだろうと思います。  子育ての中で、私の制限ある肉体は、娘との関係を本当に良いものにしてくれました。 自分ひとりで頑張り続けなければならないという意識が全く持てなかったので、たくさんの人達を娘の育ちに関わってくれる人として巻き込んできたので、娘はどんな人も大切な人なのだという当たり前のことに、気づき続けて育ってくれたと思います。  私の子育てを見て、北海道の、重い障がいを持った友人が、「私も子育てがしたい」といいうことで、フィリピンから養女を引き取ってくれました。そのキューピッド役をさせてもらったことで、私はこの子とも良い関係を作ってきました。 娘の宇宙(うみ)は来年からニュージーランドの大学に行くので、私は北海道に行き、この友人家族のそばにいて、新たな学びをさまざまに重ねたいと思っています。