●第二章 医療界が溺れてしまう構造 ◆その1 臨床試験は医師と企業の仲良しクラブ 循環器内科医/臨床研究適正評価教育機構理事長 桑島 巌  近年、医学におけるEBM(科学的根拠に基づいた医療)の定着とともに、多くの分野において大規模臨床試験が実施され、その成績が国際学会や医学雑誌などで相次いで発表されています。大規模臨床試験の結果は、治療薬や医療機器の重要なエビデンス(根拠)としてEBMの根幹をなすものであり、その公正かつ正確な情報は、臨床医が日々の医療を実践するうえで不可欠な要素になっています。  しかし残念ながら、臨床試験をめぐる不祥事が相次いで発覚していることも事実です。  大規模臨床試験は、公平な結論を導くためにも本来は公的機関のサポートによって、医師主導型でのエビデンスづくりがもとめられるのですが、実際にはその企画、実行、解析には膨大な費用がかかることから、多くは自社製品のエビデンスを必要とする製薬企業の経済的支援によって行われているのが現状です。  大規模臨床試験の結果報道は適正かつ公正であるべきですが、企業は営利主義に走るあまり、大規模臨床試験をも販売促進活動に利用している風潮がみうけられ、それが昨今の不祥事の温床ともなっているのです。  昨今の「医師主導型臨床試験」と称されるものは、ほとんどがスポンサー企業の支援による試験であり、本当の意味での臨床現場から発した疑問点(clinical question)による臨床試験でないものが多いのも実情です。とくに新薬の販売促進に結びつけるための「種まき試験(seeding trial)」が急増しているという実態があります。  さらに大規模臨床試験において、支援企業の期待した結果が出なかった場合には、統計的に意味のないわずかな差を過大に見せたり、一部のグループのデータだけを解析して有効性を強調したりする「SPIN(都合のよい解釈)」という手法が横行しています。これらは臨床医の判断を誤らせる一因となりかねず、患者の不利益に結びつく可能性が大きいのです。企業間の競争がますます激しくなる今日の社会情勢にあって、このような傾向は今後とも増幅しかねない懸念があります。  医療現場に立つ者として、臨床試験の研究者の方々には、利益相反をきちんと開示したうえで、公平かつ適正な解釈に基づいた結果解釈と発表をされるよう望みます。今回は、臨床試験と利益相反を通じて、医師と企業とのつきあい方を考えていきたいと思います。 図 “SPIN” とは? 〔回転させる〕から転じて 主要なエンドポイントに関して、統計学的には有意ではなかったにもかかわらず、試験薬が有効であったかのように印象付ける、あるいは有意でなかったことから注意を逸らせるような報告内容をいう。 主要エンドポイントに有意差が認められなかった72の比較試験論文 「タイトル」におけるspin: 13論文(18.0%) 「抄録」におけるspin: 27論文(37.5%) 「結論」におけるspin: 42論文(58.3%) 「discussion」におけるspin: 31論文(43.1%%) Boutron I,et al:JAMA2010:303:2058 グラフ 製薬会社が支援したメタ解析は、試験薬有利と解釈/結論づける傾向がある BMJ 2007:335:1202 図 主要4誌の製薬企業からの広告収入 Glassman PA et al. West J Med 1999:171:234 * 1ドル110円として 製薬広告比率(本文100対) JACC 34 Ann Int Med 76 JAMA 91 NEJM 85 製薬広告収入(億)*1996年 JACC 5.1 Ann Int Med 6.6 JAMA 20.5 NEJM 15.7 全収入に占める広告収入の割合:% JACC 13.8 Ann Int Med 12.9 JAMA 10.4 NEJM 21.3 会費を100とした広告収入の割合 JACC 93 Ann Int Med 134 JAMA 26 NEJM 793 山崎茂明・EBMジャーナル2004:5:106より改変して引用 図 ほとんどの臨床試験は製薬会社の経済的支援でおこなわれている もし、企業が期待したよい結果がでなかった場合には・・ 結果を発表しない PRAISE2 経済的支援を打ちきり試験を中止させる CONVINCE 二次エンドポイントでよいところを探し、それを強調する MANY 後ろ向き解析で様々な補正を行なう VALUE 二次エンドポイント、後ろ向き解析でのよい結果のみを誇張して広告する MANY ------------------------------------------------------------------------------ ◆その2 大学病院は製薬会社附属研究所? ジャーナリスト 鳥集 徹  高血圧薬「ディオバン」(ノバルティスファーマ社)のデータ不正疑惑に関連して、同薬の臨床試験を実施した五つの大学病院に、総計で十一億円を超える「奨学寄付金」が提供されていたことが明らかになりました。 なぜ、奨学寄付金が問題とされるのでしょうか。それは、ディオバン事件に象徴されるように、製薬会社からの多額の利益供与が、大学病院などで実施されている臨床試験のあり方を歪めている可能性があるからです。  では、奨学寄付金の実態は、どのようなものでしょうか。筆者は東京大学医学部附属病院(以下、東京大学病院)の奨学寄付金の受け入れデータを、情報公開制度を使って入手しました。それを集計したのが左側の表です。二〇一二年度、東京大学病院には十三億六千万円以上の寄付がありました(その他にも、医学部宛てなどの奨学寄付金があります)。  まず、受納部門別ランキング(二十位まで)を見ましょう。一位の循環器内科は一億円以上の寄付を集めています。また上位に糖尿病・代謝内科、腎臓病・内分泌内科と、生活習慣病に関連した診療科が並びます。糖尿病、脂質代謝異常(コレステロール異常)、高血圧は患者数が多く、薬を飲む人がたくさんいます。そのことと寄付金の額と関連があると思うのは筆者だけ?  一方で、小児科やリハビリ部門などはランク外となっています。薬があまり使われないせいか、奨学寄付金の合計は一千万円もありません。  もう一つ、寄付者別ランキングも見てみましょう。個人名等で黒塗りになっていたものを除くと、第一三共がトップ。武田薬品。アステラス、田辺三菱と、国内有数の製薬会社が並びます。武田薬品は関連の公益財団からも多額の寄付をしています。さすが日本トップの製薬会社です。  この奨学寄付金、どのように使われているのでしょうか。文部科学省の「奨学寄附金等外部資金の受入れについて」という通達にこうあります。 「国際学会の登録料等の経費、研究連絡等の会合費、研究調査等に帯同する学生の旅費、外国人研究者の招へい旅費・講演謝金・接遇費、研究補助員や事務補助員の時間雇用の経費等にも支出を認めるなど制度の趣旨に則して弾力的に取扱うよう配慮すること」  製薬会社のお金がないと大学病院の研究活動に支障が出る。そんな声が聞こえてきそうですが、奨学寄付金に頼り過ぎです。これでは「製薬会社の附属研究所か!」と突っ込まれて仕方ないのではないでしょうか。 東京大学病院奨学寄付金(2012年度) 受納部門別ランキング 1 循環器内科 109,027,803円 2 糖尿病・代謝内科 96,289,920円 3 腎臓・内分泌内科 90,932,079円 4 皮膚科・皮膚光線レーザー科 83,000,000円 5 消化器内科 72,589,000円 6 眼科・視覚矯正科 67,646,594円 7 整形外科・脊椎外科 57,345,716円 8 病院長 55,000,000円 9 血液・腫瘍内科 42,400,000円 10 泌尿器科・男性科 41,600,000円 11 大腸・肛門外科 38,200,000円 12 アレルギー・リウマチ科 37,051,762円 13 老年病科 34,700,000円 14 肝胆膵外科・人工臓器移植外科 31,853,000円 15 女性外科 30,914,950円 16 神経内科 30,250,000円 17 耳鼻咽喉科・聴覚音声外科 27,300,000円 18 検査部 26,650,000円 19 精神神経科 25,174,398円 20 女性診療科・産科 24,700,000円 以下略 寄付者別ランキング 1 黒塗り 132,401,101 2 第一三共株式会社 71,150,000 3 武田薬品工業株式会社 70,000,000 4 アステラス製薬株式会社 52,650,000 5 田辺三菱製薬株式会社 50,800,000 6 中外製薬株式会社 47,300,000 7 ファイザー株式会社 43,366,594 8 大日本住友製薬株式会社 41,000,000 9 MSD株式会社 40,500,000 10 公益財団法人武田科学振興財団 38,000,000 11 財団法人好仁会 36,000,000 12 日本ベーリンガーインゲルハイム株式会社 32,800,000 13 協和発酵キリン株式会社 32,750,000 14 サノフィ株式会社 32,200,000 15 ノバルティスファーマ株式会社 29,900,000 16 エーザイ株式会社 23,600,000 17 ブリストル・マイヤーズ株式会社 22,000,000 18 大塚製薬株式会社 20,300,000 19 アストラゼネカ株式会社 19,150,000 20 国立大学附属病院長会議事務局 19,000,000 以下略 -------------------------------------------------------------------------------------- ◆その3 私が見た大学病院と製薬会社の二人三脚 産婦人科医 打出 喜義  むかし、製薬会社の営業担当者が「プロパー」と呼ばれていたころ、彼らの大学病院の医師に対する食い込み方は、生半可なものではありませんでした。会社持ちでの飲食やゴルフの接待はまだ序の口。学会出張の旅券の手配や転勤のお手伝いまで、およそ製薬会社社員の業務とはかけ離れたような雑事まで、甲斐甲斐しくする人がいたのです。  プロパーがMR(医療情報担当者)と呼ばれるようになった現在では、さすがにそこまで露骨な利益供与はありません。しかし今でも、大学病院内で薬の説明会が行われる際にはお弁当がつきもので、夕方、お腹をすかせた研修医たちが続々と集まってきます。ホテルでの新薬説明会ともなれば「情報交換会」と称した宴会も催されます。そして、ボールペン、メモ帳、ファイル、マグネットなど、製薬会社名や一押しの薬のロゴ入り景品が種々配られ、大学病院の医師たちはそれらに何の疑問も持たず、当たり前のように重宝しています。  なぜ、製薬会社の人たちは、これほどまでに、大学病院の医師に便宜を図るのでしょうか。実は、大学病院と製薬会社の間には切っても切れない、「蜜月」の関係があるのです。  まず、製薬会社側の事情です。製薬会社が他社との競争に勝ち、利益を出し続けるには、新薬を開発しなければなりません。新薬の候補となる化学物質を探し出すには、研究室内で培養細胞や実験動物を使って試験をすることが必要です。次にそれが新しい薬となり得るかどうか、人を使った実験(これは「治験」と体よく言われていますが)で確かめなければなりません。この治験には、三つの段階があります。まず、少数の健康男性ボランティアでその毒性をみる第一相試験。それで毒性がないと判れば、対象とする病気を持った少数の患者へ投与する実験が第二相として行なわれます。これで、ある程度の効果が認められるとなれば、多数の患者を対象にした試験が第三相として開始されることになります。  製薬会社がこのような治験をスムーズに行なうには、どうしても大学病院のような、患者と医師がたくさん集まる大きな組織との連携が必要となって来るのです。  さらに、製薬会社の新薬開発には多額の投資が必要です。その額は数百億円ともいわれますから、なんとか第三相にまで漕ぎ着けたからには、一刻も早く新薬として販売して、投資した分を回収しなければなりません。そのためにも、大学病院との蜜月が必要でした。教授をトップとした大学病院では、治験受諾の可否は鶴の一声で決められます。また、承認申請のデータをそろえるのに、研究責任者等として治験に携わる医師の協力が不可欠です。  さらに、発売後のプロモーションにも、大学病院の協力が欠かせません。座談会形式の医師向け広告に出てもらったり、新薬を紹介する講演会で話してもらったり──有名大学病院の教授ともなれば、医療界におけるその影響力は絶大です。その影響力をフルに活用して、新薬のプロモーションを行うのです。  一方、大学病院側にも、製薬会社と蜜月の関係を結ばざるを得ない事情があります。  大学病院(医学部)の医師には、臨床、教育、研究という三つの役割があるとされています。ところが、その業績評価は、論文(研究)偏重の傾向が今も根強く残っています。教育業績は、学生たちが社会人となってから徐々に現れるものでしょうし、臨床の業績は患者さんを通してしか現れません。つまり、どちらも客観的評価が難しいのです。ところが論文には、「インパクトファクター」(掲載論文が平均何回引用されるかで示す、その雑誌の影響力を示す指標)という点数がついています。その合計の点数で、業績が「客観的」に評価できると言うのです。  STAP細胞の論文が掲載されたことで最近話題の基礎系雑誌「ネイチャー」が三八点、一方の産婦人科臨床でトップの雑誌が四点台。つまり、臨床論文をコツコツ書くよりも、基礎系の論文を書いた方が多くの点数が集められるのです。ただ、臨床医が基礎系の論文を書くには患者を忘れる程の実験をしなければいけません。実験するにはお金もいる。そこで、大学病院の医師は身近な製薬会社にお金の無心をすることになり、ここに持ちつ持たれつの関係が出来上がるのです。  それだけではありません。平成十六(二〇〇四)年、それまでは国の管轄だった大学の法人化が一斉に行なわれました。「自律的・自主的な環境下での国立大学活性化 、優れた教育や特色ある研究に向けてより積極的な取組を推進 、より個性豊かな魅力ある国立大学を実現とする」というのが、その意義だそうです。  なるほど、この国立大学法人化により、それまで国立大学内にあった温室的環境は一変されたかもしれません。しかし、「グローバライゼーション」のかけ声のもと、産学の連携も推進されることになりました。つまり、ますます大学病院と製薬会社の関係が近くなったのです。  しかし、この近すぎる関係のために、本来、薬を厳正に評価すべき大学病院の役割が、忘れられてしまっているのではないでしょうか。ディオバンの事件やHPVワクチンの問題を考えるにつけ、そう思わざるを得ないのです。 ---------------------------------------------------------------------------------------------- ◆その4 こんな診療ガイドラインを信用できる? ジャーナリスト 鳥集 徹 「診療ガイドライン」という言葉をご存じでしょうか。標準的な診断基準や治療指針などについて各医学会等で取り決めたもので、がん、心疾患、脳疾患、生活習慣病など様々な病気のガイドラインがつくられ、医療現場で参照されています。  かつては、医師個人の知識や経験に基づいて、診断や治療が行われていました。しかし、それではAという病院とBという病院で違う診断や治療がされ、不利益を被る患者も生まれてしまいます。全国(あるいは全世界)どこにいても変わらない、質の高い医療が受けられるようにする──そうした理念に基づいて、診療ガイドラインがつくられるようになったのです。  もちろん、診断基準や治療指針が各医学会内の偉い人によって勝手に決められるようでは困ります。近年、医療の世界では「科学的根拠に基づいた医療(EBM=Evidence Based Medicine)」という言葉が言われるようになりました。これは、世界中で実施された臨床試験や観察研究の論文(文献)から、科学的信頼性の高い結果を優先的に参照し、その証拠に基づいて有効性・安全性の高い医療を選択すべきという考え方です。もちろん、現実には患者さんの価値観や医師の経験も加味されるのですが、診療ガイドラインでは原則的に、EBMの考え方に立脚して診断基準や治療指針を決めることになっています。  ところが、科学的根拠に基づく(つまり、誰かの勝手な思惑など入らない)はずの診療ガイドラインにも、「利益相反」の疑惑の目が向けられてきました。   ちょっと古い話で恐縮ですが、二〇〇八年三月十八日と六月六日の「週刊朝日」で、筆者はこの問題を取り上げました。血液中のコレステロールが動脈硬化の元凶とされていることは、みなさんご存じだと思いますが、その診断基準(脂質代謝異常症)の数値は、「日本動脈硬化学会」によって決められています。  しかし、たくさんの人を長期間追跡した観察研究の結果などを見ると、コレステロール値が高いからといって、必ずしも死亡率が高いわけではありません。また、そもそもコレステロールには善玉も悪玉もなく、細胞膜の材料に使われるなど人間に必須の成分であることなどから、日本動脈硬化学会の診断基準は厳しすぎるという批判が複数の医師や研究者から上がっていました(今もです)。  そこで筆者らは、コレステロールの基準が載っている「動脈硬化性疾患ガイドライン2007」(当時、最新は二〇一二年版)の作成に携わった日本動脈硬化学会の委員の方々の利益相反状況を調べてみました。するとやはり、ほとんどの委員が製薬会社から利益供与を受けていました。  たとえば、同学会の理事長を務めていた元大阪大学医学部第二内科教授の講座には、〇〇年度から〇五年度の六年間に、合計八億円を超える奨学寄付金が提供され、そのほとんどが製薬企業からのお金でした。とくに、日本でもっとも売り上げの多いコレステロール低下薬の販売元・三共(現・第一三共)からの寄付金が一億円を超え、ずば抜けて多かったのです。  こうした状況はコレステロールだけでなく、高血圧のガイドラインでも見られました。高血圧の基準は一六〇/九五ミリ以上だったのですが、二〇〇〇年以降、一四〇/九〇以上に改定されました。そこで当時、日本高血圧学会の理事長を務め、『高血圧治療ガイドライン2004』の作成委員でもあった元東京大学大学院腎臓・内分泌内科教授の講座に、どこからいくら奨学寄付金が入っているか調べました。すると、〇五年度は総額一億円以上のうち、一位がノバルティス・ファーマの二一五〇万円でした。実はこの元教授は、高血圧の予防をテーマにした「週刊文春」掲載の広告でノ社の社長と対談。三十万円の「講演料」も受け取っていました。  問題は、診断基準の線がどこで引かれるかによって、大きく薬の売り上げが変わることです。高血圧薬(降圧薬)の場合、新基準だと日本に三千万人以上の「患者」がいることになります(〇五年国民健康・栄養調査より試算)。しかし、〇〇年以前の基準だと、「患者」は三分の一に減るのです。コレステロール薬も同様。基準が厳しければ厳しいほど患者が増え、それに従って薬の売り上げが伸びます。実際、一般の臨床医はほとんど疑問を持たずに診療ガイドラインの診断基準や治療方針を受け入れ、無批判に薬を出すと言われています。それだけ影響力が大きく、診療ガイドラインの問題は深刻なのです。  ただ、医学界の名誉のために言っておくと、こうした疑義のある診療ガイドラインばかりではありません。神経内科医の別府宏圀さん(第五章その三で執筆)はこう指摘します。 「学会や研究者によっては、詳細に文献検索を行い、批判的にそれを読みこんで、非常に優れたガイドラインをつくっている例もあります。日本の診療ガイドラインの問題は、そうした玉石混交の状態にあることなのです」  一般の臨床医や患者が疑問を持たずに参照できる信頼性の高い診療ガイドラインを増やすためにも、利益相反が疑われる医師はその作成に携われないようにすべきです。少なくとも、作成委員全員の利益相反の状態を全面的に開示したうえで、診断基準や治療指針を公表するべきでしょう。それだと誰も信じてくれないかもしれませんが。 ----------------------------------------------------------------------------------------- ◆その5 それは、ボールペンから始まりました 精神科医/千葉大学医学部附属病院 特任准教授 上野 秀樹  私は平成四(一九九二)年に大学を卒業し、医師になりました。  大学病院医局勤務の研修医の頃、先輩から製薬会社のMR(medical representative=医薬情報担当者)との関係の持ち方を教わりました。「(酒食のもてなしを受ける)薬の説明会では、かならず質問することが礼儀」というような内容であったと記憶しています。医師になったのがうれしかった私は、薬や製薬会社の名前入りのボールペンを使っていることが「特権階級である医師」であることを示しているように感じて、仕事とは関係ない場面でも喜んで使っていました。  また、出世して大学の教官等になると、専属のMRがついたりすることを 知り、「偉くなると製薬会社にいろいろ便宜を図ってもらえるんだ」とうらやましく思ったことを記憶しています。学会では当然のごとくに製薬会社後援のランチョンセミナーに参加し、提供された「高級弁当」を食べていました。  製薬会社は新薬を発売すると、大きなホテルを借り切り、交通費や宿泊費、ルームサービス代まで含めてすべての費用を会社が負担して、全国から関連する診療科の医師を多数集めてプロモーション活動を行います。  そして、そこに○○大学医学部教授などの肩書きの医師が登場して、新薬の販売促進目的の講演を行うのです。その催しに何人の医師を集めることが出来たかがMRの評価になっている様子であることなども含めて、私は何も疑問に思うことはありませんでした。  しかし、数年前にある出来事があってから、私は製薬会社が行き過ぎたプロモーション活動をしているのではないかと疑問に思うようになりました。そして、それが医療のあり方をゆがめ、結果として医療費、社会保障費の高騰を招いている、さらには私たちの国家財政を危機に陥れている一つの大きな要因になっていると考えるようになりました。  その出来事とは、品川のホテルでの製薬会社の催しに参加したときの話です。数百人を集めた新薬のプロモーションが終わって帰ることになりました。私は東京駅までタクシーに乗り、その後電車で千葉県の自宅に戻るつもりでした。ホテルの玄関でタクシーに乗って、「東京駅まで」と運転手に告げたところ、しばらく走った後で運転手が振り返って尋ねてくるのです。「先生、どちらまでお帰りですか?」と。  何でそんなことを聞くのかと思いましたが、私は千葉県内であることを告げました。すると、運転手さんは言いました。「私は、今日この製薬会社の会合があることを知って、何時間も前からずっとホテルの近辺で待機していたんです。それで東京駅まででは、とてもじゃないけど浮かばれません。」「この製薬会社のタクシーチケットは、メーター制限なしなんです。先生のご自宅までぜひ送らせてください」と。  あまり何度も何度もしつこく頼んでくるので、私も根負けして「いいよ」と言ってしまいました三万円以上の料金です。もちろん私は一円も負担していません。その後、都内で他のタクシーに乗車したとき、運転手にこの話をしたら、苦笑していました。私は、こうした出来事がそれほど珍しくないことなのかも知れないと感じたのです。  こんなこともあって、私たち医師と製薬会社との関係はおかしいのではないかと思い始めました。医師は、製薬会社のMRから下にも置かぬもてなしを受け、自分が偉くなってしまったかのような、何らかの特権階級であるかのような錯覚に陥っていきます。こうした製薬会社の営業活動のあり方が、医師の人格形成上の大きな問題となっているのは間違いありません。  製薬会社の「社会貢献活動」が疾病の啓発など、社会づくりに有効であると主張する人がいます。しかし、製薬会社は株式会社です。株主の利益に結びつく活動でなければ、株主代表訴訟を起こされ、経営陣は責任をとらされます。株式会社による純粋な「社会貢献」などあり得ません。利益に結びつく方向で巧妙に行われています。  こうした自称「社会貢献活動」に限らず、講演会、シンポジウムなどの催しを製薬会社と共催することで、医師は製薬会社の製品や活動を批判しにくくなり、本来自由であるべき議論の内容に一定の方向性を与えてしまうことが問題なのです。  製薬会社の行き過ぎたプロモーション活動は、ボールペン一本、レポート用紙一冊から始まります。小さなものから徐々に私たちの感覚を鈍らせ、巧妙に私たちの心を支配していきます。これに気づいたとき私は、製薬会社からもらったボールペンその他、すべて処分しました。今では、製薬会社の後援のついた会でお話しをすることもすべてお断りしています。  先日、京都で開かれた第二十四回精神科認知症フォーラムで講演する機会をいただきました。私は製薬会社の後援を外していただく代わりに、ポケットマネーから運営費を寄附しようと考えていたのですが、いつもは三十人くらいの参加者が一一〇名となり、交通費・宿泊代、講演料をいただくことが出来ました。運営した方々は、多くの事務作業があって大変であったようです。  私は、巧妙に隠された利益相反が最も問題であると考えています。それに関わっている人たちには全く自覚がありません。私たちが、巧妙に隠された利益相反を見抜き、社会から排除していくことが大切ではないでしょうか。