住み慣れた地域で最期まで暮らし続けるために 〜永源寺地域で行っていること〜 花戸貴司さん(東近江市永源寺診療所) 永源寺診療所の一日    診療所の仕事は、朝7時に診療所の玄関を開けることから始まる。  玄関の前では、6時過ぎより待っている患者さん達もいる。子どもが昨日から熱をだしている、おばあちゃんの診察の順番を取りに来た、孫が会社に行く際に一緒に送ってきてもらった人など。朝から診療所の待合はにぎやかだ。  待合の声に耳を傾けると、「○○さんが、往診してもらって家で亡くならはった。今日がお通夜らしいわ」との声。昨夜、自分が在宅看取りをした患者さんのことが話題になっている。永源寺地域では、年老いて介護が必要になっても、食事が摂れなくなっても、最期まで家に居たいと希望される人がほとんどである。また、家族や地域の人も、それが当然のことのように受け止めておられる。  診察が始まると、80歳代のおばあちゃんが娘さんに連れられて入ってきた。 「先生、畑に行くことが楽しみやったのに、この前から行けへんようになってしもうた」とこぼしているが、それほど困った様子ではない。娘さんに聞くと、家では洗濯物をたたんだり、裁縫など自分の役割がちゃんとあるようだ。 診察を終え、私が「おばあちゃん、もし、ご飯が食べられへんようになったらどうする?」と尋ねると、おばあちゃんは「先生、このまま家に居たいんやけどええかな?」私も「何かあったら、往診にも行きますよ。いつでも連絡してくださいね」と応える。おばあさんは深々と頭を下げ、娘さんは後ろで笑いながら「よろしくお願いします」と。 今流行りの「エンディングノート」を書けなくても、家族の前でこちらから尋ねると、皆、自分の最期をどう迎えたいか、真剣に、そして思慮深く語ってくれる。すべての人の希望が叶うわけではないが、いざという時に家族が迷うことがないよう必要な準備である。  午後からは、診療所に通うことのできない患者さんのところへお伺いする訪問診療の時間にあてている。 私が定期的に訪問している患者さんは、がんや認知症、脳卒中で寝たきりの人、あるいは生まれつきの難病の子どもさんなど約80人、ひとりひとりの病気や家族環境、そして受けておられる治療や介護もさまざまである。 しかし、ほとんどの方は、月に1回から2回程度の訪問診療だけで、それ以外の在宅生活は、訪問看護師さん、薬局さん、ヘルパーさん、デイサービスやリハビリのスタッフ、家族の方、そして場合によっては行政の方やご近所の方など、多くの人たちに支えられている。もちろん、私は休日や夜間の緊急時の往診対応もしているが、出番はさほど多くない。 どちらかというと、私に頼らないで在宅の生活を楽しんでおられるように思う。そして、在宅で生活している皆さんに言えることだが、病院にいるよりも家にいる方が、とても幸せそうにしておられる。 永源寺に赴任して    この永源寺診療所に赴任して、15年が経つ。それまでは総合病院で小児科を中心とした研修を行い、病院が中心の生活だった。病院勤務時代は2人体制の小児科で年間365日毎日がオンコールという生活を過ごしてきた。その頃は「ここの小児科は俺に任せろ」との意気込み(おごり?)で、病院に泊り込むことも日常だった。  文字通り肩で風を切るような医者であった。たくさんの病気を診ることがとても楽しく、また、それを治療することに充実感を覚えた時期でもあった。  しかし、診療所に赴任し時間の流れが変わった。そして医療における自分のスタイルが変わった。子どもだけではなく、お年寄りを診る機会が増えた。病院勤務時代には少なかった病気以外の話をすることが多くなった。話を聴いてもらえるだけで、満足して帰ってくお年寄り達の後ろ姿を見ながら、戸惑いも感じた。「この人達は、何のために診療所に来ているのか?治療するために来ているのではないのか?」今から考えると自分が診療所で何をすればいいのか、わかっていなかったのだと思う。  しかしある時、「地域医療は診療だけではない」ということに気づいた。地域の集会所で健康教室を開いたり、小学校や幼稚園でも講演会も行った。お年寄りの会合や、地域の祭などにも参加した。病院勤務時代にはない経験であった。しかし、診察室で座っているよりもたくさんのことが見え、そして耳に入ってきた。診察室では決して見せない患者さんの姿がそこにあった。診療所では患者さんだが、診療所を一歩外に出ると、その人は患者さんではなく、ひとりの人間なのだ、そして医師も然り。診療所勤務をはじめて、ようやく地域が見えてきた瞬間であった。 多職種連携で生活を支える    皆さんの地域にも、性別・年齢にかかわらず、さまざまな問題をかかえた多くの人が生活している。生まれつきの障がいを抱えた人、難病の人、脳卒中などで後遺症を抱えた人、認知症の人、進行した悪性腫瘍の人、あるいは高齢者世帯(または高齢者一人暮らし)や貧困など。 病院に勤務していた頃は、この人達をどのようにすれば医学的に管理できるのか思案したが、まったくできなかった。医療で解決できる問題は、ほんのわずかしかないということがわかっていなかった。 その後、診療所勤務となり、医師は自分一人となった。しかし、医師一人でもできることはあるはずとの思いから、往診している患者さん以外にも、外来に通院されている患者さんにも私の連絡先を知らせるようにした。地域の皆さんに「24時間・365日」常に医師である私と連絡がとれる安心感を提供しようと思っていた。電話の内容は、介護者からの連絡以外にも子どもの発熱時の対応、時には時間外診察(往診)の依頼もあったが、そのようなことはごくまれである。じつは地域の皆さんは、医師である私の生活にも気を遣っていただいて、コンビニ受診といわれるような医療の消費者意識は持たれていないようだ。 自分が地域を支えていたと思っていたが、じつは自分自身も地域の皆さんに支えられていたのだ。  地域の皆さんをみていると、安心して生活するためには、様々な分野の専門職が提供する医療・看護・介護のような「サービス」と、精神的にも孤立しない安心感をもてる「つながり」が在宅生活を支える両輪と思えるようになった。  この「つながり」というものは、ただ単にいつでも医師と連絡がとれるということではない。それは、自分が家庭や地域の中で役割をもち、家にひきこもってばかりいずに積極的に地域の行事に参加することや、顔見知りであるご近所さんや友人がこころやすく訪ねてきてくれることなど、お金を払って買う「サービス」とは違う、家族内あるいは地域にあるインフォーマルな「つながり」のことである。 専門職が提供する目に見える「サービス」と、地域ある目に見えない「つながり」を共存させていくと、今まで自分ができなかったことができるようになった。医療で管理するのではなく、そこに生活する人を皆で支えればよかったのだ。地域の人たちが求めているのは、医療や介護といったサービスを買うことだけではなく、目に見えないつながりを保ちながら安心して生活できる地域のようだ。だから、私に求められているのは、医師として医療を提供するだけではなく、看護師さんや介護スタッフ、薬局、行政、そしてご近所さんやボランティアさんなど、地域のたくさんの人たちと繋がっていることなのかもしれない。 そのようなことを考えながら在宅支援をしていると、病気を患い入院したとしても患者さんや家族の方々は、「安全な」病院や施設に入りつづけるよりも「安心して」地域で生活することを希望し、在宅に帰ってこられる方が多いように思う。検査をしたり治療をすることも大切だが、病気にばかり目をとらわれず、病気とは対極にある元気の部分を大きくすることで相対的に病気は小さくなっているようだ。 地域の人たちに支えられ    診療所に赴任してしばらく経った頃、医師官舎の裏庭に、朝、畑で採れたばかりの野菜が置いてあった。患者さんからの届け物らしいが、誰が置いたのかわからない。見返りを求めない贈り物に、感謝の気持ちが伝わってきた。地域の人に、自分の存在を認めてもらえた、という嬉しさがこみあげてきた。  永源寺に来ていろんなことを地域の皆さんに教えてもらった。地域のつながりや互いをおもいやる気持ち、そして何より自分自身が地域の人達に支えられていると感じられる居心地のよさ。自分もこの地域でできることは何かと考えた時、地域で医療を行うということだけではない、医療を通じた「まちづくり」ではないかと思う。 せっかくその地域に住むなら、自分にできることをその地域に還元したい、地域の人達の笑顔をもっと見てみたいと思う。結果として、障がいを持った人も認知症の高齢者も子どもも、皆が互いにおもいやり、支えあい、安心して生活できる地域になればと思う。  大病院ではできないことでも、地域ならできることがあると信じている。