ホスピスケアの部屋
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■病院で死ぬということ■
愛する人に囲まれ,自宅で安らかに人生を閉じることができたら,どんなに幸せなことでしょう。
旅にはこのうえない道連れがいました。聖ヨハネ会桜町病院ホスピス科部長の山崎章郎さん。100万部のベストセラーになった著書『病院で死ぬということ』で社会に大きな波紋を投げかけた方です。 「1人の医師が書いた本が,いま,深い感動を与えながら読者の輪を広げている。いまのままの病院であるならば,人間が死んでゆく場所としてはふさわしくない,と山崎さんはいう。この本を病院の仕事の合間に2年かけて書いた。」 気管切開され,鎮静剤を与えられ,人間としての意志を発することなく死んでいった『ある男の死』,自分の力が発揮できるうちは患者に対して誠実であった主治医が,その力の及ばぬところとなると,その患者を痛みだけを訴えるめんどうな存在としてしまう『シベリア』……。病院の現実に疑問を抱き,道が見えないままに南極海の調査船に船医として乗り込んだ山崎さんの運命を変えたのは,偶然もちこんだキューブラ・ロスの著書『死ぬ瞬間』に描かれたある農夫の死の場面でした。鎮痛剤の代わりに彼の好きな一杯のブドー酒,輸血の代わりに家で作ったスープ……。
ひとはこういう風に家で死んでいくことだってできるんだと「鳥肌がたつほど感動した」山崎さんは,著書を「ホスピスケアへの僕の願い13箇条」で締めくくりました。
さいわい、「緩和ケア病棟入院料」が新設されました。けれど,「病院経営上の戦略としての緩和ケア病棟」を計画する病院が増えるにつれて,山崎さんは,「これはホスピスではない。ホスピスは,病棟ではない」と、もどかしい気持ちを抱くようになりました。そして,インスピレーションをデンマークに求めたのです。 ■死の迎え方-4つの時期■
日本での死の迎え方は、4つの時期に分けられるように思います。
第2期は、人々が病院を頼りにするようになった時代です。半身不随や痴呆症になって何年も生きられるようになるにつれ、「看病」は何年も続く「介護」に変わりました。にもかかわらず、現実にうとい行政官や政治家は1979年、「日本型福祉」の政策を打ち出しました。「嫁」の24時間、365日の無給介護に頼り、福祉予算を節約する政策です。
そんな現状にがまんできず、メスを捨てて未知の世界に飛び込んだ山崎さんの訴え,聖隷三方原病院、淀川キリスト教病院,救世軍清瀬病院などのパイオニアの赤字覚悟の実践が認められ,緩和ケア病棟入院料が新設されました。 ■訪問ナース・家庭医・パリアティブケアチームの連携で■
この秋訪ねたデンマークでは、様子がまるで違いました。
国民すべてが自分の選んだ家庭医をもつというこの国独特の制度も威力を発揮します。ナースの写真の右側に写っている女医さんは,「ターミナル期の患者さんには,『いつでも電話をどうぞ』とプライベートな電話も知らせています」といいました。家庭医は病院の部長級の尊敬を受けるプライマリーケアの専門医で、平均1600人の患者を受け持っています。
3年前から威力を発揮し始めたのがパリアティブ(緩和治療)チームでした。拠点は基幹総合病院にあり,病院の各科の専門家と連携をとって治療の橋渡しをする一方,家庭医をバックアップし,症状が難しいときは積極的に往診するのです。 ■看取り寄り添い休暇も■
1990年には「看取り寄り添い休暇法」が成立しました。親しい人とのかけがえのない時間をともにするための有給休暇です。条件は,死を迎えるご本人の指名があることです。
旅を終え帰宅した山崎さんから、こんなメールが届きました。 (山崎章郎さん執筆の『ホスピスの流れを変えよう!』と私との対談『「死」から「生」を照らす−コミュニティーケアをめぐって−』が、月刊『論座』2003年1月号に掲載されています) |
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