ホスピスケアの部屋



日本ホスピス・在宅ケア研究会
http://www.hospice.jp/index.html
第9回全国大会in大阪
鼎談『先達に聴くホスピスマインド』

2001年6月30日14:00〜15:30
於 大阪国際会議場メインホール

日野原重明さん(聖路加国際病院院長)
柏木哲夫さん(大阪大学大学院人間科学研究科教授)
大熊由紀子(ゆき・大阪大学大学院人間科学研究科教授)
(所属は、当時のままです)

大熊由紀子 柏木哲夫さん 日野原重明さん
 1981年に日本にはじめてホスピス(緩和ケア病棟)が誕生してちょうど20年。今や全国で80数ヵ所(全国ホスピス・緩和ケア病棟連絡協議会)になりました。その数は必要とされるベッド数からみて決して多いとはいえませんが,最近は増加傾向にあり,今後さらに増加するものと予想されます。
 『病める人への温かいもてなし』という語源から生まれたホスピスは,人間らしい生を全うすることを援助するとことに本質があるとされています。そして,そのために,がん末期にみられる種々の苦痛を緩和することが必要とされるわけです。しかし,最近は,ともすればこの苦痛緩和という技術的側面にのみ焦点があてられる傾向があります。
 そこで,早くから末期がん患者への全人的ケアに取り組んでこられた先達の医師お二人と長年にわたり医療を客観的に見て来た医療ジャーナリストの3人の方々に,ホスピスがなかった頃からの話を語っていただき,今いちど,ホスピスという言葉の意味を考えてみたいと思います。
 ホスピスマインドとは何かを改めて考え,もういちど初心に戻ってホスピスの本質を問い直すきっかけを得たいと思います。
(総合司会者の紹介の言葉より)


■生まれて初めての死亡診断書とがん告知■

(ゆき)
 この研究会は、医療、福祉関係者と市民、患者が同じ場で、対等の立場で話し合い、学ぶ場として誕生しましたので、「先生」と言うと、100円罰金というシキタリです。ところが、控室の方でどんどん100円玉が飛び交っておりまして、一番危ないのが柏木さんですから、募金バコを柏木さんの前に置いておくことにいたします。(笑い)かなり高額な寄付がいただけるだろうと思います。私も危ないなあと思っておりますけれど。
 では、最初に、ホスピスケアについて深く考えたるようになったきっかけからお話しいただきます。まず、日野原さんから。

(日野原)
 私が人間の死というものと死んでいく患者に対して、どう対応するかに強い関心を持ったのは、京都大学を昭和12年に卒業した夏に16歳の女工さんを担当したことに始まります。熱心な仏教徒であったその貧しい女工さんが、結核性腹膜炎で死んでいくときに、「先生、私はもう今日死ぬような気がします。母は工場で働いて、私を見舞いにくることは出来ません。私が先に死ぬことは本当に悪いと思う。私がどんなに母にお世話になったか、母から受けたその恩に対して心から感謝しているということを、先生から母に話してください」と言われました。
「そんな馬鹿なこと言うんじゃないよ」と私は答え、すぐナースステーションに行って強心剤を持って来て「頑張れ、頑張れ」と言って強心剤を打っているうちに、その16歳の女工さんは亡くなったのです。
 
私はひどく虚しい感じがしました。「お母さんに会えなくて死んでいくのは寂しいけれども、お母さんのご恩に対して、あなたが本当に感謝していたと、私はあなたに代わってお母さんに伝えるから安心して成仏しなさいよ」と、なぜ言うことができなかったか、ものすごく私は自分を責めたのですね。医者になって最初の死亡診断書を書いたのがそのケースでした。

 それから10年。終戦後に、昭和23年に聖路加が設立されて、小さな病院で43歳のガンの末期患者を診ました。特許局の部長さんが入院して、手術を受けたのですが、進行がひどくそのまま閉じてしまいました。「癒着のために嘔吐がくるんだから、しばらくすれば落ち着く」って説明して、外科の先生が自宅に帰した。
 その1週間後、私は呼ばれてその患者さんの自宅へ行きました。すると、奥さんが玄関で私に「主人には胃潰瘍だと伝えていますので、先生、ガンのことは言ってくださらないように」と言ったのです。

 私が病室に行きますと、ご主人が奥さんに「あなたは席をはずしてくれないか」と言って、奥さんが出て行った後に私の両手を握って「先生、ガンじゃなかったんですか。ガンだったら本当に言ってください。子供がない私ですから、決心していろんなことをしなくちゃならないのです」と言ったのです。私は『そうだったんですよ』と答えて、そのまま受けたわけです。
 昭和23年ですね。私が35歳ぐらいのとき、そのとき私は患者さんから病名告知を無理やり言わされたのです。私が告知した訳じゃないのです。

 その2つのエピソードが、死に対してどのように対応すべきなのかということを非常に強く私に印象づけてくれました。このことは大切なことだと思ったことが、今のホスピス運動に関心を持つようになったきっかけです。

(ゆき)
 ありがとうございました。日野原さんは、今年おいくつになられるのでしょうか?

(日野原)
 あと3か月で丸90歳です。(拍手)

(ゆき)
 拍手が沸いておりますが、実は、ちょうど10年前、朝日新聞で日野原さんをお迎えしてシンポジウムをしました。その時に「ただいま80歳でいらっしゃいます」とご紹介しましたら、「いや、後3か月は79歳。80と79は大きな違いです」と抵抗しておられました。(笑い)90歳となると、もう大威張りですか?

(日野原)
 ときどき間違って「80歳になります」と言って、間違うことがあるぐらいです。(笑い)


■ホスビスを知らずに始めたホスピスチーム■

(ゆき)
 それよりグッとお若い柏木さんは、どんなふうにこの問題と出会われたのでしょうか。

(柏木)
 私は、今日生まれて初めて日野原さんを「日野原さん」と呼びました。今までとても日野原さんなんて呼べなくて、大先輩で本当に私の尊敬する先生ですので、控室でついつい今日言ってはいけない「先生」と言ってしまい、ここに300円ほど罰金を払いました。これ、全部私が払ったお金です。(笑い)

(ゆき)
 本当は8回ぐらい「先生」とおっしゃったのですが、オマケしてさしあげたのですよね。

(柏木)
 この1時間ばかりの間に、もう罰金の100円は絶対に出さないということを目標に、話をさせていただきたいと思います。年齢のことが出ましたけれども、私、今62歳になります。
 2年前にある学会で、日野原さんにお会いしたときに、日野原さんが私に、「おいくつになられましたか」と聞かれたので、「ちょうど還暦になりました」と申し上げたら、「いやあ、お若いですね。これから何でもできますね」と言われたのです。
私はそのころ、ボツボツいろんなことから撤退すべきかな、と思っていました。でも、日野原さんにそういうふうに言われて以来、まだ何でもできるんかなあ、と勝手に思って、いろんなことにまた手を出し始めました。

 私自身がホスピスとかターミナルケアに関心を持ち出したのは、やはり随分前です。1973年にアメリカで精神科医として留学生活を送っていました時に、病院の中で末期の患者さんを取りあげて、医者や看護婦、それからソーシャルワーカー、宗教家の人たち、それから精神科の医者たちがチームを組んで末期の患者さんをどのようにケアしていったらいいかということを真剣に考えていました。そういう場に接したわけですね。
 今でこそチームで取り組むというのは、極々当たり前になっていますが、当時は私は、ちょっと悪い表現ですが、「どうせ後1月ぐらいで死んでしまう患者さんになぜみんながこれほど真剣にチームを組んでやっていくのだろうか」って、すごく新鮮に写ったんですね。

 その経験を持って日本に帰って来まして、淀川キリスト教病院というところで、精神科の医者として働き始めました。ちょうどその時、外科の先生から62歳の直腸ガンの末期の患者さんを紹介されました。この方は精神的にイライラしたり不安になったり、時には非常に憂鬱な状態になられるので、精神科の医者として、不安やウツを診てほしいという要請で、その患者さんのベットサイドに行きました。
 そして、この患者さんが持っておられる非常に複雑な苦痛に、私はある意味で圧倒されたのですね。身体的な痛みだけではなくて、深い心の問題がある。家族間の人間関係の問題があって、また宗教的な問題も絡んでいるということで、この患者さんの診察を終えた時に、私はアメリカで経験をしたチームで取り組むということを思い出したのです。
 そして病院の皆に、末期の患者さんに対してチームで取り組むことをやってみないかと呼び掛けました。そういうニードがあったんだと思うのですが、たくさんの医者、看護婦、ソーシャルワーカー、それから牧師の方々が集まってくださってチームを作りました。

 その時、私自身はホスピスという言葉さ知りませんでした。ホスピスという言葉を知らないで、ホスピスを始めたっていうことになります。1973年のことでした。それが1つの母体になって、私自身がホスピスの方に自分の仕事の中心を移していった、そういう経過でございます。


■「してあげる」より、「してもらって感謝する」■

(ゆき)
 わたしは、この中では一番若いので、真剣に考えるようになったのも、お二人より少し後になります。
 医学記者としての出会いはありましたけども、身近に考えるようになったのは、高等学校時代のクラスメイトの千葉敦子という友人の経験がきっかけです。彼女は乳ガンになりまして、再発の身でアメリカのニューヨークに渡りました。それ以来、筆まめな彼女から、私に頻繁に手紙が届くようになりました。今から思うと、自分のことを後の人に伝えるために、ジャーナリストの私を選んだのかもしれません。

 再発を何度も繰り返し、縦隔リンパ節に転移をしているころに、私はニューヨークの彼女を訪ねました。病状から考えて、寝巻きを着て横たわっているに違いない。そうはいっても、転移した身でも家にいるっていうのは、大したことだと思いながら、ベルを押しましたら、最新流行の髪型、ヒュッと、一角獣のように髪の毛たてた髪形をして、おしゃれした彼女が現れました。

 化学療法を受けている最中、吐きそうになると、友達たちがジュースとかスープとか、さまざまな物を作ってくて、それを飲むことで補液をするのだそうです。アメリカの銀行は椅子がないのだそうで、病気の身で手続きするのは大変なので、銀行に行ってくれる友達がおり、それからもちろん新しい男友達もいました。「由紀子さんは本当に、よく一人の男で我慢しているはねぇ」と馬鹿にされました。何度も再発しているのに恋愛三昧という暮らしをしていました。

 この時私は、彼女の指図に従って、初めてのニューヨークを歩き回りました。一緒に動き回れはしないのですが、「あなたは、私の家に地下鉄に乗って来なさい。タクシーなどには乗ってはいけない」などと命ずるのです。当時のニューヨークの地下鉄はとても怖くて、朝日新聞ニューヨークの支局の同僚からは、「絶対、女一人で、ああいうのには乗っちゃいけないよ」と言われていたのですが、「地下鉄に乗らなければ、あなたはニューヨークを知ることができない」とか、「図書館に行きなさい。そうすれば、アメリカという国が、挑戦精神のあるすべての人にさまざまなチャンスをえていることが分かる」とか、いろいろ教えてくれました。

 分かったことは、私たちが何かしてあげるよりも、彼女が私たちにいろんなことを貢献してくれ、「さすが千葉敦子、友達に持って良かった」って、こちらが感謝することが、一番彼女にとって嬉しい、私が彼女にしてあげられることだったと、悟ったのです。してあげるっていうのは、おこがましいですけども。ガンの患者さんっていうと、こちらが何かをしてあげるもの、という常識、先入観が、間違っているのだなあ、と思いました。

 アメリカは医学は進んでいますけども、医療のシステムは日本より遅れています。日本のような健康保険制度がないので、私的な保険に入ります。そうすると、ガンの身でニューヨークに行った人の保険の掛け金は猛烈高い。それで、医療費に困っているらしいと、みんなに呼び掛けて、「千葉敦子を支える会」という口座を銀行に作って、お金をそこに振り込みました。すると千葉敦子から「礼状を書いたから、みんなに配ってほしい」と手紙が届きました。
 ところがそれが、みんなが期待した礼状と全然違っているのです。「御見舞金は私の闘病生活を、快適に楽しくするために使わせていただいています。常にお花をたっぷり飾っています。生まれて初めてカラーテレビを買いました。羽枕を買い替えました。アイロンがけを全部クリーニング店に出しています。通院にタクシーをふんだんに利用しています。座り心地のいい椅子を2つ買おうと思っています」というのです。お金を出した、特に男の同級生たちは、「我々は医療費が大変だと思って彼女にお金を送っているのに、花を買うとは何事だ」と、これが1980年代の一般の考え方だったように思います。

 それでは時代をぐっと古いところに戻しまして、そもそもホスピスケアというものが、どういうふうに発祥してきたか、その辺りをまず柏木さんから話していただいて、日野原さんに補っていただきたいと思います。


■時代と共にホスピスは変わった■

(柏木)
 この会場におられる皆さん方はホスピスのことに特に関心を持っておられるので、そんな話はとっくによく知っている、と思われるかも分かりませんけども。私が理解している範囲で、簡単にホスピスの歴史をお話ししますと、随分古い時代に遡るということで、中世のヨーロッパにまで、ホスピスの源泉というのは遡るんですね。
 当時、キリスト教の聖地であったエルサレムに、特に巡礼の旅人が行き来をして、その旅人の中で、病気になったり疲れ切ってしまったり、またお金をなくしてしまったり、困った旅人が出ました。そういう旅人に対して、当時のカトリックの修道院が、温かい食事と一夜の宿を提供した。そういうことがホスピスの源泉、当時はそれをホスピスと呼んでいたわけですね。

 ところが、時代の変化とともにそのホスピスがケアの手を差し伸べる対象の人たちが変わってきました。
 例えばハンセン病、癩病と呼ばれるハンセン病が、ヨーロッパ各地で非常な猛威を振るったときには、そういう差別をされているハンセン病の患者さんに、ケアの手を差し伸べました。
 ハンセン病のいい薬ができて治まってきたときに、問題になってきたのが結核でした。今でこそ結核は、いわゆる死に至る病ではなくなってきたんですけど、当時はいい治療法がなかったので、結核でなくなる人が随分多く出ました。そういう時代には、結核で亡くなる人たちに対して、ケアの手を差し伸べてきた。

 結核が治まって、次にホスピスの対象として大きく浮かび上がってきたのが、いわゆるガンですね。近代的なホスピスの第1号っていうのが、1967年にイギリスの、1967年ですね。セント・クリストファー・ホスピスというのができました。それ以後ずっと、ホスピスの主なケアの対象者が、ガンの末期の患者さん。日本でもそういうことなんですが。
 最近欧米諸国では、エイズの患者さんにホスピスケアが広がっていっています。そういう意味で、やはりホスピスの運動っていうのは、その時代時代において、なかなか本当に人々のケアの手が差し伸べられなければならないにもかかわらず、なかなかケアの手が差し伸べられない人たちに対して、ケアの手を差し伸べて来たと。そういう歴史があると思います。

 日本においては、ホスピスの対象になっている患者さんというのは、ガンとエイズに限られています。少なくとも政府が公認しているホスピス、緩和ケア病棟入院料っていうのを頂ける対象は、ガンとエイズだけなんです。けれど、欧米諸国の動きを見ていますと、ガンやエイズだけではなくて、慢性の心臓の病気、それから慢性の肝臓病、アルツハイマー病で亡くなる方、その他、糖尿病の末期の患者さん、というふうに、ホスピスケアは、ガンやエイズだけではなくて対象となる患者さんが、ずっと広がって来ているわけです。
 恐らく日本においても、ガン、エイズだけではなくて、一般のそれ以外の病気で末期を迎える方々に対しても、ケアの手を広げていくようなことが、今後必要になるのではないのかなあと思っています。私のまとめを、日野原先生に補っていただいたら有り難いです。あっ、先生と言ってしまいました。100円を出しますが、ちょっと家計に支障をきたしそうな雰囲気です。(笑い)


■実は日本はホスピスの先駆者だった■

(日野原)
 何だか私が献金をもらったようなことになりました。
 今、柏木さんが言われたことが、私の理解と全く一致します。日本は欧米の医学を、あるいは看護を導入しましたが、導入が非常に遅いと今まで誰もが思っておりました。現に医学教育などは、私の考えでは20年以上遅れていると思うのであります。

ただ、ホスピスが日本に導入されたのは、日本は他の国に比べると早かったという。これは非常に例外的なことです。柏木さんがアメリカに留学をされたのは、私がアメリカに留学した22年後のことで1973年からですね。1969年というと、ソンダース先生がホスピスを開設された6年後です。日本に帰られて淀川キリスト教病院に、そのようなチーム医療のターミナルケアの研究会を開かれた。そしてその3年後に、死の臨床の研究会ができた。ホスピスがこのロンドンの郊外にできてから10年後です。

この3月に台湾で、「第4回アジア太平洋ホスピス学会」が開かれました。この大会はシンガポールに本部を設けています。この法人を作るために、私や柏木さんやその他の日本のホスピス関係者が中心となって、6年間その基礎を作って、地理的に便利だということもあって、シンガポールに本部を置いたのです。これは日本が中心となってその基礎を作ったという経過があるわけです。
 その「アジアホスピス太平洋緩和ケアネットワーク」が、主体となって動かしているこのホスピスの国際学会が、再来年の3月にこの大阪国際会議場でもたれることになりました。いまやホスピスっていうのは、東南アジア、南太平洋に急速に広がってきて、その基礎を日本のホスピス関係の人が作った。わが国は国際的なホスピス運動の大きな推進力になってきた。日本はホスピスを取りあげることが、他の医療とか福祉に比べると非常に早かったと、言えるわけです。
 1967年という年ですが、確かその翌年ぐらいが南アフリカで心臓移植が行われた年だと思います。また、そのころ月飛行が行われ、アポロが打ち上げられたのですね。そして、その1967年にシシリー・ソンダース先生が、近代的なホスピスを作りました。また、アメリカとカナダは1974年と同じ時期にホスピスが出来ました。ニュージーランドは1979年、スウェーデンが1980年、サウスアフリカに1982年、ドイツ、韓国が1983年、シンガポールが1985年ということでありますので、世界におけるホスピス運動への参与は日本は非常に早かった。

 それは、おそらく医師以外の一般の人が、このホスピスという物の考え方に、強い関心を持たれたためだと思います。お医者さんはそれほどではなかったのだけども、医師以外の看護婦さんや一般の人々が、これに非常に感じるところがあった。自分たちすべてが死ぬんだから、特別な病気でない。
 とにかく死は私たちの遺伝子みたいなもので、世界中の人が共通の遺伝子を持っている。それはリンゴに種があるように、死の種を死の遺伝子をすべての人が持っているんだ。その死にどう対応するかっていうことを考える。しかもよい治療法がない進行したガンの場合には、その死が宿命的に来るんだということを、一般の人が深く感じられたのです。

 そして、私がよく引用するシェークスピアのドラマのタイトルのように、「終わり良ければすべて良し」っていう、最後に願いを叶えてほしいっていうような祈りの気持ちが、日本人の多くの人に芽生えてきた。日本では宗教的にはキリスト教徒は1%弱ですから、極マイノリティーにすぎない。仏教を信仰する人が大部分であるにもかかわらず、ホスピス運動が展開したっていうことは特記すべきことではないかと思います。
 さらに私たちは、もっともっと本当のホスピスの物の考え方が普及するために努力しなくちゃならない。しかし私たちは、まだガンとエイズにとどまっているというのは、法律ができたからそうなるんで、日本は法律ができると20、30年はほっておきにされますから、これやはり法律を変えないとどうしようもないと思うんです。どうですかね、これは。

(ゆき)
 本当にそうですね。今、私は、同じ医療の領域でありながら、精神医療とホスピスケアは、この日本で、なんて違っちゃったんだろうと思っています。
 精神科のベッド数をOECD27か国のデータでグラフにしてみますと、他のすべての国が、どんどんどんどんベッド数を減らして、街の中でさまざまな支えを受けて暮らせるようにしているのに、日本だけが逆の方向にずっと上がっていて、他の国々に比べると、ベッド数が5倍とか10倍とかで、おまけにそこの居心地が本当にひどい。
 ソンダースさんの国のイギリスから1967年暮れに、WHO顧問のクラークさんという人が来て、「日本の精神病院はあまりにもひどい」っていう報告書を書きました。にもかかわらず、日本の精神医療の水準は国際的にひどく遅れてしまいました。そのころ、日本では低利融資政策を利用してあまり志の高くない私立の精神病院がたくさんできてしまっていました。その経営者の人々は入院患者をが減ると収入が減ると考え、人里離れた精神病院への収容を続けたのです。
 柏木さんが本当にいい時期にアメリカに行かれて、いい時にホスピスケアを日本に導入してくださって、この分野は、とても幸運だったなあと思うのです。

 では、セント・クリストファー・ホスピスに戻ってみましょう。1967年にシシリー・ソンダースさんが始められたホスピスですが、私も日本にいらっしゃったときにソンダースさんにお会いはしたことはあるのですけど、お二人はもっと近しくお話をしてらっしゃるので、振り返ってお話しいただけますか。


■祈りだけではホスピスケアはできない■

(柏木)
 私は1979年に、初めてソンダース先生にお会いをしました。2週間ほどセント・クリストファー・ホスピスで、彼女と一緒に働くことができたのは、非常にありがたい経験でした。その時に、1つの運動の中心になる方は、それなりの非常に優れた才能を持っておられるということを知りました。ご存じの方は多いと思うのですが、彼女は元看護婦さんだったんですね。
 途中でソーシャルワーカーの資格を取られて、その後で医師の資格を取って、39歳のときに医師になられた。大柄な非常に典型的なイギリスの女性だった。

 ちょっと個人的な話になりますが、ちょうどセント・クリストファー・ホスピスを去るその日に、1時間ばかりゆっくり話をさしていただく機会がありました。ある意味で彼女の言葉が、私の人生を変えたというふうにも思います。
 当時私自身は、精神科の医師で、将来ホスピスをやりたいと思っていましたが、まだいろいろと内科的なことや、いろんな処置のことを避けながら、精神科医としてホスピスに関わることができないかと、思っていました。ソンダース先生は私自身クリスチャンですので、そのこともご存じで、次のようなすごいことを言われました。

 「もし、私がガンの末期で、ある病院に入院したとする」。「私が」って言うのは、ドクター・ソンダースのことです。「そのときに私がまず望むのは、非常に経験豊かな精神科医が、私の傍に来てくれて、私の不安に聞き入ってくれることでは決してない。また、牧師さんが傍に来てくれて、『あなたの痛みが早くましになるように、よくなるように、お祈りをしましょう』。そういうふうなことで、牧師さんが来てくれることでも決してない。私が一番望むのは、私の痛みがどこから来ていて、どのような薬剤を、どのぐらいの量、どれほどの間隔で投与すれば痛みがよくなるということを、きっちり診断してくれて、そして、できるだけ早く処方箋を切って、薬を投与してくれることだ」と言われました。

 この言葉は、非常に私にとっては重い言葉だったんですね。精神科だけでは決してホスピスはできませんよ。いくら信仰を持っていても、それは祈りだけではホスピスはできませんよ。あなたは基本的な痛みのコントロール、内科的なことをしないで、ホスピスをやろうとしているのは間違っていますよ、っていうことを、間接的に彼女らしく言ってくれたのだと思うのです。私、この言葉を聞いてその場で「よし、やろう」と決意をしました。

 日本に帰ってから3年間、痛みのコントロール、それから内科的ないろんな訓練を受けて、1984年にホスピスを開設したのですが、一人の人との出会いっていうものが、人生を変えるものだと思いました。ちょっと個人的な体験で恐縮ですが。
 日野原さんは実際にソンダース先生と、きちっとしたインタビューをされて、それがテレビで放映されたっていう、そういう経験をお持ちですので、きっとその辺りの話をしてくださるんではないかと思いますが。


■being with a patient■

(日野原)
 今の柏木さんのお話を受けて、シシリー・ソンダース先生と私の出会いのことを申し上げたいと思います。
 今から15年前に、私はホスピス見学のツアーを組みました。主に英国でロンドンと、それからオックスフォード。オックスフォード大学の関連施設ですばらしいホスピスがありますが、当時、私は音楽療法に関心を持っていたので、音楽が癒しにどういうふうに使われているかっていうことを、見学したいということで参りました。

 そのときに、セント・クリストファー・ホスピスに行きましたら、少し古びた病院で、「大したことはないかな」っと、建物からの印象を持ったわけです。中に入りますと、個室よりも総室が主で、しかも10人ぐらいそこに一緒に療養をしている、そういう病棟がありまして、死が近い患者が個室でなくて、こういう広い部屋にいるっていうのは一体どういうことか。外国はプライバシーを大切にするから、恐らく個室だと思った。ところが、サンダース先生のところは広い部屋がある。私は、その理由をいろいろ聞きましたが、そのときに先生は、あまり個人的な自分のことは私たちには話さないで、なぜホスピスを開いたかどうか、痛みのコントロールはどうするかっていうことなど、主としてペインコントロールの話をされました。

 医学会総会の特別のプログラムとして、私とソンダース先生との対談を岩波映画に撮って、それを学会で公にするっていうプログラムを企画していましたので、先生に会いに行ったわけです。私はロンドンに2日半行って帰って来たのですが、その1日は先生との対談に行ったわけです。
 私は先生の伝記を少し読んで、先生の核心に触れた質問をしようと思って、少し勇み足で質問したのですが随分新しい発見をしました。先生はこの先生は、ソンダース先生ですから、罰金はいりませんよね。(笑い)我々は「さん」ですが。これは許してください。

(ゆき)
 歴史上の人物に先生とつけるのは許される、ということにして、はい。

(日野原)
 あれは40歳過ぎの患者さんでしたね。ソンダース先生がナースとしてガンの末期患者のケアをしていて、患者さんのそばにいつもいると、いつ痛みが始まりひどくなるかっていうことが分かるので、もうボツボツ痛みがひどくなるんじゃないかというときに、早目にモルヒネを与えたら、あまりひどい痛みが来ないということを彼女は発見したのです。そして、主治医の先生に「モルヒネを早く処方してください」とお願いしたそうです。その患者はガンで亡くなったのですが、実際のところ、先生はその患者さんが好きだったのです。ソンダース先生は、好きな人が3人いたのですね。

(ゆき)
 好きは、"love"の方の好きですね。(笑い)はい。

(日野原)
 そうして、その若い独身の青年が40歳で亡くなる時に、「私のように苦しんでいる患者のために、早く痛みのコントロールできるホスピスを建て、その窓の1つに、私は400ポンドのお金を寄付しますから、私を記念した窓を作ってください」って、それが基礎になって、彼女はホスピスを作ろうっていうことを決心したんですね。これもやはり、人との出会いが大きいのです。

 その後ですね、本当に好きな患者さんが現れたのですが、その人も亡くなったのです。最後は絵描きのご主人と結婚をしました。ホスピスの壁面にある絵は、全部ご主人が描いた。そのご主人も今は亡くなったのですね。
 それで私は、「ホスピスケアとは何であるか?先生は、スピリチュアル・ケアはどう考えておられるか?」ということを聞きました。「スピリチュアル・ケアというのは、宗教的なケアを言わない。命の意味とか、死の意味を大切にしながら、どう生きるかという面からアプローチをすることがスピリチュアル・ケアである」と言っておられたんです。

 そして一言最後にね、「つまりこれだ、っていうことはどうか?」って聞きましたら、"being with a patient"(患者と共にあること)。「患者とともにあるっていうには、このホスピスの病院で患者とともにあるんですか」って言ったら、「病院よりも在宅で、医療従事者がともにいてあげるということ。傍に行って支えてあげるということが必要である」と言われました。
 「それでは先生が持っているホスピスが究極のゴールでなくて、在宅のケアの方がゴールである、最初からそうですか?」と聞くと、「私は最初から建物ではなくて、その患者と"being with a patient"が、そのゴールであるっていうふうに、私は昔も今も思っている」と言われたので、ああ、この先生の考え方は、住んできた家において支えられて死ぬことが、一番、"quality of life"を高めると解釈をしておられるんだなあと、私自身は考えました。

 「最後に先生、難しい質問をします」と言って、私は質問したのですね。ジョークかも分かりませんが、「先生は好きな人が3人おられた。先生が亡くなって天国に行ったら困りませんか」って言ったんですよ。そうしたら、「no problem」と言われた。3人とも愛してもいいんだという。なかなかね、勇気のある発言だと思ったんですね。私はそういう変わったインタビューをしたわけです。


■ユーモアは愛と思いやりの現実的な表現■

(ゆき)
 本当に感心してしまいます。私も新聞記者として随分インタビューをしましたけど、そんなすごい質問したことはありません。でもソンダースさん幸せな人ですね。私は天国で3人の男性が待っていそうもないな。

(日野原)
 今のことでね、ちょっと思い出しました。
 聖路加病院が、今から8年前に新築されて全室個室であるところに、36歳の西宮に住んでいた女性が乳ガンの再発で全身にガンの転移が広がりまして、実家は東京ですから、わざわざ西宮から聖路加病院に入院をしました。
 入院をする前に、ご主人と新婚旅行に行った紀州の思い出の場所に、ご主人ともう1度一緒に行って、そして東京に来たのです。
 そのご主人は商社マンですから、なかなか忙しいのですが、ズーッと1月半西宮には帰らないでつきっきりで看病しました。
「あなたね、商社で、どうしてこんなに休暇が取れるんですか?」って聞きましたら、ご主人は「私が家内にできることと、会社にできることを考えると、今でないとできないことは、家内と一緒にいてやることです。後で会社のためにどうでもできるから、私は敢えて休みを取りました」と答えました。

 そうして彼女がいよいよ亡くなる前の日に、彼女はこう言いました。「もう私は、これでもう死ぬんだから、私、若いから天国に行ったら、若い人と結婚するかも知れないよ」と。彼は慌ててね、「何っ!」って言ったのですね。すると、彼女は夫の頭を撫でるようにして「あなた馬鹿ね」って言うんですよ。死ぬ前の日に「若いから結婚してしまうかもよ」って言った彼女のユーモアですね。悲しい際限のときに、その会話ができたっていうのは、私はすごい女性じゃないかと思います。柏木先生は最近ユーモアのことに熱心ですね。

(ゆき)
 凝ってらっしゃるから。

(柏木)
 1つだけ、今の日野原さんの話につけ加えます。私もこれは本当に感動した話なんですが。
 数年前に、カナダのモントリオールでホスピスの国際大会が開かれました。そのときに私は、日本のホスピスの現状について発表を頼まれて参加したんですが、ちょうど私の発表の前に、アイルランドで特にガンの末期のお年寄りを、在宅で看ておられる女医さんがおられて、『在宅ホスピス』という題で、話をされました。
そのときの副題が『患者のユーモアに助けられる』というサブタイトルだったんです。数例の患者さんの紹介をされたんですが、一人の患者さんのことが、本当に私、印象的に残っていまして、すごい人だと思ったんですが。
 87歳の女性で、すい臓ガンの末期の患者さんで、次第次第に弱っていかれて、この女医さんが、週に1回ぐらい、ずっと往診に行っておられたのですね。最後の往診のときに、「先生、どうも後1週間で、あの世へ行けそうです」。我々「あの世」って言いますけども、英語でもですね、"the another world"って言葉があるようですね。「あの世へ行く」っていう。

 そのときに、女医さんが思わず「やっぱり天国へ行きたいんでしょうね」っていうふうに尋ねると、そのおばあさんがですね、笑いながら「先生、私、別に天国でも地獄でもどちらでもいいんです。きっとどちらにもたくさん友達がいると思います」って言ったんです。これは、すごいですね。もう死を迎える直前の、その患者さんが、そういうすばらしいユーモアを、その医師に言って、医師はそのユーモアによって、すごく助けられたって言うんですね。「ああ、この人はもう大丈夫だ」という気持ちにさせられた、というその話を聞きまして、私は今まで2500名ぐらいの方を看取りましたけれども、その中ですばらしいユーモアを残しながら亡くなった人の例を、何例か思い出します。

 何か今、私がユーモアに凝っているというふうに言われましたけれども。ユーモアっていうのは、非常に深いものを持っていて、ユーモアの研究をズーッとしておられる上智大学の教授であるデーケン先生が、ユーモアっていうのは、「愛と思いやりの現実的な表現である」っていうふうに、定義しておられるんですね。
 そういうふうに定義をしますと、今の日野原さんのお話も、非常に夫に対する愛の現実的な表現であったと思いますし、「天国でも地獄でもどちらでもいいんです」というふうに言ったおばあさんは、やはりそれは看取ってくれた、お世話になった医師に対する、愛と思いやりの現実的な表現だったというふうに思うんです。
 ですからユーモアっていうのは、それが本当にうまく純化されれば愛と思いやりの現実的な表現にまで、高められるんだろうなと思います。もう少し残りの人生、それを極めてみたいなと今思っているところなんです。


■「成長の最後の段階としての死」■

(ゆき)
 デーケンさんは前、「ドイツには、『ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである』という定義があります」っておっしゃっていましたけど、この定義も、とっても胸に落ちるような感じがします。
 じゃ、またちょっと時代を前に戻して、67年にセント・クリストファー・ホスピスができて、その2年後に『死ぬ瞬間』というエリザベス・キューブラー−ロスの本が出て、これもこの分野では、とても重要な役割りを果したと思うんです。ロスさんとお二人は、どこかで出会われましたでしょうか。

(柏木)
 キューブラー−ロス先生は、日本に何回か来られているのですが、私は個人的にお話をした機会が、2、3回ありましたが、仕事が重なってお会い出来ませんでした。彼女が『death』っていう本を書いています。そのサブタイトルに、『the final stage of growth』っていうサブタイトルをつけてるんです。"the final stage"っていうのは、その最後の段階ですね。その"of growth"っていうのは、「成長」という意味なんですね。ですから日本語に訳すと、「成長の最後の段階としての死」という、そういう本を書いています。日本に来られたときに、特に私の仕事を知ってくださっていて、サインをしてくださって、後から送っていただいたっていう、そういう思い出があります。

 彼女の、仕事のすばらしさは、200名を超す末期の患者さんに、きちっとしたインタビューをして、死を迎える人たちが、どのような心のプロセスを経て死を迎えるのかを調べたことです。それはキューブラー−ロスの「5段階」という有名な学説となっています。今、紹介なさった『死ぬ瞬間』っていう本は、『on death and dying』っていう原本の題なんで、『死と死にゆくこと』という題ですけれども。それの日本語訳が『死ぬ瞬間』になったのです。

 日本の多くの医師、看護婦、それから一般の方々に、死というものの目を変えた画期的な本だと思います。その後、研究が進んでですね、キューブラー−ロスの言う「5段階」っていうのは、すべての患者さんがそれを経るわけでもないし、国によっても少し違うし、ちょっとおかしいのではないかっていう批判があって、今少しずつ修正はされつつあります。しかしあの時代に、死を迎える人たちに、きちっとインタビューをしたっていう勇気と、それからそれをまとめあげた洞察力っていうのは、私はすごい力を持っておられる方だなあと思っています。
 今は少し脳梗塞的な病気をされて、社会的な活動からは遠ざかっておられますけれども、やはりホスピスでターミナルケアの分野の中で、ある意味ではソンダース先生と並ぶ業績を残された方ではないかと思っています。


■「死ぬ瞬間」の研究■

(日野原)
 キューブラー−ロス先生には、私は個人的な関係はありませんで、講演を1度聞いただけでありますが、この先生とは神戸の内科医の先生が、個人的によくしていただいて、その方がキューブラー−ロス先生を、日本に何回か呼ばれる仲立ちをされたようであります。
 キューブラー−ロスについては、私は非常に印象深く感じるのは、なぜこういうことに、かの精神科の先生が関心を持ったかと申しますと、彼女がアメリカで仕事をしているときに、非常に親しい関係にあった、まだ若い従兄弟かなにかがイタリーで療養してたときに、キューブラー−ロスにお姉さん対するような気持ちを持って「もういよいよ病気が悪いから、ぜひ一度会いたい」と手紙を出したそうです。そのときにキューブラー−ロスは、ある学会の仕事ですぐには行けない状態にあったので、悪いけれどそれを片づけて行こうと思っていたらその人が亡くなってしまった。

それに対する呵責が強くなって、死んでいく人があなたに会いたいというときに、どんなことをうっちゃっても、その人の死を大切にすべきだ、どんなことを犠牲にしても行くべきであったのに私はそれを敢えてやらなかったっていうことが、ものすごく責めになって、それからこういうふうなことを一生懸命にやるようになったと彼女の書いた本を通して知りました。

 私などがガンの患者さんに「あなたは治らない進行したガンで、そうしてホスピスケアをしなくてはならない。残念なことだけれども、この十字架を受けてあなたが苦しむように、私が宣告する。私も辛い思いをするんだけれども、私があなたに病名を告知したからには、私は十字架を背負ったような気持ちになって、何を置いてもあなたの最後には行かなくちゃならない。そのような重荷を感じるのが、医者の病名告知だ」というふうに解釈するようになったんです。
 病名が本当だから言えばいいのでなく、私たちが患者さんに医師として病名を告知するときには、この人の十字架を私が一緒に負わなくちゃならないから非常にしんどいんですよね。重いんだけれども、それを敢えてこの私たちがその重荷を背負う。もし、重荷を背負わないのだったら、本当には言えないんではないかというふうな気持ちを私は持ちます。ですから本当のことを言う場合には、医師は悩まなくちゃならないですよ。そういう意味で、病名告知は医師の側にとって大きな問題であると思います。

 キューブラー−ロスは、今から40年ぐらい前にこの本を書いて、 "QOL"という"Quality Of Life"という物の考え方を導入するのに、大きな役割を果しています。キューブラー−ロスが死ぬ瞬間、人は死ぬときにはどういう状態であるかっていうことを、心理学的に、精神医学的に調べたのですが、彼女よりも、まだ60年前に、つまり今から100年前にウィリアム・オスラー博士が、1895年から1900年の間に485例の死んでいく患者についての研究をやりました。
 『study on act of dying』(人間の死の行動の研究)っていう。これは当時の同僚が、「人の死を研究に使うなんてとんでもないよ」って言って、猛烈に抗議をしたそうで、彼は論文として書けなかったんですが、そのアンケートの書類485枚は、モントリオールのオスラー図書館の中にそっくりありまして、私はそのコピーをとって来ました。その研究は、病棟の看護婦さんに頼んで、患者さんが最後にどういう言葉を残すかをアンケートで聞き取って行った研究なのです。

 ウィリアム・オスラーは100年前に、その当時のアメリカの医学教育を非常に高めた。インターン制度やレジデント制度を作った有名な人ではありますが、その人の結論は、人間の死というものは、苦しんで死ぬ18%以外は眠るように死ぬということでした。
 当時は治療法もあまりなかったから、そうでありますけれども、オスラーは無理なことをするな、無理な薬を投与するな、ヒポクラテスの医学を非常に大切にして人間の治癒力というふうなものに望みを持ちながら、そっとしなさい。彼は、そういう思想の学者だったのです。そのウィリアム・オスラーは、当時は死んでいく患者の8割余りが眠るように死ぬのだから、死ぬのは苦しくないと言ったのです。そしてウィリアム・オスラーは、モルヒネは大切だということを、そのときから言っていたのです。今の病院における死は、無理な延命とか、無理なテストとかするから、かえって患者が苦しくなるんじゃないか。もっと自然にすればよいと思います。

 オスラーは1919年に、71歳の時に、オックスフォードの内科の教授でありながら自宅で死にました。そうして最後には、膿胸を起こして、脳と肺が感染したのですが、「家で穿刺をしてもらって、私は家で死にたい。モルヒネが神様の薬だ、混ぜないで単剤で飲むのが一番効果がある」と言いました。今はモルヒネを単剤で与えるのが常識になってるんですが、オスラーは今から80年前に自身が亡くなるときに、そうしたんですね。モルヒネを使ったことと、それから無理な検査をし、無理な延命をやるんだから苦しいんで、そっとすれば、もっと楽に死ねるっていうことを、オスラーは言った。

 キューブラー−ロスよりもずっと前の100年前に、論文として書けなかったので残念だけど、私たちが今、研究しているようなことが、ああいう優れた人の中にあったということは、すばらしいと思うのです。


■東京は議論するところ。大阪は行動するところ。■

(ゆき)
 私、日野原さんのお仕事の歴史を調べたことがあるんですけど、いつもいつも、とっても過激な、その時代としては、先へ進み過ぎていることを実践、提言してこられています。カルテを管理しなければいけないとか、人間ドックが必要だとか、レーマンの医学と言って、素人の人が参加する医療を推奨されたり、日本医師会が大反対しているのに、本人が血圧を計るべきであるとか、音楽療法とか。日本医師会が医師の言うことを素直にきく准看護婦でいいんだ、と言っているのに逆らって看護大学を創り、准看護婦は廃止するべきと主張なさる。
 個室化なんて日本の文化にあわない、とんでもないといわれていた時代に、聖路加国際病院を全室個室にする。それだけじゃなくて、特別養護老人ホームなど福祉関係施設を個室化することに力をつくされる。そういうふうに、とても過激だってところは、オスラーさんと似ておられます。
 ただ、そのとはせ過激と思われても、30年ぐらいすると、それが普通になる。日野原さんという方自身が提言、実践してこられた一つひとつが、全部トータルなケアに不可欠なことなのだと感じます。いい療養環境とか、高い水準の看護だとか、素人が関わることとか、記録がきちんとしていることとか……。

 それでは、時代を大急ぎで今に近寄せようと思います。淀川キリスト教病院にOCPPEという形で、ホスピスケアのソフトを持ち込まれたのが、1973年。そしてその4年後の77年に、死の臨床研究会が、この大阪、どうも大阪というところは、すごいところなんですよね。河野博臣先生やら、あっ言っちゃいました。でも、ここにいない人はいいんですよね。

(日野原)
 大切なことでね、東京は議論するところ。大阪は行動するところ。

(ゆき)
 なるほど確かにそうですね。(笑い)

(日野原)
 何でもね、西から始まる。

(ゆき)
 私も大阪大学に呼んでいただいて、本当幸せだと思っています。ただ、東京にも鈴木荘一さんとおっしゃる大田の方で開業してらっしゃる方が、シシリー・ソンダースさんのホスピスへ行って感激して、それを日本に紹介しました。診療所でありながら、ミニホスピスというのをお創りになられました。そこは商店街なので、在宅で死んでいくのはとても無理なのです。そこで、診療所の敷地にアパートのようなものを創って、そこで、本当に普通の奥様が、お客様をもてなすような感じで、いい雰囲気で普通の家庭料理を提供して、ということをやってらっしゃる。プロの専業主婦の奥さんっていうのも、すごいなあって、その鈴木家で知ったことでした。


■"half crazy"■

 大急ぎで時間をまた回しますと、81年に聖霊三方原病院に形としてのホスピスができ、それはかなりオンボロになったけど、こないだ行きましたら、いいとてもいい雰囲気に改造されていました。84年に建物としては、淀川キリスト教病院に7階の1フロアを使ってホスピスができ、そういう実績をもとに、1990年に緩和ケア病棟というのを、厚生省が認可するということになったわけです。
 その問題点については、後の山崎章郎さんが司会のワークショップで話されると思います。この緩和ケア病棟の創設については、どういう手練手管で、厚生省を説得したのでしょうか。

(柏木)
 日本の福祉っていうのは、たぶんホスピスに限らず、同じようなパターンを歩むのではないかと思うんですが、民間の数人の人たちが、これは大切だっていうことを始める。だいだい半キチガイの人が3、4人で始めるんですね。半キチガイっていうのは英語では"half crazy"ですね。全キチガイ"total crazy"になったら何もできない。やはりちょっとキチガイの部分っていうのは、半分ぐらいでないとできないんですが。
 私もそういう意味では、ホスピスを作りたいと思い始めた時には、たぶん半キチガイになっていたと思うのです。

 聖隷とか私たちのところとか福岡の栄光病院のような病院でホスピスを作ってやり始めたんです。けれども、皆さんよくご存じだと思うんですが、日本の現行の医療制度では、何か提供しないとお金にならない。検査をするとか、輸血をする、抗ガン剤を投与する、というふうなどんどん何かをやらないとお金にならないわけですね。
 そうしますとホスピスというのは、「やりすぎの医療」の反省から出てきたもので、もうある一定の時期を過ぎれば、そういうことを控えて、苦痛の緩和ということに徹底するのが、一番患者さんのためになるという考え方ですので、現行の医療制度では、経営っていう意味ではなかなか難しいわけですね。
 御多分に漏れず私たちのホスピスでも、1984年にスタートしたときには、本当に真っ赤な赤字でした。ときには赤字を超してチアノーゼ色になったこともあるぐらいですね。幸い全国の方々から、ホスピスの重要性を考えてくださった方々から寄付とか献金を頂いて、それで何とか経営を続けて来たわけですけれども。

 そういう中で、5つぐらいのホスピスが集まって何とかしようということで、厚生省の方に「大切な働きなので少し公的な援助を考えてくれないか」と交渉にまいりました。
 そして1990年に政府が、緩和ケア病棟入院料というのを決めてくれました。当時のお金で、2万5000円ですね。それはケアの如何に関わらず、一人の患者さんが入院されたら、1日、2万5000円の保証をしましょうと、そういう形でスタートしたわけです。アジアのホスピスのいろんなところを見てみますと、それぞれの国状と、国の医療のシステムによって、ホスピスのニュアンスというのは、随分変わります。

 歴史的に言いますと日本の場合は、入院している患者さんに対するケアということからスタートして、現在この集まりのように在宅ホスピス、在宅ケアということを、もっと真剣に考えていかなければならないというところへ今シフトしつつある。これは非常に重要なシフトだと思うのですけれども、スタートは入院ということから始まって、現在は1日、3万8000円っていう定額制が決まっています。随分経営的には楽になりまして、日本の現状では現在87の公認のホスピスがあります。ただ87っていうのは、まだまだ数が少ないと思っていますし、全国にまだ8つホスピスがない県がありますので、当面ホスピスのない県をなくすということが、必要ではないかというふうに思っています。


■よい環境は薬よりも大きな働きがある■

(ゆき)
 ピースハウスは、緩和ケア病棟になっているのですか。

(日野原)
 ピースハウスっていうのは、私が理事長している30年前にできた財団法人です。健康を個人の責任で守るために、医師やナースやその他が、どのように行動しなくちゃならないかっていう、個人と医療従事者に対する両方向の教育の仕方を変えたいということで、私がスタートさせました。これが医学教育、看護教育の刷新及び、セルフケアのやり方と同時に、ホスピスケアをこの研究の対象としました。日本にまだ、独立型のホスピスがなかったので、それを創りたいと思って、1993年に平塚の郊外に創ったんです。

 これは人間が亡くなるときに、このきれいな自然の中に私は生まれたんだっていう、自然に感謝すること。あるいは、神様に感謝する気持ちでこの地球から自分が消失するっていうふうなことが、私は望ましいと思ったので、日本では富士山が見えるところに、そういうものを創りたいなあと、私は感じました。
 私が見ました外国のホスピスは、病院の中でなくて、独立したソンダース先生のセント・クリストファー・ホスピス、あるいはオックスフォードのホスピス、その他でありましたので、日本にそれがないのでやろうと思って、今から8年前に作ったんですが。
 私はケアをするのに、人間のやさしい暖かいケア、薬による症状緩和と同時に、自然の環境が非常に大切だと思うのです。都会の病院では困難だけれども、自然が傍にある日本のようなところで、もっとそういう環境のいいところに作ることがいいと私は思って、ゴルフ場のオーナーに接近をして、2000坪をただで提供してもらうことにしたわけです。20年前に約束して、これを実行したのは約束の20年後でした。

 私は、何でも20年先のことを碁を打つ時に先を読むように「20年後には、ここを使わしてください」って言うと、ゴルフ場もね、始めるばっかしで、うまくいくかどうかは分からないけど、20年先にうまくいったらというふうなことで、寛大になりますので、そこで約束を妥協する。
 それで、それをいよいよそのオーナーがガンで亡くなる直前に、「約束されたように使わしてください」と言って、そしてそれが許可になったわけであります。けれども、わざわざ富士山の見えるところで死にたいという人が、遠くから来られるっていうことは、日本人にとっては富士山さんが霊山のように清い気持ちになる魅力を持っているのではないかと思います。

 聖路加にも緩和ケア病棟がありますが、聖路加で400ミリグラムのモルヒネでも痛みを抑えるのが困難なのが、あの自然環境の中に入ったら、2週間後には10分の1で済んだっていうことですね。それから食欲がないからいろんなお薬を使ってきたのが、向こうに行ったら、食欲の薬なくして食欲がよくなるっていうふうなこともよくあります。
 それから私は、いかに環境が症状緩和にも心の安らぎにも、大きな力を与えるかっていうことを考えるようになりました。病院に緩和ケアを作る場合でも、できるだけよい環境の中で設計をすべきじゃないかと思います。
 淀川キリスト教病院は、一番上にありますからね、上のフロアですね、いろいろ自由に使えるから、見晴らしもいいから、病院なりにそれでいいと思います。聖路加も一番上のフロアを、そうやっているんですが。しかし環境がよいということは、薬でも何を使ってでもできないような大きな働きがあるということを、そしてそのような環境が必要だということを言ったのが、ナイチンゲール。

(ゆき)
 そうですね。本当、女性はみんな立派です。(笑い)ナイチンゲールといい、はい。

(日野原)
 もうね、先のことを読んでるんですね。だから私も、いつも10年先、20年先を読んでいます。20年先って言ったら110歳でしょ。だからそれはちょっと無理かも知れないから10年先ぐらいに短くしようかなって思っています。


■「寝たきり老人」とホスピスケア■

(ゆき)
 お部屋暗くして、スライドにしていただけますか。時間が押してきたので、用意してきたスライドを、サーッと見ていただきたいなあと思います。
 今、20年というふうに伺って、私はせっかちだったと反省しました。『福祉が変わる医療が変わる』(ぶどう社)という本を作って、そこに私が書いた社説の中から70ほどを載せました。そして社説を書いた後、どう変わったかを見ていったのですが、10年つと福祉は結構変わる。ところが、医療は変わらない。それで、がっかりしておりました。これは、千葉敦子が化学療法を受けているときの、自宅での暮らしの風景です。次、お願いします。
 環境が大切と、今おっしゃったのですが、聖路加とはまるで違った雑居部屋で、人生の最後を、死の瞬間を迎える人がおおぜいいるということ、今日集まった方たちに、思いを馳せていただきたいと思って、このスライドを持って来ました。このような人を日本では「寝たきり老人」と読んできましたが、この言葉が、日本だけにしかないということに気がついたのは1985年のことでした。日本だと寝たきりになる方が起きて、住み慣れた家に住んで、訪問看護婦さんやヘルパーさんの助けで暮らしているのです。
 でも、海外のことを紹介しても、「寝たきりになるような老人は、適当にあっちの国じゃ殺されてるんだ、死なされてるんだ」と言われました。このピンチを、救ってくれたのが大阪でありました。これは菊川さんとおっしゃる、このときで72歳ぐらいの「寝たきり老人」と呼ばれていた方です。その方が適切なリハビリテーションを受け、外出を楽しむようになったら、こんなハンサムな方に戻られました。今日のスライドの担当してくださっている、阪南中央病院の村田三郎さんとおっしゃる内科医長さんが、この菊川さんの死を看取られたということでした。
 さらに気の毒なのは、「痴呆性老人」と呼ばれている方たちで、このような姿で死を迎えなければいけない。抑制というような専門用語を使うと、これは五点抑制と言うんだそうですが。さらに肩も縛るのを七点抑制とか業界では言うそうですが。こういうことが日本では展開されているのです。これは大変高い有料老人ホームですが、やっぱり縛られています。または、このように精神病院の痴呆病棟に閉じ込められてしまう。こういう方たちの人生の最後、有終の美についても、ホスピスケア研究会で培ったものを応用していただきたいなと思っています。

 同じように痴呆の方たちが、ヨーロッパ、北ヨーロッパの国々では、日野原さんがおっしゃったような環境の中で、ボケてらっしゃっても、誇りを持って生き生きと暮らしています。でも、海外の実践を紹介しても、大熊由紀子の北欧かぶれって非難されました。きころが、日本の中で、同じようなことを見つけてくださる方たちができてきました。これは「宅老所運動」。「処遇困難痴呆性老人」と呼ばれて、病院では縛られていたような方たちが、安らげる環境とゆったりしたケアの中で、とってもいい顔をしてらっしゃいます。この老婦人とこの宅老所でみんなに看取られました。目をつぶり昏睡のように見えたときも、周りでみんなで彼女の好きな歌を歌いました。
かつて日野原さんが、「人間死ぬ間際になっても、耳は聞こえているのですよ」って言われた、あれがこのごろは、かなり福祉の世界にまで広がってきて、穏やかにこの環境の中で亡くなっていかれました。

 これは、「このゆびとーまれ」という日赤の看護婦さんたちがつくったデイケアハウスです。病院の死、そこでは心電図が止まるまで、みんな患者さんを見ないで、心電計をジーッと見ている。そんな死はおかしい。病状が好転した退院したご老人が、老人病院で縛られている、仮面のような顔をしている。なんとかしなければ。そう考えた3人のナースが退職金でつくったものです。写真のこの方は、重い痴呆の87歳の女性ですが、ここの畳の上で、ナースに添い寝されて、大往生されました。

 これは60年ほど前の、わが家の写真です。この赤ん坊が私、正装して胸をはっているのが山川章太郎という祖父で大腸ガンが肝臓に転移している状態です。この写真を撮った1か月後に亡くなりましたが、いまでいう訪問看護婦さんにあたる大学病院の婦長さんが毎日来てくださる、お弟子の助教授、黒川利雄さんが往診に来る、というわけで、人的環境がととのえば、60年前の日本でもホスピスホームケアは存在しました。でも、それは例外的な幸運でした。
 介護保険が始まった今、ホスピスケアにとっても、新しい1つの時代が始まったと言えるかもしれません。65歳以上であれば、訪問看護婦さんやホームヘルパーさんが「9割引」で提供される新たな時代を迎えています。この年齢制限を引き下げてゆけば、在宅ホスピスケアをだれもがうけられるようになる時代がくるとおもいます。
 では、一言ずつ、お言葉を賜っておしまいにしたいと思います。


■ホスピスケアの将来へ向けて「激しく生きん」■

(柏木)
 私自身ずっと末期ケア、ターミナルケア、ホスピスケアに携わって来まして、今、日野原さんのお話を伺っていて、20年先を見ないといけないなあと思います。その頃は、私は82歳になりますが、まだ大丈夫ですかね?

(日野原)
 私の年まで、まだ8年もあります。(笑い)

(柏木)
 この20年間に、何が必要か、3本柱が必要ではないかというふうに私は思っているんです。
 3本柱の1つ目は、ターミナルを迎える患者さん、それはガンの患者さんだけとは限らないんですけども、そういう患者さんが、きちっとした苦痛のコントロールができて、日野原さんの言われる有終の美を飾れるような専門施設がまだまだ不足しています。専門施設の数を増やすということが、どうしても必要だと思うのです。
 2つ目は、在宅ケアですね。在宅ホスピス、在宅ケアの推進ということを、もっともっと一般の人たちも、それから医療者側も行政も真剣に考える必要があるということ。
 3つ目は、しばらく一般病棟で死を迎える人たちが多くあると思いますので、一般病棟におけるホスピスの心を持ったケア。英語では"hospice minded care"っていう言葉がありますが、一般病棟におけるホスピスの心を持ったケア。この3つが同時進行をうまくしていけば、20年後には、日本でももう少し、有終の美を飾ることができるようなシステムが構築されるのではないかなと、そんなふうに思います。

(ゆき)
 ありがとうございました。

(日野原)
 私から2つのことを、最後に言いたいと思います。
 1つは、シシリー・ソンダース先生が言われたことです。それは、「私は早くホスピスがなくなることを希望する。家庭でも病院でもホスピスケアがされておれば、特に独立したホスピスケアや緩和ケアはいらない。その日が来るまでは、私たちはそれをデモンストレートするためにしなくちゃならない」ということを、それが将来のゴールではないかと、私も考えます。

 もう1つは、日本は家庭で家の設計が畳だから悪いという意味ではなくてね、病人や老人が住む部屋には、お風呂とトイレが専用になくちゃならない。そして外国ではそれが当たり前である。だから日本は半世紀以上、住宅の設計が遅れて、家族が5人でも10人でもご不浄は1か所。そういうふうなところである。それを変えて、住宅には必ずですね、病人か老人のときには、専用のお風呂とシャワーでもいいですが、それとトイレをするように、行政の方法で援助をするっていうこと。そうすれば、もっともっと早く在宅ケアができる。

 アメリカで家庭透析が非常に多いのは、その水回りがちゃんとできているからです。日本の家庭じゃ、家庭の透析というのは、なかなか困難です。そういうふうに福祉の中で、やはり住宅効果を変えなくちゃならないっていうこと。
 そういう新しい法律も作り、援助も受けながらもう少し家庭の環境を良くする必要があると思いますね。この自然の家庭の環境、及びそこに愛する人がいてくれるっていうふうなこと。そういう意味において、日本の住宅の改革を早くして、家庭ケアができるような条件に持っていきたい、それが私の願いです。

(ゆき)
 ありがとうございました。では、私から2つだけお願いです。ここに集まってらっしゃる方たちの多くは、ガンという限られた命についての、温かいホスピスケアについて十分に習熟された方だと思います。それをより広く、痴呆のお年寄りや障害の重い人やら難病やらに広げていただきたい。
 それからもう1つは、半キチガイというふうに自ら言ってらっしゃる柏木さんやら、もう少しキチガイ度が高いんじゃないかなと思われる日野原さんのように、ぜひ皆さん、過激になっていただきたいということです。変えることをおそれず、前例にとらわれず、壁をどんどん打ち壊していっていただきたい。優しいだけじゃなくて、もっと勇気と情熱を迸らせていただきたいなあとお願い致します。

(日野原)
 聖路加看護大学の校歌に、「激しく生きん」っていう校歌があります。私はそういう意味で皆さんにお願いしたいのです。

(ゆき)
 それでは、私も100円の罰金を払わせていただいて、これでお開きに。めったにうかがえない本当にいいお話をありがとうございました。(拍手)

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