永田町・霞ケ関・市民

厚生労働行政の在リ方・提言〜厚生労働行政の在り方に関する懇談会での発言から
2008.8.7 浅野史郎さん

 厚生労働行政の問題点として挙げられていることは、厚生労働省固有のものではありません。私の目から見れば、どの省であっても、程度の差こそあれ、同様の問題点は抱えています。したがって、同様の事件、不祥事などは、別な省で起きても不思議はありません。
 これから申し述べることになるいくつかの提言は、すべての省にあてはまることです。ただ、問題として大きく取り上げられたのが、まず、厚生労働省であったこと、それをチャンスととらえ、霞ヶ関改革のリーダー、モデルとして先鞭をつけたらどうか、そんなことまで考えているところです。
 提言は5点あります。いずれもお金はかかりません。法律改正のような大げさなことは、第2点をのぞいてはありません。そして、この改革はすべての省にもあてはまるものであることも付言しておきます。

 第一点は情報公開の徹底、第二点は地方への権限、財源の移譲、第三点は省内最低限のルールの遵守、第四点は採用の一元化、第五点は天下りの廃止です。

 まず、第一点目の情報公開の徹底です。宮城県知事として、情報公開の重要性を骨身に沁みて体験した立場からは、これなくして、組織の再生はあり得ないと確信しています。情報公開は転ばぬ先の杖、情報公開は組織を救うということを実感しています。
 地方自治体レベルでは、情報公開の本質をわきまえた、必要性の認識はかなり拡がっています。そのきっかけは、食糧費によるカラ懇談会、カラ出張などによる裏金づくりという不祥事の発生です。これらの不祥事が発覚に至る契機として、市民団体による情報公開条例に基づいた情報開示請求があります。それまで闇に包まれていた自治体のありようが、情報公開を通じて明るみに出たのです。

 自治体にとっては、不祥事が明るみに出てからの一連の流れは、恥をさらし、血を流し、カネも返すといった、大変な経験でした。この一連の苦労があったからこそ、情報公開は組織にとっての転ばぬ先の杖であり、むしろ、組織にとって絶対に必要、有用なものであることが、一人ひとりの職員レベルで実感されました。県民にとっても、県庁組織に対する信頼感は、いやがうえにも高まったこともまちがいありません。

 翻って、霞ヶ関における情報公開の実態はどうでしょうか。
 宮城県情報公開条例ができたのが1990年。国の段階で、情報公開法ができたのが2000年です。
 その施行の前後で、ある省の公文書の廃棄量が十数倍になったという日経新聞の記事を記憶しています。
 各省の会議では、会議のメモを取らない、取るとその文書が情報開示請求されることになるから、といったウワサを耳にしたことがあります。嘘かホントかはわかりません。霞ヶ関の各省にとっては、情報公開法といった厄介なものができたと受け止められていて、情報開示を回避する手段にばかり意を用いているのではないかという疑問を禁じえません。
 そこで、提言はこうです。厚生労働省が、霞ヶ関における情報公開を先導する役所になることです。外からの開示請求を待つのではなく、重要事項、国民の関心事項について、役所側から情報の開示を行うということです。

 私がここで言っていることは、実は、恐るべきことであるかもしれません。つまり、開示されたものの中には、役所の不祥事を示唆するものが含まれている可能性があるということです。情報公開は、出したい情報だけ出す広報とは、根本的に意味合いが違います。出したくない情報も出す、素っ裸になって、恥部と言われるところも出すというのが、情報公開の本質です。そこまで徹底してやる覚悟と勇気がなければできないことです。不祥事が表に出て、返り血を浴びる可能性もあるでしょう。しかし、そこまでやってこそ、組織は再生し、その過程において、国民の信頼を取り戻すことができると信じています。

 第二点が地方への権限、財源の移譲です。厚生労働省が行っている事務事業を、地方自治体に移譲する、民間に移管するという観点から、一斉に見直しを行い、それで移譲が適当であると考えられる事務事業を、厚生労働省設置法の項目から削除し、さらに、不要となった補助金を廃止することです。

 今年の5月に出された、国から地方への権限の移譲に関する地方分権改革推進委員会の第一次勧告に対して、厚生労働省からは、ほぼゼロ回答でありました。霞ヶ関の各省の対応も、ゼロ回答だらけであったし、各省横並びという体質から、厚生労働省だけが、地方への権限委譲に同意するという姿勢を取り得なかったことは理解できます。しかし、在り方懇談会が設置された今こそが、横並びを脱し、厚生労働省が地方分権への流れを先導する役割を果たす好機であるととらえるべきです。

 事務事業の地方への移譲を、厚生労働省として、権限の喪失といったように、後ろ向きにとらえるべきではありません。行政内容の複雑化、とりわけ、国際化の進展の中で、国の機関としてなすべき行政は、質、量ともに増してきています。本来、地方自治体に任せておけばいい事務事業を取り込んだままでいることによって、新しい分野、格段に力を入れるべき分野に、人材や財源を振り向けることができないでいるというのが現実ではないでしょうか。

 厚生労働省においても、各種事業の地方自治体への補助金を死守するという姿勢が顕著です。これは「全国一律に」とか、「ダメ自治体に任せては必要な事業が適切に実施されない」という懸念があるからであって、決して、既得権にしがみついている守旧派としての言い分とは理解していません。しかし、補助金分配に多くの時間と精力を費やしている組織の実態は、補助金分配業に埋もれてしまって、省としてやるべきことがおろそかになっているというものであって、そのことに大きな危惧を覚えます。

 目指すべきは、むしろ、攻めの姿勢としての、厚生労働行政の思い切った方向転換です。地方自治体の裁量に任せておけば済む事務事業については、直接行政からは手を引いて、調査・研究、最新事例の提供などの知恵の部分に特化すべきです。そこで浮いた人材、財源を、国際化への対応、高度先進医療の推進、年金、医療保険など国が所掌すべき社会保障の分野など、地方自治体単独では絶対にできない種類の仕事に振り向けていくことが、今こそ求められています。繰り返しますが、決して、撤退ではなくして、前進、攻めの組織改革であることであり、このことは、他の省の組織改革のモデルになるものと確信しています。

 第三点、第四点は、とりあえず、今の時点では、簡単に申し述べたいと思います。

 第三点目のルールの遵守は、ある意味では、あまりにもあたりまえのことで、こういう場でとりあげるべきものかどうか、私自身にも迷いがありました。重箱の隅をつつくようなものですが、重箱の隅にこそ真実はある、神は細部に宿り給うということを、実感として信じている者としては、この際、一言申しておくべきものかと思い直しました。
 重箱の隅が腐っていれば、重箱の真ん中も腐っていると考えるのがあたりまえでないかとか、細部さえ守れない人や組織が、大事なことが守れるものかといったことも、考えました。

 ほんとうに細部のことです。例えば、「始業時間を守る」、「役所の電話で私用の通話はしない」、「居酒屋タクシーは使わない」、そういった類いの事柄、こういう最低限のルールをおろそかにしないで、きっちり守るということが必要です。社会保険庁の事例もそうですが、あれだけ国民に叩かれたのですから、目に見える形で、規則遵守、公務員としての身を正す姿勢を、改めて国民の前に示す必要性を感じるのです。

 付言ですが、宮城県庁では、こういうことは起こりにくいのです。それは、県庁組織や職員のちょっとした不祥事、心得違いがあった場合にも、それが知事の政治的責任として降りかかってくるからです。したがって、知事は、こういうところまで、組織内に統制を行き渡らせることが、自らの政治生命を守る上でも、必須のことと認識せざるを得ません。これが知事によるマネジメントの一例です。厚生労働省に限らず、各省において、大臣がこの種のマネジメントを行使しにくい状況になっているのは、なぜなのか、そのことも、合わせて考え抜くことの必要性は感じています。

 第四点目は、採用の一元化ですが、これは項目だけ挙げるのにとどめます。一種職員の採用は別として、出先機関ごとに採用がなされている実態が残っています。厚生労働省の省としての一体化を考えたら、これは改める必要があるでしょう。

 最後の第五点目は、天下りの廃止ですが、時間がきましたので、これについては、次の機会にのべたいと思います。

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