180度転換する認知症政策 父を支えた小宮山厚労相の意志      大熊 由紀子        国際医療福祉大大学院教授 「私たちは認知症を『何も分からなくなる病気』と考え、認知症の人の訴えを理解しようとするどころか、疎んじたり拘束するなど、不当な扱いをしてきた」 こんな反省の言葉で始まる報告書を、厚生労働省のプロジェクトチーム(キャップ・藤田一枝政務官)がまとめました。 精神科病院への入院をやむなしとしていた従来の認知症政策を180度転換し、「認知症になっても住み慣れた地域の良い環境で暮らし続けられる社会の実現」を目指すことをうたっています。「不適切なケアの流れ」を変えたい、という強い意志が、報告書から感じられます。 報告書にはさまざまなケアのかたちが提案されました。 たとえば、認知症に詳しい看護師や作業療法士、心理士など多くの職種がかかわる 「初期集中支援チーム」。もしや認知症では?」という家族やかかりつけ医の連絡を受けて自宅を訪ね、本人の願う暮らしを続けられるよう、早い段階から支援します。 福井県敦賀市の玉井顯さんたちの「お出かけ専門隊」が、これを実践しています。 「身近型認知症疾患医療センター」は、これまで人里離れた精神科病院付属の施設が多かったことへの反省から生まれました。 診療所などが拠点となり、グループホームや自宅、施設を訪問してケアの方法を伝授したり薬の調整をしたりして、穏やかに過ごせるよう支援します。 いわば「出前型」。千葉県旭市の上野秀樹さんが効果をあげています。 政策転換の意気込みは、言葉の使い方にも表れています。 治療対象を意味する認知症「患者」という言葉は「認知症の人」に改められ、「早期治療」も「早期対応」に。 対応の誤りから来る暴力などを表す「BPSD」という言葉は、医療行為でしか対応できない病気のように受け取られると考えられ、報告書では使われませんでした。 「受け皿」という失礼な言葉も、避けています。 日本の精神科病院のベッド数は諸外国に比べて桁外れに多く、病院の経営者たちは、ベッドを埋めて経営を安定させるために、認知症の人たちを精神病棟に招き入れてきました。 海外から奇異の目で見られてきた、日本独特の状況に、政権交代でようやく風穴があいたのでした。         ◇ 「認知症になっても本人の意思が尊重される社会」が報告書の基本思想です。 それを「認知症のご本人」として初めて社会に向かって発言したのは、東大学長だった加藤一郎さんでした。 1996年に「それが世のためになるのなら」と私がコーディネーターを務めたシンポジウムで体験を話してくださいました。 認知症を公表する人がいなかった時代、それを応援し傍らに寄り添っていたのが、加藤さんの長女で、現在厚労相の小宮山洋子さんでした。 メモ: 医療金融公庫の低利融資と、厚生省の「医師は他科の3分の1、看護婦は3分の2でよい」「辺ぴな土地にたててもよい」という政策によって、精神科病院は1960年代から急増していった。諸外国では「収容主義」を反省、スタッフは患者とともに地域に出た。日本は私立病院が中心で、患者の人生より経営が優先されがちだ。 (2012.6.29        毎日新聞「私の社会保障論」)