読売新聞大阪本社科学部次長 原 昌平さん
◆根強い偏見
偏見とは「誤解に基づく否定的イメージ」と定義できるだろう。そこからエスカレートすると差別意識やいわれなき恐怖感につながると考えられる。
精神疾患、精神障害に対する偏見は、現代日本に存在する多種多様な偏見や社会的差別の中でも、たいへん強烈で、根深いものがある。病気という区分の中で見れば、その度合いは一部の感染症とともに突出している。障害という区分の中で見ても、身体障害・知的障害に対する国民の平均的な意識とはかけ離れた状況にあり、1980年代から本格化したノーマライゼーションに流れの中で、極端に取り残されている。
◆市民の意識はどうか
まず、精神障害に対する偏見の内容と特徴は、具体的にどのようなものだろうか。
まとまった市民意識調査は意外に行われていないが、その中で比較的大規模なものは、全国精神障害者家族会連合会(全家連)が1997年に全国の成人2000人を対象に行った調査であり、次のようなデータが示されている。
※以下、全家連調査(1997)から一部を抽出。数字は%
Q:精神障害者のイメージは?(複数回答)
変わっている37、こわい34、暗い22、気が変わる17、気をつかう16、
敏感13、普通の人と同じ12、まじめ7、にぶい6、やさしい5
Q:出会ったことがあるか?
ある42(本人や家族の相談に乗った18、見舞いや世話をした14) ない57
Q:精神障害者についての知識は?
分裂病:会った12 本やテレビ60 知らない27
うつ病:会った32 本やテレビ49 知らない18
神経症:会った21 本やテレビ61 知らない17
Q:分裂病の原因として大きいのは?(複数回答)
人間関係のつまずき70、神経質な性格49、競争社会34、脳神経の障害32、
体質や遺伝23、幼児期の育て方22、薬物アルコール乱用20
Q:現代社会ではだれでも精神障害者になる可能性がある?
思わない15、わからない33、そう思う52
Q:精神障害者の行動は全く理解できない?
そう思う21、わからない47、そうは思わない31
Q:精神病院が必要なのは精神障害者の多くが乱暴したり興奮して事件を起こすから?
そう思う36、わからない33、そうは思わない31
◆知らないから不安
このデータから読める最大の特徴は、「変わっている」「怖い」「暗い」といったマイナスの総合イメージが上位に並んでいるものの、半数以上の人は精神障害者に直接会った経験がないことである。とくに統合失調症(調査時の名称は精神分裂病)に関する知識をどこから得たかという問いでは、本やテレビが60%、何も知らないが27%で、患者に直接会った人はわずか12%しかいない。
「直接知らない」「知識も足りない」――すなわち「わからないから不安を抱く」という状況がくっきり浮かんでいる。
一般的に様々な偏見は、接点不足・知識不足に起因することが多いのだが、精神障害をめぐる偏見の場合は、特に顕著で、このことが根本問題だといえる。
また「テレビや本」として例示されたメディアの影響力が、少なくとも知識の普及の面でかなり大きいことがわかる。
また、このデータを見る限り、偏見の強い人と一定の理解を示す人は、ほぼ同じ比率で存在する。したがって否定的イメージは決して市民全体を覆っているわけではないことにも留意する必要がある。この点から、偏見は必ずしも強固ではなく、変わりうる可能性があると解釈することも可能だろう。
◆事件の加害者という偏見
もう一つの精神障害者に対する偏見は、接点不足や知識不足から来る漠然とした不安ではなく、より具体的に「事件の加害者」としての否定的イメージだと思われる。
その大部分の原因は、事件報道だと考えられるが、そこに「わけのわからない事件は精神障害のせいに違いない」という市民側の心理も働いて、偏見が形成される。
実際には、精神障害者の犯罪率は高くないし、処罰されないわけでもない。
警察庁の統計によると、2000年に交通事故を除く刑法犯の検挙者約31万人のうち、精神障害者またはその疑いと警察が判断したのは2071人で0・67%であり、15歳以上の人口に占める精神障害者の比率(1・84%)よりかなり低い。ただし殺人は9%、放火は16%で人口比より高いが、この中には一時的な精神障害や、事件後に初めて精神障害が判明したケースが含まれること、暗数となっている未検挙の被疑者の大部分は精神障害者以外と考えられること、なども考慮する必要がある。
また今の比較は検挙者の中に占める比率の比較であって、犯罪率ではない。犯罪率という意味では、精神障害者は全国に200万人もいて、そのうち2000年に交通事故を除く刑法犯で検挙された精神障害者(警察判断、疑いを含む)は、先に述べたように2071人なのだから、比率は0・1%にすぎない。殺人や殺人未遂は132人だから、0.006%である。危険な人が多いとは、とてもいえない。
また法務省によると、精神障害者による殺人は被害者の7割が身内であって、知人や無関係の人の被害は少ない。再犯率も一般よりもずっと低い。一般にイメージされるような通り魔的事件は決して多くないし、現実にも通り魔的事件は、精神障害者以外が起こすケースが相当多いのである。
◆9割不起訴という偏見
以前から続く保安処分論議や、最近の国会で審議された「心神喪失者医療観察法案」のように、精神障害による刑事事件をことさら強調し、精神障害者は事件を起こしても処罰を全く受けていないかのような誤解を作り出す動きも、偏見を作り出している。
法務省の「犯罪白書」にある誤解を招きやすい記述をもとに、「心神喪失・心神耗弱と認定された被疑者の9割は不起訴」という俗論がしばしば語られるが、そもそも、これは全くの間違いである。
すなわち、心神喪失とも心神耗弱とも認定されず、完全責任能力を認定される精神障害者が相当いるのに、これを分母に加えていないからである。
法務省の集計によると、2000年に全国の地検が精神鑑定した被疑者2191人(93%は簡易鑑定)のうち、精神障害と診断されたのは1606人で、検察の処理は正式起訴41%、略式起訴4%、不起訴・起訴猶予54%(うち心神喪失19%、心神耗弱18%)だった。
一方、交通事故を除く刑法犯の全被疑者(約29万人)では正式起訴23%、略式起訴7%、不起訴・起訴猶予22%、家裁送致48%。比べやすくするため少年の家裁送致を分母から除外すると、起訴率は精神障害者46%、全体58%で、大差がない。殺人(未遂を含む)の起訴率も精神障害者50%、全体58%で大差はない。
問題はむしろ、個別の事例に対する警察・検察当局の扱いにある。重大事件なのに精神障害者だから送致しない、起訴すべきケースを安易に不起訴にする、逆に精神障害が重いのに無理に起訴するといった運用にこそ問題がある。
◆偏見を生んだ5つの社会的背景
少々脱線したが、精神障害者への偏見をもたらす原因は、日本の現状を踏まえると、主に5つあると筆者は考えている。それぞれを変えていくことが解消策になるはずである。
1つは、精神科病院への隔離収容主義である。日本の精神科の入院患者は33万人。これは人口比でも絶対数でも、世界一多い。鉄格子のついた病棟に患者を閉じ込めること自体が「危険な存在」という印象を世間に与えてきた。もっと開放的にして、外来中心の地域医療に転換する必要がある。
2つめは、その結果として、精神障害者と一般市民の接点が乏しいことである。このことが「知らないから怖い」という意識に直結している。市民との触れ合いの機会を意識的につくる必要があるし、当事者自身が胸を張って社会に出ていくべきでもある。
3つめは、行政による差別である。精神科病院の医療スタッフ数の基準は一般医療に比べて差別的に少ないし、身体障害や知的障害に比べて福祉は非常に遅れている。欠格条項という法律上の制限もいろいろな分野に残っている。これらを変えないといけない。また、心神喪失者医療観察法案のように、精神障害者への危険視や隔離政策を強める制度を作ることは、差別解消に逆行する行為である。
4つめは、教育だ。精神障害は若い時に起きることが多いのに、今の学校では教わる機会があまりにも少ない。正しい知識を教えることは、自分で心の不調を感じた時に、早く医療機関にかかることにも役立つ。
5つめが、報道のあり方だ。事件報道で偏見を広げる問題だけではない。マスコミに精神障害者が登場するのは、特異な事件と精神病院の不祥事という「こわい話」が多すぎたといえる。もっと、ふだんの精神障害者のくらしや人間像を、できるだけ具体的に伝えることが必要だろう。
以上のような複合的な原因をそれぞれにきちんととらえ、具体的な偏見の解消策を着実に進めていくことが求められる。そのためにも国がきちんと計画を立て、本格的に取り組むことが肝心である。
したがって、改めてメディアに関して整理すれば、偏見をもたらす主たる原因がメディアや事件報道にあるといった極端な見方は誤りだ。しかしながら重要な要因の一つであることは間違いないし、逆に言えば、偏見解消のためにメディアが果たす役割も大きい。
しかもメディアのあり方は国が積極的に関与すべき領域ではないので、メディア自身による自律的な改革とともに、精神障害者や家族、医療福祉関係者、そして一般市民からのメディアに対する働きかけが重要である。
◆メディア内部の意識
では、マスメディア内部における意識状況はどうだろうか。
私が働いてきた新聞社での体験に基づく印象は、端的に言えば「新聞記者も精神障害者のことはろくに知らない、わかっていない」ということである。一般市民とさして知識面でレベルの違いがないといってもよいだろう。そして「知らないから間違える、不適切な報道をしてしまう」ということが、やはり問題の根幹にある。
もう一つの問題点は、精神障害という領域が、報道の中でマイナーなものにとどまっていることである。医療報道の中でさえ、占める割合はまだ比較的小さい。そしてマイナーな領域にとどまるかぎり、全体的な知識レベルも高まらないことになる。
◆記者の初歩的知識の不足
実際、これまでの精神障害者、とりわけ事件にかかわる報道を見ていて、いちばんの問題点は、基本的な知識の不足だと感じている。あまりにも知らない記者やデスクが多いのだ。たとえば統合失調症とはどういう病気か、どんな症状なのか、患者はどんな感じの人たちか、強制入院にはどういう種類があるか、そういう初歩的な理解が乏しいのである。
もっと特殊な分野なら、知らなくても構わない。記者の多くは、にわか勉強を得意としていて、必要があれば短期間で問題点を把握する力はある。わからないことは、どんどん取材すればいい。けれども精神障害のような、報道にしばしば関係してくる分野の知識が、一般市民並みでよいとは思えない。とくに突発的な事件の場合、基本的な知識がないと、にわか勉強のいとまもなく、誤った報道にブレーキをかけて、未然に踏みとどまることもできない。
なぜ知らないのか。先に述べたように学校教育の中で精神保健・精神障害に関する知識は教わらない。そして医療従事者と違い、新聞や放送の記者に専門教育はなく、会社に採用されると、短期間の研修だけで、すぐ取材現場に出てオン・ザ・ジョブで訓練される。それも、いろんな領域をこなすゼネラリストの養成が中心だ。とくに関心を持つか、たまたま担当しないかぎり、まとまった勉強をする機会がないのである。
◆お巡りさんのフィルター
とはいえ新聞記者が精神障害者に抱いているイメージは、一般市民と少し違う面もある。
よく知られているように、記者一年生の仕事はふつう、サツ回り(警察署と地域の話題などの担当)から始まる。刑事訴訟法と刑法の基礎、お巡りさんの階級の見分け方などを先輩の話や本で学び、事件取材の手法や刑事とのつきあい方などを身に付ける。
その際、自然と覚えるのが警察の隠語だ。タタキ(強盗)、サンズイ(汚職)、オフダ(逮捕状)などに続いて、「マル精」(精神障害者)、「ヨゴレ」(野宿者というより浮浪者に近い侮蔑的ニュアンス)といった言葉を耳にする。精神障害の世界にかかわった経験のある新人記者はまれなので、これが第一の接点になる。
警察官は精神障害者とかかわりが深い。地域に住む当事者や家族に触れているからだ。個々の警官がみんな治安的発想とは限らず、親身に家族の相談に乗る人もけっこういるのだが、体系的な教育を受けていないので、医学的知識はほとんどない。
警察が出向くといっても、刑事事件とは限らない。親をどついた、何やら大声で叫んでいる、緊張した目つきでうろうろしてる、といった案件が大部分である。手柄にはならないが、何とかして現場をおさめ、病院へ運ばないといけない。<かわいそうだけど、あぶなっかしくて、対応が難しくて、手間のかかる>人たちである。
「マル精」の呼び名に伴って、漠然とインプットされるのは、そういう、お巡りさんのフィルターを経由したイメージだ。しかも、それは症状が激しい時にばかり接触する人が抱く印象である。
◆電話口のフィルター
第2の接点は、内勤や泊まり勤務の時に受ける電話だろう。読者からの電話は実に様々で、重要な情報提供やまじめな意見がある一方で、理屈の通じにくい人や酔っ払いも多い。それらに交じって、精神障害と思われる人からの電話がけっこうある。
「秘密組織が陰謀を企てているから追及して」「オレの周囲をひそひそ取材するな」「×月×日に大地震が起きるから警告して」などなど。
わざわざ電話してくるのは、妄想・幻聴バリバリの状態の人が多い。だから、これも特定のフィルターがかかっているが、ほかに直接会う機会がないので、イメージ形成に影響する。やはり「わけがわからない人間」という見方が増幅されて記憶に残る。
時には精神病院での虐待など、大事な内容のこともあるが、服薬している患者の多くは副作用でロレツが回りにくいという不利もあり、「どうせ精神病患者の言うことだから」と放置してしまう記者もいる。
◆事件報道のフィルター
第3の接点は事件報道の積み重ねである。たまには精神障害者が関係する殺人、傷害などの事件も起きる。といっても不幸の舞台はたいてい家庭内か病院内だ。それから自殺。かつての新人記者も慣れてくると、職業実務として教え込まれたフィルターが作動する。
「精神障害なら本格的な事件にならない」「社会性が乏しい」「書いてもベタかボツにしかならない」。紙面上の扱いを物差しにものごとを考える。
さらに次のような判断も加わる。
「うっかり詳しく書いて、差別的な記述だと言われたらかなわん。プライバシーの問題もあるし、ややこしいからやめとこう」
確信犯的な差別意識を持つ記者やデスクはあまりいないし、人権に気を配る意識も一定あるのだが、それが前向きの関心には向かない。これを繰り返すうちに、事件に限らず、精神障害という領域そのものを、マイナーな日陰の問題と思うようになる。
たまたま通り魔などの大事件の取材にかかわっても、いったん固まったスタンスは変わりにくい。幻聴や妄想が原因でも、それなりの論理や感情の動きがあるはずだし、他者との関係、医療機関との関係には何らかの問題が潜んでいるはずだが、精神病とわかると、その時点で取材がストップしがちだ。
以上のような経過を経て形成された意識が、精神障害にかかわる報道、とりわけ事件報道のあり方に影響を与えている。
◆コメンテーター選びの悪循環
記者が知らないことは、専門家を探して語らせるという方法はある。通常では理解しにくい大事件があると、社会学者、精神科医、犯罪評論家あたりが引っ張り出される。それ自体は必ずしも間違いではないが、普通の記者は精神医学の状況がわからないから、過去にマスコミによく登場している有名人に頼る。
ところが、そうした精神科医に問題が多い。本人を診ていないのに、病名を断定的に語ったり、動機を決めつけたりするメディア上の「無診察治療」が横行している。しかも「精神障害者の野放しは困る」「犯罪者の脳はもともと異常」などと偏見をふりまくタイプの学者が目立つ。そういう人物ほど電話取材やテレビ出演に簡単に応じるから、また登場機会が増える。
他方、良心的な精神科医は、控えめを美徳と勘違いしている人が多い。取材しても物言いがあまりにも慎重で、コメントへの細かい注文も多いので頼みにくい。
こうした現象も、報道内容のゆがみに輪をかけている。
◆右往左往した池田小事件報道
具体例として、2001年6月に発生した大阪教育大付属池田小学校事件の報道を振り返ってみる。
突発的な大事件で混乱するのは毎度のことだし、ある程度は仕方がないのだが、この事件では、基本的なトーンが右往左往し、その報道自体が社会に混乱を与えてしまった。段階を追って問題点をたどると、次のようになる。
1:小さい子どもの無差別大量殺傷という事件の特異性に加え、容疑者に措置入院歴があったことから、「精神障害による犯行」という短絡的イメージの報道が最初になされた。第一報の強烈な印象は、メディア側の意図は別にして、「精神障害者はこわい」という偏見を広げる作用を持った。
結局のところ、公判ではすべての証人・鑑定人が、被告が精神病であることも、過去に精神病であったことも否定した。「精神障害による犯行ではない」という一審判決が下されることは確実であり、初期の報道は誤った印象を伝えたことになる。
2:直前に精神安定剤を大量に服用したという供述がウソとわかり、かつての精神分裂病の診断も疑問が大きくなった。容疑者の人物像の取材も進む中で、一転して「精神障害ではなく、まるっきりの詐病だった」という方向に走りすぎ、捜査側の願望に引きずられる形でオーバーランした。(容疑者が自分の粗暴な性格に長年悩み、何度も助けを求めていたことは間違いない)
3:事件の様相が大きく変化したのに、それを無視して政府・与党の「触法精神障害者対策」の準備が進められ、まだ検討段階のプランが東京発でたびたび紙面に躍った。あるべき政策を考えるのではなく、権力側の動きのキャッチの早さを競う取材合戦が続いた結果、そうした保安処分的な対策が重要だという雰囲気が作られた。
4:各社の背景取材や企画取材によって、検察の起訴便宜主義の実態、措置入院制度のあやふやさ、精神医療全般の貧困といった根本的な問題提起が、一定なされた。けれども、そうした問題提起も、政府・与党の政策立案に影響を与えるに至らなかった。
5:被害者が子どもという感情面もあって、「刑事責任能力の有無」という捜査側の狭い観点に沿った報道が主流になった。「どうすれば防げたのか」という保健医療システムの検証が肝心なのに、医療関係者の取材拒否もあり、具体的な追跡が不十分だった。
◆初期報道がもたらした影響
そんな報道のあり方は、当事者グループや家族会、医療関係者から強い批判を浴びた。
当事者が受けた影響の一つは「世間の視線が怖くて外出できない」「将来に絶望した」といった、偏見拡大への不安だった。全家連の全国調査では自殺した患者もいたという。アルバイト先の解雇、地域で住むことへの圧迫、社会復帰施設の立地が困難になるなど、偏見による実害も出た。もう一つは「私も事件を起こすのでは」「安定剤を飲み続けて大丈夫か」といった自分の病状や薬の副作用への不安だった。
批判の対象になったのは、早い段階での入通院歴の報道、過去の診断病名の報道、薬の副作用に関連した断片的な報道、「触法対策」に関連づけた報道などである。さきほどの分析でいえば、1の段階にあたる、初日の夕刊、翌日の朝刊あたりの記事と見出しだ。
新聞社の弁護をするならば、容疑者がウソの供述をする、重い精神病を装うといった特殊な事情があった。以前の事件で不起訴−措置入院にしたのが検事と精神科医の判断ミスだったことも、後からわかってきた。メディアだけでなく、医師も警察も検察もだまされたり、間違えたりしていたのである。
新聞に限れば、容疑者の実名を除いて、その時点の取材情報に基づく通常の記事作りから大きく外れていたわけではなく、「結果的誤報」だったといえる。
◆「結果的誤報」で済むか
筆者自身は、1997年に大阪・安田系三病院(大和川病院)の実態暴露に取り組んで以来、精神医療の報道には、患者の人権を守るという立場で力を入れていた。
事件発生日は、たまたま出張で東京にいたので初報にはタッチできず、朝刊に強制入院制度や刑事責任能力の説明を書いた程度だったが、正直に明かすと、重い精神病を装うことは想像外だったし、過去の措置入院はそれなりの病状があったのだろうと思った。薬の副作用は種類がよくわからず、判断がつかなかった。ただし「死刑になりたかった」という供述は、分裂病だとすると違和感があり、「事件の重大性」を理由に実名で詳しい入通院歴を伝えるのも、社内の原則から外れていて妙だと思った。
仮に自分がリードしたら、どれだけ違う紙面になったかと問われると、十分な自信はない。それだけに、何の関係もない精神障害者が二次被害を受けるのはつらいものがあり、偏見の拡大に警告する記事などをいくつか書いた。
とはいえ「結果的誤報」も、迷惑を受ける側から見たら関係ない。その後の記事で軌道修正しても、十分な回復は難しい。
実名か、匿名かといった形式的な問題よりも、どのような内容を伝えるか、という本質的な部分が問われた。これはメディアにとって、かなりハイレベルな要請である。
◆はっきりするまで我慢する
それでは、この種の事件報道はどうすればよいのか。
事件発生から間もない時は当然、把握できる情報、事実が少ない。精神科医の診断自体もあやふやな可能性がある。だから、断片的な事実にどの程度の価値があるか、適切に評価するのは難しい。
「安定剤を大量に飲んだと警察に供述した」「分裂病と過去に診断されたことがある」「入通院を繰り返していた」は、いずれも情報のレベルではなく、事実である。けれども「真実」と合っていなかった。それが池田小事件のケースの問題の核心にあたる。
であれば、たとえ入通院歴や診断歴が事実でも、「関連がはっきりしない段階では、あえて書かない」という手段しかないだろう、と筆者は考えている。
精神障害者団体や全家連などは「犯行と病気の関連がはっきりしない段階で、入通院歴や病名を報道することが偏見を広げている。きちんと調べてからにしてほしい」と訴えている。関連が明確でないのに、あわてて報道したら、とばっちりが大きすぎるというのだ。同時に「関連がわかってきたら、精神障害だからと簡単に済ませないで、なぜ事件に至ったのか、きっちり取材してほしい」とも主張した。
その考え方をベースにするのが妥当だろう、と筆者も考えている。
したがって、少しタイミングが遅れても、その部分の報道は、関連がほぼ確実になるまで我慢する。しかし取材はきちんと続け、真実と判断できた段階で、徹底的に掘り下げる。いわば症状の原因がほぼ診断できるまで、積極治療はしないという考え方である。
当たり前のように聞こえるかも知れないが、これはメディアにとって非常に苦しい選択だ。他社との激しい競争の下で、断片的でも「関連がありそうな事実なら書く」「事実としては間違っていない」という論法で、ぎりぎりの場面をクリアするのが、記事作りの常道だからだ。その事実が真実に迫っていた場合は、書かなかった社は「負け」になる。
これが厳しすぎるなら、せめて、初日の段階を我慢するだけでも、ずいぶん違う。初期報道が持つ規定力はあまりにも大きいので、その段階を耐えれば、結果的誤報で被害を与えるリスクはかなり減るだろう。
なお、精神障害者もすべて実名で報道することが偏見解消につながるという主張が一部にある。精神障害や入通院歴に触れずに実名で報道するなら、それはそれで理解できるが、実名にしたうえで、当初から精神障害をうかがわせる内容を書くのでは、さして効果がない。むしろ犯罪者に加えて精神障害者でもあるという二重の烙印が公表されてしまい、本人の社会的不利益が大きすぎる。
◆踏みとどまるには力量がいる
「事実」の報道でも踏みとどまるという手法は、単に慎重になればできることではない。
どの事実にあいまいさが含まれているのか、どの事実は真実とみなして大丈夫なのか、見極めるには、かなりの専門知識を要求されるからだ。踏みとどまるためには、かえって力量が要求される。
別の世界でたとえると、政府が発表した事実のどこにごまかしがあるか、知識と洞察力のある記者ならチェックできる。しかし力量のない記者は垂れ流してしまうのだ。
そうした知識と洞察力は一朝一夕にはできない。関心と経験の蓄積が必要になる。
記者の場合、職業的責任が重いのだから、もう少し教育研修が必要である。知識が増えれば、興味もわいてくる。病院を訪れるのもいいし、地域で暮らしている精神障害者と接しても従来の印象と違うだろう。
ただ、池田小事件での問題点は、初報だけではない。私自身がイライラをためたのは、むしろ、その後の報道のあり方だった。それは、容疑者自身の心理の変遷や、保健医療システムの問題点の取材に、積極的に取り組む記者が社内に乏しかったことだ。
容疑者の粗暴さ、身勝手さは熱心に暴いても、凶行に至るまでに彼が抱えていた苦悩はなかったか、孤立と絶望感を深めないよう未然に救う機会はなかったか、といった点に関心を深く持つ記者は、予想外に少なかった。
逆に、あんなひどいことをする奴の内面など、考えても意味がない、普通の人間には分かりっこない、と話す若手記者が多いことに、愕然とした。
少年の特異な事件なら、「心の闇」を解明しようと過熱するのに、ずいぶん関心度が違う。人間の心は、ジャーナリストにとって、最も興味深い対象ではないのか。
検察側の鑑定通り、彼が「人格障害」だとすれば、「そもそも人格障害とは」「そのことに本人はどこまで責任があるのか」「刑罰とは」「医療とは」といった根源的な問いにもぶつかるのに…。疑問はいっそうふくらんだ。
結局のところ、個々の記者にジャーナリズム精神がどれだけあるのか、大手マスコミに本来的なジャーナリズム性がどこまであるのかという問題に行き着くのかも知れない。
◆社会問題として報道量を増やす
どうすれば、こうしたメディアの状況が変わるのだろうか。
マスメディアの役割の大きさを考えれば、特異事件での一時的な先陣争いや謎解きに精力を注ぐよりも、重要な社会問題の一つとして、精神障害者の問題を位置づけ、偏見の解消と精神保健・医療・福祉の改善のための報道に取り組むことが何よりも重要である。
とりわけ量的に、この領域の報道を増やすことが大切だ。そうすることで、取材する記者が知識を積み重ねるし、直接、取材にかかわらない記者や編集幹部への教育にもなる。
ここ数年、各新聞社では、医療や社会保障の領域の報道が全般に増え、そうしたテーマを扱うページやセクションも拡充されてきた。それに伴って、精神医療や精神障害者にかかわる記事も少しずつ増え、内容的にも掘り下げられるようになってきた。
「ひどい精神病院の告発」のように、ある種の事件としてとらえる報道だけでなく、社会制度の問題としての報道も、一定なされるようになりつつある。
一般日刊紙に限っていえば、「量を増やせば、質はあとからついてくる、だんだんレベルが上がっていく」と筆者は体験的に考えている。
◆日常の姿と苦しみを伝える
具体的な報道内容の面では、地域で暮らす精神障害者の日常生活、人間としてのリアルな姿をいかに伝えるかが、偏見解消のために非常に大切なテーマだと考える。
先に述べたように、様々な医療の問題点や福祉の貧困などを、社会問題として取り上げ、改革を促すことはたいへん重要だが、それだけでは偏見の解消につながらない。
もちろん知識の普及によって誤解や無知を減らしていく効果はあるのだが、偏見という心理・感情レベルの問題に立ち向かうには、知識と論理だけでは不十分である。受け手の側の心理や感情、すなわち気持ちを動かすことが必要なのだ。
気持ちを動かすのに最も有効なのは、なるべく具体的な「人間の物語」である。このことは、あらゆる差別や偏見一般についていえる。
同じ人間であること、自分と似たような心理や感情を持っていることが感じ取れれば、無用の恐怖心や不安は減少していく。差別される側の苦しみや悩みの体験を、具体的な形で読んだり、見聞きしたりすれば、差別に対する怒りの気持ちが自然にわいてくる。そうした気持ちが、差別や偏見の解消にいちばん効果的である。
これは、異なる立場に身を置きながら観察者として投げかける「同情」とは異なる。同じ立場に身を置いた感覚から生まれる「共感」である。
「踏まれた側の痛み」は「踏んだ側」にはわからない、という主張がかつてあったが、人間はけっしてそのようなものではない。想像力の助けは必要だが、具体的な人間の物語を読んだり、視聴したりすれば、その世界の主人公の気持ちは理解できるし、わが身のように気持ちは動く。良質の文学作品や映像作品は、だからこそ感動をもたらすのである。それはルポルタージュ、ドキュメンタリーといった報道の形でも同様である。
精神障害者には主に6つの不幸があると筆者は考えている。1病気・障害自体による苦しみ、2人間関係がうまくいかない苦しみ、3不適切な医療、4生活の経済的基盤の弱体化、5社会的な差別偏見、6自殺や事件に至る――である。
これらを具体的に実感できるよう、精神病の具体的な内的体験まで含めて、人間の物語を伝えていくこと、人間の「共感力」を揺さぶることが、決定的に重要だと考える。
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