メディアと障害

朝日新聞論説委員(現・東京本社科学医療部次長) 高橋 真理子さん

 日本の障害者をとりまく状況は、1981年の国際障害者年、83年から92年までの「国連・障害者の十年」を経て大きく転換したといわれる。四半世紀前の日本社会には、障害者は「日陰者」であり「社会のお荷物」であるという差別意識が強固にあった。21世紀に入ったいま、少なくともそれは和らいできている。障害者観の転換にメディアが果たした役割を考えてみたい。

使われなくなった差別語

 まず、差別語の問題がある。70年代以前のメディアでは、差別語や差別的な表現が「野放し状態」だった。70年代半ばに、新聞や放送に現れた差別表現に対する抗議・糾弾が相次ぎ、マスコミ各社は重い腰をあげた。いわゆる「禁句言いかえ集」を作り、「めくら」は「目が不自由な人」、「つんぼ」は「耳が不自由な人」というように言い換えるようにした。
 「言葉狩りだ」と反発する声や、「表現の自由の侵害ではないか」と疑問を投げかける声がメディアの内外を問わず出たが、新聞や放送での差別語の使用は確実に減った。
 新聞や放送で使わなければ、社会での使用も減る。とくに若い人の間では、「めくら」や「つんぼ」はもはや馴染みの薄い言葉になりつつある。逆に、当初は不自然と感じた人が少なくなかった「目が不自由な人」「耳が不自由な人」といった表現が、違和感なく受け止められるようになってきた。
 言葉だけを変えても差別は解消されない、という主張はよく聞かれる。しかし、差別の助長につながりやすい言葉とつながりにくい言葉があるという事実は否定できない。
 「禁句言いかえ集」は、単なるトラブル回避の方便に過ぎず、差別問題の本質をかえって見えにくくするものだといった批判もあった。そうした面も確かにあっただろう。だが、結果的に差別語が減ったことは障害者観の転換にプラスの役割を果たした。また、マスコミが言いかえをしているという事実が広く知られること自体が、当人がいやがることを言うべきではないという規範を広めることにもなったのではないか。
 80年代に入り、「障害者年」「障害者の十年」とイベントが続いて障害者という表現は定着した。しかし、障害者という語感は好ましくないという声も少なくない。もっと良い表現を探す努力を続ける必要がある。

パラリンピック報道に見る姿勢転換

 第二に挙げるべきは、伝え方の転換である。朝日新聞を例にパラリンピックの報道を振り返ると、メディアの変わりぶりがよくわかる。
 88年のソウルパラリンピックでは、開幕を伝える記事と柔道95キロ級で斎藤正一さんが優勝したと伝える記事の2本しか本紙に載っていない(本紙とは、○○県版と表示されるページを除いた面を指す。一面や社会面などのほか、スポーツ面も含む)。
 92年のバルセロナパラリンピックは、開幕とパラリンピック史上初のドーピング判明という記事、それに選手団帰国を伝える3本だけ。94年リレハンメル冬季パラリンピックは、選手団の帰国しか伝えていない。
 96年のアトランタパラリンピックで、様相は少し変わった。「きょう開幕」という予告記事が朝刊に出て、その日の夕刊に「開幕した」という記事が続けて載る。水泳の成田真由美さんの記事が「1人で金、銀、銅」「また金」と出る。「金14個獲得して閉幕」という記事まで、計7本が掲載された。さらに閉幕後に成田さんが「ひと」欄に取り上げられた。ただ、閉幕から10日以上たっていた。
 大きく様相が変わったのは、98年の長野パラリンピックである。地元で開かれた冬季五輪の予想以上の盛況を受け、パラリンピック報道も熱を帯びた。冬季五輪が閉幕してからパラリンピックの閉幕まで、何と100本を超える記事が掲載された。しかも、選手名はこのときから呼び捨てになった。それまでは「さん」や「選手」をつけて報道していたのが、五輪選手同様の扱いになったのである。
 00年のシドニーパラリンピックではさらに充実し、軽く200本を超える記事が掲載された。これは、障害者スポーツの先進国オーストラリアの開催で、パラリンピック自体が史上希な盛り上がりを見せたという事情もあった。02年のソルトレークパラリンピックは、60本余りである。
 パラリンピック報道は、98年を境に「障害者の特別な催し」から「スポーツの一種」へと変わった。98年は、乙武洋匡さんが「五体不満足」を出版した年でもある。生まれつき両手両足のない乙武さんのさわやかな半生記は、瞬く間にベストセラーになった。乙武さんはテレビを含めてマスコミにも積極的に登場した。98年は、「日陰者」という障害者にまとわりついていた偏見を打ち破るうえで、大きな意味があった年といえるだろう。
 とはいえ、障害者スポーツをめぐる日本の状況は、パラリンピックの報道ほどには劇的に変わらない。指導者、練習環境、支援体制、資金等々、いずれも不十分な状況が続いている。それを改善しようとすると、厚い壁にぶつかる。
 スポーツに限らない。平成7年版障害者白書が指摘した4つのバリア−物理的バリア、制度のバリア、文化・情報のバリア、意識のバリア−は、相変わらず高くそびえているのが現実だ。「昔に比べればずっと良くなった」という声はよく聞くが、その後に「でも、こういう部分がまだまだ」と続くのが常である。国際比較をしてみても、日本には改善の余地が大幅にある。

メディアの限界と可能性

 さらなる障害者観の転換に向けて、メディアはどれだけの役割を果たせるのか。差別はいけないと書いたり言ったりするのは簡単だ。だが、それだけでは世の中は動いていかないだろう。人々の心の中にある差別意識を打ち壊すには、どうすればよいのか。
 残念ながら、この点ではメディアの限界を感じざるをえない。なぜなら、マスコミであれミニコミであれ、メディアが提供できるのは受け手にとって間接的な体験に過ぎないからだ。
 差別や偏見は、よく知らない人たちを「自分とは別物の集団」と位置づけるところから生まれてくる。その思考の枠組みを変えるには、(見える人は)自分の目で見て、(聞こえる人は)耳で聞いて、自分で触れて、コミュニケーションして、感じるという直接的な体験が一番有効だと思う。
 96年に来日した全盲のスウェーデンの大臣ベンクト氏は「日本では、障害者差別の撤廃にはまず意識改革をというが、これは順序が逆である。障害者が同じ職場で働き、机を並べて学ぶから周囲の意識が変わるのだ」と言っている。その通りだろう。一般に、身近に体験しなければ、課題の存在も問題点も見えてこないものだ。
 むろん、メディア固有の役割があることを否定するつもりはない。とくに、集団の中で力関係が固定し、にっちもさっちも行かなくなっているような状況では、マスコミ報道が力を発揮することが多い。孤立して戦っている人どうしをつなぐ力もマスコミにはある。
 一方、マスコミには偏見をあおる可能性もある。それを十分に自覚し、そうならないように常に気を遣うという重大な責務も忘れてはならない。
 朝日新聞社は89年、「サンゴ損傷事件」を契機として紙面審議会と読者広報室を発足させた。紙面審議会は欧米のオンブズマン制度を参考にした諮問機関で、社外の数人に委員になってもらい、紙面についての意見を定期的に聞いている。読者広報室は、読者の意見や苦情などを受け付け、担当者に伝える組織だ。連日、多数の電話や手紙、メールがここに寄せられている。
 00年には、報道で名誉棄損、プライバシー侵害、差別などの人権問題が生じた場合の救済を図るための「報道と人権委員会」を発足させた。社外の3人が委員となり、苦情のある読者と広報室の間で解決の難しいケース、委員が「重大な人権侵害ではないか」と判断したケースについて随時委員会を開き、審理の結果を公表している。
 マスコミの体制もまた、四半世紀前と比べれば大きく変わってきた。社内の価値観を押しつけるのではなく、社外の人々を巻き込みながらより良い報道を目指すようになった。社会がメディアの変化を促したといえるだろう。社会とメディアは互いに影響を及ぼしあいつつ、ともに変わってきているのである。
 この先のさらなる障害者観の転換は、読者・視聴者とメディアの協同なしには成し遂げられない。少なくともそれだけははっきりしている。
 (了)

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