医療費と医療の質の部屋

日本における在宅医療の実践報告
全国在宅療養支援診療所連絡会事務局長・太田秀樹さん(2009.10.8、東大で)

■変わりもの⇒先見の明■

本日は貴重な機会をいただけましたことを御礼申し上げます。

私が、24 時間365 日対応する在宅医療を始めて18 年ほど経過しております。私の医療理念は何一つ変わっておりませんが、世の中が大きく変わり、同時に私に対する評価も変わりました。

1992年当時は、高齢者の往診医療をする、「変わり者」の医師と烙印をおされ、一般の開業医からは格下に見られがちでした。
ところが、最近は、「君には先見の明」があると、医師の友人の医師たちかからの評価は手のひらを返したようです。
本日このような場で、私が実践してまいりました在宅医療の姿を紹介させていただけるのも、社会がかわった証といえましょう。

■自己紹介、そして、当時の社会的背景■

改めて、私のプロフィールを紹介いたします。
医師免許を手にしたのが、昭和54年(1979年)です。

わが国は、1970年代にはいって、各県一医大構想が具体化してまいりました。人口10万にあたり、150 人の医師を確保する目標が掲げられました。
1970年(S45年)の医科大学・医学部の定員は4500人程度です。医学部教育は6年間ですので、1976年(S51年)にはおおよそ4500人が医師となっています。
その後、大学が新設されるなど、あるいは、入学定員の増員などで、1987年には、約8000人の医師が誕生するにいたりました。
私が医学部を卒業した1979年(昭和54年)というと、まさに医師が増加し始めるころです。将来の医師過剰が予測され、専門性を持たない医師は、医師としての社会的評価が低く、生活もままならなくなると、医学部の教授や、先輩医師からも、助言を受ける毎日でした。これが、日本の開業医の大部分が専門医となってしまった主な理由です。

私は、医師として最も必要とされる基本的医療技術が、死に瀕する命を救うことだと信じていました。そこで、救急蘇生や、ICU などで人の生死に直結した医療を行いたいと考えました。麻酔科で研鑽を重ね、「麻酔科標榜医」を取得しました。
ところが、救急医療や手術だけの患者さんとのかかわりは、彼らの人生から見るとほんの一瞬であることにもどかしさも感じていました。
麻酔科医として自信がついたため、あらためて整形外科教室に入局しました。整形外科の手術妥当性は、10年、20年と生涯かかわらないと判断できないとの教えに、強く影響を受けてのことです。

大学病院で最先端医療をしたいとの思いが強く、大学院に進み脊髄の電気生理学の研究を行いました。
神経の活動は電気現象ですから、脳波が診断に有用であるように、脊髄からの活動電位(action potential)、すなわち脊髄波を臨床に応用する夢をいだき研究に没頭していました。
その後は、脊椎外科医として多数の脊椎手術を手がけ、また、骨・関節の外傷や脊髄損傷の治療を行い、また脊髄損傷の患者との交流も深めました。

■在宅医療をはじめた理由
呼びつけるのではなく、元気な医者が病気の患者のところに動く医療へ■

1990年のことです。車椅子にのった身体障害者の代表が相談にやってきました。
車椅子15台のグループで海外旅行に出かける計画を立てたのですが、旅行代理店はツアー客に万一事故でも生じると責任を取りかねるとの理由で、責任が取れる医師の旅行への添乗をもとめました。
彼らは、運動機能には障害があるが、命にかかわる疾病はありません。医師が添乗することで、海外旅行が可能になるのであればと、大学病院の医局長である立場も利用して医師の派遣を約束しました。
ところが、1991年、アメリカ、カナダへの海外旅行のスケジュールが具体的になると、私が当てにしていた若い整形外科医たちはことごとく障害者との海外旅行への添乗を拒否する始末です。そこで、行きがかり上、私が、彼らと海外旅行に出かけることになりました。

彼らとの旅は、医師としての医療観を大きく変えました。医師患者関係を抜きに、旅の仲間として、旅という非日常を共有すると、患者の本音が聞こえてきます。

彼らは医師など信頼していないのです。「医者は、自分に都合のよい患者しかみない」この言葉には衝撃を受けました。
この経験から、動けない患者を病院に呼びつけるのではなく、元気な医者が病気の患者のところに動く医療、往診医療をやろうと決心しました。

■「機動力ある医療」の原点■

1972年(S47年)田中角栄総理が日中国交を正常化させたときの写真です。当時中国をおとずれた政府の要人たちは、そこで体調を壊し、訪中団には医師が付き添うこととなりました。私の親戚の医師が添乗しておりました。

社会的地位が高く、財力も豊かな権力者たちは、自らの健康管理のために、医師を連れて旅をすることが許されたのです。このように、「必要とされるところに医師が動く」、もっといえば、「医療そのものに機動力を持たせること」で、より質の高い医療の提供が可能となります。救急医療の現場でのドクターヘリも医療が動く具体例だと考えています。

■大熊由紀子氏の『「寝たきり老人」のいる国いない国』■

往診をする在宅医療をやろうと決意した1991 年当時、日本の老人病院では、ねたきり老人たちあふれていました。点滴や栄養チューブにつながれ、オシメをあてられながら、褥創を作り、やがて肺炎で召されるという悲惨な状況です。高齢者でも、1分、1秒長く生かすことが、医療の社会的意義だと信じられていた時代です。

複数の疾患をもつ高齢者は、病気の数だけ専門医である主治医をもちます。高血圧は循環器科専門医、糖尿病は内分泌専門医、肺気腫をみる呼吸器科専門医、膝の変形と痛みは整形外科医、白内障は眼科医と、複数の専門医にかかるのが当たり前になっていました。日本の開業医があまねく専門医となってしまったからです。

さらに、寿命で命を閉じる高齢者までもが、病院での延命治療のはて、召される日本の医療文化が醸成されていました。病院で死ぬことに何ら疑問がないどころか、幸せなことだと受け止められていました。
しかし、私は、回復の期待がない高齢者に、濃厚な医療を行うことには、強い疑問がありました。

骨折の手術は成功したが、患者は肺炎で死亡した。
肺炎は治ったが、廃用症候群で寝たきりとなった。
検査のための入院で認知症が増悪し、その人らしさを失った。

高齢者の病院医療の現場では、このようなことが日常茶飯時でした。医師たちは、病気は治療するが、病人として全人的に捕らえることを忘れ、医学としての科学性を免罪符に、行われた臓器をみる医療への反省は聞かれることがありませんでした。
医療介入の妥当性は、検査データーが基準値に戻ったというような単純な指標ではかるものではありません。QOL をどれほど高めたのかということを、高齢者医療の指標とする地域医療を行いたいと考えました。

■おやま城北クリニック 小さな診療所の大きなサービスを旗印に■

1992年4月、在宅医療を本格的に行おうとおやま城北クリニックを開業しました。療養生活をしっかり支えるために訪問看護を機軸とし、24時間対応するために、内科医のパートナーと二人での開院です。

小さな診療所の大きなサービスを旗印に、往診に力をいれる診療所は、当時の日本では非常に珍しい存在でした。
バブル経済が終わりを告げそうなころでしたが、相変わらず、豪華な建物に、検査設備を充実させた装備の診療所が一般的でした。
しかし、おやま城北クリニックは、設備は超音波診断装置、レントゲン診断装置、心電図だけ。さらに、床面積が、25坪しかない超軽量診療所でした。

患者が少なくとも運営してゆけるようにという配慮から、初期投資額を最小限に抑えました。午前中は外来診療、午後から往診というスタイルです。在宅医療が外来医療のその延長上にあるという信念からです。
いつも外来に通院していた患者が何らかの事情で通院が困難となったとき、いつでも、往診医療を行い、再び元気になれば、また通院していただく。これが、私のイメージする地域医療の姿です。
昨今、往診専門のクリニックが盛んに開業され、在宅医療が病院からの受け皿として認識されている感は否めませんが、私にとっては、往診医療が入院医療の先にあるものではありません。

■医療法人アスムスの紹介■

私ども医療法人は、アスムスといいます。Activity supporting medicine :systematic service.の略称で、活動を支える医療という理念をメッセージとして伝えるために命名しました。
「自宅で安静にしなさい」。「風呂は禁止です」。このように日常生活を制限する医療ではなく、肺疾患の患者が登山をしたいといえば、酸素を準備するなどして自己実現を医療から支えます。
がんの末期患者が入浴したいと願えば、安全な入浴のために、たとえば脱水を予防するために補液を行って入浴してもらったりします。
現在、栃木県栃木市、栃木県小山市、茨城県結城市に3つの在宅療養支援診療所と、訪問看護ステーション、老人保健施設、グループホームなどを運営しています。
介護保険の保険者である行政と連携をしながら、在宅ケアを推進するためには、基礎自治体ごとに診療所があるとよいと考えています。また、地域、地区医師会と協力して地域医療を展開するためにも、大切なことだと思っています。

そして、在宅医療のきわめて重要な要素は、訪問看護との協働です。看護師のいない病院がないように、訪問看護師は在宅医療における主役です。

■在宅医療の対象は■

在宅医療の対象者は、疾病、障害、性別、年齢にかかわらず、機動力ある医療サービスが必要な人すべてです。

@ NICU から地域にもどった経管栄養管理で人工呼吸器を装着した重症小児、
A ALS、筋ジストロフィー、多系統萎縮症など神経・筋難病患者
B 脊髄損傷や脳損傷などの外傷患者、
C 積極的な治療がむずかしくなったがん患者、
D 介護を要する虚弱な高齢者や認知症患者などです。

対象疾患によって、それぞれ、在宅医療を継続してゆくうえで特有な課題があります。

■在宅医療の質
血液検査・尿検査やレントゲン検査・エコー検査など画像診断も、自宅で簡単に■

一般には在宅医療は、病院医療と比較して、その質が低いと考えられがちです。
しかし、認知症を合併していて、治療の意義を理解することが困難だったり、積極的な治療に協力ができなかったりする場合に、住み慣れた自宅で、馴染みのスタッフが在宅で治療を継続するメリットははかりしれません。

がんの末期に、わらをもすがる思いで辛い化学療法に望みをかけ、病院で命を落とす人生も、愛する家族に囲まれた自宅で最後まで暮らす人生も、自由に選択できることが大切です。
在宅では、病院でがんと戦うよりも、免疫力が高まり、病院医師の予後予測より遥かに長く命をつなぐ患者もたくさんいます。

血液検査・尿検査やレントゲン検査・エコー検査など画像診断も、自宅で簡単に行うことができます。大掛かりな手術やMRIなど特殊な検査以外であれば、病院でできる医療は在宅で行うことが可能です。

◆おしめの交換で、無理な力がかかり、骨折してしまいました。
骨が飛び出してしまったので、自宅で処置をしました。
小さな手術であれば、在宅で行えます。

◆認知症の外傷 縫合処置

間質性肺炎で酸素療法を行っている認知症の症例です。
しばしば転倒して、創傷処置を必要とします。
医療施設を受診して処置する場合は、救急車を要請することとなります。さらに、処置後の創の管理のために、しばらく通院、通院が困難なときは入院が必要となるかもしれません。
歩行困難で、認知機能が低下して、酸素療法を行っている要介護患者にとって、在宅で治療が継続できれば、家族の介護負担も軽減させることができます。疲弊した救急医療の現場からみても、救急搬送患者を減らせることは意義あることとなります。

◆骨折 保存的加療 観血的加療

認知症と廃用症候群により、在宅療養中の症例です。
ホームヘルパーがベッドから車椅子に移乗させる際に、誤って右下肢に無理な力をかけたようです。その後、右膝に疼痛と腫脹が出現したため、緊急往診の依頼がありました。
自宅でレントゲンを撮影すると、大たい骨が骨折していることがわかりました。
自宅でのレントゲン撮影でも、診断精度が低下することはありません。
全身状態から、観血的加療(手術療法)は困難と判断し、自宅でギブス外固定を行いました。救急車で病院に搬送した場合は、入院の適応となる症例です。自宅で急性期の治療を行うことで、効率的な医療に貢献することとなります。
認知症の重度な症例にとって、自宅での医療の継続は、本人家族の精神的負担を軽くします。認知症患者の入院は、家族の付き添いが条件とされることが多く、本例のご家族は、過去の入院に付き添った辛い体験をもち、自宅で治療が継続できたことに満足をしていました。さらに、患者も入院によって認知症が増悪することをしばしば経験します。

◆虚弱高齢者 17年 長期化する在宅医療

在宅療養を開始して、17年が経過している症例です。脳血管障害は、急性期にしっかり管理ができ、救命されれば、その後は、肺炎など死にいたる合併症がない限り、長期にわたり障害とともに療養することとなります。全身状態の管理がよければ療養期間は、どんどん長くなります。同時に、介護家族も年を重ねることとなります。

長期在宅療養患者で、死亡により在宅療養が中止となる症例を除くと、介護者の高齢化によって、あるいは、介護者の死亡、疾病罹患など、介護者の問題で在宅療養が中断されています。

長期に在宅療養を継続するためには、介護家族を支援することが重要で、そのためには、介護保険サービスを正しく活用すべきです。ケアマネの力量が問われることとなります。
2000 年に施行された介護保険制度によって、このような長期の在宅療養が可能となっています。
本例は、誤嚥性肺炎を合併し、入院加療を行ったこともありますが、胃瘻を造設してからは、栄養管理が適切に行われ、確実に脱水の予防可能となり、よい状態で療養されています。
一ヶ月に7日から10日ぐらいショートステイを行い、介護家族のレスパイトケアがケアプランに盛り込まれています。病院や施設では、猫と暮らすことはできません。
奥さんの名前はなんと「タマ」です。猫ではありません。

◆看取りを視野にいれた高齢者在宅医療

脳血管障害により、植物状態となった症例です。
類天疱瘡を合併し回復の期待がないと告げられ、家族は在宅で看取りまでも希望し、在宅療養を行いました。
ご主人は高齢ですが、情熱と愛情をもって介護されました。
微熱がでると、訪問看護師に連絡が入り、直ちに訪問します。
「尿量がすくないので、脱水でしょうね。水分の注入量多くしましょう」、あるいは、
「尿が混濁していますね。尿路感染が疑われます。医師と相談して、抗生物質を投与しましょう」、
「むくみがつよく、呼吸音に異常を感じます。心不全かもしれませんので、医師に往診を依頼しましょう」など、
対応方法を身近なところで体験することができます。
患者の状況がいつもと違うということは、毎日熱心に介護する家族のほうが、直感的に感じることが多いものです。そのつど、訪問看護師や医師が丁寧に対応することで、介護者は、いつのまにか看護師と同等、あるいはそれ以上の観察力、診断力を学習することになります。

経験側からもうしあげれば、2ヶ月以上在宅療養が継続できれば、介護家族が、医療的な知識や技術を学び、在宅療養できる環境が整備されていると、在宅医療は、中断されることなく、在宅看取りまで行えることが多いです。
家族に、自宅で介護しようとする気持ちがない場合は、患者の病態が軽くとも、おおむね2週間以内に在宅医療が中止となります。
中止の際の理由は、些細なことが複数あげられます。職場で退所者がでて、パートタイマーの仕事が忙しくなり、最近は持病の腰痛もでてきて、子供が来年受験するからなど、直接的でない、さまざまな理由があがります。
在宅医療導入期は、最初の2週間で家族の介護意欲を推し量ることができて、次の2ヶ月は、介護家族に医療・介護知識、技術の習得が可能か判断できます。

久しぶりに往診に伺ったときに、ちょっとむくみが気になりました。「利尿剤使ってみましょうか」と、 医師の私が提案すると、「いやいや、ちょっと見合わせたいですね」とご主人がおっしゃいます。どっちが医師かわからなくなる。こんな場面も、在宅医療のよさかもしれません。

◆関節リウマチ

ムチランスタイプの関節リウマチです。環軸椎亜脱臼と頭蓋底陥入があり、ベッドを起こすと、陥入した頚椎が延髄を刺激し呼吸困難を生じるほど病態は進行しています。
通院が困難な状況です。主治医で某大学病院の高名なリウマチ科専門医は、患者を診察することなく、家族からの病状説明を頼りに、延々と2年間薬物投与だけを継続していました。
ちょうど介護保険制度が開始された時期です。ケアマネジャーが、2年間入浴していないので入浴の是非に相談に訪れ、この悲惨な状況を知りました。
関節リウマチの炎症は燃え尽きていることが血液検査から判明しました。薬物療法を変更して、栄養管理や脱水の補正を行い、安全に入浴できる体力をつけました。
本例以外にも病状が増悪して、移動が困難となったため、医療機関に受診できなくなり、ただ薬物だけ投与されていることがしばしばあります。薬を飲むことが医療と信じている患者家族がたくさんいるからですが、患者を病院で待つ病院医師の意識にも問題が潜んでいます。

■在宅ホスピスケア■

年間33万人ががんで命を落としています。現在のがん治療は、手術療法、放射線療法、化学療法が主ですが、専門医が治療しても、治療できないがんがあるということです。
ところが、根治に至らないことがわかった時点で、在宅ホスピスケアの選択枝が与えられていません。
その背景には、未だにがんの告知を拒む家族がいますし、わが国では、がん治療の標準化が遅れていることもあり、独善的に化学療法に望みをつなぐ医師もいるからです。
在宅緩和ケアは、施設と比較して、遜色なく行えますが、病院医師からも、患者家族からも、在宅緩和ケアへの信頼が乏しく、さらに、麻薬を使う緩和医療への偏見が残っています。
また、在宅医療移行の時期が非常に遅れています。せっかく在宅にもどって、数日後に命をおとす症例もあとをたちません。
在宅ホスピスケアを法律が保障した、がん対策基本法第二節均てん化の条文に期待しています。

残された時間を家族とともに共有すると、ご家族が大切な人の死を受け入いれることができるのではないでしょうか?
病院での最期と自宅でのそれは、ご家族の反応があまりにも異なります。悲しみは同じであっても、最期までケアできた達成感に包まれている印象を持ちます。
医学的な用語でありませんが、「満足死」という概念を読売新聞社が伝えています。在宅での看取りは、満足死が多いと信じています。

■看取りにいたるまでの療養期間■

がんのホスピスケアは、介護がたいへんだと想像している人が多いですが、実際に在宅医療を行う期間は、3ヶ月程度です。がんでない高齢者などは、2年から3年です。

■居宅系高齢者施設での在宅医療■

身体的には元気で、独居の高齢者も多いですが、彼らが認知症を発症すると、介護支援なしに生活が困難になる時期がきます。グループホームなどのいわゆる共生型の住まいで、新しい家族とともに、新しい家で生活を継続できるように、在宅医療の手法を応用してささえることができます。

高齢者施設での看取りも可能ですが、それには、介護スタッフの終末期医療への理解と協力が必要です。よい終末期の体験が蓄積されると、人の死が恐ろしいものでないことに気がついてくれます。
医師や看護師が訪れたとき、そこは医療の場になりますが、彼らが帰るとそこは、いつもの生活の場となる。これが大切です。

■多職種協働で推進する 歯科医師の協力■

在宅医療の主役は、訪問看護師たちであり、医師と看護師は車の両輪にたとえられています。最近は、口から食べることの意義が見直されています。人間の尊厳に照らし合わせても「食」の重要性が再認識されたといえます。単に生命活動を維持するために食事を摂取するのではありません。食事には、本能的な喜びだけでなく、文化的意義があります。
肺がんの在宅ホスピスケアの症例ですが、好物のスイカを食べるために訪問歯科治療を受けました。
死期が迫っているときですが、幸せそうな笑顔が大変印象的です。
いまや、医師と看護師だけでなく、歯科医師や薬剤師を巻き込んで、在宅医療を四輪駆動で推進する時代となっています。

■医療のパラダイムシフト■

科学技術の目覚しい進歩で、感染症を含めて急性疾患で命を落とすことが少なくなりました。しかし、一方で、救命はされたものの障害とともに暮らさねばならない患者たちが増えています。
治せない疾病は、障害と捕らえることができます。障害は、個人の因子だけでなく、環境因子によって、その程度変わることがWHO によって示されています。すなわち、障害と向き合うが医療が求められ始めました。
パラダイムは、cure からcare へと大きく変わりつつあります。死は医学の敗北ではなく、終末期医療の認識も変わりました。根治医療から、緩和医療(palliation)へ苦痛を除くために医療が必要とされています。
life care とは、命を救い、くらしを支え、人生にかかわることだと思っています。

医療の場は、施設から地域にうつり、医療の根拠もEMBからNBMに変わりつつあります。医療の担い手も、多職種協働となってきました。
平均寿命をはるかに超えた高齢者に当てはめることができる臨床検査の適切な基準値はありません。ヘモグロビン値が私の半分にみたなくとも元気な高齢者がたくさんいます。数値を基準値に戻すための医療で、QOLをそこなう患者がいては本末転倒です。
血圧を基準値にさげてコントロールしたことで活動性が低下したり、厳密な血糖管理をおこなったため認知症が悪化したり、検査のために入院で廃用症候群が増悪したりすることが現実に起こっています。

■臓器から人間に 医師一人から、多職種協働へ、
そして、医療の基本が、EBM からNBM へ■

■在宅医療への国民の期待■

在宅医療を取り上げたTVドラマが人気を集めています。在宅医療が身近になったということです。
在宅医療をとりあげたドキュメンタリー映画も上映されています。
在宅医療は国家の誘導から、国民の期待にかわりつつあると感じます。

■在宅医療は日本の医療改革の入り口■

在宅医療は医療者と患者・家族の信頼関係なしに行うことができません。信頼の絆は良好なコミュニケーションなしに結ばれません。
医師・患者間のコミュニケーションは、日本の医療崩壊を阻止する力となると信じています。
在宅医療は、病院医療に遜色ない良質の医療を過不足なく提供できます。医療の効率化には大きな役割を発揮します。全身状態を安定させることで、急性疾患を予防し、入院医療を回避することもできます。
在宅医療を通して、医療者としてのやりがいと喜びを感じとることができます。在宅医療の提供システムが構築できれば、在宅医療は医師や看護師の犠牲の上になりたつ厄介な医療ではありません。
在宅医療は、日本の医療改革の入り口となり、地域の意識を変えると信じています。

■科学と博愛■

近代医学は、遺伝子を解明し、臓器移植を可能としましたが、人の死を克服したわけではありません。
不老長寿は永遠の課題でしょう。
科学と博愛と題するピカソの習作です。臨終の場面と思われますが、傍らに、宗教家と医者と家族がいます。このような場面が日本から失われました。
死のときまで支える医療が必要であり、高い技術や深い知識より、長くかかわり続けることにこそ医療の崇高な役割があると思っています。
在宅医療の推進を生涯の課題として、今後も精進してゆきたいと存じます。
ご清聴ありがとうございました。このような機会をいただいたことにこころから感謝申し上げます。

▲上に戻る▲

トップページに戻る