医療費と医療の質の部屋

実地医家のための会50周年に思う
創立者 永井友二郎さん

我が国には、伝統的なひとつの医療形態として、古くから開業医という存在があった。この開業医はそれぞれ、地域にとけこみ、家族ぐるみ患者をよく知った家庭医として、病人の生活に結び付いた医療に打ち込み、人間的、総合的医療をはたしてきた。江戸時代の杉田玄白も、本居宣長も江戸、松阪の開業医であった。

その後、明治政府が採用した近代西洋医学は、大学と学会とを中心に発達、普及し、国民の信頼を集め、ひとびとはこの近代医学の進歩が、人類の幸福をもたらすと、期待するようになり、開業医の社会的評価は大変低いものになっていった。

私はこの時期に海軍軍医の生き残りとして、千葉大学の内科で勉強のやりなおしをし、昭和32年に三鷹市で開業医となった。ちょうど、医学の専門化と細分化がすすみ、医用現場では、医師上位,病人からの質問には、早く切り上げる技術が大事と医師の間で言い交されていた時代である。

私の恩師、堂埜前維摩卿教授は、内科は病人の人間を全体としてよくみることが大事であると教えてくれた。
私が開業した昭和32年頃は、多くの病人たちは、大きい病院で医療を受けても、十分な説明が聞けない状況にあった。私が開業したのはこの時期で、当時、開業医は自分のかかりつけの病人たちに、家族ぐるみ、よく話し合い、患者一家の生活の中で、親身な医療をつづけていた。
私は日本の伝統的な開業医の診療の中に、本当の、あるべき医療を見た思いがした。

しかしその当時、日本の開業医は、自分たちの毎日の医療についての研究会も、学会も、もっていなかった。ただ、黙々と毎日の医療にはげんでいた。
このことは、医師たちのあいだで、開業医は不勉強、という評価をまねいただけでなく、病気が始まったばかりの時期の医学の空白もまねいていた。
私は開業して数年、このおおきな矛盾に気づき、開業医が受け持つ領域の医学の開発、そして、病人を人間として、総合的にみる医学の開発がぜひ必要とかんがえるようになった。

それで、昭和38年2月、わたくしは、志を同じくする数人の仲間によびかけ、わが国初めての、全国的な開業医の研究会、「実地医家のための会」を発足させた。50年前のことである。
さいわいに、このよびかけに、大きな全国的な反響があり、その15年目には、学会も必要と、「日本プライマリ・ケア学会」という立派な学会もできるにいたった。

以上のような、わが国の、医療、医学の正しくあるべき方向への地道な活動は、当時の厚生省からも評価され、厚生省がはじめて医事紛争研究班をつくり、医療事故、医事紛争に積極的にとりくみはじめたとき、その研究班の8名の委員ひとりに私、永井が指名され、その縁で、日本の医事法学のうみの親、唄孝一教授と私の親交がうまれ、私は医学、医療の原点に「説明と承諾」を含む医事法学が重要であることを定着させることとなった。

我々はこの、病人中心の人間的医療の基本として重要なものは、医療における言葉だとかんがえている。
近年、プライマリ・ケアという言葉がほぼ定着してきたが、我々は過去50年、言葉を基本的方法論とした病人中心の医療、医事法学もその領域・方法として採用し、あるべき医療をまなんできた。
そしで、我々が最後に到達した結論はつぎのようである。

医学の本道は プライマリ・ケアであり、プライマリ・ケアが医学・医療の大黒柱である。
大学、専門病院における先端医学も大変重要であるが、それらは、プライマリ・ケアという おおきい柱のもとで、適時、適切に、活用されるべきものである。

日本医学会においても、この認識から、日本プライマリ・ケア連合学会を 大事な柱として傘下に入れ、その活動を期待している。日本プライマリ・ケア連合学会は現在、約、7000人の会員、医師、薬剤師、歯科医師、看護師、保健師などで構成されている。

以上のように、 日本開業医の研究会 「実地医家のための会」が発足して50年、わが国に医学医療の本道、大黒柱が確立された。

ゆき注:この間の 永井先生の取り組みの歴史、論文・講演集は、青山ライフ出版から「医学の本道 プライマリ・ケア」 として出版されており、日本のプライマリ・ケアの歴史を概観することができます。
下は、1963年2月に発足した「実地医家のための会」が、9月に出版した機関誌「人間の医学」の創刊号に載った永井先生自筆の「決意表明」。この言葉の大切さがあらためて見直されています。
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