しばらくアメリカに暮らしていると、この国にはいろいろな考え方を持つ人がいることを実感します。たとえば公的健康保険をめぐる議論を見ていても、賛成派と反対派が熱く意見を戦わせています。どちらか片方だけをとってみても、世論としても政治力でも資金面でも大きな勢力なので、これこそアメリカなのかと思ってしまいがちですが、もう片方もそれと同じくらいの力を持っているので、アメリカは云々という時はやはりどちらも見る必要があると思います。
ちなみにそれらは政治思想的に大きく分けると、リバータリアニズム(自由至上主義)とコミュニタリアニズム(共同体主義)などといわれたりします。
リバータリアニズムは、他者の権利を侵害しない限り、各個人の自由を最大限尊重すべきだとする考え方で、レッセ・フェール(自由に任せる)を唱え、経済や社会に対する国家や政府の介入を否定もしくは最小限にすることを主張します。そのために大きな政府は必要ないといい、小さな政府を目指しています。
気をつけていただきたいのですが、リバータリアニズムはリベラリズム(自由主義)とは異なります。リベラリズムも個人の自由を尊重するという立場を指しますが、同時に社会的公正も志向しています。そしてそのための手段として政府による所得の再分配という仕組みを使います。この再配分によって平等が実現され、社会的公正が達成されると考えるからです。よってリベラリズムは大きな政府といわる福祉国家的という要素を持っています。
リバータリアニズムという政治思想が経済の分野で現れたとき、それは市場原理主義という資本主義の究極の形をとります。それはとりもなおさず1990年代ごろからアメリカが推し進めてきた新自由主義(=新保守主義、ネオリベやネオコンなどといわれているもの)に他なりません。昨今の日本の政権も、福祉を切り詰め、市場開放を標榜してきたわけで、かなり新自由主義の影響を受けているといえるでしょう。
またリバータリアニズムは、個人の自由や自己決定を重んじる個人主義とも親和性を持ちます。生命倫理学のテーマとして尊厳死やデザイナー・ベビーやエンハンスメント(身体能力増強)が挙がり、それが自己決定権をめぐる問題として議論されている点は興味深いところです。
一方コミュニタリアニズム(共同体主義)の方は、ひとびとの共同体(コミュニティ)の価値を重んじる政治思想です。コミュニタリアニズムは、リベラリズムや民主主義を否定するものではなく、むしろそうした価値を基礎に持ちながら、リバータリアニズム的思想や新自由主義や個人主義に対抗するものです。ちなみにコミュニタリアニズムは、私的財産の所有を否定するマルクスやエンゲルス流のコミュニズム(共産主義)とは異なります。
コミュニタリアニズムは、1990年代以降の比較的新しい思想ですが、『アメリカの民主主義』でアレクシス・ド・トクヴィル(19世紀のフランスの政治家)が描いた、アメリカ建国当時の自由と平等を掲げる民主主義を源流にしています。人々の関係性が社会を成り立たしめると考える社会学では、こうした価値観こそアメリカを成り立たしめている思想なのだと考えます。そして同時に、近年のアメリカではそれが廃れてきてしまっているのではないかという危惧が表明されています。
たとえばベラーの『心の習慣:アメリカ個人主義のゆくえ』と『善い社会:道徳的制度論のエコロジー』、セネットの『公共性の喪失』、パットナムの『孤独なボーリング:米国コミュニティの崩壊と再生』はどれも社会学では話題になった本で邦訳もされていますが、人と人とのつながりが薄れてゆく現代アメリカが批判的に分析されています。ただしこれらの本では、公共性は確かに廃れていく傾向にあるけれど、そうではないコミュニティ再生の動きも一部にあるので、そこに希望が見出せるのではないか、という見通しにも触れられています。現実世界を見渡してみればコミュニタリアニズムは少し分が悪いかもしれないけれど、思想的には期待すべきものであるというアカデミアの主張を感じます。
いずれにしても、こうしてリバータリアニズムやコミィニタリアニズムというようにカテゴリー化することは、あくまでも混沌とした現実世界を分かりやすく解釈しようとモデルを提示しているに過ぎません。実際には、ふたつに分けることができないようオーバーラップしていたり、それ以外にもさまざまなモデルが立てられることがあるでしょう。実際の社会というのはいうまでもなく、もっと複雑で理解することはなかなか困難なものです。それでも、カテゴリー化することによって見えやすくなることもあるので、気配りしながら活用すればよいと思います。
今回は、同じ障害を持つ子どもでありながら、全く異なる考え方の親や社会環境の下では、全く異なる人生を送ることになるという例として、アシュリー療法とマサチューセッツ住宅改造ローン事業についてご紹介したいと思います。
アシュリーは出生時、特に問題はなかったのですが、精神と身体に重度の障害を持っていました。両親は、彼女を神経学から遺伝学まであらゆる専門医に見せ、伝統的なものから最新の実験的なものまですべての検査をしたのに原因は分かりませんでした。
2004年の初め、アシュリーが6歳半になった時、両親は彼女に思春期の兆候を認めました。両親はこのままアシュリーが大きくなれば、身長が伸び、体重も増して、これまでどおりに自分たちで世話をすることができなくなることを危惧しました。体が大きくなれば、お風呂に入る時、これまでのように浴槽に横たわることはできなくなるし、大きな車椅子を使わなくてはならないとなると、家の中を動き回ることが難しくなってしまうからです。また、女性らしい体つきになれば、性的対象になってしまうということも両親は恐れました。
そこでこうした問題を解決するために、両親はアシュリーの体がこれ以上大きくならないようにすればよい、という答えを出しました。そこでシアトル子ども病院に、子宮と乳房芽を摘出し、エストロゲン(女性ホルモン)を大量に投与して身長の伸びを抑制してほしいと要請しました。子ども病院は倫理委員会の審査を経た後、この「治療」を実行しました。まず子宮摘出と乳房芽の摘出手術が行われ、その後2年半にわたって大量のホルモン投与が行われました。ちなみにすべての「治療」には3万ドル(約300万円)かかったといいますが、すべて保険でカバーされたということです。
治療後のアシュリーは落ち着いた容態で、依然として首は座らず、横になった状態を好みますが、おもちゃを握ったり、テレビを見たり、音楽を聴いたりします。学校にも通っていて、先生や療法士の人たちに注意深く見守られています。両親も、これ以上大きくならないアシュリーを愛情深く世話をしているとのことです。
さらに両親はこの一連の「治療」を「アシュリー療法Ashley Treatment」と名づけ、重度障害を持つ人の生活の質(Quality of Life)を高めるために広めようとしています。
脳性マヒのオースティンは14歳になり、1998年から12年間ずっと住み続けているボストン近郊の自宅に住みにくくなってしまいました。彼は、背が高くなり体重も増えてきたので、電動車椅子を大きなものに変えざるを得なかったのですが、それは家の入り口のドアにつかえてしまいます。シャワーを浴びる時は、風呂場に椅子をおいて座るのですが、それも小さくなってしまいました。台所のドアを開けることや、隣に住む友達を訪ねるのに、それまでは大声で叫んで、誰か手伝ってくれるのを待っていましたが、もう14歳にもなってそんなことをするのは、なんだか気が引けるようになってきました。
かといって、オースティン一家はこの家を捨ててどこかに引っ越すということは考えられませんでした。オースティンはこのコミュニティをよく知っているからです。彼は隣近所をよく知っているし、隣近所も彼のことを知っています。ここでは彼は自由を持っているのです。それに加えて学校もすばらしく、彼にとてもよくしてくれます。
そこでオースティン一家は、数年前に小耳に挟んだことのあるマサチューセッツ住宅改造ローン事業(Massachusetts Home Modification Loan Program)のことを思い出し、申請することにしました。
住宅改造ローン事業は、障害者の住宅改造にかかる費用を無金利あるいは低金利で貸し出しするマサチューセッツ州によるプログラムで、1999年に設立されました(ちなみにこの事業の設立の際には、障害者団体のアドヴォカシシー活動が大きく貢献しています)。2004年の時点で州議会は、今後5年間の間に2500万ドル(約25億円)の基金をあて、年間200世帯に適用することを見込みました。やがて2008年には5000万ドル(約50億円)に基金が増額され、それまでは身体障害者向けのプログラムだったのですが、認知症や発達障害、神経障害、化学物質過敏症の人たちも対象にして、最大で3万ドル(約300万円)まで貸し出すことにしました。
ただし、このローンを受けられるには所得制限があります。4人家族で年収9万ドル(約900万円)以下だと0パーセント金利のローン、年収18万ドル(約1800万)以下だと3パーセント金利のローンとなります。アメリカの国民貧困レベル(NPL)が4人家族で年収2.2万ドル(約220万円)、全世帯の年収中央値が4.4万ドル(約440万円)ということを考え合わせると、よほど裕福な家庭でなければローン事業の対象になることが分かります。
オースティン一家はこのローン事業の適応となり、0パーセント金利のローンを組むことができました。そして風呂場は改造され、ひとつの出入り口が閉じられ、ひとつが新しく作られました。そのほかに二つの出入り口の幅広げられ、自動開閉ドアが設置されました。こうしてオースティン一家は、馴染んだコミュニティの中の住みなれた家をあきらめないですみました。
障害を持つ子どもを、親が自己責任で育てるために自己決定をし、やがて行き着いた方法がアシュリー療法だとしたら、地域社会で育てる可能性を探り、公的に保障してゆこうとするのが住宅改造ローンだといえると思います。前者はリバータリアニズム、後者はコミュニタリアニズムという思想に極めて近いといえます。
もし自分が障害を持つ子どもで、成長してゆくにつれ体が大きくなり、風呂場が手狭になるから、大きな車椅子では移動が困難になるからという理由で、成長を止められてしまったらどう思うでしょう。逆に、成長に合わせて家を作り変えてもらったとしたらどうでしょう。
ここに挙げた二つの例は、医療福祉のあり方における、個人の自由な決定(リバータリアニズム)と共同体の協力(コミュニタリアニズム)との、かなり両極端な例かもしれません。ただ、どちらもアメリカでの出来事であり、そこに住む人々が選び取っている道なのでしょう。私たちは、どういう道を選んでゆくのでしょうか。
近頃マイケル・ムーア監督の9月下旬に公開された新作、『キャピタリズム(資本主義)−ある愛の物語』が、テレビや新聞・雑誌、ネット上などで話題になっています。『シッコ』では、究極の資本主義である市場原理を医療に持ち込んでいるアメリカを痛烈に批判したムーア監督なので、タイトルを見ただけで、こんどはいかに資本主義を料理するのか想像がつきます。ぜひ見てみたいものです。
ふと、社会学を習いたての頃、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を読み、信仰に従って勤勉に働き禁欲的であることが、「意図せざる結果」として合理的な経済活動を支える精神として資本主義を発達させたという分析に、なるほどと思ったことを思い出しました。結果であった資本主義の発達が目的になってしまった時、その先に来るものは何なのでしょうか。