世界ところかわれば
|
『ボストン便り』第12回
ヘルスケア改革と医療専門職
メディケア・メディケイド改革
歴史的なヘルスケア改革法案が先月(2010年3月)に通過して、オバマ大統領による署名がされたアメリカですが、これまでの「ボストン便り」でも何回か触れたように、従来からも一部の人に対しては公的保険がありました。それらは65歳以上の高齢者のためのメディケアと、低所得で医療ニーズの高い人達のためのメディケイドです。今回署名されたヘルスケア改革法では、2020年までにこのメディケイドを大幅に拡大して、1600万人以上の無保険者が新たに保険でカバーされることが見込まれています。
ただ、メディケア・メディケイドの現状を見てみますと、ベビーブーマーの高齢化と景気の悪化によって両者共にニーズが高まり、支出が増加しています。今やメディケア・メディケイドはヘルスケア産業の一大購入者となっています。また、メディケア・メディケイドを担当する当局は4,400人もの従事者を抱え、年間で8000億ドル以上の連邦予算が使われています。
そこでヘルスケア改革の一環として、メディケア・メディケイドの改革が急務となっています。例えばメディケアは、今後10年間で質を落とすことなく、5000億ドル削減されることが要請されています。
バーウィック氏と医療の質向上研究所
それではバーウィック氏とはいったい何者でしょうか。
IHIの目標は、その名の通り医療の質を向上させるというものです。ちなみに「医療の質向上healthcare improvement」という言葉は、いわゆる「患者安全patient safety」のことを一義的に意味すると言われています。つまり、「医療事故medical error/ malpractice」という問題に直面して、それを削減しようということから出発し、「患者安全」のための概念や方法を整備してゆく中で、「医療の質向上」という概念に洗練されていったと考えられています。
医療の質向上のためのキャンペーン
IHIでは、2004年12月に、「10万人の命を救えThe 100,000 Lives Campaign」というキャンペーンを打ち立てました。このキャンペーンは、推計で1年間に1500万件、1日で4万件の医療事故(Medical Injury)がアメリカ国内で起こっている中で、「傷つけることなかれDo No Harm」という基本原理を、全国的に徹底化させてゆこうというものでした。10万人という数字は、1年間に医療事故で亡くなった人の推計からでてきたものです。
このキャンペーンでは6つの行動目標が掲げられました。それらは、以下の通りです。1.チームで迅速に対応すること。2.急性心筋梗塞に対する信頼性のある証拠に基づいたケア提供。3.薬の誤投与防止。4.中心静脈の感染予防。5.周手術期の感染予防。6.人工呼吸器関連の肺炎の防止。すべての病院がこれに真剣に取り組めば、18ヶ月で防げるはずの死(unnecessary death)は10万人になるというのです。キャンペーンは、2005年1月から2006年6月まで実施され、全米で3,100の病院が参加しました。もちろんこれは自主的な取り組みであり、行動目標に掲げられた項目はすべて無償で行われました。
こうした活動の根本にある考え方は、医療事故の原因は個人ではなくシステムの不備であるということ、「人は誰でも間違える To Err is Human」ということでした。医療は高度に複雑なシステムなので、どんなに細心の注意を払っていても、どんなに高い技術を誇っていても、たくさんのほころびが必然的に生じてきます。しかし、どのほころびも自分たちのシステムの一部なのだから、思いがけずに起こってしまった有害事象(medical harm)の事例を知ることで改善してゆこうというのです。
残念ながらこのキャンペーンがどのくらい効果を上げたかという正確な調査はないそうです。ただ、このキャンペーンと関係があるかどうかは定かではありませんが、キャンペーン期間中、123,300人の入院患者が死亡しなかったという推計はあるそうです。この数字は、その他の期間と比べて少ないということです。そして、キャンペーンをしていた時期、明らかに医療事故は少なくなったとも言われています。
個人的には最後に挙げられた、病院幹部の参画(Get Boards on Board)という行動目標は興味深かったです。病院幹部に実際の現場を見てもらったりして問題をよく認識してもらい、当事者意識を持たせることが、安全な医療ケア提供のための組織作りが迅速に行われるために効果的だという発想は、正鵠を射ていると思いました。
医療費の抑制
IHIには、もう一つ別な目標があります。それは医療費を抑えて無駄を減らそうということです。バーウィック氏は、アメリカの医療を「たいした成果を上げないくせに高いだけの狂気の沙汰」と言って、公然と批判してきました。そして低いコストで質の高い医療を提供する思想を広めてきました。
しかしながら、このバーウィック氏の低価格医療思想に対しては批判の声も上がっています。例えばバーウィック氏は、ダートマス研究を「今世紀の最も重要な研究」と評価していますが、これに対する疑問が出されています。ダートマス研究とは、20年にわたってメディケア加入者のデータを用いて、国家、地方、地域市場と同時に個々の病院や提携医について分析し、医療資源とその配分を明らかにしたものです。その結果、医療産業は支払いのいい患者には不必要な検査や治療をして、治療成果に対して高い医療費を請求しているという、「費用対効果」が明らかにされました。しかし、ダートマス研究には、方法論的にも理論的にも基本的な問題をはらんでいるという批判が、ペンシルヴェニア大学教授のリチャード・クーパーなどから指摘されています。
バーウィック氏率いるIHIの出した白書によると、医療の効率性(efficiency)は「質の向上 (Quality Improvement: QI)」を促すもので、ヘルスケア改革の要は無駄をなくして医療費削減をすることだと書かれています。しかし、何が無駄で何が必要かを判断する基準は未だあいまいなままで、必要な医療も削減されることに対する危惧も表明されています。
現状批判と専門家の意見の尊重
アメリカのヘルスケア改革においては、「われわれが持っている医療と、われわれが受けている医療の間には、ギャップというだけでなく大きな断絶がある」という医療研究所(The Institution of Medicine)が2001年に宣言した警鐘を受けて、専門家たちが知恵と技術と組織力を結集しようとしています。バーウィック氏の評価は、先に見たように肯定派だけではありませんし、これほどまでに大きな組織を動かした経験はないのでリーダーシップに関しても疑問視されています。
オバマ大統領は、バーウィック氏のメディケア・メディケイド最高責任者への就任に当たってこう言っています。
その背景には、自己利益ではなくて他者利益(altruism)を追求するという、かつて社会学者のタルコット・パーソンズが医師を典型として専門職(professionals)の条件として掲げた要素を、専門家が備えている必要があると思います。日本の医療専門職は、他者利益(=患者利益)を最優先する職能集団だということが、自己認識されていると共に、社会的に認識されているでしょうか。
(参考) |
|