世界ところかわれば
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『ボストン便り』第14回
アメリカ社会と臓器移植
ルネ・フォックスの『臓器交換社会』
5月29日はハーバードの卒業式でした。世界中から来ている学生の家族が、世界中から集まり、赤のポイントのある黒いガウンを、色とりどりの晴れ着や民族衣装が囲む、華やかな一大イベントでした。
2001年に東京医科歯科大学の招聘で日本に来られたとき以来親しくさせていただいており、ルネ先生の論文「医療専門職における人間の条件」(『生命倫理を見つめて』みすず書房所収)は翻訳もさせていただきました。
臓器移植大国アメリカ
今日に至るまでアメリカは、世界に類を見ない移植大国になっています。例えば日本では、臓器移植法が施行された1997年から2010年1月末までのデータで、脳死からの総移植件数は374件、脳死ドナー数は86人、心臓移植は69件です。アメリカにおける総移植件数は、臓器調達移植ネットワーク(OPTN)によれば1988年から2010年5末までで約48万件に上り、その内の生体ドナーは10万件、死体ドナーは38万件です。アメリカでは医学的にいって脳死も人の死なので、死体ドナーの中に脳死者も含んでいますが、脳死が条件となる心臓移植数だけ見ても累計で5万件です。日本の数字と比べると、アメリカの移植件数はまさしく桁外れです。
アメリカでは既に1988年の時点で、年間1800件近くの心臓移植が行われていて、以後毎年2000件を超える程度で推移しています。他の臓器に関しても、全体的に極端な増減はなく、肺、腎臓、肝臓、膵臓すべての臓器が僅かながら増えているという状況で、小腸だけは少し減っているくらいです。臓器移植は、もはや「通常医療」なのです。
臓器ドナーの死亡状況
臓器ドナーを増やすために、アメリカでは50歳以下の標準的ドナーに加えて、50歳以上の高齢者までドナーになれる範囲を広げました。その結果、病死によるドナーが増えてきました。今日、臓器を提供するドナーの死亡状況で、最も多いのは脳卒中や心血管障害による病死(自然死)で、昨年は3000人を超えています。この病死ドナーの数は顕著に増加傾向にあります。
病死の次に多いのは事故死ですが、これは年々漸減しています。中でも交通事故死は減少傾向ですが、その他の事故(転落や感電など)は増加の傾向にあります。その次に多いのは自殺と殺人です。これらはほぼ年々増えていて、それぞれ700人くらいです。
ちなみにアメリカでは子どもの虐待死自体も多く、2007年には1760人の子どもが虐待によって死亡しています。前回の「ボストン便り」では、子どもをひとりで留守番させただけで、アメリカではネグレクトという虐待と見なされると書きましたが、それは、死に至るほどひどい虐待が数多く行われている現状を改善するために、虐待の定義を厳しくしているのだと解釈されます。
アメリカ小児科学会のポリシー・ステイトメント
アメリカの医学界は、手続きさえきちんとしていれば、死亡した被虐待児の臓器を使うということに対して問題はないという態度を取っているようです。
ただし検屍官の中には、虐待によって死亡した子どもは臓器ドナーになるべきでないと考えている人もいるといいます。しかしながらAAPのステイトメントは、どのような理由で子どもが死んだかということは明らかに不問にして、いかにして死体から「収穫」できる移植臓器を増やすかに焦点が当たっています。昨年1年間だけで105件の虐待で殺された子どもがドナーになっているアメリカ。その数は、日本で1997年からのすべての脳死ドナーの数86件をゆうに超えています。
日弁連の意見書
日本において2010年7月に施行される改正臓器移植法では、本人の意思が不明でも、家族の承諾で臓器提供ができようになります。15歳未満の子どもについても同様、家族の同意だけで移植提供ができるようになります。そしてこの際に、虐待によって死亡した子どもが臓器ドナーとなるのではないかということが危惧されています。
2010年5月に厚生労働省などに提出された日弁連の意見書では「(虐待された)子どもの権利の擁護」ということから、改正法の施行に当たって「被虐待児からの臓器提供がなされる危険性が排除されることを前提とすべきである」と書いてあります。
「命の贈り物」から「命のリサイクル」へ
かつて移植が実験的な段階であったとき、ドナーの臓器は「命の贈り物」(ギフト・オブ・ライフ)といわれていました。それは亡くなる人が、自分の臓器を別のところで生かしてほしいと望み、贈り物として提供していたことを意味しています。少なくともルネ・フォックスが『臓器交換社会』(原題:スペア・パーツ)を書いた1990年代の初めにおいては、臓器がもはや資源となり部品のように扱われているというこのタイトルは、衝撃的であり、アメリカ社会への痛烈な批判や皮肉として捉えられていたでしょう。
ところが今日、アメリカでは、臓器も資源であるという考えは批判や皮肉でもなんでもなくなっているようです。臓器移植の推進キャンペーンのシンボルは、緑色のリボンと資源ゴミを入れる箱によく描いてあるリサイクル・マークです。もはや臓器は「リサイクル」できる資源であるということが、この社会では皮肉でも批判でもなく、当たり前のことになってしまったようです。
ただし、子どもの臓器移植について、社会から批判の声がまったくないわけではありません。この間、長女が読んでいた「Unwind(呪縛からの開放)」というニール・シャスターマン作の本は、近未来が舞台のヤング・アダルト向けの小説ですが、臓器ドナーにされそうになった3人の子どもが、18歳になるまで逃走するという話です。
この3人の子どもは偶然に出会い、自分の意思で臓器提供の可否を決められる18歳になるまでこの社会から逃げるというのです。
文化としての臓器移植
臓器移植には、人々の価値観や道徳観など文化的な要素を色濃く投影されています。アメリカは、臓器移植で救える命であるならば、どのような状況で臓器が提供されることになったのかは問わないで、とにかく救うということを国の方針に立てました。これは、死んだ人/死にゆく人ではなくて、これから生きる人に注目している、とてもプラクティカルなアメリカらしい選択だと思います。
ただアメリカ人と一口に言っても、コーカソイド系(白人)、アフリカ系(黒人)、ヒスパニック系、アジア系によって、臓器提供に関する考え方に違いがあるようです。総人口比で調整した民族別臓器ドナーの割合を比較してみると、従来から一貫してコーカソイド系の死体ドナーの数は多くなっています。アフリカ系やヒスパニック系の死体ドナーの割合はだんだん増えてきており、近年では人口比に近くなっています。一方で、アジア系の死体ドナーは有意に少ないままです。
翻って日本では、特に死にゆく側であるドナーに焦点を当てて、脳死問題を中心にたくさんの議論が重ねられてきました。死生観を含む日本人の価値観に合わせた移植が目指されることは、他の国がやっているからといって拙速に物事を決めることによる危険性を低減させることでしょう。改正移植法の施行を目の前に控えた日本の移植はこれからどのようになってゆくのか。今後も注目していきたいと思います。
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