世界ところかわれば
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『ボストン便り』第9回
アメリカ市場化医療の起源
保健医療政策勉強会
2008年9月にハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェローに着任してから、ボランタリックな活動として保健医療政策研究会(Health Policy Study Group)を主宰しています。
このチャンスを逃す手はないと、それぞれの国の保健医療制度について紹介しあって理解を深めてゆこうという趣旨で、一昨年から研究会を始めたのでした。
年明け最初の勉強会は、歴史学で博士号をとったアメリカ出身のジェシーで、アメリカ医療の歴史について面白い話をしてくれました。
今まで自分の持っていた知識から、アメリカでは19世紀の終わりごろから科学的医療が発展してきて、1930年代ごろに医師の専門職化が進展してきた、ということは知っていましたが、彼の話によると、科学的医療の正統化と医師の専門職化そのものが、巨大資本家の財団の目論見だったというのです。ジェシーの発表に触発され、図書館に走ってゆき、アメリカ医療史に関する本をいくつか紐解いてみると、確かにその話を裏付けるアメリカ医療史のまた別の顔が見えてきました。
アメリカ医療史の別の顔
いくつかのアメリカ医療史の本の中で、なんといっても面白かったのは、リチャード・ブラウンの『ロックフェラーのメディシン・マン:アメリカにおける医療と資本主義』(Rockefeller Medicine Man: Medicine and Capitalism in America)でした。この本の表紙がまた傑作で、アタッシュ・ケースを持って、ネクタイにスーツ姿で聴診器と額帯鏡をつけている、ビジネス・マンならぬメディシン・マンのイラストなのです。しかもこのメディシン・マンがドミノ倒しのように何人も並んでいるのです。
ブラウンは、「どうしてアメリカの医療費はこんなに急速に急騰しているのだろう?」という、今日誰もが感じている疑問を持ちます。
この医療費の高さというのは、アメリカ近代医療の起源に発しているのではないか、とブラウンは考えます。その起源というのは、科学的医療と資本主義です。彼は1910年から1930年代までの史料を駆使して、医療専門職と医療に関して利害関係のある諸集団が、一般社会の人々の健康ニーズに応える訳でなく、自分たちの狭い経済的・社会的利益を守って行くために資本主義に基づく近代的医学を確立してきた歴史を解き明かします。
一般的に近代医療は、医療技術の進展と産業社会の発展の結果として生じてきたといわれています。たしかに、科学技術と産業化が近代社会を作り上げたというのは社会科学(特にScience Technology Studies: STSなど)の定説ですが、ブラウンはこの科学技術決定論に待ったをかけます。そして、科学技術は、純粋にそこにあるというものではなく、技術を保持し、コントロールできる個人や集団が、その技術を他者の利益になることを妨害しつつ、自分たちの利益に合うように利用していて、この技術と社会の相互作用の歴史が今日の姿になって現れているというのです。
「患者中心」医療から「専門職中心」医療へ
アメリカにおいて医師は、現在では専門職の代表として、地位も高くお金持ちというイメージがあります。しかし19世紀末、医師は力もなく富みもなく、地位も低かったといいます。
ところが、1930年代までごろにこの状況は一変します。医師集団が、医学校や教育病院を運営することで、医師になるためのライセンス付与のコントロールを始めたからです。また、医師は、地元の医学会を通して、診療内容や料金を決めたりするようになりました。この青写真を書いたのが、アブラハム・フレクスナーです。
彼はカーネギー財団から資金を得て、医療のあり方に関する有名な報告書、フレクスナー・レポートを1910年に出しました。
近代医療と医療の制度化:医療専門職支配の誕生
もちろん、この変化の素地に科学技術の進展があることは見逃せません。すなわち、近代医療が、それまで治らないとされてきた病気を治癒可能なものにしたという点です。
医療における生産性の向上は、医師の収入と地位と権力の上昇に寄与しました。高い教育と特別な地位を得るようになった医師の給与は上昇し、1929年の時点では、大学の先生の同じくらいの給与をもらうようになりました。しかし、それでもまだ機械工よりは低いというものでありました。
急速な医療技術の拡大の勢いはとどまることを知らず、次々に高度で新しい治療法が開発されました。すると医師たちは、もはや面白みがなくなったり、利益を上げられなくなった仕事を、配下の技師や看護師やコメディカルに下請けとして回していきました。今日のアメリカの多様で多数の医療従事者は、このようにして作られていったということです。
カーネギーとロックフェラーのメディシン・マン
では、どのようにしてそれまでの医療とは異なる科学的医療が医療界を席巻し、科学的医療を統括する医師が支配的地位を得るという構図が出来上がったのでしょうか。誰がアメリカ医師会に、新規参入の医師のコントロールを任せたのでしょうか。
もっとも張本人はロックフェラーやカーネギーではなく、医療を資本家階級に奉仕するものにするため、彼らが資金を提供する財団に雇われた人たちです。すなわち、ロックフェラーのメディシン・マンは、ロックフェラー財団を取り仕切っていたフレデリック・ゲイツ、そしてカーネギー財団のためにレポートを書いた功績を認められ、ゲイツにリクルートされたアブラハム・フレクスナーなのです。
それでは、メディシン・マンたちがアメリカ社会における医療の原型を作り上げてきたとは、どういうことでしょうか。それは端的に言って、生産力の高い労働者を確保するという、資本主義社会において最も重要な目標を実現するために、医療を制度化したということです。
科学的医療の正統化
20世紀の幕開けは、科学技術に支えられた、資本主義の本格的な展開と共に始まり、アメリカの企業資本家階級は科学の力を信じ、科学的医療が診断、予防、治療においてもっとも有力な手段となるという思想を支持しました。そして、医学理論に基づいた医療専門職による科学的医療に、労働者の健康を向上させて生産性を高めること、さらに労働者階級の人々の不平等や短命を克服することさえ期待しました。
ロックフェラーのメディシン・マンとしてゲイツは、医療は資本主義社会に資するべきで、医療専門家は資本主義財源で運営される資本主義大学において再生産され、技術革新を行うことを通して質がコントロールされるべき、と考えてました。そこでゲイツ率いるロックフェラー財団は、科学的医療を実践する医師を育て上げる医学校や医学教育の充実のために、1929年までに一般教育委員会に7800万ドルの寄付をしました。
医学校には、資本家階級の信奉する科学的医療を教え込むというゲイツの思惑を実践するために、大学院レベルの教育を施すフルタイムの医療教育者が置かれました。これは、普段は患者を診ている医師が、自分の経験に基づいたおよそ科学的とはいいがたい教育を片手間に行っていた、かつての教育体制とは異なる新しい医師教育の形でした。この医学教育のモデルをつくったのが、先にも触れたフレクスナーによるレポートなのです。
国家の介入
アメリカでは1910年から1930年代までの間、企業資本家が近代医学に基づくアメリカ医療の基礎を形作ってきました。これは、どれが正統な医療でどれがそうでないかを国家が決めてきた、日本を含めた他の多くの国と大きく異なる特徴でした。
そこで連邦政府は、かつて医療において指導的であった財団の地位を奪いとって、医療を管理下におきました。
おわりに
ブラウンのこの本が出た時、大きな物議をかもしたといいます。というのも、この本で書かれている内容は、偉大な医師の業績や医学の進歩を綴ったこれまでの「医療の正史」とあまりにもかけ離れていたからです。
ブラウンに限らず今日の歴史学は、あらゆる人々の行為は社会、経済、政治、思想からの影響を受けていると考えるといいます。また、知識社会学や構築主義の視座においても、すべての社会的現象は、その世界を生きる人々によって構成されていると考えます。
それでもこの本は、今日のアメリカ医療を見てゆくとき、多くのことを教えてくれます。
追記
まったくの余談ですが、20世紀初頭のロックフェラー財団のフレデリック・ゲイツのアメリカ医療のコントロール戦略は巧みで、医療における資本主義の勝利という成果を挙げてきましたが、21世紀初頭のマイクロソフトのビル・ゲイツは、自らの名を冠した財団を立ち上げて、世界の保健医療のために莫大な資金を投じています。
<参考文献>
Brown, Richard, 1979, Rockefeller Medicine Man: Medicine and Capitalism in America, Berkeley, CA, University of California Press. Starr, Paul, 1982, The Social Transformation of American Medicine, New York, Basic Books. Rothman, 1991, David, Stranger at the Bedside: A History How Law and Bioethics Transformed Medical Decision Making, New York, Basic Books.=酒井忠昭監訳『医療倫理の夜明け』晶文社 川上武、1973、医療と福祉:現代資本主義と人間、東京、勁草書房 川上武 2002、戦後日本病人史、農村漁村文化協会 藤野豊 2003、厚生省の誕生:医療はファシズムをいかに推進したか、京都、かもがわ出版 |
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