11月28日、東京簡裁で一つの調停が成立した。
腸チフスパラチフス予防接種を受け、“治療のかいなく”死んでしまった高校生の両親に、都と区が「200万円を支払う義務があることを認めた」のである。
法律はわれわれ国民に、予防接種の義務を負わせ、理由なく拒否したときは3000円の罰金まで定めているのに、その結果、死んだり不具になってもこれまではほんのわずかな見舞金で泣きねいりするばかりだった。その意味では、この調停は画期的だ。
しかしこれですべてが片づいたわけではない。そのかげにひそんだ医療上の重大な問題を見落とすことはできない。
そのひとつ。今行われている腸パラワクチンは効かないというのが定説になってきているのだ。効きもしない予防接種のために少年は死んだ。こんなことがあっていいのであろうか。
もうひとつ。少年の死の直接の原因はむしろあとで治療にあたった医師の処置のためだったと両親は今も信じている。多くの医学専門書がK医師のとった処置で医療事故が起こる危険を説いており、両親の説をひそかに裏づけた一流の医師もいた。
しかし裁判官の前でそれを証言してくれる医師は、ついに見つけだすことができなかった。その結果、医師の処置については、調停の結論では一切触れられぬままに終わってしまった――。
この少年、中 崇(なか・たかし)君(17)=当時早稲田高等学院二年生・会社重役敬さん長男=が授業中ガタガタふるえ出してうずくまってしまったのは、腸パラ予防接種をうけて約1時間後、昭和40年の6月17日の午後3時だった。
しかし意識ははっきりしていたし、脈も正常だった。ふるえもしばらくしておさまった。39度8分の高熱も、予防接種の責任者のA医師がくれた薬のせいか、次第にさがっていった。
母親の貞子さんが学校からの連絡でかけつけた。彼女は翌夜、少年の若い生命が消えるまでの経過を手記として書きとどめた。K医師のカルテと対照しながら、それをぬきがきしてみよう。
午後8時:やっと38度台になった。A先生は動かしてもよいとおっしゃる。自宅は千葉で遠い。学校の先生のすすめで、学校かかりつけのK整形外科医院に入院することになる。K医師から薬(副ジン皮質ホルモン、ビタミンB1、鎮静催眠剤)をいただく。
午後10時:「どうしてこんなことになったのでしょうね」というと、崇は「僕何でもなかったから注射したのになあ。ついてないよ。あした大事な授業があるのになあ」という。「もうおやすみ」「うん僕腹へったなあ」「店しまってるから、あしたまでがまんしてね」「うんおやすみ」そんな話をしたあと崇はねむる。
翌朝6時:検温。38度3分。きのうよりさがっているが平熱になっていない。
午前7時半朝食。崇は「うちのよりまずいね」といいながらもごはん半分、みそ汁全部、カマボコ、ツクダ煮半分、タクアン1切れをたべる。私は胸がいっぱいでほとんどたべられない。
午前8時半:学院の生徒主任の先生がこられ、「元気になってよかったね」と3人で語りあう。崇も笑い声をあげる。検温。「少しあがってきましたね」と看護婦さん。やがて重体の患者さんが使うのだとばかり思っていた点滴の装置が運びこまれる。フに落ちずたずねると「これはリンゲルブドウ糖です。昨日発汗して水分が不足しているので熱が下がらないのです。これをやるとさっぱりして熱もとれます」とおっしゃる。
午前10時半:崇の右腕の静脈に針を刺して点滴が始まる。400cc入った時、崇は「重い気持ちだ」というので知らせる。紅茶をもってK医師と看護婦さんが入ってくる。気分が重いと申し上げているのにさらにアンプルを切って液をあける。そして「いまリンゲルを500cc追加し、さっきとあわせて1000ccです。紅茶が600ccですから、これで失われた水分が補給できます」と去る。
午前11時半:残りが400ccくらいになった時崇が「少しふるえる」というのでK医師に知らせに急ぐ。一緒に帰ってみると崇はガタガタふるえている。K医師は点滴をとめる。そしてふるえている崇を毛布にくるんでかぶさるようにして抑えている。「崇ちゃん大丈夫」というと腰がいたいという。腰に黄色い液(カルテによると鎮静剤。血圧をさげる副作用がある)注射、「これで楽になるでしょう」という。「崇ちゃんしっかりね」というと「うん、うん、畜生、畜生」とふるえながらいう。
午後零時半:「ずい分熱が出てきました」と扇風機で冷やす。マスクを口のそばにあてる。酸素らしい。つばを吸い取る機械が運ばれてくる。崇ののどから出るつばがピンクに染まっている。
午後1時半:心配になってA医師に電話する。話そうとすると看護婦さんが受話器をとり「すぐきてください。うちの先生がそうもうしています」という。A医師はすぐに来院。K医師と話しながらたてつづけに注射する。そのうちにいつのまにか医師が4人、5人とふえてにぎやかになる。新たに器械(カルテによると蘇生機=そせいき)がもちこまれる。
午後4時:夫が到着する。くわえタバコで注射している医師がいる。雑談したり笑ったり、薬も医師の持ち寄りらしく、説明書を読み読み使っている。「おれ、これ使ったことないからなあ」「へえ、これ使ってるの」「それ、案外いいよ」というような調子である。
午後6時:「のどから血が出てとまらない」といい出す。「耳鼻科なら知っているかもしれない」と電話する。しばらくしてその医師がきてくださるが、すぐ帰ってしまう。のどから吸い取ったものがだんだん真っ赤な血の色になる。
午後7時:学院から若い職員の方と運動部の生徒さんがかけつけてくださる。一人ずつ輸血。
午後9時:足にさわると氷のように冷たい。看護婦さんがゆたんぽであたためる。看護婦さんがまわりを片づけ始める。注射の箱とかアンプルとか。床をふいたりする。心配だと思っているとK医師がやってきて「さあお父さん、お母さん、両方から手をとってやってください」という。びっくりして病室に入り、両方から手をにぎる。冷たい手。もうだめなのかと頭がぼうっとしてしまう。どうしてこんなことになってしまったのだろうと涙がこみあげてくる。酸素吸入のコックンコックンという音だけが響く。やがて、聴診器をあてていたA医師が何やら下をむいていう。死んだのだと思うと胸がいっぱいになって「崇ちゃん」と大声で呼ぶ。午後11時10分であると告げられる。
国にも報告なし
崇君は蝶を集めるのが好きな、まじめな、おとなしい少年だった。1ヶ月後の夏休みには北海道、東北に蝶を求めて旅行するのを楽しみにしていた。しかし“まじめに”予防注射をうけ、“おとなしく”医師の治療に身をゆだねたために、それも果たさずに死んでしまった。両親は死の原因がどうしても知りたかった。
しかし学院の予防注射を管理した練馬区役所と石神井保健所の人が通夜に来、葬式にA医師が香典をおいて何もいわずに去ったあと、区からも医師からも、何の連絡もなく年が暮れた。
年を越した翌年の1月、突然見知らぬ人から長距離電話がかかった。新潟県に住むこの人、Sさんは、7年前、息子をインフルエンザの予防注射がもとでなくした。それ以来、毎年一回かならず上京し、たった一人で予防注射反対運動をしていた。
「その後どうなりました。私の経験ではそのままにしておいたら役所や医師は何もしないにきまっています。私がご案内しましょう」。
約束通りSさんは上京した。貞子さんは一緒に厚生省へ行ってみた。半年もたっているのに厚生省には事故の報告はとどいていなかった。
それだけではない。厚生省で知らされたのは、腸パラ予防接種で死んだ人が、この制度が始まった昭和22年から20年たらずの間に約50人もいるという事実だった。その上腸チフスもパラチフスも病気そのものが激減してきている。
「腸チフスそのものはいまは抗生物質でよくなおる。予防接種をもうやめることも検討中なのです」と担当の技官は話した。
<この当時はまだ出ていなかったが、ことし(注・1967年)3月15日、厚生大臣の諮問機関である伝染病予防調査会の腸チフス予防接種小委員会(福見秀雄委員長)は「腸パラ定期予防接種を廃止すること」と結論を出している>
やはり問題な輸液
4月、中さん夫妻は、旅河正美、遠藤誠両弁護士と知りあった。6月、貞子さんは二人と一緒に区役所、警察、A医師をたずねた。
みんな、少年の死を忘れかけていた。区医師会と保健所、区長でつくっている事故調査会では医師たちには全く過失なしと結論を出していた。
A医師はいった。「あの件は都の医師会に報告しておきました。すでにカタづいたときいています」。区役所では、K医師から崇君の「治療費10万円也」が都に請求され、支払われていることを知るとともに、K医師のカルテを手に入れることができた。
遠藤弁護士の紹介で中さん夫妻は内科、外科2人の医師を知った。2人とも一流の医学者として名の通った人である。カルテを見た二人の医師の口からおそろしい事実が知らされた。崇君の直接の死因は予防接種というより、むしろ、リンゲル液の輸液で肺水腫(しゅ)をおこしたため、というのである。貞子さんがシロウトなりに予想していた通りだった。
2人の医師がK医師の過失と判断した理由は次の五つである。
(1)輸液は重症の病気をしばしば救うが、血圧低下、急性肺水腫、急死をも引き起こす危険がある。従って、しなくてもすむのにやたらに輸液をやるのは本道ではない、というのは医師の常識。崇君の場合、十分口から水をのめるのに、いったいなぜK医師は危険をはらんで輸液をやったのか。
(2)輸液が必要な症状かどうか診断するのに必要な検査はほとんどやっていない。
(3)輸液のスピードが速すぎると、からだが水をうけ入れきれず、肺が水びたしになって肺水腫をおこすというのが医師の常識なのに、カルテでみるかぎり、明らかに“スピード違反”である。
(4)カルテでみると、明らかに肺水腫の症状をおこしているのに、適切な手当をせず、その後も4000cc近い水分をからだに押しこんでいる。
(5)近くに大病院もあるのに、早めにそこに送ることもせず、専門医も呼ばなかった。
厚い医療訴訟の壁
予防注射だけだったら崇君は死ななかったかもしれない。現に、同じ日に発熱した級友5人は、安静と解熱剤だけで3日後には健康をとりもどしたのだから。
ことしの1月、中さん夫妻は東京簡裁に、息子をうばわれた損害賠償請求申立書を提出した。相手方はK医師と予防接種をしたB医師、予防接種を監督したA医師、この仕事を委託した練馬区、東京都。金額はうべかりし利益と慰謝料をあわせた882万円余。
8回目の調停で都庁から200万円という数字が提出された。しかし、医師たちについて今後訴訟をおこさないという条件つきである。
夫妻は考えた。地方自治体しか責任をとらないのは何としても納得できない。
しかしもしこれを蹴って訴訟をおこしたら――全国の有名教授がK医師の弁護に立って自分達が調べたことをみんな、上手に反ばくしてしまうだろう。下調査の過程で、どの医師も正式には自分たちの側に立って発言してくれないということを痛いほど知らされていた。そんな状態で法廷に立ったら、「泣き出してしまうにきまっている」。奇跡的に勝ったとしても、控訴、上告と10年がかりの裁判になるのは目に見えていた。
しかし、もしここで調停を成立させれば――「予防注射の死に都が200万円払った」という事実が残る。あとに続く人のためにもなる。「もとはといえば死因をつきとめるために始めたこと。その仕事はもう終わったともいえるのだから…」と夫妻はつぶやいた。
そして激しくいった。「私はお医者さんというのは人間的にわれわれより上だと思っていました。しかし裏切られました。誠心誠意がないなら、せめてプロ意識に徹してほしかった。そしてまた知りました。いかに日常的にはいい先生でも、イザという時、正義感を貫ける人はいないということを…」
都医師会長、医事紛争処理特別委員会長、都予防注射事故調査会長の肩書をもつ渡辺真吾氏は崇君の問題に、医師会側責任者としてこういった。「予防接種の事故について地方自治体や国が責任をもつのはよいことだ。事故がおこるたびに医師にとばっちりがくるようでは、われわれとしても、とても都に協力できないからだ。輸液がどうのこうのというようなことをシロウトに批判してもらいたくない。医師が言ったのだとすれば軽率だと思う。そういうことは、医者の間だけでいうべきことだ。結果が家族の方に不満足だったとしても医師は善意にもとづいて、誠心誠意やっているのだから」。