医療事故から学ぶ部屋
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隈本 邦彦さん
医療被害者の夫が言葉につまったその理由は?
2009年4月、医療安全調査委員会早期設置を求めて福岡市で開かれたシンポジウム.そこに出席していた私は、パネリストとして登壇した永井裕之さんの"ある発言"を聞いて,とても感銘を受けました.
広尾病院に入院中だった悦子さんは,点滴のへパリンロックの際にヘパリン加生理食塩液(以下へパリン生食)と消毒薬を取り違えられたために亡くなりました.ちょうどその1か月前に起きた「横浜市立大学病院患者取り違え事故」とともに,日本の医療事故の現状が多くの国民に知られるきっかけとなった大きな事故でした.
最愛の妻を亡くした医療事故から10年余.この日のシンポジウムで永井さんは「医師たちは『永井さん,いまは10年前とすっかり変わりましたよ』というけれども,いったいどこが変わったのか.全国でどれだけ医療事故が起きているのか、その件数さえ明らかになっておらず,医療界が再発防止にまじめに取り組んでいるとは思えない」と発言しました.
事故にかかわった2人と被害者の夫とのその後
「妻の事故には2人の看護師がかかわっていました.へパリン生食の注射器と消毒薬の注射器をとりちがえて妻の床頭台に置いたA看護師,それに気づかず点滴ラインに注入してしまったB看護師の2人です.この2人は毎年2月11日の妻の命日には必ず花を贈ってくれるのです.事故から10年経った今年も贈ってくれました.
2人の看護師は,事故後,業務上過失致死罪で起訴され,有罪が確定したのち東京都職員を辞めさせられました.この事故の発生の背景(発生誘因)として,この病院では,@消毒薬をヘパリン生食と同じ色の注射器で計量することが認められていたこと,A患者別に薬をまとめた専用トレイを使っていなかったことなど数々の安全管理システム上の問題点が指摘されました.
「私はこの2人がどうなるのかとても気がかりだったのです.でも2人ともいまは結婚されて,子どもさんもできて,穏やかに暮らしているそうです.それが私にとっては救いです」
永井さんはなぜ2人を許せたのか
シンポジウムのあと東京に戻った私は,永井さんにくわしい話を聞く時間をつくってもらいました.
「2人が真実を語っている,心から謝っている,と永井さんが感じた,何か決め手の言葉とかあったのですか?」
ところが病院は,当初その事実を永井さんら遺族には伝えませんでした.そしてその後も,なかなか事故であることを認めず,解剖結果が出たあとも「事故の可能性は高いが病死の可能性もある」などと述べていました.
医療事故再発防止は「正直文化」の定着から
「結局、医療安全調査委員会の設置を含め、医療事故の調査・再発防止の問題は,日本の医療に正直文化を根づかせることができるかどうか、という問題なのです.もし医療者が,起きたことを正直に話してくれて,謝罪してくれて,再発防止策をちゃんとはかってくれたら,遺族は裁判なんて起こす必要はないのだから」と永井さんは言います.
いま日本国内で医療事故による死者が何人出ているのか,厚生労働科学研究をもとにした試算では,年間2万4,000人にのぼるとも指摘されています(拙著「医療・看護事故の真実と教訓」ライフサポート社参照).
永井さんは,毎年2月に花が贈られてくるとすぐにお礼の電話をして近況を聞き,そして夏が来ると生まれ故郷長野の名産の桃をお礼に贈るのだそうです.今年もおいしい桃をありがとうございました,と書かれたB看護師からの礼状を,うれしそうに私に見せてくれました.
隈本 邦彦(くまもと くにひこ)さん
※医療安全調査委員会 (月刊ナーシング2009年11月号「ニュースでわかる日本の医療」より) |
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