えにしの本のエッセンス

安全・ネット・医師
村上 陽一郎さん

医療の安全を巡る問題は、筆者が「安全学」という領域を探し当てるきっかけを造ったもので、永年の関心事である。一つには、医師やその周辺の関係者に、品質管理や、システムの立場から安全に取り組む発想が、過去に極めて乏しかったからだ。

80年代初め、ある医学者の集まりで、医療の品質管理という言葉を使ったとたんに、激しい反発が起こったことはいまだに忘れられない。あるいは、システムの立場からの安全対策として、フール・プルーフの必要性を説いたときに、ある医師はいみじくも、「我々はフールではないから、その概念は医療にはなじまない」と言い放った。86年のことだった。

現在事態は急速に改善されつつある。まともな医療機関は、ほとんどすべて安全管理室、あるいは類似の組織を具え、「インシデント・アクシデント・リポート」(ひやり・はっと体験申告)の制度も立ち上げてきた。日本医療機能評価機構も、安全に関る情報収集とその共有化に努力を重ねるようになった。もとより、制度ができても、医療界が本気で取り組む機運を造り出し、あるいはそのための人材の養成や確保に努力を重ねなければ、画餅に過ぎないが。

航空機業界では、過誤や事故、あるいは不都合が起こったとき、民事はともかく、当事者の責任を刑事的に追及することよりも、第三者機関の調査によって、起こったことの詳細を正確に把握し、将来同じような状況を防止できるよう、システム上の対策を立てることに活用すべきだ、という考え方が国際司法の間で定着しつつある。それを教訓に、医療界でも、第三者調査機関の可能性も検討されるようになった。それにも医師側からの反発が大きくて、なかなか実現されない状況にあるにしても、問題意識は明らかに改善されつつある。
またADR(訴訟外紛争処理)という論点も、浮上してきている。そうした方向をすべての当事者が確認し、実効あるものにするに際して、過渡期的に、過誤が刑事として問題化されることも、止むを得ない側面もある。航空機業界の歴史でも、そうであった。

そういう状況にあって、医療界に実際にいくつかの刑事事件が生まれた。それらが刑事に当たるかどうか、当然議論のあるものもある。裁判上は無罪になった事例もあるから、なおさらだろう。しかし、ここで問題にしたい論点は、そうした事件に関る人々(被害者、報道者、支持者、検察など)に対して、ネット上で、医師(とおぼしき人々)が、想像を絶する罵詈雑言を浴びせかけている、という事実だ。

鳥集徹氏の『ネットで暴走する医師たち』(WAVE出版)は、その有様を克明に伝えてくれる。
被害者の訴えに同情的な発言をした医師へ「U(実名)は日本のすべての医師の敵」、「U(同じく実名)は死刑に値する気違いだったか」、「U(同じく実名)とその家族を皆殺しにする勇者募集中」などの言辞が浴びせかけられる。
被害者やその家族が問題人物であるということを示す虚報を垂れ流す。

「フールでない」はずの、人一倍理性ある知識人であるはずの医師たちから発せられる言辞とは、およそ信じられないほどだ。
勿論こうした言辞を弄する医師は、数から言えば極く僅かだろう。苦々しく思う医師も多いと信じたい。
しかし一般に、暗黙の支持が広がっていることも、鳥集氏は見逃していない。医師たちにすれば、黙って批判に晒されるしかない立場にある自分たちの鬱屈が暴発しているのだ、と言うのだろう。しかし、どう弁護しても、上のような言動が正当化される余地はない。

同時に、しかしネットという媒体がなかったら、いくら鬱屈した医師たちでも、こんな酷い言動はしないだろう。そう考えると、ここにはネットという媒体の持つ問題点も浮かび上がってくる。
ネットのある種のサイトは、便所の落書きと同じだと割り切るのが至当なのだろうか。だが、ネット(の一部)が、単なる公衆便所の壁と割り切るほかはないのだとしたら、ネットなるものが、人間性のなかに隠されている、最も醜悪な側面を極端に助長する役割があるものだとしたら、権力が乗り出す前に、自発的な管理を強化することが強く望まれる。

(共同通信の書評より)

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