優しき挑戦者(国内篇)

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 聖路加国際病院名誉院長、聖路加看護大学名誉学長の日野原重明さんは、「お年よりの希望の星」として目下、引っ張りだこです。
 お気に入りのドビュッシーのピアノ曲を弾いて楽しみ、作曲をし、ミュージカル脚本『葉っぱのフレディ』まで書いてしまうという多彩ぶりに加え、診療以外に国内外の講演やシンポジウムにひっぱりだこ。スケジュール帳は、3年先まで書き込めるものだそうです。
 月に3日は徹夜で原稿を書き、236冊目の著書、『生き方上手』は、『人生百年・私の工夫』とともに全国の書店でベストセラーを更新中です。

 2000年に立ち上げた「新老人運動」も、メディアに話題を提供し続けています。「会報や講演会・インターネットで体験を語る」「詩歌・絵などの作品発表の場を作り磨き合う」「元気、長寿の秘密を解き明かすために生活習慣と健康診断のデータを提供する」を3本柱に、「老人にもまだまだ出番と能力はある」と75歳以上の人々に呼びかけたところ、1万円の会費をものともせず、会員が増え続けています。

 冴えているのは頭脳だけではありません。この2002年10月91歳を迎えた身だというのに、書物がぎっしり詰まった10キロものカバンを両手に持ってサッサッと歩きます。追いつくのが大変です。飛行場の動く歩道に乗らず、乗っている人たちを追い越すのが無上の楽しみだそうです。階段も一段ずつ飛ばして駆け上がります。

■医療界のタブーに次々と■

 でも、長年、医療と福祉の世界を追ってきた私からみると、これは、日野原さんのごくごく一面に過ぎません。凄いのは、過激さを笑顔に包み、タブーに次々と挑戦してきたことです。

 たとえば、20年ほど前、私が「名医が答える健康バイブル」というインタビューシリーズを担当していたときのこと、日野原さんは、ズバリこう、断言しました。
 「医師が高血圧と診断して薬を飲ませている人の3分の1は『薬で体を悪くされている人』、次の3分の1は『薬不要の人』、残りが『薬を飲む必要があるかもしれない人』です」
 いまでこそ、少なからぬ専門家が口にすることですが、当時は、こんなことをいう勇気のある人はいなかったのです。

 日野原さんのタブーへの挑戦で特筆すべきは、「患者が参画する医療」に道を開いたことです。
 家庭で血圧を測るのはいまでは当たり前になっていますが、かつては医師の専売特許でした。
 血圧を測るのに不可欠だった聴診器が医者のものとされていたからです。看護婦や保健婦でさえ血圧を測ることができなかったのです。
 ところが、医師が測ると170もあって降圧剤を飲んでいた患者が、家で測ると110くらいしかなく、薬を飲む必要がないという例がいくつもありました。血圧を自己測定できれば、自分の体をよく知り、健康の自主管理ができるようになると考えた日野原さんは、「医者よ、聴診器を手放そう。国民は血圧を自分で測ろう」と呼びかけました。30年前のことです。医師会を敵に回す、当時としては実に過激な行動でした。

 「医者が独占していた医療を周辺技術者や患者に解放することで患者への情報公開が進み、従来の医療や医者のあり方に再考を促す。患者志向の医療システムを作っていくうえでの第一歩になると考えたのです」
 日野原さんは、確信犯でした。
 80年代のはじめには、健康教育を受けたボランティアをリーダーに、血圧の測り方などを住民に広め始めました。成人病を「生活習慣病」に改めるべきだと提案しました。「成人病」というよりも自己管理の動機づけになるからという深謀遠慮からでした。

 看護婦さんの地位を高めて医師のパートナーにするために奔走もしました。日本では、医師たちが看護婦さんを家来のようにあつかう風潮が長く続いてきました。日野原さんはこれに猛然と反旗を翻し、看護の大学や大学院を創設し、博士課程までつくったのでした。
 これも、日本の医師文化に逆らう、実に過激な行動でした。

■仕掛けた時限爆弾が、今■

 「雑居から個室へ」の流れを作り出す先頭にも立ちました。
 「雑居部屋で老いたくない」と私が社説で訴えたのは88年のことでしたが、「日本のとしよりには個室は向かない」「現場を知らないジャーナリストが何をいうか」と“専門家”と言われる人々から反発をうけ、孤立無援状態に陥りました。
 救いの神が日野原さんでした。91年、富山県の庄川町に全室個室の「ケアポート庄川」をつくるお膳立てをし、翌92年には聖路加国際病院の520床のうち、小児科を除くすべてを個室化しました。どの部屋にも電動ベッドやシャワー、トイレがついており、狭い部屋でも17.5uはあります。

 「プライマリーケア」を普及するためには、こんな激しい表現をしました。「医者は心筋梗塞とか癌の患者がくると獲物を見つけた動物のように張り切る。けれど、なんとなく疲れたといった患者さんを、疎んじるんです」
 「ホスピスケア」の先達のひとりでもあります。カルテを備忘録と考える日本の伝統に逆らい、カルテ記載と管理システムを普及しました。音楽療法、人間ドック、専門医制度も日野原さんの存在なしには、日本で普及しなかったでしょう。

 日野原さんが仕掛けた時限爆弾、20年、30年をへて、あちこちで爆発し始めました。

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