「子どもの頃は、みんな仲よくて、絵に描いたような幸せな家庭でした。強くて自慢の父でした」。
大学3年生の桂城舞さん(写真)は、こみあげる涙で、何度も言葉をつまらせながら語り続けました。
「中学に入学したころから父は仕事が忙しく、母は入退院を繰り返し、私も友人の家を泊まり歩き、家族がバラバラでした。高3のとき、父から食事を誘われたけど、友だちと約束があると断りました。2カ月後にも誘われましたが、都合があると断りました。
その数日後、父は自殺しました。もっていたのは、小さなノートと2000円だけ。ノートには『きょうも山にいった。でも恐ろしくて死ねない』。事業不振で多額の借金があったのです。なんで、あの時、食事にいかなかったんだろう。『大好きだよ』と伝えていたら……。
毎日、毎日、自分を責めました。父の携帯に電話をし、繋がらないのにまた腹がたって……。父が生きていけなかった社会を自分がどうして生きていけるのか、毎日死にたいと思うようになり、睡眠薬を飲みました。とにかく逃げたくて……。いまここにいられるのは、同じ思いのあしながの仲間に出会えたからです」
日本の自殺率はアメリカの2倍、イタリアやイギリスの3倍。OECD諸国の中で第2位の自殺国です。昨年1年間に3万2155人が自殺しました。
交通事故の5倍です。背景には、その10倍の未遂者が、そして、舞さんのような深刻な心の闇に落ちこむ遺族がいます。
WHOは 自殺は「追い詰められた末の死」であり、「避けることの出来る死」と定義し、9月10日を世界自殺予防デーと定めています。
日本でも、昨年、「自殺対策基本法」が議員立法で成立。官民合同で、自殺のない社会を実現するためのキャラバンを全県で展開するまでになりました。(地図をクリックすると拡大します)
舞さんの体験はキャラバンの出発を告げる2007年7月1日のシンポジウムで語られたのでした。
日本の政策づくりの歴史の中で奇跡ともいうべきことが起きたのは、当事者の捨て身のボランティア精神が、人々の心を熱くしていったからでした。
話は、2000年の年明けに遡ります。あしなが育英会の西田正弘さんは、佐賀駅近くのトンカツ屋で3人の自死遺児と向き合っていました。
「自死遺児だけの合宿をしたいんだけど……」。
その2年前の98年、日本の自殺者は3万人を超えました。中高年男性の自殺が急増し、前年から一挙に8500人近く増えたのです。それは、自死遺児急増に直結します。どうしたら力になれるだろう。
「そうだ、遺児自身に教えてもらおう」。
西田さん自身、12歳の時、交通事故で父をなくした遺児でした。
2月、11人の自死遺児が2泊3日の合宿をしました。泣いて、泣いて、少し笑って一緒にご飯を食べて川の字になって寝ました。
その中から、4月、20ページの小冊子『自殺っていえない』が生まれました。
この小冊子に心を揺さぶられたのが、NHKに入局して4年目の清水康之さんでした。8月の合宿に参加し、さらに衝撃を受けます。
他の遺児と違って、自死遺児は、悲しみを封印している。世間を恐れ、隠して生きている。語れない環境を社会がつくってしまっている。何とか立ち上がろうとしているのに社会がそれを邪魔している。番組にしなくては。
「子どもたちに顔も名前も出してほしいと頼みました。匿名では、同じ境遇の子に『君たちも顔や名前を隠して生きなさい』といっているようなものだから、と。半年かけて話していく中で、ひとりの子が決心してくれました。久保井康典くんです」
2001年10月、クローズアップ現代で、『お父さん死なないで〜親の自殺、遺された子どもたち』が放送されました。年末にはスペシャル番組、『"痛み"を見つめて』。
02年11月には、『自殺って言えなかった』(サンマーク出版)が出版されました。その表紙に身を晒した山口和浩くん(左から2番目)を主人公に、「おはよう日本」で『支え会う"自死遺児"たち』の特集が組まれました。
どの番組にも「感動しました」「自殺を思いとどまりました」と反響が殺到しました。
「けれど、行政は動かない。なにも変わらない。子どもたちは顔も名前もさらけ出して体験を語るという、最大のことをしてくれた。では、僕は自分にできる最大のことをしているのか。考え抜いた末に、NHKを辞めて自ら現場で活動することにしたのです」。
04年3月のこと。3年間暮らせるだけの貯金が頼りでした。
5月、西田さんたちと「ライフリンク設立準備会」を立ち上げました。「いのちを守るためにつながっていこう」という決意をこめた命名です。10月NPOとして正式に発足。
法的根拠がない。そのために、行政が一体となって自殺対策に取り組む体制を築けていない。そう考えて、政策提言をまとめてゆきました。
「年間3万人の自殺者」の深刻さを訴えるために、06年4月「3万人署名運動」を開始。6月には10万人を超えました。
2006年6月16日、超党派の議員立法で自殺対策基本法が成立したのは、その熱気が、感染していったからでもありました。
そしていま、キャラバンが、全国をめぐり始めました。
右上の写真は、長崎でのキャラバンで、『自殺って言えなかった』を手に、山口青年との長崎での出会いを話す清水さんです。
その山口さんは、冒頭の舞さん同様、幼心に父の死に責任を感じ、つらさを口にすることを封印していました。けれど、あしなが育英会に出会い、その支援で、長崎大学の教育学部を卒業。虐待を受けた児童の自立支援施設で仕事をするかたわら、生まれ育った長崎でNPO法人・自死遺族支援ネットワークReを立ち上げました。自死遺族を支え、行政に助言し、いまは、多くの人に頼られる存在です。右の写真はシンポジウムで発言する山口さんです。
この4月からは、1年休職して、ライフリンクの本部で、「自死遺族1000人の声なき声に耳を傾ける調査」の中核を担っています。この調査は、ひとりひとりが死へと追い詰められたプロセスを知り、そこから学んで、政策につなげることが目的です。
自殺予防週間が始まった9月10日、過労自殺で夫を失ったひとりの女性と会いました。、周囲の心ない視線の中で、すべてを封印し、4人の忘れ形見ととも辛い10年すごしてきた女性です。その女性はこういいました。
「調査にこられた山口さんが、『どんな方だったのですか?』ときいてくださった。そのとき、あの日まで、一生懸命家族のために働いてくれていたあの人のことを鮮明に思い出しました。主人が生き返ったのです。私の心の中の氷が溶けました。娘にそのことを話しました。そうしたら、彼女は、山口さんの本を読んでいたことを打ち明けてくれました。娘は、私が当時のことを思い出すと辛いだろうと気を使って内緒にしていたのです」
「私たちのような思いをする人がなくなるために、できることはなんでもしたいといま、思っています」
「自分たちのような思いをする人をなくしたい」という自死遺族たち、その思いに心を揺さぶられた行政スタッフ、ライフリンクのような民間組織。その間に生まれたパートナーシップ――日本にこれまでなかった新しい文化が芽吹きつつあるようです。
(大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』9月号より)