優しき挑戦者(国内篇)
(64)ゆき@尼ケ崎・伊丹・西宮、人工呼吸器をつけていても町の中で(*^^*)

◆「それやったら、つくってまえ!」◆

尼崎のみゆき通り商店街を歩いていたら異国の雰囲気を漂わせた店に引き寄せられてしまいました。
「バリ雑貨&カフェ/ジャム★ルガ」
店に入ると、口からたべることも、自力で移動することもむずかしい重い障害をもった“店員”さんが迎えてくれました。

人工呼吸器など医療的ケアが必要な人たちも、仕事をする喜び、集う楽しみを味わう場がほしい。でも見つからない。
「それやったら、つくってまえ!」と、4年前にオープンしたのだそうです。

店名の由来はインドネシア語で「 ほっとする(ルガ)時間(ジャム)」。立ち寄った人たちに、そんな時間を過ごして欲しいという想いが込められています。
木彫りのフクロウ140円、ネコ450円という、つい手がでてしまう値段の品から、凝った細工の額に納まったエキゾティックな絵画4万円也まで。
商品は全て直輸入で、オーナーが年に数回バリへ行って仕入れ、障害を持つ若者たちと介助者たちで運営・接客をしています。

車いすのままで入れておむつも替えられるトイレ、しんどくなったら休める畳のスペース。カフェももうけられていて、語らいや情報交換の場にもなっています。
左は、ちょうど"行商"から戻ってきて、2万5000円の成果を自慢しているところです。
母体はヴィ・リール生活支援センター、フランス語で、ヴィは人生、リールは笑うという意味なのだそうです。
「必要な時に必要なサポート」「ゆたかな地域生活を応援」をモットーに、1999年に設立されました。

同じ尼崎の地域共生スペース「ぷりぱ」。こちらは2000年秋に、重症心身障害児施設での支援に疑問をもった人々が中心になって立ち上げました。

◆「集められる」のではなく「集う」◆

そして伊丹の「地域生活を考えよーかい」
写真は三田のビール工場や神戸のフルーツフラワーパークに繰り出したところです。スタッフの幼い家族も加わります。
いずれも、「ほっとかれへん」というボランティア魂がエネルギーになって立ち上がりました。

これまでの地域福祉の定番は、「ハコモノ」に集めて昼を過ごすことでした。この常識を捨てました。
自立支援法の「個別給付」、役所用語でいうと、重度訪問介護や行動援護、地域生活支援事業の移動支援などを最大限活用して、いまの形になりました。
「集められている」のはなく、「集う」スペース」です。
阪神間には、こんな心温まる場が、なぜか、いくつも出現しました。

◆それは、青葉園から始まった◆

その源をたどると、西宮の「青葉園」にゆきつきます。
そのまた源をたどると、保健所の待合室で出会った重い障害をもった親たちの「この西宮でわが子とともに生きてゆきたい」という願いでした。
就学前の通園訓練施設づくりの運動。
年齢が進むにしたがって就学運動。
こうして、60年代後半から70年代の初め、他市にさきがけ、通園施設の設立や重症児の学校教育保障が実現しました。
その学校も卒業する日がやってきて、81年、青葉園が誕生しました。

園の一日は、職員がタクシーなどを使って通所者の家まで、迎えに行くことからスタ−トします。閉じこもりがちになる人たちが、集まり、活動するためには、送迎を親まかせにするのではなく、こうした仕組みが不可欠だと考えてのことです。時間の融通が利き、園が市の中心にあるので、経費も安くつきます。
園内の多彩な活動に加え、積極的に街へ出て、買い物、散歩、外食することで、視野を広げていくことも大切にしました。

そうこうするうちに、家庭で介助している親の高齢化が進みました。
それでも住み慣れた西宮で安心して暮らし続けていきたいと、86年から自立プログラムに取り組み始めました。親と離れての暮らしに慣れるためです。

「どんなに障害が重くてもまちの一員として共に暮らしていきたい」という思いを実現するために「地域社会参加活動」が始まりました。
一人一人がご近所と、たとえば、リサイクルサークルを組織し一緒に活動するといった風です。

◆「このまちでしか、生きていかれへんねん」◆

その1人、ちえみさんを市営住宅に訪ねました。
89年の春、施設長、清水明彦さんは、ちえみさんの母の言葉に呆然としました。
「この子はこの西宮のまちでしか、生きていかれへんねん!青葉園に残していくしかないねん。私の体はもうあかんねん」
末期の癌と診断されたのでした。

ちえみさんは、食事、排泄すべて介助が必要。言葉によるコミニュケーションが不可能なので、表情や体の動きで意志を読み取るしかありません。
てんかんの発作もあります。
スタッフは入院中の母のもとに通い細かい指示を受けました。シフトを組んで泊まり込みました。
そして10カ月後、21歳の娘を残して、母は、この世を去りました。

「施設に移せばちえみさんの心は死んでしまう」。
これをきっかけに、親亡きあとも、重症心身障害者と呼ばれる人がまちで暮らせる「生活ホーム」づくりが始まりました。その第1号に入居、町内会の集まりにも出かけるようになりました。そこへ阪神淡路大地震、生活ホームは倒壊。
仮設のホームでの暮らしをへて、ちえみさんは24時間の支援のもと、「ひとり暮らし」を楽しんでいます。
生活ホームは市内に4カ所に。ちえみさんのあとを追ってひとり暮らしに踏みきった人が7人。
ちえみさんは、41歳を迎えました。

大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』2009年10月号より)

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