優しき挑戦者(国内篇)
(67)ハンセン病と認知症と

「学生時代のボランチアが私の一生の方向を決めることになりました」
国際医療福祉大学の初代総長として、「人権」を繰り返し説き、コメディカルの若者たちを育てた大谷藤郎さんが、2010年12月7日、86歳で世を去りました。
冒頭の言葉は、告別式を埋めつくした参列者に、ビデオ画面から生前の声で語りかけられたものでした。

友人代表として弔辞を読んだハンセン病体験者の平沢保次さんは、あふれる涙で途切れる声で呼びかけました。
「先生は、わたしたちにとって太陽でした」

京都大学医学部に入学してまもない18歳のとき、大谷さんは、郷土の秀才、小笠原登・助教授を訪ねました。
「医学の勉強は、患者さんにじかに接して、それから本で勉強することが大事です」といわれた大谷さん、授業が終わるやいなや、診療の場に駆けつけ、ハンセン病の患者さんの診療を手伝うボランティアに専念することになります。
「当時、ハンセン病は治らない病気だ。伝染すれば大変だ。身体中が駄目になってしまうといわれていたので怖かった。その不安を振り切って通うようになったのです」と後年、語っています。宗教家で哲学者でもあった小笠原さんを人生の師と仰ぐようになっていったからでした。
小笠原さんは、「隔離収容」と「断種」が医学界の常識だったこの病気について、「伝染力は極めて弱い。隔離の必要はない。断種などもってのほか」と説き続け、学会から「邪説」と非難され、国賊とまで呼ばれました。

この病気に関する日本の法律は、20世紀の初めに制定されました。
療養所長には、患者を監禁したり懲罰を与えたりする権限が与えられました。
皇紀2600年(1940年)を目標に、「日本民族浄化」「無らい県運動」が日本国中に広がりました。病気の疑いをかけられると、親兄弟と引き離され、遠い療養所に収容されてゆきました。
海外諸国にはそのような法律はありませんでした。

基本的人権をうたった新憲法が誕生したとき、療養所に閉じ込められた人々は法改正に期待をかけました。
けれど、1953年の法改正は、言葉づかいを改めた程度にとどまりました。
その6年前に、日本でもプロミンという特効薬が治療に使われ始め、もはや、「不治の病」ではなくなっていました。強制収容や外出禁止の条文はまったく根拠を失っていました。
にもかかわらず、入所者の願いが葬られました。その背景に、らい学会の実力者で文化勲章受賞者の光田健輔医師の強い影響力がありました。
光田医師は、国会でこう訴えたのです。
「逃亡罪というような罰則が1つほしいのであります。これによって多数の逃亡者を改心させることになるのです」。

◆まず、官僚の偏見をなくすために◆

厚生省に入った大谷さんは、72年、全国の療養所を所管する国立療養所課の課長に就任すると、厚生官僚のこの病気への偏見を、まず、なくそうとしました。
陳情にきた人々に茶碗のお茶を勧めてもてなしたのです。それまでは部屋にいれてもらえなかった人々です。
大蔵省と掛け合って雑居部屋を個室化しました。
らい予防法の外出禁止条項を骨抜きにしました。
公衆衛生局長になると、偏見のまとわりついた「癩」を「ハンセン病」と通称するように改めました。

私は、大谷さんが医事課の若き課長補佐だったときに知り合いました。当時、大谷さんは医師の臨床研修制度をつくろうと風呂敷に書類をぎっしり包んで、霞ケ関と永田町を駆け回っていました。そんな長いつきあいだったせいか、大谷さんは、83年厚生省を去るときのこと、こうもらしました。
「たとえ、変人、奇人、非常識と役所で罵倒されようとも、差別の元凶である、らい予防法の廃止に身を挺して取り組むべきでした。実態を改善すれは前進になるのではないか、そう考えて努力し、自らをなぐさめてきたけれど、姑息的で小役人的なモノの考え方でした」

退官後、大谷さんは、大腸癌の宣告を受けました。手術のあと、毎月の検査と服薬を約束させられました。そのとき、「命があるうちに急がなくては」と2つのこと思ったのだそうです。
1つは、らい予防法の廃止、もう1つが、ハンセン病にまつわる過去を洗いざらい後世に伝える資料館の建設でした。
資料館が完成すると、新聞テレビがこぞって取り上げ、世論の関心が高まりました。
勢いにのった大谷さんは、こんどは、学会を説いて回りました。
94年5月13日、日本らい学会総会で、「大谷個人見解」を発表しました。
「らい予防法廃止の緊急性」と「放置してきた学会の社会的責任」を問うものでした。これを翌日の毎日新聞が朝刊一面で大きく報道したことで、学会もやっと検討会を設置。95年の総会で「らい予防法を廃止すべき」と決議しました。
厚生大臣だった菅直人さんが「反省とお詫び」を表明、らい予防法廃止法案を国会に提出したのは、96年のことでした。

◆炭鉱夫からカメラマンに◆

大谷さんが国立療養所課長に着任する11年前、朝鮮国籍の青年が、ハンセン病療養所多磨全生園を訪れました。
趙根在さん。
一家の生計を支えるため、15歳のときに炭鉱夫になったという経歴は、大谷さんとは対照的です。
初めて療養所を訪ねた日のことを趙さんは、こう綴っています。
「松林の奥に、霊安室と解剖室。中央にコンクリートの流し台が据えられ、鋸、ハンマ、鋏、メス。
棺桶を手造りして、死者を焼く。『あのコンクリート台の上でバラバラにされて火葬場にもっていかれて納骨堂の穴のなかに入れられてしまうんだ』と言われ、震えて動けなくなりました」

病気のせいで皮膚の感覚がなくなった人も、療養所内の土木工事に駆り出されました。そのため、怪我が日常茶飯事でした。
そんな中で小鳥だけが慰めでした。

趙さんは考えます。
「療養所では頭上に太陽こそ輝いているけれど、地底で自分が体験したような"出口のない闇"の中に閉じ込められている。
出口を開き、自由の光をあてるために自分ができることはなんだろうか」

そして、カメラで伝える決心をします。趙さんの療養所全国行脚を、ナースとして働いた収入で応援したのは志をともにした伴侶、君子さんでした。

志なかば、97年に癌で亡くなった趙さんの思いを使えたいと友人たちが奔走、『趙根在写真集 ハンセン病を撮り続けて』(草風館)が世にでたのは、2002年のことでした。
モノクロの2枚の写真はこの写真集から転載させていただいたものです。

私には、趙さんが療養所をくまなく案内してくださったときの思い出があります。
それは、大谷さんが療養所課長になったときのエピソードに少し似ています。
「お茶を出されたら、決して、ためらわずに飲んでくださいね」と念を押されたのです。この写真をみると、そのときのことが蘇ってきます。

◆精神病院に認知症を収容する暴挙が◆

友人代表として弔辞を読んだ平沢保治さんは、全生園に咲き誇っている山茶花※を霊前にそっと置きました。大谷さんと一緒に植えたものでした。
平沢さんは14歳のときに療養所に連れてこられた犠牲者ですが、83歳になったいま、語り部として資料館の象徴的存在です。
地域の精神病体験者のためにも走り回っています。

大谷さんが、もう1つ、心をいためていたことがあります。
日本だけ、「らい予防法」が世界の常識に逆らったように、いま、日本では、世界の常識にまたもや逆らう暴挙が押し進められようとしていることです。
認知症の高齢者にとっては、思い出の品々に囲まれた住まいらしい雰囲気と誇りをたいせつにする日常の暮しが大切です。訪問診療や宅老所、グループホームが効果をあげています。
にもかかわらず、認知症の人々に最も不向きな精神病院に収容しようというというのです。左の写真は、外から鍵のかかる、まるで独房のような「保護室」にいれられた認知症のお年寄り。日本の精神病院のリーダーの病院で撮ったものです。右は、反抗的な態度をとったりすると入れられたハンセン病療養所の外から鍵のかかる部屋※です。

大谷さんは、かつて、こう語っていました。
「健康で社会の表街道を走っている人々が、不治に見える疾患や障害をもつ人々を社会の落伍者、あるいは邪魔者として迫害へと向かうことに対して、それが間違いであり人間として許してはならないということを、ハンセン病の歴史を資料館が示すことによって後世に向かって叫び続けてほしいというのがわたしの願いです」

(※の写真は神保康子さん撮影)

大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』2011年1・2月号に加筆)

▲上に戻る▲

優しき挑戦者(国内篇)目次に戻る

トップページに戻る