優しき挑戦者(海外篇)
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ゆき:1日半という長いインタビューをお受けくださいましてありがとうございます。プライベートな事も含めながら、リンクビストさんの歩んだ道と、それによってスウェーデンがどう変わったかを時代をおって、話していただきたいと思います。まず、どんな家庭で、どんな風に育ったのかお聞かせください。
■父は配管工、8年の基礎教育を受けた庶民でした■
自分がどうしていまのようになったのかを分析するのは、私にも難しいけれど・・。(笑い)1936年6月3日、ヘルシンボリという町で生まれました。人口は6万か7万人。父は職人で配管工でした。母は結婚前は塗料や化学薬品を売る店で働いていました。二人とも8年間の基礎教育しか受けていない、普通の教養の持ち主である庶民でした。二人とも非常によく働き、二人で貯めて家を買いました。だから、小さい頃から一戸建てに住んでいました。
私の子供時代は、非常に調和の取れた時代でした。父は非常に無口でした。彼が話をするときは、深刻で大事な話でした。母は元気のよい生き生きとした人でした。二人はとても仲むつまじく、子供の時は、夕方に父が帰ってくるのをみんなで待つ、という風でした。穏やかで幸福な家族でした。私は自分自身のことを、気持ちが安定した人間と思っていますが、それは子供時代に既に培われたものだと思います。
■15歳の秋、人生の転換期が■
目の障害は学校に入る前から始まったのではないかと思います。宣告されたのは8歳のときだったのですが、両親は「手伝うから、普通の学校に通いなさい」と言いました。運動が好きで非常にアクティブな子供でした。特に、かけっこが得意でした。幅跳びも得意でした。そういう部門でも活動したいと思っていたのですが、視覚障害が出てきてあきらめるしかありませんでした。
その当時、両親も私もどうしていいかわからなかったのですが、母の姉で、障害者運動に関わっている人がいて、彼女が私に盲学校に紹介してくれました。それは、ストックホルム郊外にありました。 ゆき:無口なお父さんと元気なお母さん、というカップルは当時のスウェーデンではよくある組み合わせだった のでしょうか?
一般化は出来ないけれど、父親は外で働いて家族を外から守る。母は家にいて、家族を取り仕切る、という時代でした。スウェーデンで女性運動が盛んになる前のことです。 ゆき:育ったお家を描写してくださいませんか。
1926年、結婚した年に両親がその家を建てました。二階建ての家で、そんなに大きな家ではなく。正方形の形をしていて、屋根は斜めになっていて、2階の天井は斜めになっていました。バルコニーも一つありました。父は家に手を加えるのが好きで、家に「ビラ ベスタ」(母の邸宅)という名前を付けました。非常に手先の器用な職人肌で、子供達のために遊戯室、独立した子供の遊び小屋を造ってくれました。今も覚えていますが、小さな、家のミニチュア版でした。ドアの両側に窓があって、屋根には瓦もあったんですよ。父は一番上の姉のために作ったのですが、みんなで使いました。 ゆき:そこで、どんな遊びを?
男の子が遊ぶような伝統的な遊びでした。よくやったのが、バイキングになってみんなで遊ぶ。父がつくってくれた木の刀と矛で、みんなでフェンシングをやっていました。女の子達はおままごとをしていたので、そこに入れませんでした。 ゆき:ご両親はどこで出会ったのですか?
町から10キロ離れたところに、仮設の遊園地があり、ダンスホールがありました。父も母も友達と共に出かけ、そこで知り合ったそうです。父は兄弟が多く、10人兄弟の2番目だった。母は2人兄弟で兄がいました。 ゆき:どこに惹かれあって?
話してくれませんでした(笑い)。昔は、そういう話は子どもにしないのがふつうでしたから。 ゆき:お友達を作るのが得意なのはなぜだと?
調和が取れた家庭環境が土台にあったからだと思います。母が亡くなる前、母とよく、長く話をしました。母は「ベンクトは、ものごとを明るく見る、楽天的性格に生まれた」といっているしたが、これは母のおかげだと思います。これは母に似ているんです。 ゆき:目は今から思うと小学校の前より悪かった、とおっしゃいましたが、兆候としては?
異常があることは、学校での検査で見つかりました。検査の時、5メートル離れた紙に指がかいてあり、指先がどこを向いているかを尋ねられたのですが、見えなかった。それで先生から眼科の医者に行きなさい、と言われました。
眼科の医師は網膜に斑点があって、医者はその写真をとって見せてくれた。幼いとき、母がサクランボが入った器を落として、「入れ直してちょうだい」と言われたのに全部入れ直す事が出来ず怒られたことがあるそうです。後になって母が、「あのときは見えなかったのね」とわびてくれました。自分は覚えていないけれど、母は覚えていたのです。
眼鏡はかけませんでした。網膜に斑点ができて視覚を妨げる病気ですから、眼鏡をかけても見えなかったのです。学校の検査は8歳、2年生になるときでした。今ではスウェーデンではそのような検査は4歳の時にします。目だけではなくすべての検査をします。サクランボの事件は4歳か5歳の時ですから、今だったら、もっと早く見つかっていたことでしょう。
学校の検査で視覚に障害がある、と聞いたとき、両親は、どのくらい前からその事があったんだろう、と考え始めたようです。ふたりにとってとても心配な事だったろうと思いますが、私にはそれを感じさせませんでした。私自身はというと、14歳になって、ひどく重くなる頃までは、視覚障害を感じなかったのです。 自分でも心配になったのは、居間の壁にかかっていた時計をじっと見ていたら、時計が急になくなったときでした。目を横に動かすと、時計が見えました。そこで、自分でも目が見えない、とわかりました。14歳の頃、自分でも意識するようになりました。おそらく少しずつ悪化してきたのだと思いますが、そのころ急激に悪化したようです。当時、私1年間に16センチ背が伸びていました。それと同時に、視覚も衰えてゆきましたた。16歳で190センチになり、止まりました。おそらく16歳ですべてマキシマムに達したのではないでしょうか(笑い)。 ゆき:文字を見るときに支障はなかったのですか?
読むのは非常に難しかったです。盲学校で勉強した後、一般の高校、大学に行きました。この6,7年は一番大変でした。6歳7歳の頃は、運動で秀でていましたが、成績もかなりよく、トップクラスの一人でした。自分にとって大事なのはスポーツで秀でる事で、学業の方にはあまり関心がなく、特別に勉強したわけではないのですが、宿題が出れば出す、という風でした。義務教育の終わりの頃は、父と母が自分のために本を読んでくれた。ただ、私は、昔からエネルギーがありすぎで、今もこのエネルギーをどうしていいからわからないくらいです。 ゆき:勉強が出来るのだから、配管工で身を立てよう、と考えた事はなかったのですか? 思いませんでした。当時は、非常に伝統的な考えをしていて、親もそれ以上の考えを持っていなかったのです。父はその後、配管会社を自分で興しました。彼としては、会社を私に継いでほしい、と思っていたのでしょう。ブルーカラーの人にとって、それは普通の事でした。 北野:当時、ブルーカラーの人にとっては一戸建ての家は普通だったのですか? 集合住宅が普通だったのですが、両親が家を買った頃に、職人でも一戸建てに住む、という傾向が少しずつ出てきて、周りでも一戸建てに住み始めたこすでした。姉二人とも、高等教育を受けるようになったので、そのころから変化が出てきたのかもしれません。私が盲学校で勉強して、リハビリを受けて戻ってきたとき、父はこの子のためにはアカデミックな道に進むのが一番いいだろう、と思ったようです。
■父母が読めない外国語の教科書を朗読してくれました■
もう一つ私の生い立ちに大きな意味を持っている事があります。 ゆき:盲学校ではどのようなリハビリテーションをうけたのですか?
まずは点字を覚えること。それから、目が悪い、ほとんど全盲であることを受け入れる事。さらに、盲人としての生活していく上での実際的なこと。 ゆき:点字を覚えるのは簡単でしたか?
システムを覚えるのは簡単だったのですが、読む速度を上げるのは非常に時間がかかりました。けれど、大学の教育や勉学には点字を覚えるのが必要不可欠でした。 北野:完全に見えなくなったのは?
上を見て太陽が感じられなくなったのは15年前。だから、30年に渉って、徐々に悪くなったことになります。 ゆき:病気の名前は?
網膜色素変成症。一般的な目の病気です。進行状況が非常に多岐にわたり、急速に悪くなる人、長い間かかって悪くなる人、がいます。 ゆき:心理的トレーニング、とは?
難しい質問です。自分が盲人である、と自覚する事によって、人生に限界がある、と受け入れる事、そしてそれにもかかわらず残されている可能性をどう活かしていくか、について心理学者とではなく、盲学校の先生や友人と話し合う中で、両親と話し合う中で、自分で気づいていきました。51年当時、盲学校はあまりそういう分野では進んでいなかったのです。 ゆき:今ならどういう教育を?
今なら当時はなかったようなリハビリ、眼科の医師が十分に検査して、視覚障害者センターに送って、視覚がどのくらい残っているのか、の技術的判定をします。その後、カウンセラーやソーシャルワーカーの社会的療法も施されるから、昔とは違います。 北野:障害をベンクトさん自身は普通に受け入れたのですか? 私自身はそれによる人生の危機は一度も持った事がありません。ただ、目が見えないために、「これがやりたいんだけれどもあきらめなくては」と思う事がありました。先ほど、大学時代大変だった、と申し上げましたが、そのころ、「他の学生は楽だなぁ、本を開ければいいだけだから」と思いましたよ(笑い)。
大学に入ったとき、すぐに英語の勉強を始めました。英語学科の図書館に行って、学生があまりに少ないのにびっくりしました。こんなおもしろい本がいっぱいあるのになぜ読まないんだ。目がよければ一杯読むのに、と思いました。私にとって、目が見えないのは、悲しみではなく、悔しい、頭にくることでした。「頭にくる」という表現がぴったりくるかもしれません。 ゆき:盲学校のあと、普通の高校に行かれたのですね?
高校でも友人がたくさんいたし、校長や教師達も私が目が見えない事を理解してくれました。けれど、当時は、教育的サービスが全くなかったので、高校を卒業できたのはん、家族のおかげでした。両親も姉も非常に協力してくれました。両親とも、高等教育を受けたことがない人ですから、外国語も出来なかったのですが、私に読んでくれるためにフランス語もラテン語も英語も勉強してくれました。自分にとって本当に困難だったのは、学校時代で、その後の困難はそれに比べると何でもなかったといえるほどです。 ゆき:ご家族は具体的はどのような支援をしてくださったのですか? 父母や姉たちが、前に座って大きい声でて読んでくれました。それを点字にするのは私でした。日曜日の午前中、姉がラテン語の教科書を読んでくれましたが、これは翌週の分でした。 北野:外国語を学ぶための点字の辞書はあったのですか? 小さくて簡単なものですが、ありました。それで十分役に立ちました。大学では英語もドイツ語も勉強しましたが、その国の学生図書館に、その国の点字版を借りました。ドイツやイギリスの図書館に私はこういう本を読みたい、と言う長いリストをおくると、その中から送ってくれました。
点字の本はとてもかさばるものです。そのころ、ルンドの郵便局に、大量の点字資料が届いたので、私のために特別な部屋を用意し、そこからタクシーで家に持っていってくれました。ルンドの郵便局員に会ったとき、私だと知らないで当時の事をはなしてくれました。「フローレンス協定」があるので、点字郵便は世界中、無料です。1960年頃、協定が結ばれています。 ゆき:お姉さまはどういう道に進まれましたか?
上の姉は、商科に行って経済を勉強しました。亡くなる25年前、炭酸入り水を作る会社の経理をしていました。世界で一番おいしい水の事は私に聞いてください(笑い)。 ゆき:ご両親はどうやって英語やドイツ語を勉強したのでしょうか? 父も母もマスターできず、スウェーデン語風にローマ字読みした。英語を勉強しているとき、試験で文法の本を400ページと700ページを2週間かけて読んでもらって、点字で写した。今思うと、大変だったのは私ではなくて、両親の方だったと思います。 北野:盲学校は何人くらい? 何年間の制度? 150人の生徒が勉強していました。1年から8年まで。そのころから統合教育が始まって、私が入ったときに1年を始めた人は、8年まで終えないで、8年目は普通学校に行くようになりました。 ゆき:リンクビストさんが1年だけで普通学校に戻ったのは、当時としては珍しい事だったのですか?
9ヶ月しかいませんでした。10月から、6月まで。非常に珍しい事でした。父の姉が紹介してくれたが、入ったのが8年生の時だったので、そして自分は普通の高等学校で勉強したかったので。
■将来の夢はジャズミュージシャン■
北野:当時の盲の方の進路は?
そのころスウェーデンでは盲人のための二つの特別教育がありました。女性は電話交換手。男は当時鉄鋼産業が隆盛だったので、溶接やフライス(磨く)の仕事です。交換手以外には、事務所や医者の秘書になるための教育がありました。 ゆき:病院秘書、とはどのような仕事ですか?
カルテを書く仕事。医者がテープレコーダに吹き込んだものをタイプするのです。
北野:交換手ーやフライス工の仕事を盲の仲間がしている中で、俺はこれはしない、という大きなビジョンがベンクトさんにはあったのですか?
将来の夢はジャズミュージシャンでした。プロになりたかったのですが、親に学校に行け、と言われました。21歳の時、高校を終えたとき、なろうと思ったらドラマーのプロになろうと思えばなれたのですが、大学に行くことにしました。 北野:大学にいこうと思ったわけは? 高校の成績は、語学が非常に得意だったので、大学でもやってみようと思いました。大学に入ってからは、教師になるのもいいかな、思うようになりました。 ゆき:高校の時の語学の科目には、どんなものが? 色々なコースがあり、私はラテン系のコースをとりました。最初から語学を中心にしたコースでした。その時、英語、フランス語、ドイツ語、ラテン語を選びました。数学は最初の年に1年やりましたが、あまり興味なかった(笑い)。 北野:記憶力は抜群? そうですね、割合。私は自分の事を「ベンクト・リンクビストは頑健な体の上に、まあまあ悪くない頭がある」といっています(笑い)。体が疲れないのが非常に有利です。 ゆき:大学に入ってからも、お母さまが勉強を助けてくださったのですか?
姉たちは自分の仕事があったので、母が助けてくれました。父は早くに亡くなったので。母はヘルシンボリに住んでおり、ルンドから1時間の距離だった。当時は、視覚が少し残っていたので、移動にそれほど大きな障害はありませんでした。
■ドラマー・教師・放送ディレクター、そして……■
ゆき:8年間、ずっと無料奉仕だったのですか?
最初の年だけ無料でした。57年に生涯の伴侶になる女性、グンデスに出会ったからです。ドラマーで働いているとき、ダンスレストランで出会いました。彼女が点字を学んでくれました。彼女はボロースに住んでいて、そこで会ったのですが、私に書く手紙を他の人に読まれたくなくて点字を学んだのです。彼女は点字が非常に得意で、技術も向上したので、盲学校が1960年に点字の先生として彼女を雇うことになりました。以後40年間点字の仕事の携わり、今は教師をしています。 ゆき:お二人はどこに惹かれあったのですか?
きれいな人でした。そのレストランでドラムのソロをしたとき、一人で踊っている人がいました。ピアノの人に、誰?と聞いたら、彼女でした。そこで、ナイトクラブに一緒に行きませんか、と誘いました。そしてその夜2時か3時にナイトクラブに行って、それ以来我々は一緒です。ロマンティックでしょう(笑い)。 ゆき:お子さんのことについて話してくださいますか? 娘が二人います。一人は芸術家、一人は生化学者、医学教育を受けていて、36歳で来年教育が終えます。子供が小さいのによく頑張るな、と感心します。芸術家はの方は油絵が専門で、2年前に大学を出ました。孫は走るのが大好きで12歳、音楽学校に言っています。私は若いときに走っていたから、孫がランナーなのは嬉しいです。 ゆき;障害を持つ人の運動にはいつ頃から?
57年、目の見えない子供が普通の学校へ行くためのアドバイザーの仕事に就いたのが最初のきっかけです。パートで、学業の傍らでした。50年代の終わり頃から、盲学校は「ここで勉強するのではなく、普通の学校で勉強しなさい」と推奨するようになりました。その学校の校長先生が私に、学生のアドバイザーになってほしい、と言われました。そこで、私はスウェーデンで初の「移動アドバイザー」になりました。二人でストックホルムに移ってから、彼女は本格的に点字に携わりました。私は大学生とアドバイザーの二足のわらじをはいていました。
アドバイザーの仕事は65年までの8年間続けました。65年に教職課程を終え、教師の資格を取り、ストックホルムの女学校の教師として1年間働きました。66年に学校を辞めました。非常にいい仕事の誘いを受けたからです。スウェーデンラジオのプロデューサー養成講座へ誘われました。半年そのコースをうけ、スウェーデン放送でプロデューサーとして教育番組を作る事に携わることになりました。 ゆき:ベンクトさんは、盲人の初めて普通学校の教師になられたのですか?
そう、歴史上に初めてでした。教師の資格、認可を受けるにあたって、教育長が、「障害者で教師になるのは問題ないが、こういう障害は困る」という条件をいっぱいつけました。私が教師になるべきかどうかについては、マスコミでも討論されて、私は勝ったのです。英語とドイツ語の教師でした。私は、ハンディを補うため、生徒達に参加してもらう事にしました。毎回の授業ごとに、生徒を自分の秘書にして板書させました。私が目が悪いとわかると、生徒のあいだに協力体制ができあがりました。何とか先生を手助けしたい、と思うらしく、協力体制ができあがったのです。 北野:私が親しくしているジュディー・ヒューマンも、アメリカで教師になる際、大変でした。
そう、全く同じです。僕も彼女の事をよく知っています。新しく労働市場に出ていく人たちにとっては、自分のためだけでなく、後の人のためにも、新しい分野を開拓する必要があると思います。
何週間か前に、25人の視覚障害の人と会いました。彼らはこれから教育を受ける人でした。私は、「あきらめるないで、戦え。自分たちの後に続く人たちのために、大使として戦え」と言いました。これから新しく市場に出ていく人に、「何でも全部受け入れ態勢が出来ていていると思っては困る。戦ってください」と言いました。 ゆき:女学校は招かれたのですか?雇ってほしいともうし入れたのですか?
私が仕事を求めました。校長が非常に理解がある人で、「あなたが教師としてここに働くと、将来いろんな困難に出会うだろう。だがそれを解決するのに協力します」といってくれました。これには、後日談があって、その校長の息子が、それから数年後、目が見えなくなったのです。私は恩返しすることができました。 北野:なぜスウェーデン放送は貴方をスカウトしたのでしょうか?
なぜか?は自分ではわからない。教育コースの先生が私の存在を伝えたのではないかと思います。 ゆき:それは目の見えない人のための番組なのですか?
そうではなく、高校の英語の番組です。目の見える、見えないは関係ありませんでした。非常に大きなプロジェクトで、非常に話題になったものです。その新しいプロジェクトのために優秀な人がたくさん必要だった。 北野:この仕事をあきらめるのは残念だったでしょうね。
でも後悔した事はありません。自分は、なりたいと思ったら、ラジオのプロデューサーにもなれるんだ、というのは非常に嬉しい、刺激的でした。ジャズプレーヤー、教師、プロデューサー、結局、自分は障害者のために働いているのですが。 ゆき:放送局ではどんな勉強を?
主題を決め、それについてどういう風にプレゼンテーションするか、時間内に終わらせて、その後大きな余韻を残すにはどうしたらよいか、について学びました。1時間のインタビューを5分間に縮めろ、1時間の中で一番大切なものは何か、何を視聴者に聞かさせるのか、という事も学んだ。たぶん、おふたりは大学の先生として、それを毎日やっていらっしゃるのでしょうけど。 ゆき:そのようなことを身につけたことは、政治家になったとき役に立ったでしょうね。 そのとおりです(笑い) ゆき:番組もいくつか作ったのですか?
自分一人で独自の、というのはなかったけれど、共同プロデューサーとして作った事はあります。たとえば、ラジオのシリーズで「再びスウェーデン語を」という番組を作りました。 北野:盲学校を紹介してくれたおばさんは貴方に影響を与えたのですか?
盲学校に行っているとき、彼女の家に住んでいたので、彼女から色々な影響を受けました。彼女はビーバンといい、労働市場庁で障害者が働くための部門に専門的に手がけていました。彼女は障害者に関心を持ち、よく知っていて、ありがたい存在でした。
■協会から連盟に、そして「万人のための社会」のスローガン■
ゆき:視覚障害者の組織にはいってからのことを話してください。
67年から85年まで、18年働きました。最初の5年はウプサラ大学とパートで半々に働いていました。その時の私の役割は、色々な団体の事業を発展させる、デベロッパーの役割でした。そして75年に連盟の会長になりました。85年まで、会長を10年間続けました。そのころから別の形の障害者政策、政治がないかに興味を持っていた。さかのぼれば、70年には、障害者のための政治活動に興味を持っていました。
82年に私は国会議員に立候補する事を承諾しました。79年に誘いを受けていたのですがその時は断ったのです。障害者団体の中でやる事がたくさんあったからです。82年に社民党の当時の書記ステン・アンナソンに誘われOKしました。ストックホルム市の議員でした。82年には視覚障害者連盟の会長、障害者連合会長、国会議員と3つの仕事をしていました。常軌を逸した日々でしたが、これを85年まで続けました。85年に社民党が選挙に勝って、そのまま議員として残る事になりました。 ゆき:その時パルメさんから大臣にならないか、という誘いを受けたのですね。
ええ、85年10月14日の出来事でした。その時、私は視覚障害者連盟で会議の準備をしていました。ここにいるエバさん、彼女は、当時も私の助手だったのですが、彼女から「ウィルソンから電話してほしいそうです」と言われました。それがパルメだったのです。でも、私は「一体何の用事があるのだろう、こんな忙しいときに。後で電話しよう」と思っていました。45分たったとき、私はエバから「すぐにタクシーに乗って来てほしい」と伝えられました。その日の10時15分に総理府に行き、1時にプレスコンファレンスで大臣になる事が発表されました。
■盲人協会から視覚障害者連盟に■
ゆき:視覚障害者連盟にいて、成し遂げた事は?
会長として一人で成し遂げた事はありません。みんなとの協力関係で成し遂げたものばかりです。まずした事は組織の近代化です。そして目の見えない人のために書籍や新聞を、目の見えない人の手に届く運動をしました。かなり成功しました。 ゆき:どう近代化したのでしょうか? 昔はどうだったのでしょう?
私がかかわりはじめたときこの団体は盲人協会といい、目の見えない人だけの協会でした。弱視の人は全く入る事が出来ませんでした。それを変え、弱視の人も入れるようにして、盲人協会から視覚障害者連盟と名称を変えました。1889年に設立された盲人協会の伝統ある名称を、77年に変えたのです。組織についていいますと、それまでは、国を網羅する全国段階と県段階しかなかったのですが、市町村段階にも置くことにしました。
スウェーデンは当時、地方分権で福祉の政策も市町村に権限を移そうとしていましたので、我々の組織もそれに合わせたのです。もうひとつ、多いな変更がありました。盲人協会は障害を持った人のために様々なサービスをする団体でした。生まれ変わった視覚障害者連盟は政治団体です。名前を変えることによって、昔からの組織はなくなったともいえます。 ゆき:反対はなかったのでしょうか?
盲人協会の偉い人たちはみんな反対した。団体の名前を変えて、入会資格を広げる試みは60年代にも70年代にもあったのですが、古い指導者の反対で2回失敗していました。私は団体に入ったとき、教育担当で講習会やサークル担当責任者でした。全国を回って、変革の必要性を説いて回りました。それで、会員の中に私の考えに賛同してくれる人が増え、下からの変革で実現したのです。95パーセントの会員が改革に賛成してくれました。 ゆき:反対勢力にも、大義名分があったと思いますが……。
いくつか理由をもってきました。税制の問題もありました。組織を変えて、会員を広く募る事になると、税の優遇措置がなくなるだろう。盲人連盟は歴史も古いので、名前を言えば誰でもわかる、この知名度を捨てるのはもったいない。
■72年、すべての市町村に障害者委員会が■
ゆき:社民党には、いつ入党なさったのでしょうか?
60年代終わりです。68年頃、教育大臣をしていたパルメの演説集を読んで感動して党員になったのです。69年にパルメは党首になりましたが、その時には私は党員になっていました。会合にも参加しましたが、アクティブではなく、役職にもつきませんでした。 ゆき:サービス団体から政治組織になる、ということはどういう事を意味しているのでしょうか?
盲人協会はサービス提供組織として色々なサービスを作りだしていました。会員のための本、新聞、を作る。盲導犬の仲介。補助金の相談を受ける。政治団体になったとき、これらの機能は社会に任せよう、我々は障害者の立場を強くするために世論に働きかけよう、と言う事になったのです。
70年代は、スウェーデンで障害者団体が政治に参加するようになった画期的な年代でした。障害者の団体に色々な事が起きました。72年、障害者団体で「万人のための社会」というスローガンのプログラムを作りました。その時、政府から、すべての市町村と県に、障害者委員会を設置する、という決定が出ました。
70年代は、市町村に障害者委員会を設置する長いプロセスでもありました。委員会の半分は障害者から出てきたので、視覚障害者連盟がコミューンにも支部を置いたのは間違っていなかったのです。
3つ目に、国で行っていた障害者調査、というのがあります。この調査は10年間行われ67年に完成しました。この調査に当たっては、我々の団体は色々働きかける事が出来、非常にラディカルな提案をしました。 ゆき:「万人のための社会」というスローガンが出来る過程と、どうして広がっていったのかについて話してくださいますか?
これは全くチームワークの産物です。HCKが障害者のための社会参画のためのプログラムを作ったとき、色々な枠組グループを作りました。誰が言い出したのかわかりませんが、みんなで拍手して、「いい言葉だ」と思った。「社会に訴える力がある」と思った。そのころは政治的にも追い風に乗っていました。 ゆき:店や駅や学校など大勢の人が使う建物にバリアフリーを義務づける法律が70年にできたのもこのような思想に基づいているのですか?
その通り。建築法は66年に出来ていましたが、障害者のために使いやすい建物を、という70年の改定も同じ考えから来ています。
4番目は、75年に社民党が障害者のためのプログラムを打ち出した事です。このように、障害者にとって70年代には非常に大きな動きがありました。市町村にある障害者委員会や色々な障害者団体の発言権もこの70年代に非常に大きく盛り上がりました。 ゆき:76年に社民党が負けたことも影響していますか?
非常におもしろい質問です。保守連合が44年ぶりに政権を奪ったのが76年です。彼らにとっては国民が望んでいるものを与える事が大切でした。政権をとってから数年後は、社民党以上に国民の声を聞こうとしていました。
■障害団体どうしが手をつなぐということ■
ゆき:HCKの中での力関係は?
いつも勢力争いで大変でした(笑い)。HCKは世界で一番古い障害者団体間の協力組織です。1942年に既に作られています。伝統のある組織ですが、内部抗争は非常に激しいものがありました。ただ、内部は意見がバラバラでしたが、外側は一致していました。対外的に力を示そうとするなら、内部は意見が一致しなければ行けないということでは、みんなが意見が一致していたからです。のちに大臣になったときには、交渉をする、とか、譲歩するとか、みんなで協力する、とか、ここでの経験が非常に役に立ちました。 ゆき:どのような意見の相違があったのでしょうか? 何を優先するかです。我々視覚障害者からみると、身体障害者が訴える問題はさして重要じゃないように思えます。逆もまたしかり、です。どの障害者団体も抱えている問題が深刻だったので、「私たちは譲歩しましょう」「あなた方がお先にどうぞ」という訳にはいかなかったのです。 北野:HCKには知的障害、精神障害、親の会も入っていたのですか?
すべて入っていました。知的障害者の場合、これは非常にとても強いFUBという親の会が入っていました。ただ、私かちは、「障害を持った人自身が自分たちの権利を主張するのが大切だ」と考えています。だから、本来なら障害者自身が声を上げなければならないのですが、知的障害者と子供の障害者は力が弱いので、親の会を認めました。
視覚障害者の場合は、たとえ2歳でも子供が会員です。だが、18歳までは、色々な機会には、両親の片方が代弁する事が出来ることになっています。 北野:会長である貴方は、視覚障害で中途障害。先天的な障害者や自分とは違う障害者ことをどうやって理解したのですか?
会長として働くようになって、非常に強く感じたのは、「私は視覚障害だが、身体障害や聾唖の障害が私の障害と同じくらい大変だ」というのが私の立地点だということでした。そのような立場に立ってみると、視覚障害者団体が権利を主張しすぎるように思える事がありました。私としては、一番の問題点は社会が障害者を疎外する、これが、みんなが共通に戦わなければならない一番重大な問題で、団体間の問題はそれより前に来てはいけない、と思っていました。 北野:日本では身体障害者の団体、知的障害者の親の会、精神障害者の親の会、が大連合をくめない状況があり、これが、とても大きな問題なのですが、こちらではどうだったのでしょうか?
そういう考え方は捨てるべきです。私が国連の仕事をしている中で、一番の任務はその部分です。様々な障害団体が一致協力して働きかけるように、としている。日本のような状況でしたら、アクションプログラム、みんなが後押しできるような強力な行動プログラムを作って、これをみんなでやろう、とすることが大切だと思います。一致協力する事が大切です。色々な国でそのやり方で障害者団体間の距離が縮まっていっています。 北野:どの団体がイニシアティブをとるかで問題はなかったのですか?
難しい問題です。共通の問題を認識し、こういう解決がある、と認識すれば、団体間の抗争やイニシアティブの問題は一義的に出てこないのでは、と思いますが、確かに難しい。私の場合、視覚障害者団体が声を上げすぎる、と注意したとき内部から批判も出ましたが、賛成する人もいて、議論をする中で、私は認められました。議論をして、共通の議論、利益を見つける事が大切だと思います。 北野:HCKの会長は代々視覚障害者なのですか?
私の前任者は視覚障害者団体の副会長でしたが、後任は身体障害者連合のバールブローさんでした。 北野:その通りですね。日本の組織はサービスを提供するためのお金を引き出す事に一生懸命という傾向があります。 サービス活動をいつまでも持っていると、どうしても自分たちの利害にしがみつくことになります。組織を政治的なところに引き上げ、サービス活動は別団体を下に作ってさせればよい。我々が視覚障害者団体の近代化をしたときは、サービスを中心的な役割からはずしました。視覚障害者のための図書館を国に移管しました。残りのサービスも、サービス管理会社IRISを作り、そこにさせることにしました。団体のトップはそこから自由になったのです。
■本の音訳、2.5%から25%に■
74年から75年は、一般に出版される本の2.5パーセントしかテープに吹き込まれなかったのです。これはおかしい、と私と司書が二人で、戦略として訴える手紙を書きました。出版される本の、少なくとも25パーセントはテープに吹き込まれなければならない、と主張しました。私が大臣になるずっと前にバルメに会ったとき、「視覚障害者の本が少ない」と訴えました。今では25パーセントが実現し、それ以外でも吹き込まれるようになりました。ならば視覚障害者用の図書館はいらない、と変わったのです。今現在は。年間に3000から3300タイトルの本がテープに吹き込まれています。 ゆき:何の25パーセントですか?
毎年出版される本の25パーセントです。スウェーデンは年間1万から1万2000冊出版されますが、これの25パーセント。そして、そのうち大きな規模の図書館が買い上げるのは5000冊。残りは読者層の狭い本です。この5000冊の半分はテープになります。この25パーセントの本を吹き込むポリシーを打ち出したとき、残りの本の吹き込みサービスが入った。地方の小さい図書館でも「この本を読みたいから吹き込んでほしい」と言えば、吹き込んでもらえます。人気のある文学書は、12000の中の400前後。ですから、3000くらい吹き込めば、希望はだいたい網羅します。これを実現させたのは私と視覚障害者団体で働いていた司書の二人でした。 ゆき:このとき、著者は著作権は放棄するのでしょうか?
テープの図書館は1950年代に出来ました。当時著作権の問題になり、三者契約、障害者団体と国と作者の間の契約が結ばれ、図書館が吹き込む場合、国が作者にお金が払う、という契約が結ばれました。一回あたり100krくらい。 ゆき:私の本には、「点訳、音訳はご自由にどうぞ」とあらかじめ書いてあります。ところで、日本の視覚障害者は、すべての情報を見渡しにくいので、情報を吹き込む人の影響を受けやすい、と北野さんがおっしゃっています。政治家はとくに全体状況をつかむ必要があると思いますが、ご自身、どう対処しておられますか?
そういう危険が常にあることは意識しています。それを補うために、多くの人と話すようにしています。目の見えるアドバイザーをつけるようにしています。でも、我々からいいますと、目の見える人は余計なゴミのような情報を読むでしょう(笑い)。目の見える人はそれを読んでしまう。 ゆき:先ほど障害者自身が影響力を行使する事が出来るように支援した、とおっしゃいましたが、どのような支援でしょうか?
新しく組織を変えたとき、会員教育、団体の役員として機能する人の能力向上のための教育をしました。自分たちの意見をどうやって発表するか、の教育も行いました。どのように社会が機能し、社会を変えるためにどのように影響力を使うか、の教育もしました。それはかなり効果を上げました。 ゆき:それをどうやって?
各地域にある国民高等学校を5カ所と契約を結び、会員と役員のための講習会を一回に2週間、毎日違うプログラムで行ったのです。 北野:障害者団体が政治的活動を中心にすると、どうしても、政党に巻き込まれる、イデオロギー化、セクト化する、という心配が出てきます。こちらでは、そういう心配はなかったのか、分裂がないか、教えてほしいのですが。
スウェーデンでもそういう議論は今もあります。多くの障害者団体は、障害者に住みやすいために、社会の改革、万人が住みやすい社会を主張しますが、その結果、どうしても左、と見なされやすい。我々の団体としては、政治的中立を守りたい、と思っていても、政党の障害者政策を見ていると、左に見られやすい。社民党や左党、リベラルなど。これらの党首は障害者に造詣も深いので、そう思われやすい。確かに考え方も近いのです。穏健党という保守党は、「障害者運動に国を持ち込まないようにしたい」と思っています。障害者団体は国にやってほしいので、穏健派の党員で障害者団体に所属している人はほとんどいません。
■LSS法が保守政権のとき誕生したわけは■
ゆき:でも、LSSという障害者にとって重要な法律が保守政権のときにできました。いったいなぜでしょう。
面白い質問をなさいますね(笑い)。1980年代に私が障害者の問題に強く携わっていたとき、法律の導入が出来ないか、と法律調査委員会を作たまし。委員会ができたのは89年です。この調査委員会が、こういう法律はどうか、と91年に私にしてきた。これが後で出来たLSSの元で、実際にLSSになったときは部分的変更は合ったが、だいたい同じでした。9月に選挙が行われ、社民党が負けました。LSSは私の時に導入したい、と思ったのですが、時間的に間に合わなかったのです。けれど、選挙運動の最中にベングト・ベッセベリィという穏健党の人が「厚生大臣になったらLSSを導入する」と言ってくれ、実際に導入してくれて大変嬉しかった。彼は障害者問題を重要視していて、熱心にやっていました。彼は本当にこれがしたかったんだと思います。 北野:一般の市民の施策を下げて、一部の障害者のための施策を行う、という事に対して反対意見はなかったのですか? 非常に大きな議論になりました。でも保守連合が選挙で勝ち、保守連合は国の歳出を押さえる事で政権をとったのですから。政治は本当に駆け引きです。 ゆき:日本では「高齢者は数が多くて票になるけれど障害者は数が少なくて票にならない」と政治家がおもっているフシがあります。スウェーデンでも事情は似ているとおもうのですが、それなのになぜ、障害者政策が進んだのでしょうか? 障害者も家族がいます、子供がいます。かなり票集めが出来ます。HCKは81年から82年頃、会員が55万人いました。大変な数の団体でした。そして25の障害者団体が賛助会員でした。ベステルベリィは、自身は障害者ではありませんが障害者政策に関わっていました。このような政治家は多いのです。彼は障害者と移民を政策の中心に掲げました。この2つのグループは保守連合が軽視しているグループなのですが、彼は政治家になる前に、医者の勉強をしていました。
■パルメに任命され、厚生大臣に■
ゆき:パルメとはいつ頃、出会ったのでしょうか?
いつ最初に会ったか、は覚えていません。同じ党員なので、彼が出た会議に私も出ていました。69年か70年のこと、彼の話をナマで聞きました。視覚障害者のための本や新聞の問題を彼と議論を戦わせてたこともありました。70年にはパルメと蔵相と会議した事もあります。私が国会に入る前と、その後2,3回、政治の問題を議論した事があります。彼が私を大臣にしたのは、おそらく、この2,3回の議論がきっかけだろうと思います。 ゆき:ベンクトさんはパルメのどこに惹かれたのですか?
彼の輝くような知性です。ビジョンを持っていて、社会の発展を目に見えるように描く事が出来ました。彼の演説集を読むと、色々な問題を彼が掲げて、いろんな角度から、入り口から入っていって描き出す。そのやり方は美しいものでした。彼は演説台に立って、5万人の聴衆に語りかける、それが非常にすばらしかった。 ゆき:ベンクトさんが厚生大願に就任して早々、パルメが殺されましたね。
4ヶ月後です。非常な衝撃でした。小さくて平和な国だったのに。パルメが死んだ悲しみだけでなく、スウェーデンが穏やかな国でなくなった、という悲しみもありました。事件以後、セキュリテキーポリスや、政府の建物に銃弾が入らないような警戒が入り、田園的な国から変わった。それ以前は、パルメがラッシュアワーにみんなが並んでいるところに並んで新聞を買っていたのに、そういう事がなくなってしまいました。我々は昔のスウェーデンに戻りたい。今のスウェーデンでも多くのよその国より安全だが、前とは変わってしまった。 ゆき:大臣になりたいな、なれるかな、という気持ちはあったのでしょうか?
まったくありませんでした。パルメがそんな話を持ってきたのは、寝耳に水、でした。 ゆき:就任の際、パルメは、選んだ理由を話しましたか?
なぜ私に厚生大臣になってほしいと思ったかについては言いませんでしたが、何人かが私推薦した、とはいいました。たとえば、ベステン・アンダーションという大臣と、副大臣のカールソンが推薦したそうです。厚生大臣になって、担当は家族、高齢者、障害者政策。いずれもお金のかかる政策だったので、大蔵大臣とは、なかなか折り合いがつきませんでした(笑い)。
大蔵大臣を尊敬していましたし、彼も私を尊重していたのですが、考えが違って、非常に対立しました。大蔵大臣は民営化や私有化を叫び、私はそれに反対しました。彼の考えの一番の敵対者の役割でした。反対した理由は、民営化や私有化で弱者、特に障害者が一番大変な目にあうと思ったからです。
■「万人のための社会」に反する民営化路線■
ニューリベラル派が、80年代の社民党に非常に根を張っていました。私が未だに政治的発言をするのは、「民営化が問題を引き起こすぞ」とメディアに言うときです。社民党の中で民営化反対運動をスタートさせました。この運動に若い人が多く参加してくれている事を非常に誇りに思っています。3週間前にアフトンブラーデッドという夕刊紙に民営化反対の記事を載せました。「我々の聖域から悪い考えを排除しろ」と。 北野:貴方の民営化反対の最大の論拠は?
民営化という言葉には反対していません。だが、私有化、本当は社会が負わなければならない事業を商業化することに反対です。例えば、社会が負うはずの事業を利益追求のために使う。ナーシングホームにいる介護を必要とするお年寄りを利益追求の対象にすると、痛みを負うのはそのお年寄りですから。我々が非常に反対をしたことに、保育園の民営化があります。児童福祉を利益追求のために商業的にするのは反対だ、と昔から言っています。80年代の半ば、はスウェーデンの保育園はもっとも統合された時代だった。その当時はお金持ちの子供、移民の子供、障害の子供、みんな同じ保育園に行っていた。児童福祉を利益追求にすれば、絶対に金持ちは金持ちだけ、貧乏人は貧乏人だけ、という分化が進む、と忠告しました。
2,3年前、ストックホルム地区委員の政治家に会いました。80年代に民営化の議論をしたとき、かなりアクティブに動き、私と同じ意見を持っていた人物です。が、その後他の影響を受け、一部民営化を進めた。それで数日前会ったとき、どれくらい民営化が進んだか、を聞くと、保育園の半分が民営化、と言う返事でした。で、移民の子供はどこにいるか、貧しい子供、問題児はどこにいるか、と尋ねると、民営化されていない公共の保育園にいる、と言う。学校教育にも広がっていて、学校も民営化していく。そこにはエリートが集まる。これは「万人のための社会」という私の考えに反しています。 北野:保育所の5割はfor profitなのですか?
50パーセントが市町村、残りの半分を100としたさい、20パーセントは親が、後は私立企業。民営化には両方入っています。50年代に厚生大臣だったグスタフ・ムンドフは、「社会の中で最高のものだけしか十分でない。学校でも病院でも一番いいものだけを作っていけば、そこからはずれて行こうという人はいない」と言っていた。病院や学校をかなり質の高いものを作ってきたので、これらを民営化する必要はない、と思っていました。本当は教会などに病院や学校をやってほしいが、彼らはやってはくれない。教会がやらないのは、コミューンの提供するもので十分、と思っているから。だが社会の賃金格差が出来て、お金持ちの人は、自分たちのために都合のいいものを作ってくれるのなら、お金をもっと出しましょう、という姿勢になっている。
■福祉が遅れたアメリカ社会■
北野:これはアメリカナイゼーションですね。
私はアメリカを決していい前例と見ていないのです。アメリカは社会的には、福祉の面では非常に遅れている、と思っています。 ゆき:そのアメリカからアドルフ・ラツカがスウェーデンにやってきて影響を及ぼしている事についてどう思われますか?
彼はアイデアをもった有能な人です。特に身体障害者グループにとって、非常にいい事をやっている。でも、彼は身体障害者の団体に入って運動しようとしない。一匹狼で活動しようとしているようにみえます。彼の考え方の1部はいいけれど、全部が全部スウェーデンのやり方に適合しないと思います。彼はスウェーデンの障害者団体に批判的ですが、障害者団体の方も彼に批判的です。ただ、彼はインテリだし、良いアイデアも持っているから、社会にとっては役に立つ、と思っています。 北野:どこが役に立ち、どこは役立たないのでしょうか?
彼はスウェーデンの自立生活運動STILLの生みの親です。権利を主張していく、その考え方はいいと思います。けれど、アメリカの自立生活運動のやり方をそのまま持ってくるのは無理です。アメリカの自立生活運動は、社会的なネットのない社会にあわせてつくられたものだからです。しかし、スウェーデンには様々な支援システムがあります。
だからそのまま持ってくる事は出来ないのです。 北野:なぜ一緒にしないのでしょうか?
彼が個人主義者だからではないでしょうか。私の想像ですが、団体の民主的システムの下に自分を置く事を望まないのでしょう。彼は個人主義者としてスウェーデンに来た。だから、スウェーデンの「団体でみんなで話し合って民主的に決めていく」というゆっくりとしたプロセスに耐えられない。みんなで決めた事に自分が従う事が我慢ならない、と思っているのではないでしょうか。ソリストであってオーケストラメンバーではない。 ゆき:彼の批判がアンフェアだというのは?
彼が民主的なプロセスを認めない事と、そのプロセスの条件を理解せずに批判するからです。身体障害者連盟のバルブロ・カールソンさんやフォルケさんは、スウェーデンが長い間培ってきた障害者政策を元にしてやっています。彼らは全く同じイデオロギーを持っているのだが、別々に活動している。 北野:かつてSTILLのベングト・エルマンに会ったことがありますが、彼はスウェーデンの障害者運動に批判的ではありませんでした。
彼自身がスウェーデンの障害者運動の一部だからでしょう。彼はラツカの団体に入る前は障害者団体に入っていたし、今もスウェーデンの障害者団体の会員のはずです。 ゆき:スウェーデンで、障害者が政策決定に参加するときには、優秀な誰かがいるから、というのではなく、システムとしてできあがっているのでしょうか?
政策づくりに障害者が参加するのは、障害者団体を通して、その代表として参加するわけです。特に優秀な人、というより団体の代表として参画するします。スウェーデンは長い間かけて障害者がものを言える土壌を作ってきました。コミューンが障害者委員会を作って30年立ちます。けれど、財政危機に陥ると、障害者への保護ネットはまだまだ弱い、と言う事がわかりました。ネットから落ちる人を我々は救わなければならなりません。 2年前に障害者に対する意識調査をしました。その時に出てきたのは、障害を持つ人がより社会に統合するには、もっと政治家に障害者を送りこまなければということです。公共部門の課長や部長に、学校の校長先生に障害を持った人を送り込まなければなりません。その事がよくわかりました。
私のおばを覚えていますか?おばは、私が一般の企業を捨てて障害者団体に入る事を批判しました。彼女の心配どおりのことが起きています。視覚障害者連盟には青年部があり、若い人が活躍しています。でも、歴代の委員長は誰も一般企業に出て行っていない。団体の代表が仕事になってしまっています。もう少し教育を受ければ学校を終えるのに、その直前に辞めてしまい、この団体で働く事になる。この団体で働く人の多くが、この団体以外に働いた経験がない、という時代です。私自身も障害者運動に批判的な事もあるのです(笑い)。 ゆき:スタンダードルールがスウェーデンでクリアされているかのお目付け役組織の責任者であるカーシュ・ルンゲさんに会いました。強度の難聴の人が厚生省で仕事をし、そこからさちにスタンダードルールを守る責任者として活躍していることに感銘を受けました。彼はあなたの事をとても尊敬していました。 彼は優秀な若者で、知的障害のある子供の父親でもあります。
■障害者の市町村行政の参画は■
北野:LSS法の第15条の7に、「市町村は重度の障害者団体の代表と共に政策を進める」と書いているが、これはどういうことを意味しているのですか。 市町村が障害者のために計画したり決定するためには、障害者団体にインフォームして意見を吸い上げなければならないことを定めたものです。基本には、市町村とと障害者団体が常に対話する、と言う前提があります。この法律の中では、障害者の権利が10の分野で謳われています。その権利を十分満たすためにどういう事を市町村がしなければならないのかを打ち出しているのです。 北野:予算がなくなったとき、実行されない、と言う事はないのですか?
いくら予算がなくても、10の権利はどうしても満たさなければなりません。ただ、10の権利は昔から経験しているのでどれくらいコストがかかるかわかっています。みんなに認められています。どうしても満たさなければならない10のものは、部分的にはお金がかかるけれど、どうしても必要です。この法律に取り上げて記載している事は、法律になる前に長い事行われている事。長い間障害者に行われてきた支援を法律として取り上げたのです。
政府と議会がLSSの導入を決定したとき、市町村はそれに対応するために財源を得ています。このLSSの導入に当たり、国から市町村への地方交付税交付金は20億KRずつ毎年増やしていく、と決定しました。これで足りる、と思ったが、足りなかった。おそらく、当時の厚生大臣ベステリベリィは20億では足りない、とわかっていたのでしょう。けれど、それ以上ひねり出せないし、それ以上要求したら法律が成立しない、と考えたから妥協した。彼はこの金額で大蔵省をだましたんです(笑い)。彼に聞いても答えないだろうけど。 北野:パーソナルアシスタントは65歳以上の人には適用されない、と聞いていますが、それはなぜでしょうか。
これは、実は、まったく論理的根拠がないのです。大蔵省と厚生省の協議の問題です。60歳を越えると必要な人が増えるはずです。けれど、交渉の結果「就労年齢にある人たち」と限定する事にした、とういうただ、それだけのことです。政治的な交渉ごとで、論理的根拠はありません。 北野:それは高齢者から苦情が出ていないのでしょうか? また、パーソナルアシスタントの賃金水準は?
すごく反対がある、65歳で線を引いた事に、このパーソナルアシスタントは社会保険から費用がでています。高齢者のためのヘルパーは市町村から財源なので、色々な問題があります。議論をフォロウしていないのでわからないが、65歳までパーソナルアシスタントをもらっていた人は、その後も継続できるとも聞いています。 ゆき:LSSに精神病の人が入らなかったのは、予算の関係の制約からだった、と家族会の事務局できいたのですが……。
たしかに、彼らの権利、立場は、他の障害者のようには発展していかない現実があります。 北野:なぜ発展していかないのですか?
2つの理由があります。1つは、彼らが自分たちの立場を世の中に訴えていくのが、他のグループに比べてうまくないこと。第2に、市町村が彼らを偏見的に取り扱っていることです。身体障害者や他の障害者は、ここの部分が助けが必要で、何が問題か、がわかりやすいのですが、精神障害者の場合、はっきり打ち出しにくい。だが、精神障害者の支援はLSSでは非常に大切です。 ゆき:ベンクトさんの力で何とかならないのでしょうか? いかに世論を盛り上げていくか、なかなか難しいのです。よその国でも同じですが、国と市町村の関係が難問です。市町村側は、「国が法律で市町村のすることを縛るのは間違っている、もっと自由になりたい」と主張しています。「市町村の自決権に口を出すな」というのが彼らの言い分です。特にLSSは、市町村の中から問題視され、受け入れをためらわれています。精神障害者の保護に特に問題が出てきています。市町村が精神障害者の保護を怠っていることが社会省から何度も指摘されています。 ゆき:LSSに書いてあるにもかかわらず、実行されていないということでしょうか?
まさにそういうことです。2年前、厚生大臣の依頼で私が出した報告書にに基づいて、政府は「LSSの法律を守らない市町村には罰則を科す」という決定をしたをしましたが、市町村側は、裁判所に不服を申し立てました。つい最近、最初の判決が出て、ある市が従わなかったことに対して30万クローナの罰金が科せられました。 北野:罰金が科せられた市町村は上級裁判所に控訴しないのですか。
私の記憶では最高裁が結論を出したはずです。もしそうでなければ、上訴できます。ただ、コミューンのほうでは、それを実行しなくてもいいように、いろんな知恵をしぼっています。たとえば、障害者への援助を市町村を拒むと不服申し立てが出来ることになっていますが、だが不服申し立てをするには、市町村が書面で「ノー」と言ったという前提が必要になります。ところが、それを書面では出してこない。もっとも、4分の3のコミューンは法律に従ってきちんとやろうとしています。25パーセントがダメな自治体です。 北野:地方分権を進める、ということは、「障害者の支援をしない自由もある」という事を意味しているわけですか?
国の段階で決定された基本法は、地方の分権に上回る。国の法律の法が強い。だから、地方自治を国の決定に反抗する道具としては使えません。 北野:分権は大切だが、中央で一定のコントロールをする必要がありますね。「市町村の自治」と「全国的に平等であるべき」という2つ指標は対立しがちです。障害者サービスを今は市町村がしているが、社会保険で国のレベルで出来ないか。今のままなら289のコミューンで289通りのやり方がある、という話もあります。 ゆき:共同研究者の河東田さんからの質問なのですが、インディビジュアルプランが定められているが、これは実行されているのでしょうか?
障害者の必要を満たすためには必要だが、そのまま守っていない状況があります。解釈の方法もまちまちで、非常に問題になっています。 北野:これに対する施行規則はないのですか?
もちろんそういうものもあり、条文もあります。だが、どこまで国がコミューンのやる事に口を出すべきか、バランスの問題でもあります。 ゆき:障害者団体の意見を聞かなければならなない、という規則は守られていますか。
■障害当事者をコンサルタントに■
十分ではありません。多くのコミューンがあるのでLSSを非常に守っているところと、だめなところの格差は大きいのです。その差がどこからきているかを研究した結果、きちんと法律を守ってやっているコミューンは障害コンサルタントとして当事者を雇って、どのようなニーズがあるか、調査していることがわたりました。当事者が一番いい。 ゆき:障害者オンブズマン法は? 誰がなるか、で変わってきます。うまく機能している場合もあります。先ほど言ったルークさんは頑張るだろう。だが、もっと権限を与えて大事な役割をさせるべきだ、と思う事もあります。
スウェーデンでは職場で偏見をなくすための運動を色々しています。そこでは障害者オンブズマンがかなりの役割を果たしています。今法律を作ろうという計画があります。障害を持った人、高齢者への偏見を禁止し、一般社会が彼らにも手を届くようにしよう、という法律を作っているところです。 おふたりのために資料をいくつか用意しましたので、説明しましょう。
Let the world know.、これは、2000年11月に障害者の人権に関するセミナーを開き、22人の専門家が障害者の人権をどのように広げていくか、について書いたものです。
障害者の政策についての政府の行動 2番目の調査、96−97年の調査。各国の基礎的な情報が載っている。3番目は今はWHOで印刷中。 DISABIRITY99 これは年間雑誌。WHOから出た3番目の調査。今出たばかりで私の手元にない。government action
DPI,RI、インクルージョンインターナショナル、視覚障害者、聴覚障害者団体。障害者団体がこの2番目の報告書について。 *****
■7つの国際的な障害者組織が■
北野:世界の当事者5団体は大きな連合を作っているのですか?
私が国連の特別報告官になったとき、専門家を集めたグループを作りました。6つのグループの代表です。それが出来たので、私の下で働くモニター役が集まりました。internationl disability alianaceが6団体によって作られたのです。それに加え、国際的な盲聾団体を入れて、今は7団体が入っています。このレポートを作ったとき、6つの国際団体うち5つがレポートを出してくれました。ただ、精神障害当事者グループはまだ力が不足しているので、レポートに対する意見表明は出来ませんでした。ただし、精神医療ユーザーの国際組織、world network of users and serviverse メアリー・オーヘイガンのグループは6団体に入っています。代表者達の間では、自分たちの利害について対立する事はありませんでした。
このグループのもとで、5人の男性、10人の女性、1団体から1人か2人が、私のモニターで討論してくれています。確かに組織間の衝突はありますが。
対立は構造上の問題である事が多いのです。DPIはすべての障害者を含んだ世界組織。だが、他の障害者は自分たちの障害の組織を国際的にしたものですから、DPIが代表する事を望まないのです。自分たちはまた別の意見がある、と思っているのです。
RIも「自分たちは世界中の障害者をカバーする」といっていますが、あれは障害者団体ではなくプロの団体です。DPIは「世界中の障害者をカバーする」というのですが、他の団体はそうとは認めない。構造上の問題です。
興味深いことがあります。視覚障害、聴覚障害、知的障害、精神障害は自分たちの国際的なグループを持っています。ところが、身体障害は国際組織を持っていないのです。DPIの組織内で強い発言力を持っているのは、みんな車いすに乗っているグループ。だから盲人や聾唖者は「DPI、あれは身体障害者の組織だ」という。 北野:スウェーデンの障害者中央連合を団結させるときに「共通の利害や目標を掲げる事が一番大切だ」とおっしゃいましたね。世界的な障害者団体の団結のためには、どのような「共通の目標」が大切になるでしょうか。
簡単です。「スタンダードルール(基準規則)を実現する事」です。このスタンダードルールは国連で決めました。世界中の障害者団体も支持しています。これを実現する事が我々の目標です。 ゆき:HCKの目標は?
72年から掲げているのが「万人のための社会」という目標です。HCKは72年以来、年に一回の予算折衝時に府とコンタクトを取り、話し合いの場を設けました。数ヶ月前から準備して、どういうプログラムで障害者運動をしていくのか、を何ヶ月も話し合いました。このときは、内部の意見が一致しています。
■政府から資金をもらって政府を監視する■
ゆき:HCK(今はHSU 障害者協力機構)は政府から資金をもらっていますが、いつから始まったのでしょうか。
これも一つの研究課題になるほどの大テーマですが(笑い)、1960年代にいくつかの障害者団体が政府からの援助金を獲得していました。一般の人々への教育、自分たちの団体を作り上げていくために必要な資金です。そして70年代に入って、市町村に障害者委員会を置くとき、構造的な変革が起こりました。その時に国と市町村は各障害者団体に代表を県と市町村に送るように要請しました。その時に送る代表は、障害者問題に通じた、能力のある人でならなければならなりませんでした。 これについてはアメリカからよく問い合わせがきます。アメリカでは、「障害者団体が国の金で運営するのは、国の手下ではないか」と考えるようです。でもそうではありません。スウェーデンでは各障害者団体は国から独立し、自分たちの力で活動しています。国の援助にもかかわらずです。この組織は政府にとって非常にうるさい、頭の痛い存在になっています。はっきりした数字は覚えていないのですが、おそらく1億6千万クローナが全体的な支援金として支給されています。
■話し合い・紛争・泣き寝入り■
北野:日本では障害者団体の中心は、国よりの人々、例えば傷痍軍人などであって、若者の意見が反映されない傾向があります。若者は、失望して大きな団体から出てしまう。これはドイツの状況に似ています。ドイツも傷痍軍人がかなり多い。ロシアも同じ。ただ、共産圏はそういった障害者団体が全国団体を作るのを許してきませんでした。ドイツ、フランス、アメリカなど傷痍軍人が多い国を見ると、傷痍軍人ばかりがどうしても優遇されています。傷痍軍人は他の障害者が同じ権利を主張すると、国と一緒になって反対する。スウェーデンと日本の違いうところの1つは批判の仕方だと思います。政府が快く思わない事もちゃんと言えるかどうか。これは、もメンタリティーの違いから出てくるのかもしれませんが。 ゆき:カール・グリューネバルトやホーカン・セーデルのような障害者の立場にたつ官僚にいたことも、障害者にとってさいわいだったのでは?
勿論大きな役割をはたしたと思います。元々スウェーデンは団体が多い国です。国対団体のパートナーシップは非常に北欧的な考えです。例えば労働市場などを見るとスウェーデンモデル、国と労働組合と雇用者が可能な限りに話し合って協調して決める、こういうやり方が日常的なのです。この団体組織の伝統はユニークなものです。たとえば、スウェーデンの労働組合の組織率は8割です。障害者団体にも同じ事が言えます。こういった障害者団体は多くの人を組織して、多くの人を代弁しているので、国も県も彼らと交渉するのが大切な事だ、と認識しているのです。 ゆき:日本は泣き寝入り、というのが第三の解決方法。
実は、わたしもそれを感じていました(笑い) 北野:盲人や車いすの団体連合が、精神障害者や知的障害者を一段下に見ている、というの傾向が、実は日本の実態にあったりします。スウェーデンではそういう事はないのでしょうか? そういう考えをもった人たちが、どうして「人間の価値は一緒だ」と主張できるのでしょう?けれど、残念な事に、その傾向は多くの国であります。北欧の国々ではその傾向は少ないと思います。ヨーロッパでも少なくなってきました。東欧ではその傾向はあります。スウェーデンでも、そのような偏見は1930年から40年頃にはありました。HCKが42年に出来たとき知的障害者の団体も入っていましたから、60年代にはそれがなくなっていた、と見てよいと思います。HCKの会長で、非常に発言権の強い会長、リカルド・シュタインデルドは、知的障害者の父で発言力を持っていました。 北野:精神障害者に対しても同じですか?
彼ら自身の団体は、まだ25年から30年くらいの歴史しかありません。HCKに入ってきたのも、後になってからです。このスウェーデンの精神障害者組織の会員は、当事者自身です。彼らは、病気ゆえに、とんでもない事を言うことがあります。 北野:HCKについて書かかれた本はありますか?
1992年にHCK50周年記念で本を出しています。今のHSUに行ったら、その資料はもらえると思いますよ。 北野:コミューンに置かれている障害者委員会の役割について話していただけますか?
各コミューンに障害者委員会があります。彼らはアドバイザーであり、決定権はありません。障害者委員会がどのように作られ、どういう風に組織されているかは、自治体連盟に行けば、いろんな本があります。イングリッド・スーグマンが、資料を持っています。どこでもだいたい、障害者委員会は16人から18人で成り立っています。半数は市町村の職員、残りの半分が障害者代表。委員長は市町村から出てきた人という風です。9人は市町村から、8人が障害者団体から、と言う事もあります。市町村代表は、色々な部門の代表である事が多い。学校、交通、環境問題・・・色々な人が出てきます。委員長はだいたいアクティブな市町村の政治家である事が多い。福祉社会部の代表が委員長になる事もあります。 北野:スウェーデンはEUに入っていますが、スウェーデンモデルがそのままヨーロッパモデルになれるのか、あるいは負けてしまうのでしょうか? EUに加盟し、また、世界のグローバライゼーションが進んでいることから、スウェーデンモデルは変わらざるを得ないと思います。一部はポジティブだが、かなりの部分は悪い方に変わるのではないでしょうか。非常に問題なのは、我々に選択肢がない、ということです。EUには入ってしまったし、グローバライゼーションは進んでしまった。スウェーデンは平等を元に進めてきた。高い税金をとって、平等を維持してきたが、国際化が進む中で、これまで通りのやり方は難しくなっています。我々はスウェーデンモデルのいいところをなるべく死守したいと思っていますが、色々な変更が余儀なくされるでしょう。
スウェーデンではEUの加盟に反対したのは左翼系勢力でした。一方、南欧の国は右翼系が反対しました。なぜか、というと、北欧は高い水準の福祉社会を築きあげてきて、EUにはいるとその多くを失ってしまいます。それをスウェーデンの左翼系の人々は嫌った。一方、ドイツより南の国々はその福祉社会を築いていないから、EUにはいると得るものが多い、と南欧の左翼の人は思ったようです。
EUの委員会、そこでは国連のスタンダードルールを取り入れる、という点で意見は一致しています。EUのヨーロッパの障害者団体は、障害者を差別しては行けない、と偏見に対抗する運動を進めるが、これは国連より進んでいます。 北野:それはADAなどのような差別禁止法ですか? 先ほど申し上げたアングロサクソン系の伝統です。彼らの行動は、北欧やヨーロッパの行動とは一線を画すものです。私は特に我々がヨーロッパでやろうとしている事をADAと比較するのは間違っていると思います。既に築き上げてきたものの中にADAと合わないものがあるからです。だから別のものを築き上げたいのです。ヨーロッパでは障害者への保障がアメリカやアングロサクソン系より随分進んでいるので、比べられないのです。
■まず、改革、法律はそれを追認する■
我々の場合、改革をまず進めてしまうのです。法律はそれを認める形であとからついてきます。スウェーデンには3つの大きな障害者政策があります。在宅ケア、補助器具、送迎サービスです。これは法律がなくてもどんどん整備され、法律は後から出来ました。特に補助器具については、全く法律はないが世界で一番進んだ補助器具システムがあります。このタイプのシステムはアメリカにはほとんどありません。
ゆき:パーソナルアシスタントも、アメリカからラツカが持ってきたと思っている人も多いけれど、お隣のデンマークのエーバルト・クローさんたちがオーフス方式という全国的な安定したシステムをつくりあげていたのでは?
私はクローさんの考えに賛成です。彼は哲学者でもあります。 北野:スウェーデンのLSS法では、10のサービスを受ける権利があることになっていますが、さきほど貴方がいわれたように、4分の1のコミューンがサービスを怠っているという。アメリカならADAという武器で行政不服訴訟などを使って戦いが出来るが、こちらのシステムも不服申し立て、という点で同じと考えていいのですか。
4分の1について補足説明をしましょう。25パーセントというのは、裁判所の判決に従わなかった市町村です。LSSに決められた事をやっていない市町村はもっと多い。私に言わせれば、きちんと十分にやっているところはない! 北野:損害賠償金が個人に支払われるのですか?
損害賠償制度はないので、訴えた本人にお金が入る、ということはなく、市町村は国に罰金を払うのです。罰金であって、損害賠償金ではありません。スウェーデンでも時には損害賠償請求がありますが、アメリカの100分の1くらいの請求金額です。アメリカで、たばこを吸っていな人が莫大なお金を受け取った、と言う話があったが、肺ガンで死にかけている人にそれほど多くのお金をもらってどうなることやら。 北野:判決は先例になるのですか。
本人が裁判に訴えたのに、市町村が上訴する、そして最高裁の判決が降りれば、それは先例として認められます。おそらく、最高裁までもっていくと先例になってしまうので、市町村連合は途中で引き下げるように働きかけているはずです。行政裁判所とは違う裁判所。 北野:障害者委員会ではない行政委員会に障害者は入っているのですか?
市町村庁には障害者が入っていません。これは市町村の最高委員会だから。市町村行政を担当するトップに市町村庁があります。 北野:労働組合は行政の最高委員会に入れる、と聞いたのですが、障害者は入れないのですか?
市町村で働いている職員組合の代表は入る、ということはありますが、それはスウェーデンの労働市場法で決まっていて、ある一定以上の職員がいる場合、労働組合も意志決定の際に加わらなければならない、という法律があるからです。 北野:社会サービス法が新社会サービス法に変わったのですか? 一番最初に出来たのは80年。興味深い内容を持った法律です。だがこの法律で掲げた目標と現実の実態はかなりの隔たりがありました。それで経済危機と保守連合の政権奪回を期に、社会サービス法の改悪の危機があり、実際に、94年に改悪されたのです。そのときになくなったものの中で大事なものはもう一度戻そう、という動きがあります。だが、問題は、国と市町村のバランス関係。市町村の自治が問題になっています。これについて詳しく知らないけれど、いくつかの調査会が開かれています。 北野:どこが改悪?
不服申し立ての権利が弱くなりました。権利が限定さた。これをまた強力なものに変えたい。おそらく来年の選挙で決まるでしょう。 北野:ベングトさんは万人のための社会、という発想のはず。ならば、LSSと社会サービス法は一つにすべきだ、と思っていないのですか。
とてもいい質問です。社会サービス法が十分に明確で十分に強力なら、それでよかった。私は法律について仕事をするときは、自然の法律に従って働きます。弱いグループ、不遇なグループには、より強く法律で保護しなければなりません。LSSが出来たのは、この法則に従い、弱い人に保護を与えるもので、どうしても必要でした。
■スタンダードルール達成度を国際比較すると……■
ゆき:スタンダードルールの各国での達成状況について知りたいのですが。
スウェーデンのように国の段階で障害者カウンシルをもっている国は130くらいあります。けれど、その実現度にはばらつきが多い。この青い本の中で各国にこの18の問題について質問しています。各国に質問を送り83カ国が答えを送ってきました。国連参加国289カ国の100国以上が人口100万人以下の小国で、答えを送ってきていません。だから83カ国からの回答というのは決して悪い数ではありません。 北野:日本は、その輝かしく進んでいる国にはいっているのですか?
残念ながら、入っていません。日本の障害者運動を見ると、何人か強力な人物がいて、本来ならそういう人が運動を全国的に押し上げていけるはずなのに、実際のところその運動は分裂していて、はっきり言えば、すごく運動が弱いと思います。 ゆき:日本をのぞいた他の先進諸国は?
北欧以外は、アイルランド、イギリス、チェコやポーランド、など。ロシアも頑張っているがまだ入っていない。アフリカのもっともいい例がウガンダ。他にタンザニアやウガンダ、ケニア、ガーナなど何カ国もあげる事が出来る。 北野:どういう基準で「まあまあよい」といえるのですか?
傘の段階の組織が、全体を覆っていて、その間の協力がかなりよくできている。しかも単発的でなく、長期的であるかどうか。 ゆき:それを国も支援している?
こういった開発国の多くでは、国がイニシアティブをとって行っている。多くの場合、国が我々の国でも障害者のカウンシルを作り、誰でも参加するわけには行かず、何を目標で、どういうところで活動するか、を知らしめるわけで、障害者団体間の協力を求めています。
私は国連のための最終レポートに、10月に取りかかり、11月に出る予定です。この8年間に私がこの仕事で何を学んだか、を書くはずです。その時に各国がどうしても満たさなければならない、と言う基本的なモデルがあるかどうか。今の段階でははっきりしていないが、なんとなく輪郭が見えてきたので、これを書きたいとおもっています。 ゆき:進んだ国の中にアメリカやフランス、ドイツが入っていないようですが。
ええ、入っていないのです。アメリカは全国をカバーする組織がありません。そしてアメリカでは、視覚障害者団体が他の団体と協力しないことを決めていす。ドイツは障害者団体がサービス組織であって、政治的な力を持っていません。ドイツには小さな障害者団体があって、活発化しようと努力しているのですが、各種のグループの協力関係は難しい。フランスについては、こんなジョークがあります。「フランス人は全員が大統領になりたがっている」。例えば視覚障害者団体で意見が分かれると、多数はその団体に残るが、少数は脱退して新しい団体が出来る。そんなことの繰り返しで、視覚障害者団体だけで100以上あります。 北野:スタンダードルールの条例化は?
我々としてはこの基本規則のモデルをコンベンションにしたい、と思っているのですが、各国から反対される具体的な内容が多いので、無理だと思っています。もしこれが憲章になれば、各国がこれをふまえて発展させられるのに。 ゆき:長時間、ほんとうにありがとうございました。 |
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