優しき挑戦者(海外篇)

■中核にあるのは、変革の意志■

 福祉や医療にまつわる概念が海外から日本にやってくると、奇妙な運命に遭遇します。だれもがするりと飲みこめるように、口当たりよく加工されていくのです。その代わりに、ことの本質がぼかされ、その概念が誕生したときの目的がどこかへいってしまいます。
 たとえば、ボランティアやインフォームド・コンセントという概念は、日本に入ってきて中核にある自己決定と変革の思想が曖昧になりました。ノーマライゼーションも、同様な運命に遭遇しました。思想のもつ激しさが抜き取られ、「ともに暮らすやさしさとおもいやり」といった心の問題に変質させられていったように思われます。

 そう、確信するのは、1989年から10年の間に、デンマークのニルス・エリック・バンクミケルセン、スウェーデンのベンクト・ニーリエとカール・グリューネヴァルト、つまり、ノーマライゼーション思想の「生みの父」と「育ての父」に会うことができ、3人が共通にもっている思想の核心、「障害をもつ人の権利と社会の責任」「社会変革への強い意志」に触れたからです。

■それは反ナチ運動から始まった■
写真:回復室のバンクミケルセンさん

 生みの父バンクミケルセンと初めて、そして最後に会ったのは、89年7月、コペンハーゲンの病院の回復室でのことでした。
 彼はその夏、岩手を訪問することになっており、そのときにインタビューする約束をしていました。そこへ、「大腸癌再発、訪日中止」の知らせです。
 私は予定していた社説を徹夜で書き上げ、飛行機に乗り込みました。この世で会えなくなったら大変と思ったからです。写真は回復室で記念に撮っていただいたものです。

 ノーマライゼーション思想誕生のいきさつはこうでした。
 彼は1919年デンマークのスキャンという田舎町に生まれ、高校入学のためにコペンハーゲンに移り住みました。
 40年、ナチスがデンマークに侵入したときはコペンハーゲン大学法学部の学生でした。彼はレジスタンス運動「団結デンマーク」に加わり、地下組織の記者となりました。44年、新聞を配っていたところを見つかり、ドイツ国境に近い強制収容所に移送されました。
 同志である「団結デンマーク」の編集長はナチスに銃殺されましたが、バンクミケルセンは幸い、終戦で解放されました。そして社会省に入り、知的なハンディキャップを負った人のための施設の担当を命ぜられました。1946年のことです。

 当時、デンマークには大型の施設が10カ所ほどありました。郊外に建てられており、1カ所に数100人が暮らしていました。諸外国の施設に比べれば人道的とされ、海外からの見学者も絶えませんでした。しかし、彼は「なにかおかしい」と感じるようになってゆきました。
 暴行や虐待があったわけではありません。ただ、毎日が実に単調で、施設の外のふつうの生活と違うのです。
 集団で食事をし、集団で作業をし、集団で寝る。朝から晩まで同じ顔ぶれ、自由に外に出られない……。
「私が拘束されていたナチの強制収容所に雰囲気が似ていました」

 郊外の大型施設に疑問をもつ人々は他にもいました。知的なハンディキャップをもつ子の親たちです。彼らは、バンクミケルセンの勧めで52年「親の会」を結成しました。これは世界初の親の会ではないかといわれています。
 バンクミケルセンは、親たちの願いを文章化してゆきました。
「ヒューマナイゼーション、イクォーライゼイション、色々な案がでましたが、親たちの願いを一番よくあらわすのがノーマリセーリングだったのです」

 親の会からの要請、という形で54年、社会省に法改正と運営改善の委員会が設けられました。15人の委員のうち医師が7人、親が2人、残りは官僚、彼が委員長でした。討議を重ね、次第に基本かたまってゆきました。
「知的なハンディキャップを負っていても、その人は人格をもち、みんなと同じような生活をする『権利』をもっている。この人々のためにできうる限り、ふつうの生活条件を創造する『責任』が社会にはある」
 報告書が完成したのは58年9月でした。そして、59年に、この報告書にもとづいた法案が議会を通過しました。ノーマライゼーションという言葉と思想を、世界で初めて組み込んだ法律「1959年法」がバンクミケルセンの起草によって誕生したのです。
(注・デンマーク語のノーマリセーリングを英語化したのがノーマライゼーション。バンクミケルセン自身は「ノーマリゼーション」と発音し、日本でも知的障害分野の専門家はこう標記する傾向があります)

■ノーマルな人にするのではなく、ノーマルな生活条件を提供する■

 彼は言いました。
「ノーマリセーリングはハンディキャップを負った人々を"ノーマルな人"にすることを意味しているのではありません。その人たちを丸ごと受け入れて、"ふつうの生活条件"提供することです。こどもたちはできるだけ親と暮らせるように、成人したら親と独立して暮らせるように」
「その住まいは、"ふつう"の家庭と同じような大きさで、まちの中につくられなければなりません。寝室は大部屋でなく個室に。食事は大食堂でなく、小人数で。つまり、"ふつうの"家庭のように」
「日々の生活のリズム、仕事や余暇や男女交際の条件もできるだけ"ふつうの"人に近づけるように」

 −−反対はありませんでしたか?
「当時、大型施設の長は医師でした。その人々の中には反対がありました。しかし、法で決められたことですから、きちんと実施されてゆきました。実はジャーナリストの影響も大きいのです。彼らが施設の現実を写真入りで報道してくれたおかげで一般国民が事実を知り、世論が改革を支持してくれました。私は役人でしたが、彼らが真実を伝えることを妨害したりしませんでしたよ。私自身がかつて反ナチ組織の新聞記者だったのですから」
 妨害するどころか、バンクミケルセン自身が記者たちをこっそり手引きした、というのが真相のようでした。

■米国で知事時代のレーガンと"激突"■

 北欧で生まれたノーマライゼーションの思想は、ケネディ大統領時代のアメリカに影響を与えました。1962年、ケネディは知的障害に関する諮問委員会を発足させ、委員たちはデンマークを訪ねてバンクミケルセンと会い、交流が始まりました。65年にはケネディ一族の一員で知的障害をもつ子の母であるユーニス・シュライバーが彼に会い、ノーマライゼーション思想に深く感銘します。そして68年、バンクミケルセンはケネディ国際賞を受けることになりました。

 その前年の67年に彼がカリフォルニア州の州知事自慢の施設を訪ねたとき、こんな「事件」が起こりました。視察の翌日、新聞記者からインタビューを受けた彼は、はじめは穏やかに話していましたが、やがて怒りをこめて、こう話しました。
「私が見たのは、子どもとおとなが一緒につめこまれ、疎外され、むき出しのコンクリートの床に50人の女性が寝起きしている姿でした。トイレには扉さえない。適切な教育もされていない。デンマークでは家畜でもこのように取り扱いません」
「このようなことを許しておくのは政治家の責任ではないでしょうか。政治家は自分や自分の子どもがこのようなところで暮らす立場になったらどのように思うかを考えてみるべきではないでしょうか」

 67年11月3日付けのサンフランシスコ・クロニクルには、当時のロナルド・レーガン州知事の次のような談話が載っています。
「デンマークの行政官がそのような発言をするとは、自身の立場を見失ったものだ」
 けれど結局、州知事は実態調査の委員会を発足させることになりました。調査結果はバンクミケルセンの発言が正しいことを裏付けました。
 レーガン州知事は非を認め、施設改革に着手しました。

■日本人への遺言と"死のノーマライゼーション"■
バンクミケルセンさんのメッセージ

 「日本を訪ねたいけれど、だめかもしれませんね」というバンクミケルセンさんに、「日本の人々へのメッセージを求めました。少し考えてから次のような言葉が返ってきました。
「ハンディキャップを負った人々のために、政治家や行政官、まわりの人々が何かをしようとするとき一番大切なのは、自分自身がそのような状態に置かれたとき、どう感じ、何をしたいか、それを真剣に考えることでしょう。そうすれば、答えは自ずから導きだせるはずです」
 通訳してくださった千葉忠夫さんがそれをタイプし、それにバンクミセケルセンさんがサインしてくださったのが、写真の文章です。

 1990年9月20日、バンクミケルセンは世を去りました。71歳。
 夫人の話では、死を悟り、病院から自宅に戻って1週間後、家族に囲まれての安らかな最期だったそうです。それは、「死のノーマライゼーション」を実現する世界初の法律「看取り寄り添い法」に支えられてのことでした。
 この法律は、かけがえのない人との最期のときをともにするために有給休暇をとれるという法律です。親子や夫婦だけでなく親友もこの休暇をとれます。条件は「本人の指名」です。何人かで分割してとることもできます。休暇をとったとしても、ホームヘルパーと訪問看護婦が24時間体制で市町村から派遣されることは同じです。

 バンクミケルセンが起草した1959年法のノーマライゼーションは、精神論ではありませんでした。
 人はどんなに障害が重くても、ノーマルライフを送る「権利」がある。社会はそれを保障する「責任」がある。つまり、権利と社会的責任に裏打ちされた思想でした。

(有斐閣『講座・障害をもつ人の人権・1−権利保障のシステム』第1部 第4章「ノーマライゼーションの理念と政策」より)


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