千葉・ちいき発


野沢和弘さん(障害者差別をなくすための研究会座長)

 障害者差別をなくす条例(正式名称・障害のある人もない人も共に暮らしやすい千葉県づくり条例)が10月11日に千葉県議会で成立しました。日本で初めてです。
 「条例ができたからといって差別がなくなるわけじゃないでしょ」などと言う人がいます。
 その通り。そんな簡単に差別はなくなりません。

しかし、この条例がどうやってできたのかを知ると、私たちがめざしているものが分かっていただけると思います。ただ、目の前の差別を解消するだけではなく、この社会で生きている一人一人がお互いの違いを認め合い、それぞれの立場や価値観を尊重できることが、これからの成熟社会には必要だと思います。そのための条例なのです。

■障害者と市民が立案

 千葉県では政策立案段階から「官」と「民」が一緒に会議をして福祉施策をつくっています。2年前に第三次千葉県障害者基本計画を作ったときもそうでした。
 「国が差別禁止法を作らないんだったら、県で条例を作りましょう」
 あまり出席できなかった私は何か言わなくてはとつい口走ったのが県条例のことでした。深い思惑があったわけではありません。何となくみんなが賛成してくれて、分厚い最終報告に少しだけ条例のことが載りました。
 それを堂本暁子知事がめざとく見つけて、「そうよ、国に先駆けて千葉県が障害者差別をなくす条例を作りましょう」と賛同し、あれよあれよという間に条例をつくるための研究会が組織されることになりました。

 悪い予感はしていたのですが、座長には言い出しっぺである私に白羽の矢が立ち、2005年1月から研究会はスタートしました。日本弁護士連合会やDPIなどが障害者差別禁止法案をつくって発表していましたが、なかなか国は動こうとしませんでした。法律家や障害者だけでどんなによいものを作っても、世の中には響いていかないのかなあと思い、千葉県の研究会には企業関係者も4人入ってもらいました。これは当時の竹林悟史障害福祉課長のアイデアです。

 また、ふつうは国や県が民間委員を集めて審議会や検討会をつくるときは、それなりに名が通っていて、当局側の意向を聞いてくれる委員を選ぶものです。しかし、千葉県は委員を公募しました。そうして29人の委員が集まったのですが、研究会の名簿を見て、ある県庁職員は青ざめた顔で言いました。
 「こんなに自己主張の激しい人ばかりでは、まとまりませんよ」
 名うての運動家で、県や市町村の職員の間では有名だった人が何人もいたというわけです。運動家といっても過激派なのではなく、うるさい障害当事者や家族として知られていたということですが、実際に研究会がはじまってみると、なるほど、なかなか議論はまとまりませんでした。

 目の見えない人、耳の聞こえない人、精神障害の人、車いすの人、知的障害者の家族……。みんなが「自分たちの障害がなんといっても一番大変なんだ」とばかりに主張します。自分たちはこんなに苦しい目にあっているんだ、と意見のぶつけ合いばかりで、議論は先に進みません。障害者同士が手話通訳を介して激しい議論をはじめたりもしました。

 企業の人たちは黙って下を向いたままです。私は心の中で思っていました。
 <そりゃあ、それぞれに障害をもって大変かもしれないけど、ここで議論ができるのだからまだいいじゃないか、私の子どものように言葉のない重度の障害者はこういう会議にすら出られない。やっぱり、知的障害者が一番大変なんじゃないか>
 しかし、じっと彼らの話を聞いていると、耳の聞こえない人も大変な目にあっていることが分かってきました。あの疎外感というのか、孤立感というものはたまらないものです。また、精神障害の人は絞り出すような声で「名前を隠さなければ生きていけない」「家族からも隠れて生きている」と言います。その言葉は重い塊となって私の腹に沈んでいきました。

 目の不自由な人からは独特のセンスとユーモアを教えられました。あるタウンミーティングで、彼はこんなことを言いました。
「神様のいたずらで、障害者はどの時代でもどの町でも一定の割合で生まれる。だけど、神様のいたずらが過ぎて、この町で目の見えない人が多くなったら、どうなるかみなさん考えてください。私はこの町の市長選に立候補する。そしたら、目が見えない人が多いので、私はたぶん当選するでしょう。そのとき、私は選挙公約をこうします。この町の財政も厳しいし、地球の環境にも配慮しなければいけないので、灯りをすべて撤去する」
「そうしたら、目の見える人たちがあわてて飛んでくるでしょう。『なんて公約をするんだ。だいたい夜は危なくて通りを歩けやしないじゃないか』と。市長になった私はこう言います。『あなたたちの気持ちはわかるけれども、一部の人たちのわがままには付き合いきれません。少しは一般市民のことも考えてください』。そう、視覚障害者である私たち一般市民にとっては、灯りなんて何の必要もない。そのために地球環境がこんな危機に瀕しているのに、なんで目の見える人はわがままを言うんだろう」

 車椅子用のトイレを作ろうとすると、「こんなに財政厳しいのに、一部の人たちのために、そんなお金を使うのはもったいないんじゃないか」という議論がよく起きるけれど、車椅子の人たちのほうが大勢になったときのことを考えたら、なかなかそんなことを面と向かっていえなくなるだろうということを、彼は言いたいわけです。障害の問題の本質は、何かができるかできないかということではない。どういう特性を持った人が多数で、どういう特性を持った人が少数なのか、そして多数の人は少数の人のことをわかっているかいないのか……ということに尽きるのではないでしょうか。

 研究会の仲間たちとそんな議論を重ねていると、私は知的障害者だけが特別に大変な思いをしているのだとは思えなくなってきました。みんなもお互いの苦労に共感するようになってきて、何とか折り合いをつけなくてはいけないんじゃないかという風になってきました。そうすると、企業関係者もだんだん考えるようになってきて、下を向いていた顔が上がってきました。

■障害者だからといって甘えるな

 研究会内の話し合いだけではなく、外部の関係団体のヒヤリングも実施しました。中小企業の経営者からは厳しいことを言われました。
 「みなさんは障害者だからといって甘えているんじゃないですか。私たちだって障害者を雇いたい。だけど、この10年に及ぶ日本の不況の中で、中小企業は一体どれだけつぶれていったのかをあなたたちは知っているのか。何でもかんでも障害者を雇えと言っても、会社の維持だって大変なんだ。給料もたくさん上げたいけれども、そうしたら会社はつぶれちゃうじゃないか」
 あまりの迫力にみんな言葉もなく聴き入っていました。

 その経営者は実は、誰よりも障害者のことを理解してくれている人でした。というのは、自分にも重度の知的障害の息子がいて、会社の経営は苦しいけれども障害者を雇っている。それだけではなくて、ほかの経営者仲間にも、障害者を雇うように一生懸命働きかけている人なのです。
 「障害者のつらさを訴えているだけではだめだ。いま、企業がどうなっているかということもわかった上で言ってきてくれなければ、障害者の声は企業には届かない」ということを、自ら憎まれ役を買って出て言ってくれたわけです。
 すると、だんだん障害者の中で折り合いをつけていこうということから、社会とも折り合いをつけなくてはならないのじゃないかというところに意識が働いていきました。

 タウンミーティングもやりました。県内30か所以上で。それぞれ地元の市民や障害者のグループが手作りで開催してくれたのです。
 千葉市にある淑徳大学の講堂でやったときには、精神障害の人たちが自ら企画したものでした。私は少し遅れて到着したのですが、すごい熱気でした。ほとんどが障害関係者で重くて濃密な空気が会場に漂っていました。会場の中ほどで、ハデな服を着た年配の女性が一生懸命メモを取っている姿が目に入りました。その人だけはどうも周囲とは雰囲気が全然違います。なんだろうと思って座ってチラチラ眺めていたのですが、ふと思い当たることがあって前に回ってみたら、やっぱりそうでした。
 堂本知事だったのです。ふつうは市民主催のタウンミーティングに知事が来賓としてやってきても、挨拶をしてさっさと帰っていくものですが、堂本知事は「きょうは障害者の人たちのことを勉強に来たのだから、挨拶はいいからと、ずっと意見を聞かせてね」というのです。

 鴨川という房総半島の南の市でのタウンミーティングでは、女子高生たちが養護学校や障害者施設を見学して、障害者の暮らしにくさについて調べて、それをもとに寸劇を披露してくれました。スーパーに買い物に来ていた自閉症の女の子が突然、パニックを起こしてしまい、周囲の客や店員さんがどう対処していいか分からなくておどおどしている……という場面を演じた時には、会場から大拍手が起こりました。女子高生はシンポジストにもなりました。
 ところが、女子高校生は演じるのは得意だけれど、人前で話すのは苦手で、声が出なくなってしまいました。隣には精神障害の青年が座っていて、悪役レスラーみたいな顔をした人なのですが、すごくナイーブでやさしくて、心配そうな顔で女子高生を励ましました。
 「俺なんかさ、青春時代は精神病院の鉄格子の中で送っていたからさあ。こんなの大丈夫だよ」
 あたたかい笑いとともに、なごやかな空気が会場に広がっていきました。

 その隣のシンポジストのお母さんは、重度心身障害の娘さんがいる人でした。ずっと寝たきりの娘を抱えて生きています。
 「つらいことも多いが、小学生のお兄ちゃんが優しくて支えてくれて、そのお兄ちゃんがいるために自分たちは本当に助かっている」。
 しかし、その兄も「学校には(妹を)連れこないで」と言うそうなのです。最近はいじめによる子供の自殺なども相次いでおり、学校という子供社会で生きていくのも大変です。重い障害の妹を見られたら、いじめや冷やかしの対象になるかもしれない、と心配だったのでしょうか。お母さんは、お兄ちゃんの気持ちが痛いほどわかるのですが、学校ではいないことにされている妹のことも不憫に思うのです。

 ある日、兄が学校で野球の選手に選ばれて、野球大会が行われました。妹にも兄の活躍する姿を見せたくて、お母さんは車いすに妹を乗せて応援に行きました。たぶん、お兄ちゃんの気持ちを慮って、隠れるようにして応援していたのでしょう。その甲斐があってか、お兄ちゃんのチームは勝ちました。「よかったね」と妹の車いすを押して帰ろうとした時です。
 兄のチームメイトが目ざとく見つけて、走ってきました。車椅子の中の重度心身障害の小さな女の子を、子供たちはまじまじとじと見つめていたそうです。お母さんの心臓の鼓動が聞こえてきそうです。あんなにやさしいお兄ちゃんに「学校にだけはつれてこないでね」と言われていたのに……。
 そのとき、じーっと見ていた子どもたちの何人かが手をのばしてきて、妹の頭を撫でて言ったそうです。
 「勝利の女神だね」

 会場はジーンとした感動に包まれました。なんで子供たちはそんなことをしたんでしょう。お兄ちゃんは彼らにとって大事な仲間です。妹を隠さなければいけないと思っている友達の気持ちが痛いほど通じる、それが仲間なのです。どうやって「大丈夫だよ」という気持ちを伝えていいのかわからないから、子供ならではの直感的な行動に出て、「勝利の女神だね」なんて言葉が出てきたのでしょう。
 今の子供たちは「生きる力が希薄だ」と言われています。いじめ、不登校、引きこもり、リストカット、ニート……子供たちをめぐる暗い話題には事欠きません。いったい、生きる力とは何なのでしょうか。
 同時代、同じ地域で生きている仲間同士が、痛みや悲しみに触れ合って、心が共鳴するような、そういう中で自分の存在感をしっかりつかんでいく、相手の存在感も認める。そうやってお互いに自分自身を肯定し愛していくことができるのではないでしょうか。そういう体験が子どもたちの生きる力をはぐくんでいく大事な要素ではないのかなと思うことがあります。

 障害児とその兄弟をめぐる鴨川のエピソードは、大きなヒントを与えてくれるのではないでしょうか。私たちが作ろうとしている条例は、障害者のための条例ではあるけれども、決して障害者のためだけではない。すべての人間にとって、とくに子どもたちに、お互いの人間の違い、お互いの悲しみやつらさを分かり合い理解しあって、同じ時代を同じ地域で生きていこうという一つの大きな根拠になるのではないかと確信しました。

 ここでは条例の中身を論じる紙幅の余裕がありません。詳しくは千葉県のホームぺージをご覧ください。
 ひとことで言えば−−障害を定義し、差別について分野ごとに類型を示して定義し、これらに当てはまるものについては@相談員A広域専門指導員B調整委員会などの機関が、仲介、調停、勧告などによって解決に努める、というのが条例の「骨」です。また、教育や啓発を重視し、障害当事者と関係団体と県による推進会議が、個々の差別事例から浮かんできた普遍的な課題を解決するために政策立案に努めるということも盛り込まれています。

 条例の基本的なコンセプトは、差別している人を見つけ出して罰しようというものではありません。条例には法律の範囲を超えるものを盛り込めないという制約もあります。しかし、国がつくる法律と違って、身近な問題を解決するためには、無理やり罰則をつけようと言うのではなくて、もっと話し合いの場をつくり、お互いに理解してもらうような仕組みを作っていく。
 そんな「soft law」(しなやかな解決手段)の方がふさわしいと私は思います。

■議会という壁

 条例案ができたのは05年末でした。大変な感動を持って、この一年に及ぶ活動の集大成として条例案が完成しました。大勢の人たちの努力の結晶としてできた条例案。まさに「市民立法」です。しかし、どんなに素晴らしい条例案も県議会で可決されなければ施行はされません。ただの紙切れです。
 年が明けて、2月議会に条例案は提出されました。千葉県議会は議席の7割を自民党が占めています。その自民党は「野党宣言」をしており、堂本県政との対決姿勢をことあるごとに示しています。県執行部は自民党を中心に各会派の議員への根回しに執心しました。私自身も千葉県育成会会長らとともに、自民党政調会長に条例成立に向けての協力をお願いにいきました。

 「条例の内容はいい。しかし、ばあさん(知事)のやり方が気に入らないとみんな怒っている。まあ、何とか成立させようという議員もいるし、大丈夫だろう」
 政調会長は苦笑いしながら言いました。条例案が議会に提出される前に新聞各紙が大きく報道したことが気に入らないのです。しかし、この時点では感触はそんなに悪くはありませんでした。

 ところが、2月議会が始まって議員が質問に立つようになると、次第に批判の声が大きくなって行きました。「障害児がだれでも普通学級に入ってきたら、一般の生徒の授業に支障が出るようになる」「どんな障害者も雇わなくてはならないようになる」「財政的な裏づけがなければ、こんな条例を作っても障害者をぬか喜びさせるだけに終わる」「一般社会と障害者の軋轢を強めるだけだ」「障害者に特権を与えるような条例を作るわけにはいかない」。議会の場だけでなく、自民党側からはこれでもかこれでもかと批判が浴びせられるようになりました。

 その多くは誤解に基づくものや、はじめから批判するために無理矢理持に考え出した「インネン」のようなものでした。なんとか条例を正しく理解してもらおうと、私はニュースレター「やっぱり必要! みんなで作ろう」を連日作ってはメールで関係者に送信しました。
 育成会のお母さんたちはそれを全県会議員にファクスし、千葉県政記者クラブに持参しました。自民党以外の会派の議員からは好評で、県庁職員たちもニュースを熱心に読んでくれました。土日を除く連日発行です。朝起きて会社に行く前にパソコンに向かい、未明に帰宅してから寝る前の短い時間にまたパソコンに向かい、それこそ意地になってニュースを発行し続けました。条例案が議会に提出してからは、私がやれることはこのくらいしかありませんでした。なんとか賛同者を増やそう、条例を作ろうという空気を広げていこうとの一心からでした。

 ところが、自民党の批判はなかなか収まりません。議会でも相変わらず厳しい批判が知事に浴びせられていました。傍聴席がガラガラだったせいもあります。
 「障害者の願いから条例案を作ったなんていいながら、誰も傍聴に来ないじゃないか。やっぱり知事がいい格好をするために一部の障害者を利用しているだけだ」などという中傷まで聞こえてきました。

 ちょうどそのころ、「障害者自立支援法」の勉強会には、黙っていても大勢が詰め掛けてきていました。目の前の制度改革は生活に直結するために関心があるけれど、権利を守るなどという抽象的な取り組みはピンと来なかったのかもしれません。結局、2月議会は議論が不足しているという理由で継続審査にされてしまいました。

■撤回か否決か

 6月議会に向けて、もう一度足元を固めて態勢を立て直さなければなりません。県内各地の親の会を中心に、なぜ条例が必要なのか、どのような内容の条例なのかを説明する「勉強会」を開催しました。
 1か月に22回。そのうち16回に私は出席しました。午前、午後、夜、仕事の合間に千葉県内を駆けずり回りました。200人近くが詰め掛けた会場もあれば、大事な仕事を抜け出して駆けつけたのに会場が20人程度で閑散としていたこともありました。 ただ、どの会場も地元の県会議員や市会議員がやってきて熱心に耳を傾け、メモを取っていました。
 こうした努力が実って、6月議会が始まると、多くの障害者や家族が傍聴席を埋めるようになりました。しかし、相手はさらに上手でした。
 自民党の反対派が各市町村の教育委員会に一斉に批判の声を上げさせました。統合教育を求める親たちと対立している市町村教委は「こんな条例ができたら大変なことになる」と騒ぎ、それに自民党内の反対が増幅して大きな流れが出来上がっていたのです。

 6月議会でなんとか成立させてほしいと私たちは思っていましたが、成立するどころか、「修正しなければ否決だ」という意見が自民党内で高まっていました。知事側はなかなか修正はできません。
 なぜなら、男女共同参画条例のときには「原案を修正しなければ否決する」と迫られ、涙を飲んで修正したところ、その修正案を否決されたことがあったからです。修正したために支持者まで知事のもとを離れていってしまいました。こんなひどいだまし討ちはありません。
 知事の顔に泥を塗って笑っている。そんな仕打ちを受けて、また同じ過ちを繰り返すことなどできるわけがありません。修正したときには必ず成立させるという確約がなければ修正はできないのです。それをわかっていて、自民党側は修正を求めてきました。そうした事情を知らないマスコミは知事や県の姿勢がかたくなだとして批判的に報道し始めました。

 追い詰められた堂本知事は6月議会の冒頭、「修正案を用意して9月議会に提出するので、6月議会は継続審査にしてほしい」と自民党に申し入れることになりました。苦渋の判断でしたが、そうしなければ否決されそうな勢いだったので仕方がありません。
 ところが、自民党側は「2月議会であんなに議会から反対されたのに、そのときは修正しないといって、教育委員会がだめだといったら修正するのは議会軽視だ」と、かさにかかって攻めてきます。ついには「原案を白紙撤回しなければだめだ」「こんな修正しなければいけないような欠陥条例を出してきた知事の責任を問う。不信任決議案だ」とまで言い出す始末です。それがどんなに理不尽なことであっても、7割の議席を占めている自民党が本気になったら知事の不信任決議案を出すことは難しくはありません。

 堂本知事は自民党の政調会に自ら2度まで出て行って説得しようと努めましたが、反対派は容赦なく批判を浴びせました。原案を一度撤回したら、次の議会に提出できる保障はどこにもありません。進むも地獄、退くも地獄です。がけっぷちに追い詰められた知事は最後に言いました。
 「研究会の意見を聞かなければ撤回することはできません。この条例案を作ったのは障害のある人を中心にした研究会なのですから」
 だれも予想もしなかった展開になった末に、条例案をどうするのかは私たちの研究会に委ねられることになりました。

 半年振りに開かれた研究会は、マスコミ各社が注視する中で行われました。堂本知事もずっと私たちの議論に耳を傾けていました。
 7割の議席を自民党が占め、反対派の無理無体をだれも止められない状況では、たとえ現在の自民党の要求を呑んで撤回したところで、次の9月議会で成立する目はほとんどないように思えました。翌年4月には県議会選挙があります。ここは筋を通して条例を6月議会に提出して正面突破を図った方が、仮に否決されてしまったとしても、自民党の理不尽さを天下に示すことができるのではないか。そうすれば来年の県議選で議会の勢力図を変える可能性が開けるのではないか、とも思いました。
 しかし、追い詰められた中で1カ月に22回も開いた勉強会での光景が頭をよぎります。条例案が議会にかかっていればこそ、県会議員や市会議員が注目してくれたのです。障害者のことを社会に理解してもらうために、こんなに良い足がかりはありません。正面突破を図って筋を通すのはいいけれど、それで条例案が否決されてしまっては、そうした足がかりを完全に失ってしまいます。

 研究会の委員からは「条例の灯を消さないでほしい」という意見が相次ぎました。そもそもこの条例案は、差別する人と対決するのではなく、粘り強く対話を重ね、お互いの立場や価値観を認め合って折り合いを付けていこうというものです。私たちの側にも県議会を理解しようという思いが足りなかったのではないか、自民党に根強くある価値観をはなから否定的に見ているだけで、歩み寄ろうという意識が足りなかったのではないかとも思えてきます。条例案の基本コンセプトを踏まえれば、ここで自民党と敵対して話し合いの芽をつぶすのは自己矛盾の極みというものです。
 堂本知事は研究会の翌朝、自民党千葉県連の政調会長に条例原案を撤回する意向を伝えました。政治家として顔に泥を塗られることになりますが、障害者のために屈辱を味わう道を選んでくれたのです。

 その日、千葉県議会の傍聴席は満員でした。午前10時から始まり、休会をはさんで条例案の撤回案の議決が行われたときは日が傾きかけていました。私たちが手塩にかけて作ってきた条例案はついに撤回されました。
 反対派の議員は、冷ややかに笑いながら議場を去っていきました。これでいいのだろうか、というように複雑な視線を傍聴席に投げかけて議場を去る議員もいます。多くの議員が傍聴席を見ないように下を向いたまま去って行きました。だれも議場にいなくなってからも、私たちは傍聴席を立つことができませんでした。深いため息が重く漂っていました。そのとき、広い議場の片隅で、堂本知事が一人立ち尽くしてこちらを見つめていることに気づきました。落胆して傍聴席でぼうぜんとしている私たちをじっと見つめているのです。傍聴席が少しざわめきました。

 「知事、最後までがんばってください」「私たちが付いています」
 傍聴席から声が上がると、堂本知事はこちらに向かって静かに頭を下げました。すすり泣きと共に拍手が起こりました。みんな悔しくて、悲しかったのですが、それだけではありません。知事がここまで障害者のために恥をかいてくれたことに胸がいっぱいになったのです。

■勝利の女神

 自民党が変わりだしたのはそれからです。黙って声を上げられなかった良識派の議員たちが「なんとかしてやらなければならないんじゃないか」ということで、苦労しながら党内を説得してくれました。
 ただし、反対派も最後の最後まであの手この手の奇策を繰り出して成立を阻もうとしてきました。さまざまなドラマがその後も延々と繰り返された末、10月11日、条例は成立しました。内容はずいぶん後退もしましたが、自民党内に多くの賛成の声が上がるようになりました。
 本来ならば原案を支持してくれた他会派は面白いわけがないのですが、悔しさを飲み込んで最後には賛成に回ってくれました。

 私はと言えば、条例が成立してからも1週間くらいは、相変わらず明け方に目を覚まし、胃の痛みを感じる日が続きました。もう思い出したくもない苦労でしたが、こうしたプロセスがこれからの地域福祉の大きな土台になっていくのではないかとも思えてきます。
 福祉に熱心な知事や市長が登場した自治体が全国でも先駆的な福祉を実現することはよくありました。しかし、その市長や知事がいなくなった途端に逆戻りしてしまう例も見てきました。
 障害者や家族はどんな市長や知事になってもその地域で生きていかなければなりません。どんな政治情勢になっても経済情勢になっても、障害者の生活をきちんと守っていくためには、地域に根ざした活動を続けていかなければならないと思います。国や首長に期待するだけではなく、私たち自身が有権者と納税者の理解と納得を得る努力を続けていかなければ、障害者にとってよい社会は実現しないのではないかと思います。

 では、有権者と納税者とはだれなのでしょうか。私たち親は自分が生きている間は、なんとしてもわが子の生活を守ろうとします。しかし、自分が老いて死んでいったあとの生活が、障害のある子にとっては長いのです。そのときに同じ世代や下の世代の人たちが障害者のことを理解してくれる有権者や納税者になっていてくれなければ心配です。
 鴨川のタウンミーティングで重度心身障害の女の子の頭をなでて「勝利の女神だね」と言った子どもたちが、いずれはこの地域の納税者になり有権者になっているのです。そのための条例なのです。

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