この法律については、基本的に2つの見方が可能だと思われる。
1つは、これを、これまでの障害者運動と障害者支援が、連綿と築き上げてきた進歩や成果に、逆行するとんでもない法律だ、とする見解である。
もう一つは、介護保険以降の社会的介助保障の着実なる展開の方向を明確にした法律だとする見解である。
このいわば180度異なる見解や評価の相違は、どこから生まれてきたのか
それは、基本的に介護保険に対する評価と、支援費制度に対する評価の違いの問題である。
1960年代の高度経済成長を、1973年の第1次オイルショックがストップさせたあと、これまでの欧米に追いつけ追い越せだったわが国の社会福祉・社会保障は、いわゆる日本型福祉社会論のもとで、「個人の自助努力と家族・家庭や近隣・地域社会等の互助・共助を基礎としつつ、効率の良い政府が適正な公助を行う」こととなり、その結果、老人医療無料化制度の廃止、年金保険料負担の増大、医療保険の自己負担の増大等が行われた。
この日本型福祉社会の小さくて効率的な国家の考え方は、詰まるところ、福祉国家が障害者や高齢者を含めた全ての国民に、健康で文化的な一定程度の生活を保障するのではなく、個人や家族等の自己負担や相互扶助の結果一定程度以下の生活になるのは、本人や家族等の責任という考え方である。
問題は、「介護保険」を、社会的介助保障ではなく、自助・共助の一連の流れの中に位置づけるのか、それとも、その様な流れに一定抗して勝ち取られたものと見るかである。
それを保険料の支払いや定率の利用料負担を伴う自助・共助の「保険制度」としてみれば、まさに、日本型福祉社会の流れそのもののように見える。ところが、この介護保険は、その財源の2分の1を税金でまかなっているだけで無く、全国一律の要介護認定の仕組みやサービス単価等、極めてナショナルミニマム的な制度設計が施されている。これは、様々な保険制度を有する医療よりも、なおそうなのだ。勿論、保険料負担や利用料負担を前提とした保険制度をして、ナショナルミニマムの保障だなどと言えば、それは暴論だということにもなろう。それは、ただただ、市町村ごとの大きな格差の中で、ほとんど家族に押しつけられていた介護が、ほぼ全国一律の条件のもとで、ある程度の社会的介護保障として展開されるようになったと言う意味での、ナショナルミニマムである。
今回の介護保険の見直しに対する、旧介護保険推進派の一部による批判は、そもそもこの介護保険が、この2つの側面の極めて巧妙なバランスの下での、同床異夢的な制度設計であったことを示している。見直し後の介護保険が、どの程度の社会的介助保障であるのかは、3つの指標によって判断可能である。
指標―1は、本人が在宅での地域生活を希望(自己決定)し、社会的介護があればそれが可能な場合に、どこまでの介護を、本人の可能な負担の範囲で行なうかである。
指標―2は、本人の自己決定・理解に支援が必要となった場合に、本人の自己決定に基づくライフスタイル(参加と役割)を尊重するために、どのような形で、どこまでの支援を行なうかである。
指標―3は、私たちの普通の生活スタイルである、ウイークデイの教育や就労の世界と、ウイークエンドやアフター5の遊びや仲間活動の世界と、夜間の寝泊り・憩いの世界という3つの世界をどのように支援できているかである。
指標―1は、主に身体機能障害に対する介護支援であるが、要介護認定の中心が身体介護であったとしても、その上限である要介護5の36万円の居宅サービスでは、かなりの資産がなければ、1人暮らしの重度障害者には、上限を超えた負担は困難である。
指標―2は、主に知的・精神機能障害に対する自己決定・理解支援であるが、介護保険が身体機能障害中心の要介護度認定を変更しきれておらず、いまだ認知症高齢者とその家族への支援が十分ではない。
指標―3は、介護保険の最大の問題点を示している。これは後にも見るように、高齢者とそうではない人の一般的な生活スタイルの違いであると共に、急性期ケア(Acute Care)と長期ケア(Long Term Care)における一般的な生活スタイルの違いでもある。最大の問題は、わが国では、高齢者においては、長期ケアの生活スタイルが急性期ケアと明確には分離できておらず、相変わらず病人・患者モデルに毒されていて、サービス提供側中心の支援スタイルのままだという点である。自己決定に基づくライフスタイル(参加と役割)は、決して、どこのホームヘルパーやデイサービスや特養を選択するかといった問題ではないのだ。それは、家庭生活や社会生活(生涯学習・社会的労働・余暇活動・政治的活動・宗教的活動・近隣地域活動等)の中身や、それに必要な支援について支援者と共に取り組み、本人の気力や体調に見合った形で実現されるものなのだ。そのことが理解されれば、介護保険の守備範囲の議論も明確になり、障害者と介護保険との関係も見えてこよう。
ここで、障害者の支援に目を転じたいと思う。
ある意味で、障害者の支援政策は、高齢者ほど大きな変化は、無かったとも言える。高齢者人口の増加と栄養・衛生・医療等による寿命の長期化のもたらした、劇的な介護問題の爆発は、障害者にはなかったからである。つまりは、小さな悲惨と小さな爆発の連続、それが障害者問題だった。
障害者問題のささやかではあったが、重要な変化は、1981年の国際障害者年であった。それが、たとえ理念倒れで終わったのだとしても、その「完全参加と平等」という理念は、向かうべき目標として、多くの障害当事者や関係者の中に位置付いたといえる。
そして、確かに、きわめてゆっくりとではあったが、1981年の国際障害者年以降2003年の支援費にいたるプロセスは、就労の如何や障害の重度軽度を問わず全ての障害者が、地域で自立して生活することを可能とする社会的基盤の獲得・形成を目指すものであった。
厚労省は、その事について、それは唯の障害当事者や関係者の合意であって、国民的合意ではなかったというかも知れないが、障害者福祉といったマイナーな予算は、それ程目くじらを立てられることもなかったと言える。ところが現在のような超低空飛行の時代においては、社会的基盤形成には、国民的合意形成も含まれているというわけだ。なぜなら、予算を伴うことなら、国民の信託を受けていると見なされる国会議員の合意形成が必要ということになるからだ。しかし、経済優先以外に、未だ確固たる市民的論理を形成できずにいる我が国民や議員に対して、それをただちに求めるのは困難であって、障害者支援に関しては、基本的には障害当事者の意向や国際的動向を、大切にすべきではないのか。
このことで、このところ、当事者論に関して、様々な意見が飛び交っている。
一番混乱しているのは、税金な投入されている場合は、税の負担者も当事者であるとか、保険制度の場合は、保険者も、保険料を払う人も全て当事者でという議論である。そんな議論をして、いったいどうしたいというのだ。当事者を税負担者や保険料を払う人全員に広げることは、つまりは、障害者本人の意向や希望は2の次だと言うに等しい。なぜなら、彼らは、税負担者としても、保険料負担者としても絶対的にマイノリティだからである。
そのよう議論をする人が、はたして、特定の病気の人の意向や希望ではなく、全ての保険料を払う人の意向や希望を考慮して、治療計画を立てることを、本気で主張するのかどうか知りたいものである。
そのような議論や主張は、常に、幾ばくかの、障害者に対するする差別や偏見、あるいはそこまで言わなくても、彼らは、無知で無茶な要求をする奴だ、あるいは、正直にいえば、かれらにそこまで金は出したくないと言う意向が、意識的・無意識的に働いているように、私には思われる。
障害者本人の論理は、実に簡単明瞭であって、自分たち障害者のために、様々な障害者支援の法律や制度やサービスがあるのだとしたら、「それは自分達障害者のためになされるものなのだから、まず自分たち障害者に相談するべきだ」という、それはなんといっても、当事者間における優先順位の問題なのだ。
私は、それは間違っていないと思う。それは、私たちが、障害者支援の目標を、障害者ひとりひとりのエンパワーメント、つまりは、「本人が自分自身の能力と可能性を最大限発揮して個性的に生きること」に置いているからである。
そのためには、障害者本人が、サービス提供者の言いなりになって、無気力で依存的な存在になることが、もっともよくないことである。施設や病院に入っている方が、安全で安上がりといった考えは、間違いも甚だしい。施設や病院にいる限りは、彼らは、唯の無力で何の役にも立たない、サービスの浪費者にすぎないのだ。
本人が一番本人のことをよく知っているから、本人に訊くべきだという論理は、「よく知っている」とは、何を意味するのかによるという意見もあろう。私見では、そのことを、本人が一番よく知っているかどうかではなく、本人の人生のことはなんだかんだ言っても、「あなたの人生なんだから、結局はあなた自身の責任で決めなければならない」からである。誰も、他人の人生の中身も責任もとれはしない。だとすれば、本人がその中身も責任もとれるようにしてあげるのが、我々の精一杯の支援ということではないのか?本人に訊き、また本人がその社会的責任において自己決定・自己選択できるように支援し、そしてその決定をできる限り尊重して支援するほか無いではないか。
さて、ここまで来れば、今回の「自立支援法」の評価と問題点も見えてくる。
彼らが、その社会的責任においてと書いたのは、彼らが地域社会の一員として存在すると言うことと同義である。「自立支援法」が、障害者の就労に力点をおいていることは間違いではない。
しかし、これは、相手があってのことである。つまりは、社会も企業も変わらなければならない。社会が変わらなければ、本人はどうすればいいのか? 社会を変えればいい?自分を変えればいい?
おそらく、答はその中間にあるのではなさそうだ。答は、それぞれの人間にふさわしい働き方と働きぶりと働く場にあるのだ。人類の生の営みは、それを見つける途上にあるものと思われる。
自立支援法が、就労移行支援や就労継続支援の単価を強調するあまり、就労関係以外のサービスの単価を切り下げれば、低賃金の福祉労働者が僅かな高賃金を求めて、障害者を低賃金労働者へと駆り立ててゆく現場の状況が、目に浮かぶではないか。
間違ってはいけない。それぞれの人間にふさわしい働き方と働きぶりと働く場というものは、決して固定的なものではない。今、本人が本人らしく働きかけることが、本当にできているのだとすれば、その場こそが、現在の彼・彼女にとっての働く場なのだ。
そこで生みだされるものの単価が、たとえ、ジェイコム株の誤発注の僅かな時間の間に、火事場泥棒的に、しかし合法的に儲けた金額の何千万分の一であったとしても、それはこの国の市場万能・原理主義の為せる技なのだ。火事場泥棒的何十億の対して、どれだけの税金をどのようにかけるのかによって、その国の姿も違ってこよう。その税をして、必死のその人にふさわしい働き方と働きぶりと働く場で生きる低賃金や、超低賃金や無賃金の社会的労働者に、どのように再分配を行い、健康で文化的な尊厳のある生活を可能とするのかが、この国が問われている最大の課題だといえよう。
自立支援法についての批判のなかで、最も強いのが、障害程度区分に基づく介護給付の上限額設定と、サービス利用上の基本的1割負担である。
これは、つまりは、自立支援法の介護給付が、介護保険の給付と相似形であるということにほかならない。
そして、この問題は、支援費制度の評価に直結する問題でもある。厚労省は、このような仕組みを導入することによって、支援費の居宅支援部分の裁量的経費からの義務的経費化が可能になったのであって、このままでは、支援費制度は、財政破綻を免れなかったと主張する。
一方、批判側の当事者や関係者は、そもそもこれまで抑制されていた、地域生活に必要な、ホームヘルプやガイドヘルプやグループホーム等のサービスが、必要に応じて申請でき、市町村の裁量で決定できた支援費制度を、予算が追いつかないと言う理由で、たった3年で変えることは許し難いと主張する。
これは、確かに厚労省の側の制度的ミスであると言われても仕方がないと思われる。それでも、厚労省は、支援費が成し得た成果は、その裁量が有効に機能し得た一定の市町村だけであって、自立支援法でより裾を広げて、多くの市町村で適切なサービス量を確保するためにも、義務的経費化が必至だったのだと力説した。
問題は障害者自立支援法が、障害者運動や障害者支援のこれまでのゆっくりではあるが着実に歩んできた地域生活支援の方向性と、わが国の、小さくて効率的な国家財政・政策の方向性のまじわらざる接点に位置することである。
国の一般歳出が、2001年度の48.6兆円から2006年度には46.3兆円と減少傾向が続き、しかも、社会保障関連費は、2001年度の17.5兆円(36.1%)から2006年度には20.5兆円(44.3%)と増加傾向が続くことになる。これは、税源の増加を抑えるなかでの、高齢者人口の増加にともなう年金・医療・介護の自然増を考えれば、当然の結果ともいえる。
OECDのデータによれば、わが国のGDPに占める障害者関連予算の割合は、欧米先進諸国の最低に位置する。それを見れば、支援費の方向は、ささやかだが、当然の流れといえる。しかし、わが国の国家予算の現状と、現政権の政策動向を見れば、厚労省が、ともかくも手堅く、居宅支援費の義務的経費化を図ったことも頷けよう。
おそらく、自立支援法なるものは、これからの大きな改革の第1歩なのだと思われる。
しかし次に来るものは、より大きな改革の方向性を決定づける可能性が高い。
「介護保険法」の第1条(目的)には、「これらの者がその有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるよう、必要な‥‥給付を行うため‥‥介護保険制度を設け‥‥」とある。
一方、「障害者自立支援法」の同じく第1条(目的)には、「障害者が、その有する能力及び適性に応じ、自立した日常生活又は社会生活を営むことができるよう、必要な障害福祉サービスに係る給付その他の支援を行い‥‥」とある。
障害者自立支援法には、介護保険法にはない社会生活等の表現が入っていると評価できるようなものではない。問題は2つある。
ひとつは、これらの法律には、「能力に応じた」という、能力主義的人間観が存在することである。戦後のわが国の障害者運動が戦ってきたのは、まさにこの能力主義的人間観であったと言っていい。その人間観に基づいて、働けない重度の障害者は、本人が成人になっても、家族が介護をするか、それが困難となれば、普通の地域生活ではなく施設生活を強いられたからである。そのことを鑑みれば、当然法文は、以下のように改められるべきである。「この法律の対象者が、人間の尊厳にふさわしい、可能な限り独立しかつ自立性のある生活が可能となるよう‥‥」
私たちは、それと同じ表現を「ドイツ介護保険法」に見いだして、おもわず、わが国もそれでいこうじゃないかと、思ってしまう。
もうひとつの問題は、障害者自立支援法は、介護保険の様な保険制度とは違うと言うことである。保険制度の場合には、制度の非該当の人や、制度のサービスを超えた人に対しては、他の一般法が用意されることになる。ところが、障害者自立支援法の場合は、それ自体が一般法なので、後は生活保護しか残されていないことになる。
その意味でも、障害者自立支援法が、介護保険の極めて限定的な「介護概念」と、保険料との関連におけるサービスの「上限規定」に対して、障害児・者の教育・就労・余暇という社会参加の諸サービスをどのように位置づけることができたのか、さらに、重度の障害者であっても施設以外の地域で暮らすのに必要なサービスはどのように位置づけられたのかが、とても重要である。
さらに紙数の許す範囲で、いくつかの解決すべき課題を、取り上げておこう。
@ まずは、障害程度区分である。
介護保険の主に身体機能に対する直接的支援を中心とするアセスメントに基づく障害程度区分は、知的や精神障害者が必要とする、精神機能に対する直接的支援を意味する「自己決定・理解支援」を、ほとんど反映しないものである。それは、障害者関連の新27項目といった付け足しでは、真の支援の必要度測定とはならない。
できる・できないのアセスメントでは、質の高い支援を提供することによる支援の必要度の低下を招くという問題も起こりうる。支援費における、必要のないサービスについてもカウントされる可能性のあるABC区分以上に、質のいい支援者・事業者を殺しかねない。
厚労省は2009年に向けて、介護保険の1分間タイムスタディを、障害者支援にも行うことを検討していると聞く。その際、介護保険と同様に劣悪なわが国の施設の職員配置のもとで1分間タイムスタディを行えば、知的や精神障害者が必要とする、見守り・傾聴・促し・情報提供・サジェスチョンといった「自己決定・理解支援」は、ほとんど浮かび上がってこない。せめて、様々な支援を使いながら地域で生活する知的障害者等に対して、「自己決定・理解支援」のなんたるかを知る調査員による調査が、切に望まれる。
A 次に、地域移行型グループホーム(GH)・ケアホーム(CH)等の問題である。
この問題は、施設(病院)中心の障害者支援から、地域生活中心の支援に移行する、過渡期問題として位置付けることができる。過渡期は、当然のことながら、旧世界も新世界も、それぞれの基盤を死守せんとして、暗躍することになる。
私見では、このような時代に必要なのは、旧世界に花道を提供することだと思われる。
唯、花道があまりに長いと、GH・CHが施設(病院)に足下をすくわれて、その延命策になりかねない。それは、前にも述べたように、障害者自身の希望するものではなく、また先進諸国の一般的政策や人権政策からも大きく逸脱している。
地域にある民家やアパートを使って、ある程度の介助の効率化を行うものを、GH・CHとすればいいだけなのだが、そう簡単にはいかない。既存の場(施設・病院の敷地内)やサービスを有効活用してくれと、旧世界は当然主張する。
答は一つしかない。入所施設(病院)に強い思い入れがあり、地域移行に思い入れが湧かない人々には、それなりに、最後までそのことができるようにしてあげ、一方、地域移行に関心のある人々には、その事が可能な方向に誘導するやり方である。そうすれば、前者は格実に縮小して行き、地域生活(移行)支援は、確実に展開することになる。
中途半端なものを作ってしまい、前者が亡霊のように、後者や地域移行そのものや、地域生活支援の足を引っ張るようなことがあれば、後々、2006〜2015年は、失われた10年と呼ばれることになろう。
厚労省は、現在3万人分しかないGHを今後6年間、毎年1万人分ずつ増やして、2012年までに9万人分にし、一方施設や精神病院に利用者を6万人減らす方向を打ち出した。それが真に、障害者の希望する地域で普通の市民として生活できるGHやCHとなるためには、町なかで普通の民家やアパートを使っても支援が成り立つ単価や小規模運営への傾斜配分が不可欠である。
もう一つの課題は、形だけではだめだということである。グループホームに中には、あらかじめ決められた生活をしていたり、職員が命令口調であったり、することもなく手持ちぶさたな感じだったりするものもある。町なかで小規模であることは、利用者一人ひとりの市民生活への支援の基本条件では合っても、十分条件ではないのだ。自立支援法がいう、利用者一人ひとりの希望に基づく日中活動やウイークエンド活動をふまえた個別支援計画と、利用者どうしの話し合いによる民主的運営こそが、グループホームの命なのである。
B サービス利用体系の見直しの、日中活動の部分についても気になることがある。
今回の自立支援法は、自立のイメージが、就労自立と読めてしまう問題や、就労支援以外の日中活動支援が、「社会参加・活動支援」ではなく、「生活介護」などと言った、およそ、これまで、重度の障害者の様々な日中活動を支援してきた人たちのイメージからほど遠いものになってしまっている点である。
さらに大切な問題がある。
自立支援法は、利用者一人ひとりの希望に基づく日中活動の場と寝泊り・憩いの場を分ける、つまりは職住分離こそが市民生活の本質だという。しかしそれは、半分は虚偽である。私たちの生活を振り返れば直ぐに分る。私たちの生活は二分化されているのではなく、3分化されている。つまりは、ウイークデイの教育や就労の場と、ウイークエンドやアフター5のの遊びや仲間活動の場と、夜間の寝泊り・憩いの場の3つである。
その意味でも、障害者の移動支援が、各利用者の利用ニーズに基づく個別支援ではなく、地域生活支援事業に組みこまれてしまったことは、特に知的障害者のウイークエンドの遊びや仲間活動の支援にとって、由々しき問題である。
C 次は、利用者負担の問題である。
「自立支援法」の附則3条の3は
「政府は、障害者等の福祉に関する施策の実施の状況、障害者等の経済的な状況等を踏まえ、就労の支援を含めた障害者等の所得の確保に係る施策の在り方について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずるものとする。」とある。
厚労省は、利用者負担は義務的経費化や介護保険との整合性ゆえに、やむざるものと述べたものの、それが、所得保障と抱き合わせでなければ、ないところからは取れないことは、認識していたはずである。
私見では、障害者に、国民として、健康的で文化的な一定程度の生活を保障しようとすれば、就労支援策の展開と、障害基礎年金や各種手当の所得保障化は、避けて通れない。
それが、消費税と抱き合わせになるのかどうかは別にして、避けるべきは、特定の障害者のみを対象とする手当制度のかさ上げである。その制度が、所得保障上の何をどこまで保障するのかを抜きに、何かをかさ上げされたり、加算されて、一喜一憂してはならない。まして、所得保障とサービスの利用保障が混同されてはならない。
明確に、成人した全ての障害者が、地域で暮らせるミニマムな生活保障が提示されるべきである。勿論、それが、社会的労働をふまえて保障されるべきものであるのは、前に述べたとおりである。でなければ、それこそ国民的合意は、得られまい。
実際には、生活保障の問題と、利用者負担の問題は直接にはリンクしていない。なぜなら、ミニマムな生活保障がなされたとしても、そこから利用者負担がなされれば、その人々は、ミニマムな生活から転げ落ちるからである。つまりは、利用者負担を除いた額が保障されなければならない。一般に障害の程度の重い人ほど、一般就労による所得形成は難しいが、サービス利用量は増大する。どう考えても、利用者負担を増やすより、税収を増やす方が、理にかなっていると思われる。
わが国では、現在、若者の労働市場において、一ヶ月の総所得が、生活保護費の総月額を下回っているケースがかなり見られる。福祉労働、とりわけ、介護保険や支援費の居宅支援労働はまさにその線上を浮き沈みしているといえる。障害者のミニマムな生活保障に対する国民的合意の足を引っ張る一翼を、もし福祉労働者が担うような羽目になれば、それこそ悲惨である。
2003年12月の『総合規制改革第3次答申に対する考え方』に中で、厚労省が『厚生労働行政の分野は、サービスの規制の内容が国民の生命・生活や労働者の労働条件などに密接に関わるものであり、またそのサービスの大半が、保険財源や公費で賄われているなど、他の分野とは異なる性格を有していることから、‥‥規制を緩和した結果、労働者の保護に欠けることになったり、生活に不安感を惹起させないか‥‥等の観点から慎重な検討を行うことが必要』と述べている。まさにその通りであって、これ以上の利用者に対する人権侵害を防止するためにも、厚労省は毅然として、そうなるよう、一定以上の「常勤率」制度と、単価に対する一定以上の「人件費比率」制度を導入すべきである。
D 少し「障害者ケアマネジメント」にも触れておきたいと思う。
現状の介護保険制度の最大の問題に1つが、介護支援事業(ケアマネジメント)である。それは、現状のケアマネジャの半数が、より中立・公正な立場で、利用者と十分な話し合い等がしたいから、現在のサービス事業所から独立したほうがよいと、調査で答えていることからも、明らかである。
自立支援法の参議院付帯決議には、ご丁寧にも「市町村の相談支援事業が適切に実施されるようにするため、在宅介護支援センターなど、高齢者に係る相談支援を行う事業所を含め‥‥」とある。
このような、「介護支援事業者(高齢者ケアマネ)」が、障害者の「本人中心ケアマネ」にすり替わるのは、国家百年の愚策でしかない。
ここは、介護保険の地域包括支援センターの将来的展望のためにも、市町村から委託された障害者相談支援事業者が、本人中心ケアマネとして、地域自立支援協議会を活かして全ケアマネをリードし、席巻できる力量と気概を持たねばなるまい。
ここまで、戦後のわが国の政治・経済状況と、高齢者の介護保障さらに、障害者運動や障害者支援の動向等をふまえながら、「障害者自立支援法」の評価枠組を検討してきた。
その際、政府間関係問題にほとんど触れることがなかった。
今後のわが国のより大きな方向の選択肢に、市町村への税源移譲、つまりは障害者支援関連予算の一般財源化の方向も、なくなったわけではない。
サービス利用と支援の責任主体として、市町村が前面に登場することは、つまりは、地方分権とそれに必要な税源移譲に他ならない。
将来の保険制度と税負担制度の組み合わせにあたっては、どこまでを、国民が遍(あまね)く享受できるナショナル・ミニマムとして設定し、どこからを、それぞれの地域社会にふさわしいローカル・オプティマムとするのかが、問われよう。
その際、スエーデンが、普遍的な社会サービス法(1980年)を、地方自治体の裁量で実施した結果、特に小規模自治体で、障害者施策、とりわけ知的障害者や精神障害者の施策がほとんど進まなかったために、後に「障害者援助サービス法(1993年)」が、「社会サービス法」よりも、ナショナル・ミニマムとしての権利性と強制力の高いものとして位置付けられたことは、あまり知られていない。
これまで考察したように、わが国では、税財源をも巧みに組み込んで、保険制度が、ナショナル・ミニマム的な役割の中心を担っていることに、注目すべきである。
さらに、ローカル・オプティマムを具体的に展開するためには、今後、地方自治体に真に税源を移譲する方法として、消費税の地方税制化等が議論されねばならない。
(精神保健ミニコミ誌「クレリィエール」No.339より転載)