優しき挑戦者(阪大・ゲスト篇)

『知的障害者の地域生活の実現に向けて』 2002.6.12 午前
長野県北信越障害者生活支援センター 福岡寿さん

(記録 ボランティア人間科学コース4年生 生水出美由紀さん)

―紹介の言葉―

ゆき:  きょうのゲストは「福祉界のヨシモト興業」と異名をとる福岡寿さんです。数奇な運命ののち、知的なハンディを負った人々の、地域での暮らしを支える仕事を開拓されています。では、どうぞ。

福岡:  私は長野県の北の外れで、4年程前オリンピックのときは随分賑やかだったところなんですけれども―志賀高原とか野沢温泉のスキー場とか、ご存知ですかね―そういった長野の高原とかが私のエリアです。それで、家庭訪問するときなんかに、ペンションとか志賀高原のホテルなんかに行くこともありますし。私の生まれた家は山の中腹にあるものですから、車で5分も行くとスキー場があるようなところで暮らしています、そこから来ました。私は元々福祉の仕事をしようと思っていたわけじゃなくて、大学に入った頃は、ゆきさんみたいに新聞記者になりたいなあと思っていたんですね。で、高校が長野県の長野高校ってところで、高校新聞が結構有名なところなんですよ。毎年ナントカ大臣賞とかナントカ賞とか取るところで、先輩に記者の方が居たりして一生懸命それ勉強してたんですけども。

―教員時代―

福岡:  大学入って4年目に人生失敗しちゃって―失敗したというか軌道修正になっちゃった、というのは―当時校内暴力が盛んでしてね。私が初めて「校内暴力」というのをTVで見たのが、昭和55年の9月、三重県の尾鷲市というところの校内暴力の風景を見たんです。丁度私は大学の4年生。そのとき、体育館のガラスはめちゃめちゃに割られちゃうわトイレは壊されるわ、ツッパリの生徒たちがリーゼント頭で校舎を闊歩してる風景を見てね、燃えちゃいまして。

 丁度その時、「金八先生」のパート2ってのが人気ありまして―皆さん「金八先生」はご存知ですよね、パート1は田原俊彦とか近藤雅彦が出てたんですが、私が嵌っちゃったのはパート2ってやつで、自殺しちゃいましたけど沖田ヒロユキっていう人とか―知ってるかなあ、あと松村がよく真似する加藤ナントカって云う人がいるんですけど―「俺は腐ったミカンじゃねえ」とか―知りませんね(笑)。
 あと、私が好きだったのが川上マイコっていう人が出てまして―今でも彼女の写真集が出ると本屋で買ってみたりなんかして。自分にも別の人生があったかもしんねえとか、今でも思ったりしてね。で、金曜の夜8時に、この川上マイコの出る「金八先生」見ると物凄く興奮しちゃいましてね、「そうだ中学の先生になろう」なんて思っちゃいまして。私は大塚に下宿があったんで、荒川の土手まで行って。土曜の午前中とか―あそこ足立区立桜中学校」っていいますからね、土手でこんな風に金八さんの真似なんかしたりして。そう夢見て中学校の先生になったんですが。―このペースで行くと福祉のところまで行くかなあ・・。

 で、中学の先生になったんですが、これがまあ凄い中学でしてね。県内でも3本の指に入るようなツッパリ中学でして、生徒会長から何から―皆さんの中学の頃なんかはどうかわかりませんが―短ランボンタン長ラン、もう凄いですね。あとエナメル靴ですね。学校の中をオートバイで乗り回す中学生も居た。トイレはみんな壊されちゃいましたし、あと酷い時には生徒が怖いっつって、先生が授業中に職員室に逃げ込んじゃったりしましてね―で、あんまりにも生徒たちが、休み時間とかややこしいことしてるのはいけないっつって、1回こういうプロジェクトをしました。年配の先生と若い先生が組になって、構内を巡視して歩くってやつですね。なにかややこしいことしてないかな、って。あんまり激しいと逃げて帰ってくるんですけど(笑)。その時には必ずバケツ1個持ってね、校内巡視すると、中学校なのに大体バケツに3分の1位吸殻がたまりましたね。

 まあこんな中学ですから生徒はほとんど授業聞いてくれない。私は社会科の教師だったものですからね、めちゃくちゃ喋りをするわけですよ。中学1年の社会科の授業なんかやってますと、中学3年の、ツッパリ仕切ってる奴らなんかが廊下うろうろしてるわけですよね、チェーンなんか振り回しながら。で、福岡の授業面白そうだ、ってんでみんな後ろに見に来るんですよ。これでツッパリ連中になんとなく目えつけられちゃいましてね。どうも福岡は我々の気持ちを判ってくれるかも知れない、って。

 それからがもう大変でして―彼らは学校に来るときは、勉強なんかするもんかって格好で、鞄なんかぺしゃんこなんですよ。わざわざ何にも入らないような鞄にして、たこ糸で縫い付けたりなんかして。これ放り投げると戻ってくるもんですからね、「手裏剣鞄」とか「ブーメラン鞄」なんて言う子もいるんですけども。でも、彼らもやっぱり勉強したいんですね、土曜の夜になると、必ず私の教員住宅に勉強に来るんですよ。私も、中学3年生の自分より体格の大きいツッパリ連中の相手してね。1対1なら、まあそれでも喧嘩しますよ?5、6人に取り囲まれると怖くてね。すると、「福岡、今度の日曜日どうだ、行ってもいいか」なんて言われると私も、蛇ににらまれた蛙状態で、いいです、なんつってね。

 で、土曜の夜って言うと、彼らは必ず鞄にぱんぱんの教科書とか参考書詰め込んで、来るんです。彼らはそう云う鞄ってのは、ぱんぱんでパン3斤入る鞄つって馬鹿にするんですね―医者鞄とかって馬鹿にするんですが、その日だけはそう云う鞄持ってきて、一生懸命勉強するんですね。私も怖いから、「いいか6時から9時まで、一言も喋らないで勉強するんだぞ」なんて言うと、彼らは久しぶりに鉛筆なめながら、不登校ってどう書くんだっけ、ああこうだ、なんて言いながら。で、9時になると彼らに少しご褒美ってんで、町内一週マラソンするんです。ついでにマクドナルドみたいな店があるんでそこで一寸奢ってあげて。で、彼ら日曜の朝に帰る、となると私私生活なくなっちゃいましたね。もう24時間寝る暇がなくなってしまって、遂につぶれてしまいました。

 一時、土曜の夜になるのが怖くて―怖いんですね、彼らがまた来ると思うと。そうすると、どっかに逃げようと思ったりしてね。何処に逃げようかな、って家の中でうろうろしてると、なんとなく、そうだ隠れなきゃと思って。押入れに隠れたりするんですけれども、何で自分の家で押入れに隠れたりしてるんだと思ったり(笑)。あのころは、彼らが来る時間になるとお風呂で本読みながら、彼らが来るな、と思うと上から蓋かぶして電気消してました。でまあ、本読んでると来る気配が判るんですね、来るぞ、と思うとすぐ電気消して蓋かぶしてね。で、じっとしてるんです。もうサウナ状態ですよね。すると、彼らが玉砂利踏んで来ますね、おお、また今日福岡と勉強だーなんていいながら。で、ドアをどんどんと叩くんです。じっとしてるわけですよ、今隠れていなければまた辛い夜になってしまう、とね。すると彼らは、なんだ今日いねえや、しょーがねえな―なんて言いながら帰ってくんです。やっとこれで俺の自由な夜がスタートする、今日こそは常勤族みたいに盛り上がろう―と電気つけると、窓の外に一人居たりするんですよ(笑)。だいたいここってことは判ってた、なんて言って。

 まあこんなことで、最後4年目の時にはぼろぼろになっちゃいましてね。でね私、中学校の教師―この世に大変な仕事は沢山ありますが、中学校の教師に勝る大変さってあんまりないような気がしてます。まだ勉強とか授業だけならまだ良いんですけど、まず部活が大変ですよねー。私は当時、若いってだけの理由で、最初入ったその日から野球部の顧問やったんですよ。私は野球って、見たことはあるけどやったことなんかないですよ?それでも、お前若いんだからやれなんて言われましてね。それで、最初の日にピッチャーとキャッチャーが来まして、福岡先生、どういう練習をしたら良いでしょうか―なんていうから、ピッチャーとキャッチャーがいるんならキャッチングやったらいいじゃねえか―と言ったら、先生ピッチングと違いますか―と言われてね、これで専門性がばれてしまいまして、翌週からはサッカー部の顧問になりまして(笑)。で、ただひたすら走るだけなんですけどこれがもう、へとへとですよ、とくに6月っていうと皆さん、中体連とかってありますよね、県大会大阪府ナントカ大会全国大会、という。―これが私のベースなもんですから、潰れてしまって―教師4年目の2月に、学校放り投げてしまいましてね。家に戻ってきちゃいました。

―そのひぐらしと知的障害との出会い―

福岡:  で、どういう仕事しようかなーと考えてたときに、そうだ昔やっていてとっても楽しかった仕事があった、―何かというと建設現場で働く仕事なんです。私、父親が建設現場の現場監督、ってご存知ですかね―よく工事現場でヘルメット被っている人たちです―小学校3年位から、日曜日ってーと父親の後ついて歩いて、だいたい建設現場って一緒にうろうろしてると―日曜日父親がチョコレート買ってくれるとか言うからついてくとね、小学校の3年生の男の子だとね、お前一寸そこのブロック運べ―とかそこの一輪車の砂利入れやれ―なんていうと、面白いでしょ、で、3・4年の頃から、親父の後くっついて、なんとなくアルバイトみたいなことやってたんです。

 で、ブロック1個運ぶとだいたい5円貰えました。厚めのブロック運ぶと7円貰えるんですよ―まあ、この2円は私が交渉したんですが(笑)。あと、木を一本切ると5円貰えるんですよ。―このとき食べた御飯は美味しかった、何にも考えずにひたすら汗を流した後で食べる御飯の美味しさ、あの頃は何のおかずもなくても美味しかったのになあ―。あの頃、一日終わると30円のコカコーラの瓶、の中身がのめるんです。コカコーラの瓶って皆知らないかも知れませんが、こんなの―これが飲めるのが楽しみで、―そうだあの頃食べた御飯は美味しかった、どうせ学校の先生で潰れちゃって、言ってみれば人生の落伍者になっちゃったんだからここはひとつ好きな仕事をやろうってんで―私27の年です。

 皆さん、本当にやりたい仕事30位までに見つければいいんじゃないでしょうか、私は27の年にこうやって教員一発潰れましてね、それで折角だから建設現場で働こうと思いまして、建設現場で仕事を。―楽しかったですねえ、毎日遠足みたいな気分ですよ。ひたすら汗流して、御飯食べるだけで美味しいんですから。毎日部活やってるようなもんですね。皆さん、建設現場の仕事大変かと思うかもしれませんが、私どものような田舎のところではだいたい、午前午後っていうと近所の人が、お茶飲みに来ませんか―っていうシステムになってるんです、なんとなく。すると、8時半から現場で働きますね、コンクリート打ったり砂利運んだり仕事するとね、もうすぐに10時です。すると近所のどっかの人が、お茶いりませんか―なんて挨拶に来るんです。声掛かると、さー来たと思って茶の間に入るわけですね。お茶菓子が置いてあったり野沢菜が置いてあったり―長野ですから。大体TVは「水戸黄門」とか「大岡越前」の再放送やってるわけです。水戸黄門を見始めたらね、最後の印籠が出るまでつい見てしまうわけですね、するとすぐ11時です。お昼になるから仕事しなきゃ―なんて言って一寸仕事するけど、もう11時半ですよ。田舎ですから寺の鐘が鳴るんですね、お昼ですよーという雰囲気になると、もうお昼モードです。汗かいてますから、御飯が美味しいですねえ。で、建設現場では皆さん45分昼寝していいシステムになってます。

 すると1時半まで昼寝ですね、1時半からまた仕事するんですけども、もうすぐ3時です(笑)。別の家から声が掛かるわけです、お茶どうですか―と。さー来たさー来た、と、その家にはまた違うお茶菓子とか置いてあったりして、大体TVは「3時のあなた」とかやってるわけです。「アフタヌーンショウ」ってのやってましてね、ここで美空ひばりはああだったこうだった、森進一がどうだという話をしてるわけです。するともう4時ですよ、いけねえ夕方だ、って一寸仕事するともう5時です。もうほんっとに楽しい日々で(笑)。

 ―ただ皆さんも、これから大学出られて社会人になるときに、自分はフリーターで良いや―とか、とにかくその日飯食えれば、自分は子供居る訳でもないし良いや家庭持つのはまだまだ先だし―とか、思うかもしれません。でもね、教員辞めて一日6千円稼いで―当時一日6千円でした―の日雇いの仕事についたとき、この日々の仕事は楽しいけども、自分に何の後ろ盾もない―という底知れぬ不安感って持ちますよ。所謂―皆さんご存知ないかもしれないけど、身分保証ってのが我々には―私今、法人で100人の職員を雇ってる常務理事の一人ですから判りますけど、社会保険とか雇用保険だとか医療保険とか、こういう身分保障がされてないところで我々が働いてるってことはどんなに怖いことか、ということは社会人になってみないと判りません。

 ―で、私もその中で、そうか一日一生懸命稼いでも6千円か、この仕事を俺はずーっとやってくのか、と思うとなんとなく不安になってきますよね。そんな時―3月のどんづまりですね、私は長野県の村で暮らしてたんですが隣に飯山市ってとこがありましてね、そこの知的障害者の入所施設で職員の募集があったんです。私も、3月のどんづまりですから、もう―仕事自体は楽しいですけど―3月ですから、職員が急に誰か辞めちゃったんですね、施設の職員が。皆さん施設で働こうと思ったら専門の資格なんて、今取り敢えず要らないんです。介護保険になって、保険契約になると、例えば高齢者であれば身体介護は2級のヘルパーの資格がなきゃ駄目だ、体に触らない家事援助なら3級だとか、医療的ケアをするんなら看護士じゃないと駄目だとか、色々ありますけど。障害者の施設のほうはね、まだ保険契約じゃないのでそんなに専門性いらないんですね。やりたいっていう意欲だけあれば採ってもらえるんです。

 で、当時はもう、毎朝楽しい日々ですからね、朝4時頃目が覚めちゃうんですよ。皆さん、一日楽しいと朝早く目が覚めませんか?朝早く目が覚めるタイプは2つありますね、悶々として悩みのあるタイプの方と、毎日が遠足みたいなタイプ。悶々としてる人は朝4時頃目が覚めても、布団の中でああでもないこうでもないと悩んでますよ、だけど私はそっちの方じゃないので4時に目が覚めると体がうずうずしちゃうんです。まずはすぐにトレーニングウェアに着替えて町内一週マラソンですね、ついでに牛乳とか新聞とか貰ってきたり。戻ってきてもまだ4時半でしょ、朝風呂に入ってきたり、まだ5時だから縄跳びしたりして。―まだ6時なんですよ。早く仕事に行きたいなあ行きたいなあと思いながら、作業服着て茶の間にひっくり返ってたら、有線放送で流れてきました。どういうことかというと、飯山市にある精神薄弱者更正施設―当時はまだ精神薄弱と言ったんです。皆さんのお手元には知的障害ってありますが、当時はまだ「精神薄弱者更正施設」。(××)職員を募集しているので、急遽募集するから興味のある方は役場に申し込み用紙を取りに来るように―これが私と知的障害児との出会いですね。

 まだ、大学の先生の中には「精神薄弱」とか「精薄」とかいう言い方で授業をする方がいらっしゃるようですね、「精神薄弱」略して「精薄」。私なんかも職員採用担当ですから―皆さんもし私どもの法人で働きたかったらどうぞ―、大体短大生とか面接に来ますよ、そうするとこの人どういう気持ちで教わったのかなあということで、どういう職員になりたいのかなあ、とかいうと、あたしってさー、この前なんてゆーかー、先生に言われたんだけど精薄の人と気が合うなんていわれちゃったのよー―こんなこと言うんですよ。今でもこの人「精薄」なんて言って―それだけで私落としちゃうんですけども。皆さんも、「知的障害」という名前になってますから、そのへんは肝に銘じて試験受けて欲しいんですけども。まあ当時は「精神薄弱」という言い方してましたけども、そこの入所施設で採用されました。これが縁ですね。

 で、意外に、出会った縁によって自分がどんな人生になるかとうのは不思議なもんですね、私は27にして知的障害者入所施設の職員となったわけですね。―に、なってから、今日まで―44ですけども―ずっとこの仕事をしてきてしまった、という、呆れたことなんですけど。そのなかで、これから大事にしていきたい「入所で暮らす障害のある方たち」と―いわゆる「好きなところで好きな人と暮らす」という生き方が保証される人たちとの「違い」みたいなものについて、一寸皆さんの印象に残るような話が出来れば、なー、ということで、これから少しまじめな話に入っていきます。

―隔離―

福岡:  この中で、障害者の福祉施設を見に行ってみたとか覗いてみたとかって人は殆どいらっしゃらないと思いますね、多分殆どいらっしゃらないですね―どうでしょう、障害者の施設の中に入ってみたことがあるという人いらっしゃいますか―ああそれでも若干名いらっしゃいますか。普通はどうでしょうか、普通に暮らしている市民の方から見ますと、障害者の施設というのは川の向こうの世界の話じゃないでしょうか。何か、あったこともないような、近づいたらひょっとしたら包丁で刺されてしまうような。或いは、特に最近対話が難しいと言われている自閉症、高機能のアスペルガータイプとか注意欠陥多動―ADHDとか、ひょっとしたら判断より先に行動っていうタイプだから、包丁で刺されたらどうしようかとか―本当は自分の生活と縁がない所で、居て欲しいと思う部分があると思うんですよ。だからなかなか普通、障害者の施設といったときに、―例えば中学校とか小学校の学校の先生が、なんかボランティアに目覚めちゃってるような先生で、「今日は生活の時間だけども、2時間授業なしにどこどこの施設にみんなで会いに行こう」なんて言うとね、生徒たちも勉強するよりはましかと思って。うっかり担任の先生に連れてかれて、なんかの施設に行った、ってことはあったとしても、それ以外にあんまりリアリティがないのが実際なんですよ。

 で、ご承知のように地域の方たちも、障害者の施設なんか殆ど興味ありません。私も正直言うと、そっかー学校の先生は駄目になったけど福祉ってのもあったなー、と思って採用された程度ですから、中に入ったときに、こういう世界か―とびっくりすることが沢山ありました。これを一個一個喋ってくと最後まで辿り着けないのでやめますが、簡単な話障害のある方の多くの人生というのは、ずっとこの入所施設で暮らすのが幸せだ、って皆が思ってきた世界なわけですよね。彼らは入所という場所で人生を過ごしていくのが一番幸せなんだと。一つは、彼らが社会で暮らしていればみんなに差別されるかもしれない、苛められるかもしれない―不幸な目にあうかもしれない、という意味での「入所」ってあるかも知れません。一方では、彼らにあまり地域でうろうろされちゃったんじゃあ我々の生活が堪らないわ、という意味での「隔離」ってのがあるかも知れません。どっちにしても、そう云う入所施設で暮らすのが一番幸せなんだ、みたいな形で、日本の福祉はずーっと今日までやってきてるわけです。

 そうすると、私が(××)学園っていう施設に入ったときにも、もう20歳30歳40歳―年齢によっては70歳の、知的な障害のある方たちが暮らしてました。大体彼らに聞きますと―彼らはどういう人生を生まれてからしてきているかってことを聞くとね―聞くというか彼らの人生暦を見ると大体こうなんです。―家で障害の子供が生まれますね、すると大体お母さんは自分のせいだと思います。特に嫁ぎ先の舅さんや姑さんたちから、やっぱりうちにはこういう子供が生まれるはずないんだ―とか、これはお前のせいだ―とか―そうした中で、どうしても、生まれたときからすぐ「我が家に障害の子供生まれました」なんて言う人いませんよ。大体は、当時は「こう云う子は我が家の恥だから、奥の三畳間でずっと年寄りに見させとけ」とか―今でもこういう所ありますけど、家の前の土蔵の柱に縛っとくとかね、絶対人には会わせないみたいな人居ますよ。確かにあの家の奥の三畳間には障害のある方がいるんだけど、誰も会ったことない―みたいな人がいるんです。幻の障害者、みたいな。

 まだ、各地域に行きますとね、私の―12年位前に、こういう家庭を家庭訪問する時に、確かにあの家の三畳間には幻の障害者がいると聞くと、会いたくなってしょうがなくてね。誰も会ったことがない―というと、俺がまず一発目会ってみよう、と思ってね、色々考えました。地域の周りを―近所歩いてね、聞き込み調査なんつってね―「太陽にほえろ」みたいな(笑)。居ましたか―とか会ったことありますか―とか。で、例えば唯一会ったことが有る人、ってのが往診に行くお医者さんでね、聞いてみるとずっとこの20年来家から出てないので、髪の毛ぼさぼさで顔は青白くて、お母さんが与える御飯をただ元気なく口に入れるだけの生活してる―みたいな話を聞いたりするんですけども。今でもまだ、全国の各地にこういう暮らしを送っていて「地域から消された」人たちが随分居るかもしれません。

 で、そう云う生活はあまりにも不憫だという中で、大体それでも何とかしなきゃという親御さんは、2歳3歳の頃から障害の子だな、と思うと、一番当時いい方法は施設に預けることだったんです。子供の施設ですね―障害のある方が暮らす子供の施設に預ける、というのが―皆さんまだ子持ちの方は居ないかもしれませんが、―よく私、障害の有る子供を育ててるお母さん方に会ったりするとこう言われます。福岡さんは昔、私たちのことを「障害の子の親だから可哀相だ可哀相だ大変だ」と言ってたけど、福岡さんは全然駄目だ―って言う。何ですか、と言うと、私たちが大変なのは、障害があるけれども世界で一番可愛い我が子だから大変だ―と言うんですよ。大体親となれば、自分の子供が勉強が出来ようが出来まいが障害があろうがなかろうが、我が子である限りは世界で一番可愛い我が子なんです。でも当時は、その世界で一番可愛い我が子を断腸の思いで施設に預ける、というのが一番良い方法だったんです。すると彼らは3歳4歳頃から、家を離れて遠くの施設に預けられるわけですね。するとその時点で、地域から消された人間になっちゃいますね。なんかあの家には、生まれた時に障害の有る子が居たって聞いたけど知ってるか―なんて。いや知らない、どうなったんだ、どっか遠くに行ったみたいだ―で終わっちゃうわけです。

 皆さんの中に、どうですか、小学校や保育園の頃、近くに―クラスに障害の子が居たかなあ、ってうっすら思い出があるかも知れませんが、おそらく彼らは中学になった段階でどっかにいなくなってるか、高校になった段階でどっか行っちゃってるかもしれません。まだ皆さんの年代は若いから良いですけども―彼らは3歳4歳から遠い施設に預けられますが、18歳になると今度は大人の施設に行かなきゃならないです。福祉法が変わりますから。で、「大人の施設」と言うと、また大きな施設に行くんです。全国にはこう云う大きな施設が沢山あります―例えば大阪府で一番大きな施設は「金剛コロニー」というところ―皆さん聞いたことありますかね―大阪府の南のほうなんでね、富田林っていうのかな?あそこは今、600人の人たちが暮らしています。一つの一大エリアですよね。―こう云う施設に行かされる訳です。そういった大きな施設に暮らしている人たちが、30歳40歳になってようやく、自分が昔生まれた地元の施設―50人くらいの施設に戻ってくる、というのが―つまり彼らは、小さい時にA施設で暮らし、大きくなったらB施設で暮らし、30歳40歳になってC施設で暮らす、という施設の渡世人の人生なんです彼らは。彼らはこう言います、私は施設のネットワークを歩いてきた人間だ―とね。

 この時に、わが国がやってきた施策と言うのは、「障害のある方は施設で暮らすのが一番幸せだ」―で、福祉というのは「施設」と言う建物が出来ることとイコールになっている、とみんな思ってきたことですね。だから、施設から施設へのネットワークを歩いてくる中で人生50、60になってなくなる方が沢山いらっしゃいましたけど、これが一番いい福祉だ、って言われてきました。ですから、今でも市町村長さん・自治体のトップの方たちは、立派な施設を作ったら福祉が立派だ、って思ってる方たちがまだまだ沢山いますね。

―「施設」での生活―

福岡:  で、そうやってきた施設のなかで、彼らは本当に幸せなのかといったらば、それはもう―皆さんだってどうですか、施設の中で試しに1週間暮らしてみてください。とてもじゃないが耐えられなくなります。よくあるんですが、施設の中では食事が3食美味しいの出ます―栄養士さんが計算して美味しい食事が出ます。彼らはその食事を、ある時期から捨て始めます。こんなに美味しい食事なのに、もうぽいぽい捨てちゃうんです。職員は、こんなに美味しい食事を何で彼らは捨てるんだ―と―我儘だ、みたいに思って。すると利用者の方が、貴方此処でこの食事を一週間食べられるか―なんて言われると、食べて見せようじゃないか、と言うことになって、指導員なら指導員が、施設の中で食事を食べ始めます。―3日持ちませんよ。4日目になると、頼むから外に出させてくれ、と―好きなもの食べてきたい、と言うはずです。

 これは何かと言うと―人間の、皆さんの暮らしってどうですか?朝食べたいときに、既に目の前に用意されている食事―自分が欲しいと思うのじゃない食事が出され、お昼また、いかにも食べろって形で目の前に出される食事。夕食もまた誰かが決めたメニューの食事、のなかで付き合ってる方ってどうでしょうか―皆さん、一寸お腹空いたらカップラーメン食べよう、とか、帰りは一寸マクドナルドで、小腹が空いたから食べていこう、とか、今日は急に気が変わったんでビールにつまみで良いや、とかって生活じゃないでしょうか。これがノーマライゼーションです、ある意味では。決まりきった食事が定型的に出てくる、ってのはどう考えてもアブノーマルですよね。すると、施設で暮らす彼らは、食事一つとってもそう云うのをどんどん捨てちゃうんです。

 こんな方が居ました―朝塩辛が出るんですね、―塩辛が好きな人はあまり居ませんか?こっちは納豆とかみんな嫌いなんでしょうね。私は2日に1回納豆食べないと駄目なんですが―朝塩辛が出ますがね、彼は塩辛というものは夕食に食べたいんです。夕食に、御飯の上に置いて上からお茶掛けて食べたいんです。でも朝に出た塩辛と言うのはその日のうちに捨てなきゃいけない、食べられなくなるから―食中毒起こしちゃいけません。彼はどうしたかと言うと必ず、朝塩辛出ると夕食までとっときたいから、捨てる直前に手で握ってポケットの中に入れちゃうんですよ。夏なんか、この辺にハエなんか飛んでくるんです、塩辛の匂いをかぎつけて―で、ばれたりするんですけども。―こう云うこと一個とっても自由度がない生活ですよね。そう云う中で一生暮らしていくことに対して、自分はだんだん疑問になってきますね。

 そう云う生活を見て私が一番影響を受けた方というのは、施設の中ではすごくまじめに暮らしている方なのに、家に帰ると絶対家から施設に戻ってこない女性の方というのがいました。施設の中に入ると、急に真面目でおとなしいいい子になっちゃうんですよ―でも、絶対に無理してるんですね。家に帰ると絶対に戻ってこない。この方に随分影響を受けました。

 彼女は―もうお父さんは亡くなってしまいましたけども―当時は家に帰ると、お父さんが50歳の頃に出来た子供なので、彼女は30歳ですからお父さんは80歳の二人暮しです。お母さんは生まれてすぐに亡くなっちゃって。で、彼女が帰って絶対に戻りたくない家はそんなにいい家かというと、私から見るとそんな良い家に見えませんよどう見たって。だって彼女が帰る家というのは、お父さんは心臓病を患っていますから朝の新聞配達だけで生計立ててるんです。家なんかも、裸電球1個です家の中。外はブルーシートで囲ってあるんです、なんか阪神大震災みたいな感じですよね。家の中に入ると、唯一ある電化製品は14型のブラザーのカラーテレビです。ブラザーってとこが大事ですね(笑)。私の家も昔貧乏で生活保護家庭だったんですが、私大学入ったときに全学費免除でした。奨学資金があって学費免除で東大の傍で東大少人数ゼミナールなんて、生徒いっぱい来るんですよね。月2万とって30人集めてましたから60万月に稼いでましたけど、まあ我が家は生活保護で貧乏でした。生活保護家庭の我が家が唯一買える電化製品が、ブラザーの14型テレビだったんですね。なぜかというと、ブラザーと言うのは1個買うと毎月500円集金にきてくれるんです。性能は良くないですよ―まあ止めましょうか―で、部屋なんか20年位掃除してないわけです。

 当時私が家の中に入っていきますと、壁の穴にポスターとかいっぱい張ってあります。見ると、昭和38年の新年のカレンダー張ってありますよ―吉永小百合の若い頃のような写真です(笑)。で一寸右を見ると、当時の新聞紙なんか張ってあったりしてね、見ると昭和41年のTV欄なんかありますよ。懐かしくて、私なんか―7時半鉄腕アトムとか書いてるんですから(笑)。こういうような家庭の風景です。でもう布団は敷きっぱなしですよね―でも彼女はこの家がいいんですよ。冷暖房つきの、美味しい食事が出る施設よりはこの家がいいんです。

 で、7年前に亡くなったこのお父さん、て言うかおじいちゃんがわたしにこう言ったことあります―福岡さんはうちを馬鹿にしてるが、我が家の良さは誰にも判らないんだ、俺と娘にしか判らない世界なんだ―って。どういうことですか、と聞くと、お父さんは普段は一人で暮らしてる、この貧しい家の中で。娘さんが久しぶりに施設から戻ってくる、すると、たかだか施設から家に戻ってくるだけなのに、何か「やっと晴れて自由の身になった」みたいな感じで、すっごく意気揚揚と帰ってくるんだそうです―丁度、都会にでも行って出世して戻ってきたみたいな感じで。お父さん帰ってきたぜ、とかって帰ってくるわけですね、するとお父さんは、ああ久しぶりに帰ってきたな―と、嬉しいわけですよね。二人になります、家族になれるわけですよね。するとこの家庭は、土曜のその夜は二人で、ひさしぶりの夕餉を迎えられるわけです。このお宅は必ず、我が家の一番の楽しみは何だろう―というと、娘が帰ってくる、また昔の家族に戻る。その時に、土曜の夜7時になったら「日本むかしばなし」を見ながら二人で食べる御飯(笑)、これが一番の楽しみなんだ―というわけですよ。

 この家庭にとっては、どんなにおかずが粗末であろうとも、御飯を炊いて佃煮でいいんです。「日本むかしばなし」を見ながら二人で食べる、というリアリティが家族のリアリティなんですよ。これこの家庭からすると、「アップダウンクイズ」じゃ駄目なんです。まあ当時昔の番組ですからね、今だと「筋肉番付」とか―まあいいや、これがいいわけですよ。

 こう云うリアリティってのは、絶対施設では出来ませんよね。こういうの見るたびに、彼らは―施設で暮らしてる方がこんなことを言ったことがあります、「施設で暮らした障害者は人生を2度やらなきゃ駄目だ」−って。一つ目は施設で暮らした偽りの人生、もう一つは本当の自分の人生。本当の自分の人生と言うのは人に決められるんじゃなくて、好きな人とだったら不倫しても良いとか―こう云う方居ますよね、海外ではよく知りませんが、エイズになってもいいから好きな人と愛し合って死んでも良いんだ、と。貴方今やればエイズになるかも知れませんよ、でもいいんだ、―こう云う人生もありじゃないですかね、人間の人生というのは。失敗するかもしれない不幸になるかもしれない、でも自分で選んで自分で生きる人生、これが本当の人生ですよね。だから障害のある方は、施設で暮らした偽りの人生と、もう一つ自分の本当の人生をやらなければ駄目だという。

 こういう風景を1個1個見ていきますと、家庭で居ながらに当たり前に暮らしながら、そこに応援の手を出せないか、ってことが、福祉で働いてる人間が一寸疑問に感ずると、すぐに気がつく事実ですよね。何で彼らはわざわざ此処に集まってこなきゃいけないんだろう、どうして彼らは家で暮らしちゃいけないのか―なぜかというと家では支援の手がないからですよね。一ヶ所に集めて、で彼らは一箇所の集中管理方式です。それはなぜかというと、沢山の職員を入れられないからですよね。

―管理―

福岡:  皆さんこれから施設に行く時に、一寸建物に関心を持ってください。日本にある50人位の施設は何処も、こう云うパターンになっています―大体基本的に4つのパターン、Yの字型かコの字型かヨの字型か口の字型。大体建物は皆これですよ、こんなバリエーションです全部。これはなぜかと言うと、Yの字型の建物は敷地にもよりますがね、こちらが女性が暮らす棟、こちらが障害のある男性が暮らす棟、ここはお風呂・食堂・職員室、と言う管理棟です。(コの字だとどうかというと)ここが女性棟、ここが、ここがお風呂食堂管理棟、です。―もう判りましたよね、(ヨの字だと)ここが渡り廊下になってるだけです、(口の字も)男性棟女性棟管理棟、廊下でつないでるだけ。これは何によるかというと、夜何人の職員を置いてるかによって決めてるんです―夜の職員配置で決めてるんです。男性棟には夜の夜勤者一人、女性棟に夜の夜勤者一人―二人しか置けないんですからそうするしかない。一人一人が町野中に50軒暮らしていて―だったら夜勤者50人入れなきゃ駄目です。―とても無理です、2人しか居ないんですからこうせざるを得ないんです。すると、こう、男の職員・女の職員・・、わかりますよね、これは全て障害のある方たちの暮らし方というのは、こういう「何人の職員が働けるか」と言う仕組みによってしか暮らせない仕組みになっているわけですよね。

 で、なおかつ―人間が一番、エンパワメントと言うか元気になれるのは、そう云うところに好きな人がいるかどうかですよね。人間好きな人がいるかどうかによって、物が欲しがらなくなりますよね。例えば私、こう見えて4人子供がいるんですが―上から15歳13歳11歳9歳の、2年刻みの等差数列でできたんですが。で血液型も上からA型B型O型AB型ってんで、4人とも皆違うんですよ、私妻に、皆俺の子かなあ―なんて言うと、私の記憶では確かそうだと思うんだけど―なんて不安なこと言ってくれるんですが―普通4人も子供産まされて、それで私殆ど家に居ないような仕事してますから、本当はちっともかまってくれない―って、怒るかもしれません。でもね、人間妻を愛していればね、あんまり我儘言いませんよ。愛してあげてれば。例えば結婚記念日なんかに、そろそろ結婚記念日だけど何か欲しいものあるか―なんて言うと、私何も要らない貴方が愛してくれれば―なんて言いますよ、みんなの前で恥ずかしいですが(笑)。

 皆さんもどうですか、好きな相手がいれば部屋の中は薔薇一輪で良いんじゃないですか?・・そんなことないか。―でも人間はね、本当に好きな人に愛してもらわなければある意味二等賞競争に走るんですよ。というのは、自分を愛してくれる好きな人じゃない2番目の品物によって自分を愛するしかないんです。だから愛の2等賞競争に走ってる人の生活なんかこうですよ―例えばシャンプーなんか、(××)シャンプーで良いのにこんどメリットにしてみようかな、いや植物物語も良いかもしれない―そう云うことによって自分を愛する、施設でいけばこうです―本当に好きな人と暮らしているわけじゃないので、愛の2等賞、物によってごまかすということですね。子供の中に、本当に親に愛してもらえない為に品物でごまかされている、そんな子供いっぱい居るでしょう。今度マクドナルドで食べさしてやるよ、どっか映画連れてってやる、エキスポランドに行ってみよう―これと一緒ですよね。すると、―施設の中ってのは基本的に自分でいられる人たち(?)と一緒に暮らしてる訳じゃないですから、愛の2等賞競争つって、どんなに旅行しようが、どんなに美味しいもの出されようが、どんなに好きなもの買ってもらおうが、満たされないんですよね。

 尚且つここは「男性棟・女性棟」ですよ、異性がいないんですからこれはつまんない生活ですよ。これはゆき先生の得意分野ですけども、―例えば、高齢者かなんかの―痴呆棟かなんかの―特養かなんか、あるかもしれません。そこに高齢者の、年老いた女性たちがなんとなくしどけなく、暮らしていたのに、急にそこに80歳のキムタクのような方が入ってくると、女性の方は生き生きするそうですよね。皆で化粧始めて素敵になる。今度は逆に男だけのところに、急に三田佳子みたいな女性の高齢者の方が入ってくると皆生き生きしますよね。自分が彼女に対して1等賞になりたいと思うと、何か貢いだり、頑張るわけですよね。―これが人間一番頑張る世界なのに、これすらも遮断されてる世界な訳ですよね。

―「サービスの場所と方法の固定」―

福岡:  ま、こういうことをいろいろやってくと、本当に好きなところで好きな人と暮らす、という仕組みをなんとかやりたいなあと思うと、やっぱり考えかたは「彼らを一箇所に集める」のではない―これ一寸学術的な言い方をするんですが、簡単に言いますと、サービスの手法として―これまでわが国がやってきたサービスの手法といいますのは「サービスの場所と方法の固定」、これがサービスの手法だったわけですよ。「場所と方法の固定」というのは、ここに来てくれなければサービスはしませんよ―だったわけですね、福祉のサービスを。

 で、やる方法はもう決まってます―朝食は何時から出ます、夕食は何時から出ます、午前中の活動はこうとなっています、入浴は火・木・土のこの時間と決まってます―これが「サービスの場所と方法の固定」という形になります。このやり方は、所謂カタカナで言えば「レディ・メイド」ということですよね。フランスの方が居れば「プレタ・ポルテ」って言うんですが(笑)―レディ・メイドのサービス手法。

 これに対して、今我々が目指そうとしている方法というのが、「オーダー・メイド」のサービスですよね。つまり、レディ・メイドのサービスからオーダー・メイドのサービスに如何に切り替えていくか、―これは言い方を変えると「サービス主導型の福祉」から「ニーズ主導型の福祉」とか色んな言い方をするんですが、こう云う方向へ如何に変えていくかということのなかで、今あっちこっちで増えてきているのが、私がやってるような「暮らしの場に職員を派遣し、彼らの生活を支えていく」という仕組みのやりかたですね―皆さんが暮らしている現場に我々が出向いていってサービスをする、という。こういうサービス形態がどんどん増えてきている。

 これは皆さんもご存知だと思いますが、介護保険になってから、特に高齢者部門でもどんどん24時間型のヘルパーとか、家庭にどんどん出向いていくヘルパーが沢山居ますよね。昔はヘルパーなんて「場所と方法の固定」でしたから、我が家は朝の起きる時間帯に来て欲しい、夜の私が寝てる時間にオムツ交換に来て欲しい―と思っていても、―例えば我が村のヘルパー派遣は火曜日と木曜日の午前10時から12時に決まっています、というようなやりかただったんですよね。昔は、幾ら派遣型サービスでもこちら(提供側)の都合にあわせて行っただけですよね―すると、うちの父親も私が大学受験のときに―最初の都市の東大受けて落って―一次試験は受かったんですけど二次試験のときに親父が脳卒中になっちゃったんでね、法学部受けるつもりが二次試験受けられないまま戻ってきちゃったんですけど―その親父が15年間ねたきりの時に、ずっと我が家にはヘルパーさんが来てくれていました。

 でも当時は「方法の固定」でしたからね、いつ来てくれるかと思ったら火曜日と木曜日の午前10時から12時の2時間なんですよ。こんな時間帯に来て貰ったって、やってもらう事なんかないんですよ、本当のこと言うと。すると例えば、我が家でよくあった風景が―うちのおふくろと今は亡きおおおばあちゃん二人が、朝になると急に張り切っちゃってね―「今日はヘルパーさんが来る日だ」なんて緊張しちゃって、そうだヘルパーさんが来るのに家の中が散らかってちゃいけない―なんてなってまず掃除を始めちゃって。朝からおふくろとおおおばあちゃんが掃除始めますね、その後に、今日はうちのおじいちゃんを見てもらうんだけど、むさくるしい格好をしてちゃいけないから朝のうちにお風呂入れよう―なんてなっちゃって、二人で一生懸命お風呂に入れてしまう。

 それからおばあちゃんに、ヘルパーさんって何好きなんだ、茹で豆好きなんじゃないか―なんつって茹でたりして、私は別の番組見たいんだけどヘルパーさんが来たらいいTVを見てもらわなきゃならない―といって、TVの番組まで変えたりして。こう云う風景でした。で、ヘルパーさんが来るとやること何もないんですね、特に10時から12時なんてやること何もないはずなんですね。よくやってもらってたのが、うちの父親何か身体介護しなきゃならないから、って爪を切ってもらってました。お風呂も入ってるし部屋も綺麗になってるしね、身奇麗なんで。左手が拘縮してこうなってるんですね、すると爪が内側に曲がってこう伸びちゃう―麻痺してるほうの手首の。で、週に2回爪切りするんですよ、週に2階爪切りされると、中々専門性が必要です。すぐに生爪になっちゃいますからね。でもうちの父親、切る爪なくなって肉切られて血出ても判んなくなってるんです、麻痺してるから。―こんなようなホームヘルプの世界が展開されてしまっていたわけですけども。今は、ホームヘルプサービスといっても、向こう(客)にあわせてこちらが出向いてく、てサービスになってますよね。

―電話一本で即出向く―

福岡:  ―そういうことで、私のところでも電話一本で即出向いていくというサービスをやってます。今ビデオでも見てもらいますけども、どんな感じかというと例えばこんな感じで来ますね。

 障害を持つ子のお母さん、朝夕学校に送り迎えしなきゃいけない。でもお母さん方、毎朝の学校の送り迎え、大変ですよね。普通だったら、保育園は皆さん送り迎えされていたでしょう。でも小学校に入ったら、皆さん勝手に学校に行きますよね、これ障害があるという理由だけでお母さんは、本人が何歳になっても朝夕送り迎えをしなきゃいけないんですよ。障害を持っている子の親、という理由だけで、朝9時になったら養護学校へ送っていく、或いは通所施設へ送っていく、午後3時になったらまた迎えに行く―そういう生活です。だからお母さん方、子の生活を10年20年やってくると、もう9時30分がばちっと頭に入ってます。そうすると例えば、こういうベテランのお母さんに午後の時間帯に、今何時頃だと思います?―なんていうと、あたしの直感ではそろそろ迎えに行かなきゃならないという腹の虫なので、2時58分30秒―なんていうと当たってたりするんですよ、10秒遅れだ―なんて言って。これ位に、朝夕の送り迎え一個取っても大変なんです。

 こう云うときにお母さんが、私朝急に具合が悪いんで、家から学校まで送ってって貰えますか―なんて電話かかってくると、我々も、良いですよといって出向いていって送迎に出向く。或いは、今日私夕方急に用事が出来ちゃったんで代わりに迎えに行って、私が帰るまで預かっててもらえませんか―というと良いですよ、といって派遣して。本人の家の中で一緒に居る場合もあれば、本人の好きな公園で遊ぶ場合もあれば。特に、今流行りの注意欠陥多動性障害の子供さんになりますと、本人の好きな公園とかアスレチックで遊んでるのが一番良いんです。エネルギー発散してもらって。すると、そう云うところで一緒に過ごすというサービスをどんどんやってるわけですね。

 で、よくある例が―仕事というのは向こうに合わせなきゃいけませんから、我々センターの職員というのは―出来れば向こうに合わせるといっても、夜中急に叩き起こされて今から来い、なんつっても困りますから、お母さん方には、3日くらい前になって予定がわかったら予約入れて欲しいなんて言うんですけども、家庭の主婦の皆さんって3日先のことあんまり考えてないですよ。大体今日の夕食何にするか、位しか今考えてないので、5分くらい前に来ること凄く多いんですよ。例えば午後、5分くらい前によく来るのが何かって云うと―午後3時頃、養護学校で自分の子供を迎えに行かなきゃならない、そういうことになったとすると、電話かかってきますよね。「すいません福岡さん、学校に迎えに行かなきゃならないんだけど車がパンクしちゃって動かないの」なんて言うんですよね。

 で、どうすればいいかと。私二つ考えたんだけど、ひとつはセンターに車のタイヤのパンク直しに来てもらう。もうひとつは代わりに迎えに行って貰う。どちらがいいでしょうか、なんて聞かれて。お母さん、我々車の修理工場はやってないんで代わりに迎え行くってのどうでしょうか、なんて言うとあらやっぱりそお?なんて言って(笑)。私これから車の修理に行って、それからスーパーが100円市なので行ってゲットしなきゃいけない、折角だから夜7時位になったら送ってきて頂戴と仰るんですね。すると我々3時に合わせて職員を派遣する―5分前に基づいて、で、本人と過ごして夜7時に送り届ける、みたいなことですね。

 障害を持った子供さんのお母さん、いつも介護で大変。息抜きで長野市に映画を見にいったんですね。で、映画館から電話かかってきますよね。私どもの方では長野市って所に映画館がよくあります。で、4時位に「私今友達と、偶々なんだけど映画見にきてんの」なんて。「そろそろ映画切り上げて、子供―自閉症の子供を保育園に迎えに行かなきゃいけないんだけどもね、福岡さん、隣の映画館でもう一本いいのがあるのよ、どう思います」「どう思いますって言ってもお母さん、もう一本いいのがあってしょっちゅうじゃなければもう一本見とったらいいじゃないですかねえ」というと、隣でお友達が頼んじゃえ頼んじゃえと言ってるわけです。そうするとお母さん急に強気になって、そうよあたしだってしょっちゅう遊んでる訳じゃないもの。なんて、それじゃああたしもう一本映画見て帰るから、代わりにヘルパーさんに行って貰って、うちの子供迎えに行って頂戴、と。で、「迎えに行くのはいいですけど何時頃までですかねえ、いつ家に送り届けたら良いですか」、なんて言うと、あたしこれから映画もう一本見るでしょー、それからお友達とコーヒー飲んだり夕食食べたり、なんだかんだやって、そう9時半頃になったら家に送ってきて頂戴、と。こういう電話くるわけですよね。

 するとセンターの職員はそれにあわせて派遣する、9時半になったら家に送り届けるというやり方です。まあ映画の始まる直前になるとまた電話かかってきて、「あたしこれから映画モードだから携帯だめよ」なんて言って、さっき9時半に送ってきて頂戴なんて言ったのあれやめにするわ、なんて。「やめにするってどうするんですか」と言うと、ほらうちの子供、自閉症で睡眠障害があるから、あたしいつも8時頃から2時間ドライブに行って寝させるの知ってるでしょう、―自閉症の方で中々寝つきの悪い方のお母さんってね、ドライブで寝させてる方いっぱい居ますよ。で、だから7時半になったらドライブモードに切り替えて頂戴、と。9時半過ぎて熟睡状態になったらよ、9時半過ぎても起きてたら駄目よ、熟睡状態になったら家に送って来て頂戴。で、うちはそれに合わせて職員を派遣して、7時半になったらドライブに切り替え、9時半過ぎ熟睡状態になった頃子供さんを送っていく、そんなことを一個一個やってるわけですよね。

―オーダー・メイドへの対応―

福岡:  するとセンターの職員の仕事もどうなるかというと、大体前の日に翌日の勤務時間決めます、要するにオーダー・メイドに合わせるから、職員の出勤時間は5分刻みのフレキシブル・タイムですね。すると例えば、朝6時から重症心身障害のねたきりの子供さん、肺炎で病院に入院してる、お母さん付き添ってるわけですね。すると来るのが、明日の朝6時になったら病院の付き添い代わって頂戴―です。お昼まで私一寸家に帰って、洗濯したり掃除したりしたい―なんて言うと、一番早い職員は6時前に間に合うように出勤していく。

 後一番遅いのでよくあるのが、障害のある方たち、職場からこれから郷ひろみのコンサートを見にいきたい―あるいはゴスペラーズ、先週は浜崎あゆみかなんか来て見に行ってましたんですけども―すると仕事が終わった後で職場に迎えにきてもらって、それからコンサート見て、それから11時頃家に送っていって欲しい、となるとヘルパーが付き添うんですね。大阪府はガイドヘルプって制度がありますけども。すると職員はそれに間に合うように、夕方3時頃から出勤する人がいたりするわけです。

 ―こんな風に、職員は前の日に翌日の出勤時間を決めた、フレキシブル・タイムです。あとは、職員がばらばらで動いてますからね、―でもサービス業というのは、オーダーする人がこちらに伝えることが一遍に全員に届いてないと、信頼関係壊しちゃうんですよ。Aさんに言っといたことがB職員は判ってない、Cさんに今日はこうして欲しいといったことがDさんには伝わってない―そうすると一番いい方法は何かというとありませんか皆さん―私悩んだんですが、取り敢えずうちのセンターでやってる方法は、全員が携帯電話持っていてメールでやり取り、ですね。

 皆さんフレンドメールってやってませんか―仲間にメール一本押すと、全員に一遍に届くってのありますよね。皆携帯持っていて、メール一本うって、登録した仲間にボタン一個押すと全員に一遍に届く、っていうの。このメールで、一日に何件も情報が入ってきますね。今日も私大阪に居るわけですけども、どんなメールが来てるか―例えば、重症心身の何々君、入院だそうです、明日からの病院の付き添いホームヘルプが入りますがケアプラン見といてください―とかね、これから何々さんをセンターに送っていますが、お母さんの申し出で2段目の柿ピーだけ食べさせてください―とか(笑)、昨日お母さんからの御注意で、何々さん、最近裾だしルックなのにしてなかったので気をつけてください―とか―お母さんがね、うちの子最近裾だしルックに凝ってるのに、シャツをわざわざズボンに入れた、つってお母さん怒ってるんですよね(笑)。まあこういう色んな細かい情報がいっぱい―これが皆に配信されたら、そうかこの子は裾だしルックなのか、とか、どんな細かいオーダーに対してもきちんと答えられることが無いと、信頼性には答えられないですよね。まあそんなことでやってる仕事なんです。

福岡:  一寸風景を、ビデオで見てもらって―これも大分前のビデオなんですけども、そんなに変わってないので。長野の雪が見える、いい風景です。大阪からすると―よく大阪の中学生とか、長野にスキーとかで来ますよね。―そんなような風景なので、一寸こう云うような仕事してるっていうの見てもらって、あと質問とかあったら出してもらって良いですけど。

VTR(省略)

―ケア・マネジメント―

福岡:  一寸これ見てて、喋りたいことが1・2出てきたので喋ります。今ここで、「ケア・マネジメント」という言葉が出てきましたね、これは今言ったような単発のサービスを―今言った、電話一本でいいですよというサービスを幾ら単発でやっても、その人の生活をどう支え支援するのか、ということは難しいわけで。するとやっぱり、何が大事かというと、この方が困ったって言ったときに、すぐに関係する人が集まって皆で設計図を書く―生活の設計図を書く、というのが大事なんですよ。丁度家を作りたいときに、一級建築士さんに頼むとすぐに設計図を用意し図面を用意し、大工屋さん電気工事屋さん屋根瓦、全部段取りしてくれてお望みのものを作ってくれるのと同じような。福祉の分野でも、困ったと電話が来たらすぐ関係者が集まって、その方の生活を全部―トータルで支援するというような。これをケア・マネジメントって言うんですけども、これが今、凄く大事です。

 うちのセンターでも、ケア・マネジメントというか、すぐに関係者が集まって支援のプログラムを作るということがとっても多いです。これが出来ていないと、ただ単発で―トッピングでサービスを使っても駄目なわけで。例えばこんな感じですね―障害のある息子さんが居ます、毎日通所施設に通ってます。お母さんが、さっき言ったように毎日の送り迎えをしている。旦那さんは会社員なんで、朝6時に出勤して夜9時まで帰ってこない。こういうお父さんお母さん息子さんの3人家族のときに、まあ回ってますよね家庭として。お母さんが一度―こう云う電話が来るとしますね、例えば―すみません私急に明日から、急なことでなんなんですけど、病院の検査に引っかかっちゃって明日からすぐ入院、て言われちゃって。短くて最低1ヶ月の入院になるんですけども―1ヶ月お母さん居ないわけですよねこの家庭―すみませんが、1ヶ月の間の主人と息子のこと、宜しくお願いします―こう云う電話がかかってきます。

 すると我々は、サラリーマンの旦那さんと、毎日通所施設っていう障害者の施設に通ってる息子さんを、どう1ヶ月支援するか、ということをマネジメントしなきゃいけません。すると我々はすぐケア・プラン作って、皆さんに集まってもらって、「明日からこうやりますよ」ということをプラン作るわけですよね―さっきの習慣プラン表みたいな感じで。例えば、この方の場合我々はどうしたかというと、すぐ2つ位案を作ります。一個目はね―本人毎日通所施設に通わせたいけどお母さんが居ないので、お母さんの代わりにうちのセンターが送り迎えする。お母さんが毎日作って持たせた弁当は通所施設の職員に作ってもらう。あと、夜はお父さん遅いし朝も早いので、センターの家で毎日お泊りしてもらう。土曜日日曜日はお父さん休みだから家に帰ってもらう。―というのが一個作れますね。もう一つのプランはどういうプランかというと―お母さん居ないんで、お父さん朝6時に出勤して夜9時まで帰ってこないんだから、うちのセンターからヘルパーが朝6時に家に行って―お父さんが出勤したと同時に引き継いでね―本人を起こして御飯食べてもらって支度して、通所施設に送っていく。また通所施設4時頃終わったらば、通所施設に行って、うちのヘルパーが本人と一緒に家に戻って、御飯食べてもらってお風呂に入ってもらって、お父さんが9時頃帰ってきたらそれじゃあ失礼しましたと帰ってくる。―こんなようなプランをいくつか作りますよね。

 そんな中で、お父さんやお母さんや本人に集まってもらいます。お母さんに、どうしますか明日から、市町村のほうでもホームヘルプ・サービスっていうの予算組んでもいいって言ってるから―ここで行政が大事になっていくんですね―ホーム・ヘルプつかえるので、こんなプランで行きますけども―と言うと、お母さんは、私はもう我儘は言わない、1ヶ月最低入院になっちゃうので2つだけお願いしたい。1つはうちの主人の会社に迷惑を掛けたくない、もう1つは、うちの息子が毎日仲間と通っている通所施設には毎日絶対行かせたい。この2つだけお願いします―と、お母さんは言う。判りましたお父さんは何がいいですか、と言うとお父さんは、家に来てもらうのと向こうで泊まるのとどっちがいいか・・俺本当のこと言うと、お宅のセンターから毎日朝晩綺麗どころ来るのがいいなあ―なんて言うんです(笑)。センターから朝夕、御指名のヘルパーさんが来てくれると嬉しい、なんていうね―だけど急にお母さんの顔見て、いやいけないいけない、なんて(笑)。俺も人生中年になって人生迷ってきた―なんて言って、やっぱりうちの妻の台所に、朝晩来られたらちょっと―なんて言うと。

 で、本人はどうしたいかというと、絶対にこれは譲れない―と、何か言うんですよ。何言ってるかというと、月曜日は「愛の貧乏・・」だとか火曜日は「ガチンコ!」だとか、何か言ってるんですよ。よく聞いてみると、夜は絶対自分の部屋で決まった番組を見る、って言ってるんですよね。すると外では泊まりたくない、と言うことですよね。

 するとこの場合どういうプランになるかというと、朝6時にうちのセンターの綺麗どころが出向いていくんだけども、家の中で妻代わりはしないで、センターに来て御飯食べて、送ってくる。また夕方迎えに行くんだけども、家にはすぐに行かないでセンターで御飯食べたりして、お父さんが帰る頃になったら家に送り届ける―というプラン。こういう、マネジメントがすぐ出来る、ということがとても大事、と言うことなんです。

―行政―

福岡:  この時に―皆さん自分たちの市町村に戻られたら、そう云うことを実現してくれるような制度が自分たちの市町村に用意されているのか―例えば、すぐに対応してくれるホームヘルプというサービスがあるのか、すぐにナイト・ケアしてくれるようなショートステイがあるのか。或いは、本人たちが毎日通えるような通所の施設を持っているのか。で、これに対して市町村はちゃんと理解を持ってその予算を組んで、議会で承認してもらえるような取り組みをしているのかどうか。

 そういうふうにいきますと、長野県は一昨年から、田中康夫って方が知事になりました。この方私より一つ上なんですけども、―あの方の前に行くと、議論しても勝てないよ、とわらわかすだけで逃げてくるんですが―この方が凄いのは、「真実は細部に宿る」ということを判ってくれている。なんか大仕掛けなことをするんじゃなくて、地域をこまめに歩きながら―農家の農村の方と話してみたり、直接出て行って―あの方がやるのは車座集会とかどこでも知事室とか、ドラえもんみたいなことばっかやってるんですが。あっちこっち出歩いてね―、地域の現場を一個一個見ていきながら、必要な施策を予算に反映させていく、ということをやってくれています。そういうことのなかで、行政のトップの方が―やっぱり彼らは入所でなくてこう云うタイプがいいんだ―ということは、モニタリングすればすぐ判ることなんです。

 それに対してちゃんと予算をつけるだけの見識と方向性を持ってくれているか。この1年で随分変わったのは、電話1本ですぐ預かるというサービスを一気に作ってくれました。それから、彼らが障害があっても施設に暮らさないですむような方法として、今グループホームってのが大事だと言われています。でも障害者の分野は、このグループホームを作るのに予算の応援がないんです。長野県は、このグループホームを作るのに、約2千万の家を作るときに8百万の応援をしてくれています―金のない県なんですけども。

 こういうように、入所施設以外で暮らす施策について、地元の市町村、或いは見識を持った首長の方たちが、どういう見識を持ってやってるか。その時に大事なのは、ちゃんと地域をフィールドワークして声を集め、必要な物を施策にしていく、その時に必要なことはきちんと議論する。今、長野県でも沢山の議論があって、一つは脱ダム宣言てことに対する議論ですね。ダムが必要か必要でないか。福祉の分野でもいくつか議論があったりして、今度長野県にも500人のでかい入所施設があって、これを解体するっていう検討委員会があって―私もその委員なんですけども―こないだも田中知事が、福岡君脱施設宣言をいつしたら良いか―なんて言って、これは2番煎になるから止めませんか―なんて言うんですが―こういうような施策を展開していくときに、行政の見識というのは抜きに出来ない。行政に対して予算組むのは議員さんなんですから―議員さんを選ぶのは我々市民ですから、そう云うときに、こういうマイナーな分野に対してどう、我々働いてる人間・或いは障害をお持ちの本人の皆さんが施策に働きかけていくか、が大事なんですよね。

―リアリティ―

福岡:  これが一応うまく出来ているところは―「一応」ということは「うまく出来てる」ってことじゃないですが―こまめなサービスが有り、彼らが入所施設じゃなくても暮らせるような実態が出来て来、―ということはどういうことかというと、「地域から消されてない」ってことですよね。

 みなさんだって、車椅子の人が目の前に居るから、押そうかな押すまいかな、しらんぷりして通り過ぎようかなどうしようかな、と悩みが生まれます。車椅子の方が目の前に居なければ、そんな悩みすら生まれません。電車で座ってるときに、お年寄りの方が目の前に居るから、立って譲ろうかな寝たふりしてようかなどうしようかな、って思うわけで―葛藤が生まれます。でも目の前にお年寄りが居なかったり、お年寄りが全て姥捨て山みたいなところに行ってたりどっかに行ってれば、そんな葛藤すら生まれません。これと同じように、彼らが我々と同じ所に居なければ、如何すべきかということについての想像力が出てこない。ということは、彼らを我々の生活の定義から消してはいけない。消さないところから必要なことが生まれてくる、ていうのかな。「入所施設」というのは、彼らを我々の暮らすリアリティから「消して」しまう一つの装置になっている。
 では、こんなものでしょうか。質問、何もないとは思いますが、何か。

学生:  障害を持つ方が、実際結婚などされる場合って―ケースとしては、支援としてどういうことがあるのでしょうか。

福岡:  残念ながら私どもの地域では、障害のある方で一軒家で暮らしてるとこに支援に行く、とかアパートで暮らしてる方とか、同棲してる方たちはいるんですけども、結婚というところに至って夫婦で居る、というケースを支援した例は正直持ってないんです。こういうのを実践されたところは、由紀子先生に訊けばわかると思いますけども、徳島であったりとか北海道であったりするので、その辺の方にじかに訊いた方が良いと思うんですが、基本的には―特に同棲してる方を我々支援してる場合に、こちらが、貴方の人生はこうでなきゃ駄目だよ―ということを押し付けない、ということが大事になりますね。で、「向こうが困ってることについてどういう応援が出来るか」という発想で行くということですよね。

 ただ、向こうが言うことを全て真に受けて引き受けてしまうことが、できるかできないか、という問題があるので、その時に我々は、皆さんの―向こうが言うことに対して、「尊重はするが絶対視はしない」というのかな、でも「尊重してその答えに近づく」という努力はしていく。そのときに、でも―お二人に子供さんが出来る、こう云う暮らしをしたい、経済状態がこうだ、といったときに、「我々はここまでは出来るけれども、ここから先はまだ我々の力では出来ません」とか、こういうことは言わなきゃいけませんよね。なんでも応援します―とか、人生愛し合うことが全てです―とか、それだけでは済まないことなので―例えばうちのところにも、二人で同棲生活してるんですが、この前急に暮らすところを追い出された―といって二人で来ましてね、聞いてみたら車の中で1ヶ月二人で暮らしてる、って言うんですよ。尚且つ、何で追い出されたかというと電話攻勢が凄くて―聞いてみたら電話で、ポッケクラブとかアイフルとかなんとか、いっぱい来るんです、聞いてみたら結構ローンしてましてね。弁護士さんに入って調べてもらったら、300万あるんです。するとそのときに、一個一個整理しなきゃいけませんよね―法律扶助協会に行って、破産宣告するための手続きをどうしたらいいか、どこまで位応援したら良いのか。今度1回破産宣告した後はもう2度と出来ないから、この時2人の持ってる年金と、あと暮らせそうな県営住宅なんか探して、どういう暮らしをしたら良いか―その時に、本人に毎月、障害基礎年金を2人分―15万なら15万を持たせても2日で使っちゃうお二人ですから―二人で携帯電話しながら歩いてるんですからね、隣同士で。先月17万の請求あった、なんていう方ですよ―その時に、何日に分けてお金のやりくりをしたら良いのか。

 大事な年金とか通帳については―今権利擁護事業とか成年後見制度とか、そう云う制度しってますか、そう云う通帳を扱ってくれる人たちもいます―こういう所でどうしたらいいか、ということについて、本当にこまめな事やっていかないと、成り立ったことがないんですよね。でもその経験の中で、すこしづつ支援していく中身が減っていくんですよ―ただ、また別の問題が生まれてきますけども。そう云う意味では、こちらからするとひやひやなことが多くて―自信もってやってるということはあんまりないんですけども。・・そんなことでいいでしょうか。

学生:  大きな疑問が一つだけあります。凄く、ごっついネットワークを築きかれつつあると思うんですが、中心になった方が―福岡さんだけが築いてこられたのか、あるいは色んな人を口説いてネットワークの中心となる人を、たぶん沢山作らなかったら、こういうのは回らないと思うんですよ。元々思われた人が何人か集まって、どんな風に広がっていったのか、ということをお聞きしたいと思います。

福岡:  よく、福祉が進んでる地域には必ずキー・パーソンなる人がいる―といわれてますよね。私はこの地域でのキー・パーソンかもしれないと思われてる一人かもしれませんが、実際こう云うことを動かしているのは障害をお持ちの本人なんですよ。これは綺麗事でなくて―、本人が障害をもっていて、暮らしに困ったときに、それに対して「困る」という人をどれだけ増やせるか、ということなんですよね。しらんぷりできない行政の担当者、背負いきれないお母さん、あと本人が毎日通ってるところ―学校関係者の方たち、に集まってもらって、この方がこうならなければ困る、というリアリティを、どれだけ皆に伝えるかということだけで大分解決になります―正直言いますと。

 だから、誰かスーパーマンがいて―田中知事みたいな人がいて、上から一発の命令で皆動く、というのじゃなくて、この方の暮らしが明日から止まるとどうなるか、どうしたらいいか―ということ、そう云うリアリティを一個一個作っていくということが、一番地域を変えていく力だと思うんです。その時に私どものやる仕事というのは、ある種翻訳家みたいなところありますね。本人たちの困ってる声を行政の方に届けるときに、ただ困ってるんですよという言い方しても駄目なわけですよね。行政の方の言い方に翻訳していく―例えば、今彼が困っている暮らしの中には、ホームヘルプ・サービスの家事援助がここでこう困っているとか、どこどこ市でやっている―例えば障害児学童保育的な何々適応訓練のこの事業について、市が不足しているから困っている、とか、そう云う翻訳の仕事をしていくのが我々です。あと行政の方が、今の制度の中で何が出来るか、というときに、これをこうすればいいのかこうすれば良いのか―という行政の立場の声を、本人たち・家族たちにまた翻訳しなおす、ということがあります。そう云う意味ではこれをコーディネートと言うかもしれませんが―調整・つなぎ役が地域にいて、その方が一つ一つの事例についてつなぎ役をし、翻訳しなおしながら出来ることを話合う、ということをやっているところは、そんなにスーパーマンでなくても実態は出来ていくと思うんです。

 ただ大阪府で話していて、自分がなんとも思うのは、私どもの地域は一番少ない人口で3千人なんですね。3千人の自治体が障害者福祉でやれる仕事と、例えば5百万位の、大阪府とかそう云うところがやれる仕事って言うのは似てるようで違うんですよね。例えば大阪府は、私ども3千人の自治体に比べて何百倍もお金持ってるでしょう。でも一人一人の固有名詞は見えないかもしれません。府の、例えば福祉担当者が「どこどこに住んでるだれだれさんがこう云うリアリティで困ってる」ことがわからなければ、ただ一般的にホームヘルプ・サービスの予算・障害児学童、なんていっても、一回パンドラの小匣を開いてしまったらどれだけのニーズがあるかと思うと、怖くて開けない。そのときに、Aさんが困ってるから、とかBさんが困ってるから、ということが判っていれば蓋を開けるんですけども、こうなると―皆さん出身地に戻られたときに、うちの市は30万人口だうちは6千人の町だうちは100万だ、というとそれぞれ、やはり行政の担当者が固有名詞で物が見えているかどうか、ということに対して、温度差があると思うんです―よく言われるのは、横浜とか大阪とかは進んでる、といわれます。

 で、私ども長野県の―長野のチベットと呼ばれてるんですが―そう云うところのこう云う実践が、横浜で同じことが出来るのかといわれると、横浜は飛びぬけて凄いところありますけども、横浜3百万でこんなやり方したらパンクしちゃう、といわれます。そうすると、皆さんが市町村に帰ったときに、うちの市町村の規模で―或いは市町村が集まった団体の中で、固有名詞についてどれだけ語れるリアリティがあるか。そしてそれに対してどれだけ税金を使おうという方向になってるか。それをキー・パーソンでつなげてる人間は誰か、という3点セットですね―こういうことについて、福祉に関心もってほしいなと思います。

ゆき:  もっと色々うかがいたい方は、お弁当をもって私の部屋にきてくださいね。午後も引き続き、つっこんだお話しを伺います。貴重なお時間を割いて、はるばる大阪まで来てくださいまして、ありがとうございました。

―――拍手―――


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