優しき挑戦者(阪大・ゲスト篇)

「サリドマイド事件から日本を考える」 2002.10.23 午前
いしずえ事務局長:増山ゆかりさん

(記録と編集:ボランティア人間科学講座・小南佳子さん)

―増山ゆかりさんってどんな人?―

ゆき:  今日は、増山ゆかりさんが来てくださいました。千葉のご自宅から足で運転してここまで来てくださいました。その車をみなさんに見せてくださるので、いつもよりちょっと早めに5分か10分早くに終わって、この建物の下の、足で運転する車の様子を見せていただくことにしましょう。
 増山さんは1963年にお生まれになりました。よその国では「サリドマイドには催奇性があって危ない」と発売禁止になっていた時です。日本でだけこの年生まれの被害者がいるのです。私がみなさんぐらいだった頃はエンジェルベビーとか、アザラシっ子という名前で社会問題になっていました。

 では、ゆかりさん、こちらに来ていただけますか。この花道をちょっと歩いて。先日、ドイツから来られたサリドマイド被害の大学教授は腕が付け根のところからなくて、袖のない服を着ておられましたけれども、ゆかりさんは指をお持ちです。見せてくださるそうです。手でハンドル回せませんので、足で運転して昨夜大阪に到着なさいました。千里阪急ホテルで朝ご飯を一緒に食べてここまでご案内しました。それでは好きなように時間を使ってください。そして、みなさんの質問の時間を取りますので自由に質問してください。いつものことですが、3限目授業がない方やお弁当持ってきている人は、私の部屋に来てくださると引き続きお話を聞けます。

増山ゆかりさん

増山:  おはようございます。

学生:  おはようございます。

増山:  千葉県から来ました増山ゆかりと申します。宜しくお願い致します。今あの、由紀子さんのご紹介で年齢がばれてしまったんですが。隠してはいないんですが、実はもう39になってしまいました。もう、何か友達にはちょっとそれは、詐欺だなという風に言われていて、別にそれは、特に若く見えるようにしているわけではないんですけど、ちんまりしているので、大体みなさん年齢をいうと、何かちょっと怪訝な顔をされてしまいますが、もうちょっとで40というそうゆう年代になりました。

ゆき:  しかも、奥さんです。

増山:  結婚してもう10何年経ちます。今日はみなさんに何を話したらいいかなぁという風にずっとこの2、3日考えていまして、たぶんかなり普通の方に比べると福祉とか、社会的な色んな問題について考えられてる方たちだと思いますので、あんまり一般的な話をしてもおもしろくないのではないかなと思いますので、できれば本に書いてないようなそうゆうことを話せたらいいなという風に思って、話すということを考えてきました。(携帯の音)ごめんなさい。私ちょっと、携帯をマナーモードにしてなかったので。これ、私ですね。なんかちゅんちゅん鳴ってた。切りますね。(笑い)

―明るい未来の為の薬、サリドマイド?!―

増山:  まず、みなさんたぶん、サリドマイドについてもう40年も前の薬害事件になりますので、あまりご存知ないかと思いますが、それについて簡単に説明をさせていただきます。たぶん昨日あたりに配っていただいたかと思うんですが、

ゆき:  みなさん今朝、見たばかり。

増山:  あ、今朝ご覧になったと思うんですが、このサリドマイドの事件について簡単に説明をした文章がありますので、そちらを見ながら聞いていただければと思うんですが。この、サリドマイドの薬というのはもともと旧西ドイツで製造・販売された薬で、当時は睡眠薬に入っていて、それで日本では最初、睡眠薬に入っていて、その後胃腸薬に混ぜて売られて随分被害が出た。そうゆう薬です。で、私自身が最初に、睡眠薬でなぜこんなに広く被害にあったのかちょっと不思議に思っていたんですね。なぜかというと睡眠薬って普通、普段、普通の人が飲む薬ではないという印象を持っていたので、不思議だなぁって思ってたんですが。

 後で調べて色々先生からも、サリドマイドの顧問をされている「いしずえ」の先生からも聞いたことなんですが、ちょうどサリドマイドが作られた1956年、7年っていうその頃、世の中がまだまだ戦争が終わってそれでも色んなところで内戦があったりして、世界中がまだまだ混乱していた時期で、人々の生活がこれから何とかみんなでご飯を3食食べてそれで、その明るい未来を夢見はじめる様な、そうゆう時期だったんですね。

 で、それにはまず健康が第1ということである種健康ブームという感じで、元気に生活するということがすごく大事だと。そういう見直しをされている時だったそうです。それで、昼間は一生懸命働いて、で、夜はぐっすり眠って、それでおいしい栄養のあるものを食べて、元気にまた次の日も働こうという、そうゆう生活が流行ったんです。それで、そこに薬というのが人々の生活に入ってきて、薬で正しい生活を維持しましょうみたいな、そうゆう風潮だったそうです。そこで、睡眠薬というのが割と、一般的にも飲む薬の一つになっていて、大体ヨーロッパなんかでは当時は風邪薬とか胃腸薬と同じように睡眠薬がちょこんと、そこの、同じ薬の入れ物に入れてあるという状況で。

 後は日本ではちょっと、あまりない習慣かもしれませんが、外国ではコンサートに行くだとか映画に行くとゆうと、夫婦が行ってそれで、そのベビーシッターの人が子どもの面倒を見るというのがそうゆう感じの訳で。その時に出かける前に子どもがぐずったりしないようにといって、ほんの一口こう、錠剤ではなく液体の飲み薬もあったんですが、サリドマイドは、その飲み薬を子供たちに与えて、それで、子供たちが静かになったところで親達は安心して映画を見に行くとかいう感じで使われていたそうなんですね。で、その時に結構ヨーロッパでは子ども用のサリドマイドの薬なんかが各家庭にあったりして、そうすると今度は親達が帰って来て、明日のためにといって、自分達も子ども用だから大丈夫だろうという感覚だった思うんですが、それをこうスプーンで飲んだりなんかして、それでサリドマイドをまた生んでしまったという、そうゆう経緯もあったようです。

 で、大体サリドマイドは、まあ当時、そのサリドマイド剤がはいった薬というのはすごく爆発的に、社会的背景もあって売れました。睡眠薬であるにも関わらず。後は、その病院で、処方を受けなくてもいい、市販薬として売られたということも、被害を拡大させた大きな原因になっているのではないかという風に思っています。

―見えない死亡率の高さ〜レンツ先生の警告―

増山:  私自身サリドマイドといっても、サリドマイドのことについて色々知ったのは大人になってからで、すごくショッキングだったのは、実はサリドマイドというのは凄く死亡率の高い薬害だったんですね。で、どれぐらい死亡したかというと、こう見ていただくと私の場合は指が両方とも3本で、腕の長さは、まあ、たぶん指先を入れても20cmぐらいしかないんですが、だからほとんど腕もないし、肩の骨も実際ないんですね。これだけ、外見、奇形があるということは、当然体の中にも同じように奇形があって、で、内部障害をもったサリドマイド児も結構少なくありませんでした。それで多くは薬を飲んだ時点で流産したり、あるいは、あまりにも赤ちゃんがまだ、お腹の中で小さかったので、体内に吸収されるという形で、実際薬を飲んだ母親自体も自分が妊娠していて、サリドマイドの子をだめにしてしまったということに気付かないようなそうゆう状況もかなりあったんではないかといわれています。

 それでサリドマイドはやっぱり薬害事件ということで裁判になったので、随分、その、データなんかも隠してしまったり、製薬メーカーが色んな副作用情報が上がってきたものを保存しなかったので、実態がよく把握はできていないんですが、大体45%ぐらいは亡くなったんではないかという風に言われています。

 えーと、そのヨーロッパではサリドマイドが睡眠薬で主に広まって、それで日本では初め睡眠薬で出たんですが、それがだんだん問題になると、製薬会社はそれを睡眠薬ではもう売れないというのを察知したのか、今度は胃腸薬として宣伝するようになって、大々的に宣伝した成果があったのかどうなのか、胃腸薬でサリドマイドになった人の方が多いぐらいです。ちょうど1961年に、11月にヨーロッパでは、もうこれはかなり、この薬によってこうゆう奇形児が生まれているんではないかという、そうゆう疑いが強くなって。それでレンツ先生って、当時、このレンツ先生はまた、ちょうど、すごく、サリドマイドを発見するのに、とっても、その、いい条件だったといったら変ですが、遺伝学者でもあり、小児科医でもあるということで。

 その初めにこの、サリドマイドの子を見たときに、すごく不思議に思ったっていうんですね。やっぱり、これだけの奇形の子というのは、そう何年に1人見るか見ないかというそうゆう今まで感じだったのに、何回もその年に見た。3人か4人ぐらい見て、しかも色んな地域から生まれていて。で、遺伝学的には突然、そうゆう奇形、奇形児というのは別にその薬とか関係なく、原因不明で、人口の何%というすごい少ないパーセントですけれども、ある程度一定の確率で生まれてくることはあるらしいんですが、それがいきなり突出するというのはありえないそうなんですね。それで、絶対これは何か人工的な問題があるんではないかという風にレンツ先生はそこに気付かれて、それで色んなところに奇形児が生まれたということを聞きつけては、色んなところには行って、そこで半分ぐらいの親が実はサリドマイド剤を飲んでいたということがわかりまして、それでその学会で、小児科学会で、この薬は危険だという風に警告を発したのが一番の発端です。

 ですから、もしこの方が普通にただ小児科医の方だったら、もしかしてそこまで、この短期間の中で、そこまで分析できなかったんではないかなという風に私は思っていて、本当にそうゆう偶然だったんだとは思うんですが、レンツ先生がサリドマイドの子どもを見てくれたということは、後々すごくよかったんじゃないかなという風に思っていて。裁判でも日本の場合は被害を受けた側が、この薬によって被害を受けたという事を立証しなければいけないんですが、それがすごく大変で、なかなかこの、薬害被害は裁判に勝てないのですが、その時にレンツ先生はやはり日本にも来てくれて、この薬がどれだけ危険だったか、あるいは奇形児の出生率がその当時、1000倍ぐらいに膨れ上がったということを話してくれて、かなり裁判をする過程の中では先生の証言というのはとても、私たちにとっては助けになったかと思います。

―高い死亡率の、3つ目の理由とは…―

増山:  で、そのサリドマイドというのは、今ちょっと話が色々それましたけれども、一般的には報道されている、テレビなんかで報道する場合は、やっぱり腕に障害が、私のように短くて、足は何でもないという感じの方が多いので、サリドマイドというのはみんなそうゆう風に思われているかもしれませんが、実際は日本で認定を受けた309人の中の10分の1ですね、30人が私みたい短い手をしていて、もう少し、後は手の長い人とか、耳の方に奇形が出ることも少なくなくて、25%ぐらいは耳が聞こえないとか、耳そのものがない人もいます。で、補聴器を使ったり、あるいは、手話を使ったりして、その、コミュニケーションをとるくらいかなり重度な聴覚障害を持ってらっしゃる方が多くて、だから、サリドマイドの人が全国から集まって「いしずえ」の中で会議をする場合、代筆をする人がどうしても必要で、で、私たちも手が悪いので結構その辺がやっぱりすごい苦労している点なんですが。

 結局、その飲んだ時期によって、そこがちょうど赤ちゃんがお腹の中で、成長している部分に影響を受けるので、例えば内臓が発達しているときに薬を飲んでしまうと、内蔵に障害があります。例えば肺に奇形があるとか、あるいは心奇形の人も結構多くて、それだけ重篤な内部障害をかかえてしまうと、当然生きていくことはできないので、生まれた直後に亡くなったりしているのではないかという風に言われていて。ただ今から40年前の日本はまだまだ奇形児に対する差別とか、色んなものが、まあどうしても忌み嫌うものがあって、実際、生まれたことすら、生きてたという、お母さんには本当のことを言わないで済ましているというケースが多いのではないかという風に思います。で、海外では先ほど45%から50%ぐらいが生存率という風に言いましたが、日本ではもうちょっとそれより低いんじゃないかという風に言われてて、30何%ぐらいではないかという風に言われて。

 私はどうしてですかと以前レンツ先生にお会いしたときに聞いたんですが、一つには一錠に含まれるサリドマイド剤の量が多かったこと。それから、後は医療的にそれほどまだ高い水準になかったのではないかと先生はおっしゃってたんですが、後、私はもう一つの原因としてその後その、サリドマイド児の親から色んなその、もれ伝えられるところによりますと、生まれたときに、お医者さんが、お母さんにはね、母親の方には言わないんですね。大概は難産でひどく体力が落ちていて、とても子どもがどうのこうのと話ができる状態じゃないということなんですが、大概は父親に「お子さんが大変ひどい奇形児です。どうされますか。」て聞くそうなんですね。処置をどうしますかって聞いてて。それだけ、やっぱり衰弱、子どもが衰弱して生まれてくると別に何かしなくても、治療しなければすぐ死んでしまう状況なんですね。それで、亡くなった方も少なくないんではないかと言われています。

 なぜかと言うと、やはり、そうゆう風に証言する親が結構いるからです。で本当に、ある親は「布でもかぶしておきますか。」という風にお医者さんに言われたそうですね。私はもう、それを聞くたびにとても憤りを感じるのですが。だから、日本のサリドマイドは認定を受けたのは309人という風になっていますが、実際には1000人、1200人ぐらいは被害にあったのではないかという風に言われていて、むしろ私なんかは本当に、生き残りで、助かった人なんですね、サリドマイド被害にあった人々ではなくて。ですから、私、被害が309人と言われると、ちょっと抵抗があって、実は1200人ぐらいいるんですよ、という風に大体、ご説明するんですが。まあ、そんな状況で、人権とかそうゆうものが本当にまだまだない時代に生まれた、それで、そうゆう薬害事件として、サリドマイドが、そうゆう試練もあったということを私は、これは伝えなければならないなと思っています。

―どこの親だって、それとも、日本の親だけ?―

増山:  実際、海外のサリドマイドの人たちと私は何回か交流をして……。あの、サリドマイドの世界大会があるんです。サリドマイドは大体今、4500から5000人ぐらい海外、あの、日本を含めているんじゃないかという風に言われていて、ちょっと把握できない国もあるんで、おおよそなんですが、大体ヨーロッパとかに、その大半、3000人ぐらいが集まっていて、何年間に1回はスウェーデンとか、なんかオーストラリア、オーストリアですね。とかオランダとかあの辺でこう集まって、サリドマイドの色んな問題、あるいは情報交換、健康に関する情報交換なんかをしているんですが、その時すごくショックだったのが、海外のサリドマイド児の方が障害が重いんです。

 私はもちろん、専門家じゃないので、どうゆう、医学的にどうなのかということはわからないのですが、でも実際は手も足もないサリドマイドの方がいたりするんですね。ところが日本は私が、私ぐらいが一番重い部類に入るので、やはりもっと重い人も生まれてたはずなんじゃないかなとやっぱりそのときも、第1印象で思いました。本当にね、親にとっては手も足もない子どもが生まれるっていうことは、とてもショックだったと思うんですが、それでもそれを救った海外の親達はすごいと思いました。

 今年の4月にスウェーデンに行ってきて、ちょうどスウェーデンがサリドマイドの40周年かなんかにあたるので、その記録フィルムをやっていて、そのときにね、当時の親達のインタビューを見ることができたのですが、その中では、本当にどれだけね、サリドマイドの子どもを育てることが大変だったかという事を切々を訴えている親のインタビューがあって。私なんかは、子どもはそんなこと全然あんまり、親にどれだけ苦労をかけたかなんてあんまり思ってないんだけれども、確かに親にしてみると、今までそうゆう世界に、全然知らなかったのに、急に重度の障害を持った親になって、その子とともに生きなければならないというその苦悩はすごくあったんだなと。

―過酷な現実、暖かい言葉―

増山:  また、今ではサリドマイドは薬害だというふうにはっきりしていることですけれども、当時は、やっぱりその、ウィルス説があったり、あるいは、その、なにかね、先祖からのたたりじゃないですけれども、本当にね、そうゆうことを真に受ける人たちがいたんですね。で、うちの母もすごく、私も北海道の伊達って昭和新山の近くなんですが、伊達市に生まれてね。やっぱり当時は奇形児が生まれると町中に知れ渡ってしまうわけですね。

 それで、私は心臓がちょっと弱くて、すぐに、生まれて3週間で東京の病院に移されたんですけれども、私も後から知ったんですが、私が生まれたことは母親は知らなかったし、私すごく難産で、母も私を産んだ後しばらく入院していたんですけれども、子どもはやっぱり死産だったのではないかという風に思っていたそうですね。それで後、親戚なんかにも、子どもが生まれたという連絡がいかなかったので、そろそろ生まれるはずなんだけどねぇなんて、親戚同士ではなしてたんだけど、そうゆう連絡なかったので、おそらく亡くなっちゃったんだねという風に思ってたみたいです。

 で、私はやっぱりちょっと心臓に問題があって、不整脈が随分続いていて。で、北海道の小さな病院ではね、とってももう面倒みきれませんということで直ちに空輸されて東京の世田谷にある小児病院、小児科専門のね大学病院、附属の何か病院に入れられてそれでずっとそこで育ったんですが。その間うちの両親もやっぱり全然会う機会がないんですね。まあ、親にとっても、あ、うちの母っていうのが、私が病院に、東京の病院に移されるっていうその日に、看護婦さんが病室に連れてくるんですね、私を。

 うちの父は母に「赤ちゃんは元気だ。」という風にいつも言ってたらしいんですよ、その間。だけど、母はその赤ちゃんに会わせてもらえなかったので、おそらく自分が具合が悪かったので、ショックを与えないために、本当はもう亡くなっているのに、元気だっていう風に言ってたんじゃないかという風に思ってたんですね。そこへ、看護婦さんがね、やはり看護婦さんも、直接手を見せるのは可愛そうだと思ったんだと思うんですが、毛布にくるんで、お母さんのところに連れていったんですね。で、私はいきなりよその病室に連れていかれたので、すごくむずかってぎゃーぎゃー泣いてたらしいんです。そしたら、母親のところにそっと寝かせたら、そしてお母さんが抱き上げたとたん泣き止んだんですって。そしたら、看護婦さんが一言、「あぁ、赤ちゃんはもう、誰がお母さんなのか知ってるのよ。お母さんしっかりしなさい。」っていうようなことをその時言ったそうなんですね。

 私は、もうその時の看護婦さんの暖かさとか、母に対する思いやりとか、そうゆう風なのを感じて、今でもそうゆう風に母に対して接してくれたということをとてもいいことだったなという風に思っています。ただ、もう、私はそれを、その時を境にほとんど母親には会ってない、会わないまんま育ってしまいまして、結局東京の病院に移されて、で、親達は離婚してしまったんですね。その後。私が小学校に入ってすぐぐらいなんですが。それで、あの、私はほとんど母親とは、ほとんど会ったことがないまま大人になってしまったんですけれども。そんな状況で、本当に家族にとって、重度の障害を持った子どもを受け入れるってことは凄く大変なんです。実際。

―薬でなったなら、薬で治るでしょ?―

増山:  また、私自身も、実際、生まれた時から障害を持っているいわゆる先天性障害という障害なわけですけれども、私自身も生まれたときから障害を持っているんだから、じゃあ、その障害のことがわかるかというと、全くわかっていなくて。2、3歳の頃というのは自分が、その、障害を持ってるということを理解できないんです。だから、小学生同士で遊ぶと、「何だ。ゆかりちゃんの手、ちょっと変じゃない。」とか言い出す子がいるわけですね。そうすると、「そうかなぁ」とかいいながら一緒におままごとをやってるんですね。

 で、夢の中に私、本当に今でも思い出すんですけど、夢ん中ではちゃんと指が5本なんですね。それに、もう手も長いんですね。私自身はその、先生に、段々、でも、ちょっとこう大人になってくるにつれ、自分が他の人とは違うということが理解できるようになって、で、先生に「先生、あの、どうして私こうなんですか。」と聞くわけです。で、先生がね、「あぁ、ゆかりちゃんは、薬をお母さんが飲んでそうゆう風になったんだよ。」ってゆう風に言ってくれるんですね。そうすると、「じゃあ、薬で治して。」って。「薬でなったんだから、薬で治せるはずよ。」という風に思っていて、随分「早く薬を作ってね」っていう風に先生にお願いしていたのを思い出しますが。私自身がずっとその、夢の中の5本指の自分というものが、もう愛しくて仕方ないんですね。もう何でもできるんですね。夢の中では。早くそうゆう体になりたいという風に思っていたんですが。

 でもね、段々ね、実際毎日、じゃあ自分がご飯を食べるとき、当時はほとんど手を使えなかったので、足でフォークやナイフを持って食事をするんですけれども、そうすると、もう段々現実として、手が使えない自分というのを受け入れざるを得ない。そうゆう状況になるんですね。でも、子どもっていうのは、子どもは別にそんな難しいことしなくていいですよね。仕事をする訳でもない。せいぜいお喋りをして、おままごとをして、テレビを見て、おやつを食べて、よく寝て、よく喋って。だから、全然、障害があるということが障害になっていなかったので、全然、まぁ手ぐらい使えなくていいやって思っていて。

 実際、私も自分でいつから足を使うようになったのかなってのは思い出せないくらい当たり前に足を使っていて、今でもそうですけども、当然足で針に糸を通すぐらいは、全然問題なくできますし、パソコンもキーボードは足で打つこともできるし、その、裁縫でもお料理でも何でも足でできるんですね。それだけ器用だと、まぁ手ぐらい使えなくてもいいなって思うんですけれども。

―差別される自分を見つけたとき―

増山:  その、小さいときに、ただ、やっぱりね、すごい差別があって、例えば町を、道を歩いているときに石を投げられたりするんですよ。石を投げられて、本当に、犬みたいに追い払われるわけですよ。「あっち行け!」って。お店の人とかに、「入ってくるな!」ってとか言われて。なんでこんな酷い目にあうんだろうってやっぱり、子ども心に思っていて、あの、皆さんね、そんなの40年前にまれなことだろうって、40年前だったとしても、それほどね、日常的なことではないのではと思われるかもしれませんが、そんなことはなくって、多くのね、障害を持っている人がそうゆう目にね、実は遭っています。

 私なんか、もう、浦島太郎の亀みたいなんて思って。みんなにやんやとつつかれるんですよ。こう、子供たちが集まってきて。「何でおまえはこうなんだ。」とか、「変なの。」とか言われて、「変で何が悪い。」とかって私も偉そうに威張ってたんですけれども、そんな中で、やっぱりすごく疑問だったのは、手が短いってことがなんでいじめの対象になるのか全く理解できなかったですね。その時。普通と違うってことが、何で人にこんな行動を起こさせるのか、本当に理解できなくて。私は、腕がなく生まれてきたことに本当その当時はね、実は感謝して。私は少なくとも、足がないとか、手がないとか口がきけないとか、目が見えないとか、そんなことで人を差別したり、嫌ったりするような人にはならない。なることができないってゆうのが唯一の救いだったんですね。一応小ちゃいながらも、そうゆうことは頭で理解してるんですね。

 ところがですね、段々大人になるにつれ、自分がやっぱり、こうゆう体でいることが苦しくなるんですね。本当に、たぶん一番苦しかったのが、思春期の頃だと思うんですが、自分がどう生きていいか、全くわかんないんですよ。想像もできなかったんですね。サリドマイドっていうのは、まず、薬害被害なので、私たちより前にもサリドマイドはいないですし、私たちの後にもサリドマイドがいない状況で。それで、また、300何人ですから、いくらサリドマイド同士といってもそれほど当時、みんなで相談してどうしようって言える程の環境ではなかったので、実際、私はこの先生きて何ができるのかっていうのを考えたときに、もう、すごく苦しかったんですね。

 で、また、やっぱり、すごく人に見られたりすることに、やっぱり、すごく自分自身が人に見られて、石を投げられてもいい存在なんだという、そうゆうことをしてもかまわない相手であるという、そうゆう社会的地位にいるんだということを理解したときにね、もう、すごく苦しくて。私が生きていくことで、社会に何にプラスになるのかなって考えた時にあんまりないなぁって。じゃあ、私が社会に何をしてもらわなくちゃいけないんだろうって考えると沢山頭に浮かんでしまうんですよね。一体これはどうしたらいいんだろうってゆう風にずっと思っていて。

 それで、病院の中でもこのまんまでいいって言ってくれるひとは誰もいなくって、とにかく何でもできるようになりましょう。何でもあなた、とにかく大人になりましょうっていうね、そうゆうことをどんどんどんどん教育されるわけですよね。だからすごい、その、今でも皆さん障害者に対する差別っていうのは大分なくなってきてるんじゃないかという風に、もしかして思われている人もいるかもしれませんけど、それはとんでもない誤りで。就職にしろ、住居を探すことにしろ、もう、とにかく教育を受けるという自由にしても何もないんですよね。現在でも。で、あの、それなのに、世の中っていうのはすごく、障害者に対して厳しい目があって。何かこう、清く正しく美しく生きていないと受け入れられて、受け入れてくれないというか。だから、すごく、社会の中で泣き言を言えないようなね、そうゆう状況があるっていうか、すごくそれがプレッシャーになっているというか。

―何とかしろと言われる現実・何にもできない現実―

増山:  何が、障害、どうゆう、何がきっかけで障害を受け入れることができたかっていうのがよくわからないんですが、ただものすごい辛い時期があって、実際、私自身が本当に生きていていいのかなっていう風にやっぱり思いました。これ、皆さんにすごくわかっていただきたい、私今日ね、ここで話をするときはできるだけ、本に書いていないこと。つまり、本音でね、話をできればいいという風に思っていたので、そうゆうつもりで是非聞いていただきたいんですが。

 大体私の友達なんかでも、みんな重度の障害を持っていると、本当に一時期ね、自分が生きてていいのかなってすごく真剣に考えます。大体親にもすごく迷惑かけますし、自分にとって一番大事な人に一番迷惑をかける存在になるんですよね、自分自身が。だから、それに耐えられなくなるんですね。私の通っていた学校というのは色々なリハビリテーションができる、受けることができるようなそうゆう医療のある学校とか、あるいは養護学校とか私はずっと転々として、高校は養護学校の高等部を卒業したんですが。やっぱりその中で、自殺をしたりしていく同級生とかがいて、それはあんまり広く知られていないかもしれませんが、私はやっぱり、その当時は大体どこの学年にも一人ぐらいそうゆう人がいて。まぁそうゆう時期だったのかもしれませんけれども、結局、自分が何かやりたいっていうことを見つけたとしても、それがやれるだけの自分に、能力がないっていうのがはっきりわかるっていうんですね。そんなの誰に説明を受けなくっても。

 例えば私がオリンピックの選手になりたいと言うと、もう、養護学校なんかでは、自分を理解していない。すごい、仲間内で言われるんですね。そうすると私なんか、障害者、生まれも育ちも障害者な訳ですので、もう江戸っ子と同じで、自分ではもう生粋の障害者だと思うわけです。そうするとね、「てやんでぃ。」っという感じで、できなくて何が悪いとかって思う訳ですよ。できなくて、何が悪いって。だから障害者なんだからって、開き直ってみるんですよ。だけど、それを実際ね、それでいいのかっていうのはまた、別の問題なんですよね。随分多くの人が障害を持ってるということに苦しんで、それを乗り越えて、それと戦って生きてるっていうのが現状です。

―見えないから、所詮は本の中だけのドラマ―

増山:  だから、例えば乙武さんの書いた「五体不満足」という本を読まれた方って多いと思うんですが、私は彼に対して、何かね、君はどうのこうのって言う気は全然ないんですけれども、あの本に対してちょっと辛らつなことをいいますと、障害者のためにはなってないと思うんですよ。なぜかというと、本当に障害を持っている人の苦しさが表に出てきてないっていうか。まあ、彼はその、苦しさを理解してもらおうと思って書いたのではないかもしれないんですが、ただ、あの本があれだけ世の中に受け入れられたということは、やっぱり障害を持っているということが、私は他人事なんだなって事をすごく感じました。

 どうしてかっていうと、世の中例えば歩いていて、障害者に出会わないじゃないですか。例えば、障害者手帳を、障害を持っている人は色々なサービスを受けるためには交付してもらうんですが、日本の場合はかなり重度じゃないと、色んなサービスの対象にならないので割と軽度の人しか申請しないんですね。それでも500万人ぐらい障害を持っている人っていうのは日本にもいます。で、日本は人口の比率から、前に、少ないって聞いていて。随分前なので、うるおぼえなんですけれども、アメリカなんかは10分の1、人口の10分の1ぐらいが障害を持っている人がいるって聞いて。「わあ、そんなにいっぱいいるんだ」って思ったんですが、実は日本ではそうゆう手帳を申請してもサービスを受けられないので、受けない、まぁそれだったら、申請しないでいいという人が多いっていうことも聞いて。多分普通に申請すれば、まあ、10分の1ぐらいはいるのかなっていう風に私は思っているんですが。

 そうすると街を歩いていて、10人に一人は障害を持っている人に会わなくちゃいけないんですね。まぁ、内部障害とか、色々外から見て分からない障害とかあるので、一概には言えないんだけれども、それでもここのクラスには、40人ぐらい、でしょうかね。人がいらっしゃると思うんですけれども、その中の4人が障害を持ってる人がいないと、人口の比率からいうとやっぱり少し不自然だという風に思わなきゃいけないという風に私は思うんだれども。その事実に、例えば普通の人が、普段生活をしていて、障害者に例えば、スーパーで買物している障害者に会わない、電車に乗っている障害者に会わないということに何の疑問も持たないですよね。実は。それ、疑問に持たないということも自分達の中で気が付かないということが今の日本の現状で。

―人間に必要不可欠なものも多数決でいいの?―

増山:  例えば私が20年前に北海道から東京に出てきたときに、私、あの、体が元気になって、もうすっかり元気なんですが、見ての通り。元気になって10歳ぐらいになったら、北海道に戻って北海道の医療施設とか、養護学校で過ごして、で、8年間過ごした後に、東京にまぁ、就職するためにまた、東京に出てくるんですが、その時今から約20年近くになりますけれども、今ではバリアフリーという言葉はよく聞かれるようになりましたが、当時はまだまだそうゆうことを言う人がほとんどいなくて。というか、当時は街の中に障害者用トイレというのがほとんどなくて、私なんかは例えば渋谷に買物に行ったときは、トイレに行きたくなるとわざわざ一旦家に戻って用を足して、それからもう一回出かけるというそうゆう状況だったんですね。

 で、あるひとに私は、何でトイレぐらい作ってくれないかなぁって言ったことがあるんですが、「いや、そんなこと言ったって、全部が全部障害者のために世の中直す、変えてしまうのはね、いくらお金があっても足りないよ。」という風にいわれちゃって、私はまだ若かったので、それもそうだなぁって思いながらもとっても理不尽だなぁっていう風に思ったんですね。今思うと、例えばこの学校にもし、女性用のトイレしかありません。男性用のトイレしかありませんって言った時に、じゃあどうしてトイレもう1つ作らないんですかって誰かが言って。だって、予算がないんだもんって、それでね、済ましてるってことと全く同じなんですよね。トイレっていう人間にとっては不可欠なものに対してね、それがないことに対しても、誰もね、やっぱり疑問にも思わないし、それが人権侵害であるという風にも思わない世の中なんだなぁって今改めて感じてます。

 だから、私は、どんどん話それてしまいますけど、すみません。日本には福祉問題ってのは存在しなくて、人権問題が存在しているという風に感じています。というのは、あまりにもレベルが深刻で、これは例えば、その、障害を持っている人が学校をどっか受けたいといっても受けさせてくれない学校ってすごく多いんですね。で、教育の自由もないし、あるいは仕事でもバリアフリーになっていないからということで、就職、面接さえ受けさせてくれないという会社もいまだに沢山あります。で、そうゆうことに、世の中はまぁ、障害持っているから仕方ない、そうゆう状況の人だから仕方ないって思って済ませているというところに、自分達、そうゆう社会を受け入れてる、そうゆう社会であるということに気がついて、その上で福祉について考えてほしいなぁという風に思っているんですが。

―25,000円の赤字を出しても働く理由―

増山:  だから、例えば作業施設というところが世の中には沢山あるんですけれども、多くの養護学校を卒業した、学生というか子ども達、当時私も子ども達で。そうすると、その一般の企業にはなかなか障害が重いとなかなか就職ができなくて。そうすると、障害を持っている人たちのための授産施設、作業施設なりに行くことになるんですが。これは現在の話ですけれども、そういう作業施設というのは、リハビリの一環として作業しているので、労働ではないんですね。で、実際はこう、何か、例えばラジオかなんかの部品を作っていたり、クリーニングをやっていたり、あるいは何か木工で、こう、彫り物をしたり、絵葉書をつくって、それをバザーで売ったり、という風にはしている。売って、そこでは収入を得て、でも当然それだけでは経営できないので、国からも補助をもらいながら経営しているんですが。

 そこの私の友達なんかは朝の8時半から夕方5時半まで作業をしているんですが、労働ではないので、当然、労働基準法とか、そうゆうものには一切対応していかないので、決まりっていうのはほとんどないんですね。まあ、最低限度のものはあるんですが。一番何に引っかかるかというと、最低賃金というのが、普通、労働するとあるんですが、それに対応しなくていいので、実際多くの作業所では、重度の障害を持っている作業所では一月の作業手当て、給料とは言わない、給料ではないので、作業手当て、なんですが、その作業手当てが大体3000円から5000円が、50%を占めます。だから、毎日働いているにも関わらず、それが労働として認められてなくて、あくまでリハビリとして3000円から5000円もらって、だけど実際食費ですね、昼ごはんとか、食費、あるいは住宅が一緒に提供されているところがあるので、更に3万円ぐらい自分で納めなければならないっていうね、そうゆう状況なんですね。

 だけど、施設に入っている人はなんていっているかっていうと、親元にいて、親に迷惑かけたりするよりは、ここにいて、少しでも親に迷惑をかけないで生活しているほうが自分は気が楽だって言っていて。その、大体そうゆう作業施設っていうのは一人部屋とかっていうところはなかなかなくて、ほとんどプライバシーが保てないんですね。それがもちろんいい場合もありますけど、お互いがね、助け合ったりできるんですけれども、同じような境遇にいて、助け合うこともできるし、理解しあうという面もね、確かになくはないんですが、それにしても、私はなんで障害もっているってゆうだけで、そうやって、そういう施設に入らなければいけないんだろうっていう風に、いつもそうゆう話を聞くと思います。

―バリアだらけの街で生きていくこと―

増山:  で、その、最大の理由は街の中がバリアフリーになってないというからだというのもあるかと思うんですね。なんでかってゆうと、じゃあね、健常者の人は健常者の人で施設に入れましょうって、もしね国が提唱したら皆さん抵抗するじゃないですか。で、私は障害を持っているからって、障害者用の設備になっていなからだけでね、別に誰かに何か迷惑をかけているわけでもないのに、そうやって施設に集めるっていうのは、やっぱりある種隔離政策だと思うんですね。たぶん、前回ここにハンセンの方がいらっしゃった時、同じような話を聞いたと思うんですけれども、やっぱり、そうやって日本の今の状況っていうのは重度の人をね、合理的に世話ができるようにってそうゆう風に施設に押し込めてしまって。

 実際施設の中でも、本当は施設の最初の目的っていうのは、社会に出るためのワンクッションとして、そこで自分で自立生活ができるためのそうゆうプログラムを学ぶためにとかっていう風に作られていても、実際は社会に受け入れ先がなくって、もう何年も何年も同じ施設にいるっていう人は少なくなく、また旅行にもほとんど行ったことがないっていう人は多いです。私なんかでも、今はちょっとなくなりましたけど、十年ぐらい前は海外旅行に行きたいとかって言って、旅行社に申し込みに行くと、断られたりするんですね。なんでかっていうと、例えばツアーだと、他のお客さんに迷惑になるから。で、ツアーじゃないと何か怪我をしたときにこっちが責任を負えないからとかいって、そうゆう何かそれぞれ色んな理由を持ち出して断ってくれるんですけれども。私はもう、抵抗して。とにかく私は一筆書きます。一切そちらに責任をね、負うということがないように。私の自分の責任で旅行に行くという、そうゆうような内容でうわーっと書く訳です。そうするとまあいいですよと、向こうも押し切られて、そうゆうことが何回かありました。

 私はだから、もちろん薬害被害にあったということももちろん大きいんですが、それは何かというと家族間の中でやっぱり母にしてみると、私、母が自分が飲んだ薬によって、私が障害を持ったということは、どうゆう理由であれ、それはもう現実としてすごく重かったんですね。だから、薬害にあったということはすごく重かったんですが。でも、やっぱり私自身はそれよりも、重度の障害を持った人間として、生きなければならなかったということの方が、私的にはね、遥かに重かったですね。そのことが。

―遅すぎた母の告白―

増山:  で、えっと、ちょっとまた母の話に触れますが、もう時間なのでね。私は母が、ついね、当事者だったのをずっと忘れがちだったのですけれども。一つは母と一緒に暮らさなかったというのもあるんですが、母がね、3年半ぐらいですね、癌になって、今は亡くなってしまったんですが。その時に、やっぱり癌なので、どんどん進行していくんですね。で、私はその、母が、もう、私は父親に引き取られて、父親はもう亡くなって、それで、その母親ともう一回行き来するようになっていくんですが。だから、27ぐらいのときに母親に会って。で、小さいときに会ったときは小学校に上がる年だったと思うんですが、一度うちに帰った時に、お母さんですよって紹介されて、その後、もうほとんど会ってなかったので、27で父が亡くなって母に会いに行ったときに、あぁこの人がお母さんなんだっていう感覚だったんですが、それで、母がそうゆう重い病気にかかって、母も自分がどんどんどんどん重くなって、もう死ぬんだということをある時点で悟ったと思うんですが。まあそうゆうこともあって、母がわりとその、私は今まで、私から自分の障害について、母にあまり色々と尋ねたことはなかったのですが、母がその時に色々話を、私が生まれた時の話をしてくれたり、それから自分がどう思ったかということを色々話してくれたんですね。

 その一つとしては、例えば生まれた時に看護婦さんが、さっき話をしました、そうゆうことを看護婦さんが言ってくれたのよとか、あとは、母がその時に、もう亡くなっていたと思ってたので、もう手がなかろうが、足がなかろうが、とにかく生きてこうしていること自体が、ものすごく嬉しかったとね、その時話をしてくれて、私はそれがすごく嬉しかったんですが。やはり、私自身は母にとって、私が生まれたことはすごく迷惑だったんじゃないかってずっと思っていたので、母がそうゆう話をしてくれたのが、すごく嬉しくって。

 後は、母が、段々段々とね、自分が、段々こう朦朧としてきて、その、意識も途切れ途切れになったときに、私に一生懸命なんか言うんです。で、それ、何言ってるのかなって思うと、こんな、とにかく、体に、あなたを生んでしまったことを私はもう、ずっと悔いていたということを言うわけなんですよね。で、私は、それを聞いてやっぱり、あぁ、こんなに母がこのことで苦しんでいたんだって初めて知って、私はそれが、ちょっと自分以上にちょっと苦しかったかなっていう風に今でも思います。

―私はサリドマイドを悔いていないよ、お母さん―

増山:  で、何で母がもっと早く言ってくれなかったかなと、私はね、今こうゆう風な体で生まれてきたけれども、私は全然、サリドマイドで生まれたことは全然悔いてないです。もちろん、こうゆう薬害被害ということで、例えばあの時、もっと厚労省の人が、今でいう厚労省の人が早くこの薬の製造を停止してくれればとか、製薬会社が副作用情報が入った時点で、やっぱりおかしいということで、なぜね、沢山そこで働いていた人がいて、その人達の誰一人そのことに触れなかったということに対しては、もちろんね、被害者としては、憤りを感じてはいるけれども。

 でも、サリドマイドに生まれて、自分が障害を持って生まれたこと自体は、もちろん今まですごく苦しいこともあったけれども、ただ、それにまあ、でもそのことで、私の人生はすごく豊かだったと思うんですよね。もうとにかく、ジェットコースター状態で、もうとにかく、何が楽しくて何が嬉しいかっていうのが、よりはっきりしてるんですよね。

 私も、まあ、まだちょっと話し足りないんですけれども、私が東京に出てくるきっかけになったのは、ちょうど国際障害者年が始まった年で、朝日新聞で色んな障害を持っている人の紹介をしていたんですね。で、その一人として、ちょうど紹介されて、それがきっかけで是非うちの会社に来てくれないかっていう社長さんがいらして、それが製薬会社の社長さんだったんですが。で、面接に行って、とにかく頑張ってみないかって言われて、仕事を始めて、で、製薬会社だったので、中国語の通訳が足りないから、あなたは、普通に体力で何か仕事をするとか、体力的にね、体を使ってとかいうのがすごく厳しいので、手とか体を使わないでできる仕事を是非、やってみたら、それを自分のものにするといいとアドバイスを頂いて、それで中国語の通訳の専門学校に行って、それで中国語の通訳になったんですが。

 まあ、そうゆうこともあって、とにかく色んな色んな人に、本当にね、助けられて。たぶん普通に生活をしていると、これほどね、誰かに愛情を注がれるっていうことは、たぶんないと思うんですね。だけどね、私は色んな人生の節目の中で、本当にもうこの人に出会わなければたぶん、私はどうなっていたかわからないっていう経験、体験を何度かするんですね。それで、私は今、こうしてね、皆さんにね、お話をできるそうゆう機会を与えていただいて、すごく嬉しいんですが。そういう豊かな人生だなっていうゆうに、最近は本当に思うようになって。

 だから、サリドマイドであるということ自体は全く悔いていません。ただ、これは奇麗事ではなくって、人っていうのはとにかく、どんな風でも生きていて、生きることは苦しいことではないですか。何一つ自分の思った通りなんか、誰一人生きられる人なんかいないと思うんですね。だけど、そん中で自分ができることとか、自分にしかないものとか見出していく、そのプロセスの中にね、自分の存在っていうのをやっぱり、感じ取るっていう事が、やっぱり人として楽しいっていうか、命を全うするっていうことじゃないかって思うので、そうゆう意味では私は十分何か、自分の命を味わっているっていう風に思っていて。

 だから、母に何かそれを伝えきれなかったという事が、むしろ私の中に悔いが残っていて、お母さんに、なんであの時、私はもうこんなに幸せなんだよって伝えられなかったんだろうかっていう風に、今でも思い出すと、それだけは悔いが残りますけれども。でも、まあそんなこともあって、私はその時には母こそ、私こそではなくて、母こそが薬害被害の当事者だったんだということをその時、思いました。で、私はこんなに身近に、その当時は毎日のように顔を合わせて、身近にいたのに、なぜもう少し母の気持ちに立って何かを言ってあげられなかったんだろうかっていう風に思って、本当に人っていうのは、その人の立場にならないとわからないことが沢山あるので。

 ですから、例えば障害を持ってない人が障害を持っている人の気持ちがわからないのは本当に、当然だし、私自身だって、障害の種類が違うと全く理解できないことも沢山あって。それだから、私は薬害、あ、こうゆう風に被害、というか、自分が当事者っていう風に思っていることに対してはできるだけ、率直に話をしたいと思っています。

―自分の人生を楽しむ!〜アメリカ、バークレーで開かれた目―

増山:  後、最後もう一つ話を是非したいと思っていたことは、私が、ミスタードーナッツの留学制度を利用して、結構若いときだったんですね、88年ですので、まだ24、5、歳。あぁ、わかんない。(笑い)それぐらいの20代前半の時に、アメリカのバークレーというところに行って、社会福祉を勉強したんですが、その時にやっぱり、「わー、カルチャーショック」と思ったのは、私も当時はね、ずっと障害を持っている人とある程度は関わってきていたし、障害を受け入れるってことがどういうことなのかということが自分自身の中でわかってるつもりではいたんですけれども、でも、全然わかっていないんだなってことを感じた事件というか体験があって。

 それは何かというと、そこの中に自立生活プログラムというのがあって、障害を持っている人が地域の中で、障害、その、地域の中で自立生活をするためには、するためのアドバイスをするそうゆうセンターがあって、そんなかで結構多くは障害を持っている人がアドバイスをして、政府に働きかけて、法律ではこうなっているんだから、こういう風にしなければいけませんよという風に色々間に入ってやりとりをしてくれているというセンターなのですが。

 その中で、障害が重い人には、ヘルパーとは違うんですね。当時はアテンダントといって、その、相談をしてその内容によって、あぁこの人だったらこの自立生活をするためにはこれぐらいのサポートが必要ですねってなったときに、そこから人を派遣して、生活を助けるための色んなことをやってくれる人を本人が雇うんですが、そうゆうシステムがあって、そうゆう、その人を紹介してくれるっていう仕事があるんですが。日本だと、障害を持っている人のための介護なんですね。例えば体を拭いてあげるとか、お風呂を手伝ってあげるとかなんだけれども、そのシステム自体は介護ではなく、その人が障害を持ってなければできる生活を保障するようなそうゆう手伝い方をするので、すみません。ちょっとうまく日本語で言えないんですけれども。だから、ご飯を作るときにカレー作ってねって言ったらだめなんですね。とにかく、ジャガイモはメークイーンにしてくれとか、男爵にしてくれとか、あるいは肉は豚肉がいいとか、うちはひき肉よとかとにかく、もうすごい、その人がやれたであろうということを、誰かが、その派遣された人にやってもらうってだけで、その人がやってるのと同じような状況で生活をするということを目指しているんですよ。

 で、その中の一つとして、障害者の性の介助っていうのがあるんですね。で、日本ではまだまだそうゆうこともタブーじゃないですか。そうゆう話をすることも。だけれども、向こうでは今から、私が24、5なので、15年ぐらい前になるんでしょうか、そこにはそうゆうシステムがあって、例えば障害を持った人同士が結婚して、子どもを産みたいって言った場合に、やっぱり子どもを作るってこと自体も、障害によってはサポートをしながらじゃないと難しいっというのが、障害によってはあるんですね。そうすると、そうゆうことも一緒に手伝ってくれるというか、それを介助するというそうゆう、派遣もしてくれるという。

 それを何か聞いたときに私は、本当に人が一人この世の中に生まれて生きていくという、すごくまっとうすることがすごく大変で、そうゆうこと、生きるには何が必要なのか、人が人として、その尊厳を持って生活していくことには何が必要なのかという原点の中で、その当時アメリカの障害者の人たちがすごく活動していて、で、それのためにすごくみんな頑張っていて。日本ではあまりないかもしれないけど、向こうは本当に障害の重い人が普通に生活していて。例えば、酸素ボンベを持って、車椅子に積んでそれで街の中とかを買物してたりするんですね。それの凄さというか、迫力というか、やっぱりそれは当時、私、若い、何もわからない私にとっては相当なカルチャーショックで、あぁ、私はもうちょっと覚悟して生きなくちゃならないなぁっていう風に思いました。

ただ、仕事がもてて嬉しいとか、友達がいて嬉しいとか、それだけではなくて、自分自身が障害というところから離れてどれだけ、自分の命を楽しむことができるのかという、そういうことをきちんと考えていかなきゃいけないんだなって。これは多分、普通の人にとってはもしかして、当たり前のことかもしれないんですが、私なんかはとにかく障害を克服するという、乗り越えなければならないものと思っていたので、いかに自分が強くたくましく生きるかということを自分自身にとっても要求してきたのに、それ、一番大事なのは、私自身が楽しく、本当に生きてて自分がやりたいことを、生きたいように生きることをちゃんと楽しめることなんだなっていう風に、やっと、その時やっと気が付いて、今こうして、たまに機会があるとできるだけ、率直に、色んな話をしています。

 ちょっと大変とりとめのない話になって、あっちにこっちにいって、一体この人何言いたかったんだろうって思うかもしれませんが、どうぞこの後質問コーナーがありますので、そこで色々質問していただければと思います。ありがとうございました。

―質問時間―

ゆき:  ありがとうございました。じゃあ、どうぞ、率直に話して下さったから、率直に。何を聞いてもいいですから、どうぞ。

中村:  ソーシャルサービス論M2の中村と申します。私、今日初めてこのサリドマイドの内部障害で、胎児の内に死亡したり、後、流産とか、死産とかしてしまって、闇に葬られてしまったような被害者の方がいるってことを知ったんですけれども、厚生省と大日本製薬がその、闇に葬られてしまった被害者に何か保障とか、そうゆう、保障とか謝罪とかしたこという事はあるんでしょうか。

増山:  ないです。なぜかというと、助かった人に謝罪したり、救済するのもままならない状態ですので。後、実際はそれがサリドマイド剤が原因だったかということも、かなり個別で検証するのは難しい。亡くなっちゃった人に対してはかなり難しい面があって。私達も、裁判が和解した後に、体の構造とかも色々調べて、この人はサリドマイドだっていうふうに認定するんですが、その作業もすごく大変で。国は、後、今、私が今日大体1000人から1200人ぐらい生まれたのではないかという風に申し上げましたけれども、これ自体も、実際、正式に調査した人はいなくて。でも私はある、随分その当時サリドマイドのことに関わってくださった先生からはそうゆう風に聞いているっていう状況で。オフィシャルではなくって、内部的にデータではそうゆう数字が残ってたということでそれを使っていますけれども、国では認めていないと思います。

ゆき:  あやさんどうですか。せっかくマイクを持っているから。

吉村:  M2の吉村です。今日はお話ありがとうございました。重度の障害を持っている子どもが生まれて、それを受け入れるということが親としてとても難しいという話だったんですけれども、実際にサリドマイドの被害者の中でも、離婚されてお父さん側と暮らしてられたとの事なんですけれども、お父さんとという方が多いのかそれともお母さんとという方が多いのか、その辺はどちらが多いとかいうのはあるんでしょうか。

増山:  そうですね、私の感じでは、ちょっとデータに基づいている訳ではないんですが、私の印象では母親に引き取られる人が多いですね。やっぱりどうしても世話がかかるので、やっぱり女の人の手でという感じなのかもしれません。

吉村:  やっぱりそれは、お母さん側が薬を飲んだことによって、お父さんがもう、離婚をというパターンが多いんでしょうか。

増山:  それが直接の原因ではないと思うんですが、うちの家族なんかを見ていると、やっぱり家族が不幸になっちゃうんですよね。例えば、私なんかも実際生まれて、最初に私が認識している家族との対面っていうのは、小学校に入ってから、入った年だったんですね。で、その、初めて実家に、もう病院も移って随分よくなったので、ということでお医者さんから外出の許可が出て、飛行機で北海道に帰ってくるんですが、その時に空港に、母が、うちの家族が出迎えてくれて、で、その時にこちらが父親でこちらがお母さんで、みたいなね。ていうように言って、で、兄がいるんですが、お兄ちゃんだよとか紹介をされて、私は何とその時に、初めましてって挨拶をしてしまったんですが、やっぱり不幸なんですよね。残念ながら。障害をもった子どもを抱えるっていうことは。

 そうすると、色んな理由はあると思うんですが、それによって本当に家族が苦しくって、色々あると思う。例えば、私の場合は病院に入ってたので、経済的にかなり負担をかけたと思うんですね。当時は、医療的のかかる費用は全部、もっと今よりは負担が大きかったので、かなり、もうずっと私は入院していたので、そうゆう費用もかかっただろうし。後は、家族にとって消息のわからないというと変ですけれども、どうしているのかわからない人を家族の中に抱えるっていう事はそうとう苦しかったんじゃないかなぁっていう風に思って。

 だから、父親なんかでも、すみません。ちょっと話がそれちゃうんですけれども、私、何か小さいときに、周りの人にね大きくなったら何になりたいかってなかなか聞いてもらえなかったんですね。やっぱりそれだけ、もう何にも、何になったらいいかっていう事を聞くこと自体とっても酷だっていう風に、やっぱり周りに思わせてたっていうことではないかって思います。で、ちなみに最初に聞いてくれたのは、うちの父親で。「何になりたいんだ。」っていう風にね、小学校3年ぐらいですかね。聞いてくれて、私はもうすごく嬉しかったんですけれども、そんな感じです。

ゆき:  何て答えたんですか。

増山:  あぁ、私、何と画家になりたいって答えました。絵が好きで。

ゆき:  あの、色んなことで、例えば、北欧は日本の30年先を行ってるっていう風に、例えば施設ではなく在宅で暮らせる仕組みとかからなんですけれども。ルーマニアで障害を持っている子ども達が酷い目にあっているというのが放送をされた時、かわいそうだからあの子たちにお金を送ろうとかいうのが日本であったんですけれども、スウェーデンだとあの子達を引き取ろうっていう話があって。引き取って子どもとして育てようということで、ということはその事がその家の人達の人生をもめちゃめちゃにしないで済むの社会的なサポートがあったから。

 でも、あの、全てのスウェーデン人がそうではなくて、私はあるカップルを知っていますが、旦那さんの方は、インドから知的障害があって、目も見えなくてっていうのを奥さんが引き取ったんですけれども、旦那さんはあまり嬉しそうにしていないということも、そうゆう場合もあるので、みんなが天使のようという訳ではありませんけれども、日本に比べると、そうゆう個人で色んな負担を抱え込まないで済むというのはあります。後、その、障害者差別禁止法というのが、この間、DPIの会議で話題になったので、ちょっとみんな知らないと思うので。

増山:  えっとですね、この間札幌で、DPIの世界会議がありまして、私、ちょっとそこに参加してたんですが。

ゆき:  たぶん、みんなDPIを何の略か知らないと思います。

増山:  えっと、DPI・・・

ゆき:  Disable Peoples' International・・・

増山:  Disable Peoples' International、そうですね。あの、Officeか何かだと思うんですが。

ゆき:  ごめんなさい。(マイクがずれ落ちそうになる)

増山:  はい。えっと、それでDPIっていうのは要は、障害者の当事者の人たちが障害者のために、障害者の人権に関する問題を色々取り上げて、社会に、こう、指摘するというか、こうゆうことをしていって下さいというか、そうゆうことを積極的にやっている団体で。色んな障害者団体が、例えば日本のDPIだったら、色んな団体が更にその中に入っていて、それぞれの団体の代表がDPIなんですね。わかります?だから、例えばこの間、石井さん、何かユニークフェースもDPIのメンバーに加盟している一つの団体ですし、そうゆう風に後は、セキソンとか、色んなグループがそこに入っていて、その人たちがこう集まって、人権について考えようということで札幌で会議を開きました。大体100ケ国以上の障害、100ケ国以上から3000人ぐらいが集まりまして、障害者の色んな人権について、それぞれ分科会を開いて話をして。

 でも、今回のメインテーマは差別禁止法についてで。今日本では障害者を差別したときの罰則というか、それを裁く法律がないんですね。それで、実はもう、世界45ケ国以上が差別禁止法を持っています。アメリカでもイギリスでもフランスでも。後は、タイとか、たぶん、東南アジアの方でも、差別禁止法、そうゆう言葉ではないにしても、色々言葉は若干違うかと思うんですが、障害者基本法という言い方をしているところもあるかと思うんですけれども、そうゆう法律があって、それによって、障害者を差別した時に、障害者が差別されたと思ったときに、それで訴えて、その、裁判をして、ということができるんですね。

 日本の場合は禁止法がないので、法律上は、これが、こうゆうことをしちゃダメよということがちゃんと法の中で明記されていないことに関しては、その、それに対する罰則はないんです。だから、例えば、今、雇用均等法があってね、雇用しなさいという風に言っていて、それで全然もう、20年ぐらいそうゆう法律ができてから経っているにも関わらず、過去一度も障害を持っている人を雇ったことがない企業っていうのも、ある意味では障害者に対する偏見とかがあるという風に思ってもいいと思うんですね。だけど、それ自体じゃあ、その企業が、例えば私がそこに就職試験を受けて落とされた。で、それは障害者に対する差別が根底にあるからダメだったんだっていう風に仮に訴えたとしても、それが、その、そうゆう理由で障害者を入れなかった場合に、例えばこうゆうペナルティがありますという、こうゆう、それは罪にならないんですね。そうゆうことをすると、こうゆう風にしなけりゃならないっていう、そうゆう決まりがないので、法的には差別はあるかもしれないけれども、何のそれには対処できないっていうのが今の日本の現状で。

 例えば私なんかが一人暮らしをしていたときに住宅を探して、もうすごい、何軒も何軒も不動産を回るんですけれども、紹介もしてもらえないんですよね、不動産屋から。でも、それ自体も本当は私はそれを明らかな差別だって言えるかもしれないんですけれども、差別をしているという事と、それが法律違反になるということは別の問題なので、法的にきちんとこうゆう事が差別であるということを明記するということが、障害者の差別禁止法になるかと思うんですね。そこの中にちゃんと、色々細かく謳って初めて、じゃ、それに反しているよということで裁判をして、それを改善させることができるという状況です。

 だから、日本では、差別やめましょうっていっても、なかなか差別ってなくならないし、何が差別かっていうのも難しいと思うんですよね。人によって、それぞれが色んな考えがあるし。だけど、法の中でこれが差別よってという大きな枠組みってのがなくてはならなくって、それを今、日本の中でも作っていきましょうっていうそうゆう動きがもう何年も前からあるんですが、それについて、今回はメインテーマになっていて、で、その札幌の大会で大枠っていうか、やっぱり、例えば子どもを産む権利とか、結婚するとか、仕事をする権利とか、とにかく生きる権利とか、そうゆう権利が障害者の中にもあって、それをやっぱり阻害するような、そうゆう行動に対しては差別だという風に断定できるとして、何か大枠の、その、こういうことを権利として私たちは持っているんだよというそうゆう話し合いをしました。

 今やっぱり、どんどん福祉なんかが一般的なニュースにも、新聞にも話題として多く取り上げられるようになったけれども、まだまだ基本的な部分は整備されていないというのが実状だと思います。

ゆき:  ありがとうございます。後、一人ぐらいどうですか。はい。

斉藤:  今日はお話ありがとうございました。国際協力論M2の斉藤と申します。あの、とても個人的なストレートな質問になってしまうかもしれないんですけれども、私も乙武さんの「五体不満足」を読みまして、障害のことをすごくさらっと書かれている方だなぁと思ったんです。増山さんが、本当の苦しみを書いていないという風にいわれていたんですけれども、それはどうゆう意味でということが想像してみてもわからなかったので、そのことをお聞きしたいという事と、あと、アメリカに行かれて、どうやって生きていくか真剣に考えていきたいってことを、と、やりたいことをやって楽しんでいきたいってことを思われたそうなんですけれども、障害者の方だけではなくて、生きている方、みんなのテーマかなぁって私は思うんですけれども、それはアメリカに行っただけで思われたのか、どういうきっかけがあったとか他にありましたらお聞きしたいなと思います。お願いします。

増山:  乙武さんの本は、私は、あの本はあの本で、じゃあ、増山さん書いてよっていわれるとこれはまた、難しいので、とてもあのようには書けないので、こうゆう言い方をしていいのかわからないのですが。障害を持った人の苦しさが書いていないっていうのは、つまり、その、ああゆう本っていうのは今までにもずっと出てきて、そのたんびにたまに話題になって、その、障害を持っている人はこんな風に考えているんだっていうようなことをね、ちょっとこう、マスメディアになんかで取り上げられるようになるっていうのは、こう、今までにも繰り返されては来ていたと思うんですよね。

 でも、私達の障害を持っている人の仲間同士ではね、もうそうゆう話はやめましょうって思っている訳なんですよ。頑張って生きて、なんと言うのかな、やってきましたという話はもう十分で、もう一歩踏み込んで、それではね、障害者当事者が書いた書くのだから、もう一歩踏み込んで、社会に何を求めたいかということとか、障害を持って生きるということがそんなにたやすいことではないということもね、やっぱりね、もっとはっきりと書いて欲しいというか。その、たぶんね、乙武さんも自分の人生の中で8割か9割くらいは苦しいことばっかりだと思うんですよね。すごくね、1割の部分を書いていると思うんです。もちろんそれはそれで本として、とってもいいと思うんですが、それによって、もっと障害を持っている人達にとって、私はもう少しプラスになるようなものであってほしいなという……。

 あの、もっとね、私らしく率直に言いますね。きれいごとなんですよ。一言でいうと。だってね、考えてみて下さい。自分の身になってね。もしね、手も足もつかえないんですよ。動くこと、自分で自由に動き回ることもできなくて、それでね、それで生きていかなきゃいけないなんて、こんな過酷なことないと思いませんか。人として。じゃないですか?例えば私もそうですけど、私も、歩けるので割と軽度に、そんなに苦労というか、そんなに障害的には重くないと思われるかもしれないけど、そにかくもう、私生きてるとバリアだらけで、例えばトイレとかご飯を食べるとか、それは今はやっとできるようになったけれども、もう昔は本当に何時間も服を着替えるのにかかったりしてたんですね。だから、本当の障害を持っている人の本音というのは、こんな体で生きていたくないっていうのがまずあるんです。本当は。だけど、あの本はやっぱり、ある種、健常者にとって心地のよい表現でそれを表現しているという事に、私はあの本を読んで実は気が付いて欲しいという風に思うんですね。

 そのね、やりたいことがあっても、できないということほど辛いことはないと思うんですね。例えば私なんかでもスポーツはほとんどできないんですよね。バレーボールもできないし、バスケもできないし、ボーリングもできないし、卓球は、ちょっとやりますね。卓球は好きなんで、卓球はやるんですけど、テニスもできないし。とにかくできないことだらけで、できることを挙げることの方が大変なんですね。なのに、そんな状況の中で、私は生きていて嬉しいということを、それだけを言わなきゃいけないというのは切なくないですか。私はやっぱりあの本を読んで、なぜここまで頑張ってる、頑張ったことをね、表だっていわなきゃいけないんだろうって。こういうことをいわないと、なぜ世の中は認めないんだろうっていう風に思っていて。

 あと、もう一つあの本では彼は、言ってみるとまだ学生さん、まあ早稲田の学生さんな訳ですよね。当時はね。もちろん色んな福祉活動とかもしていらしたみたいなんですが、ただ、その中で、なんていうのかな、海外ではああいう本は売れないと思います。なぜかというと、向こうはこういう風にしてきましたということにはあまり関心を示さなくて、そこから先を求めているからですね。それであなたはどうしたいか。それであなたはどう考えているのか。そうゆう事をすごく求めていると思うんです。だから、そうゆう綺麗ごとを、簡単に乙武くんて幸せね、ていうね、そうゆう風に受け入れちゃうというのはちょっと世の中おめでたすぎるというか、もっともっとね、彼がたぶん一番書きたかった事は、一番書きたかったことは書かなかったと思うんですね。その事実をね、もっと読んだ人が受け入れてほしいなっていう風に思って。ごめんなさい。後、二つめの質問が…

ゆき:  アメリカに行って…

増山:  アメリカに行った時の…

ゆき:  アメリカに行って。

増山:  あぁ、アメリカに行って…ごめんなさい。

ゆき:  アメリカに行って変わった。でも、それはその前にもそうゆう兆しがあったのか。アメリカに行って突如変わったのか。

増山:  やっぱり私、その、アメリカに行く前まではもうね、いっぱいいっぱいだったんです。とにかく自分が今日普通にね、生活、今日朝起きて、夜寝るまでというのをきちんと過ごすというのを、それだけですごく、いっぱいいっぱいで。例えば私、養護学校とか病院で、生活していたんですよね。で、18の時に上京したのを期に一人暮しを始めるんですが、とにかく何一つ自分でやったことないんです。買い物したことなけれが、一人で喫茶店でご飯を食べたこともなければ、電車に乗ったこともほとんどないんです。そうすれば、普通の人にはほとんど考えられない世界ですよね。たぶん。それを全部、上京したと同時に始めなければいけなくて、もう自分がどうありたいかとか、全然考える余裕がなくって、ただその日その日がご飯がちゃんと食べれて、まあ、つつがなく過ごせて、本当にそれでめでたしめでたしっていうにね、そうゆう状況でした。もう、本当にね、それ以外の事は考えられませんでした。

ゆき:  残念ながら、ここでお終いにします。車をどうやって彼女が運転するかを見たい方はこれから下へ降りてください。次は、勇気ある研究者をお呼びします。北野静雄さんとおっしゃいます。また是非お誘い合わせの上いらっしゃって下さい。
 レポートを書いても単位にならない市民の方もいらっしゃっているようですが、どこの誰々であるというだけでも書いて下さいね。皆さんの書いたものをゆかりさんにお礼に差し上げることに致します。、8時間も運転して千葉から千里まではるばるおいで下さいましてありがとうございました。大きな拍手で。(拍手)

―拍手―


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