愛用のノートパソコンに本誌編集部から新年号原稿依頼のメールが飛びこんできたのは、教会の鐘と鶏の声で目を覚ました夏の朝のことでした。そのとき私は、古い農家を改装したデンマークの屋根裏部屋にいました。
新聞社から大学に移って初めての夏休みを利用しての勉強旅行。経費節減のために知人の家に転々と居候させていただいていたのです。
この町にやってきた理由の一つは、クラウス・バックとホヤホヤの新妻と会うためでした。クラウスのことは、『クローさんの愉快な苦労話・デンマーク式自立生活はこうして誕生した』(ぶどう社)に写真入りでご紹介したのでお読みになった方もいるかもしれません。
6歳のときにデュシャンヌ型の筋ジストロフィ症と診断され、10歳で車いす、18歳でベンチレーター(いわゆる人工呼吸器)が必要な身になりました。
デンマークには、ヘルパーを利用者が選び、費用は公的に保障される制度があります。発祥の地の名をとって「オーフス方式」と愛称されるこの制度の利用者は、日本の人口に換算すると1万人ほどいます。クラウスはその利用者の1人で、22歳から親元を離れてアパート暮らしをしていました(写真@1993夏)。ヘルパーとともに各国を旅行し、日本にも遊びにきました。
電動車いすの後ろに取り付けられたベンチレーターがギーバタンという音をたてているのですが、初めて会ったときにはまったく気づきませんでした。のどに差し込まれたベンチレーターの管が洒落たネッカチーフでおおわれていた上、声を出して朗らかに話すからでした。
そのクラウスがこの春(2001)、結婚し、新婦も24時間ヘルパーが必要な身と知らされて(写真A)、お祝いに訪ねたのです。9年ぶりのクラウスはその分だけ年をとっていましたが、ユーモラスな語り口は相変わらずでした。
新婦は骨がすぐに折れる先天的な病気で、結婚式は夫妻の歴代のヘルパーも勢揃いして大にぎわいだったこと、新郎新婦ともに数ミリ、数センチしか指を動かせないので、それぞれのヘルパーが手を重ね合わせてくれたこと、唇を重ねあわせるふつうのキスではなく、「空気キス」を招待客に披露したことなどを実演入りで(写真B)楽しげに話してくれました。
新居は広々としていました。居間、食堂(写真CD)、ダブルベッドのある寝室、リフトが入浴を助ける風呂場、数ミリしか動かない指でパソコンを使った在宅勤務ができる仕事部屋(写真EF)、バルコニー、それに、ヘルパーが休息をとる部屋。家の外には、電動車いすが、たやすく乗り降りできる特製自家用車が夫妻それそれに1台づつ。
特別の運動家でなくても、金持ちの家族でなくてもこのような新婚生活が可能なこの国の豊かさにあらためてショックを受けました。
国連は、1948年の世界人権宣言を実のあるものにするために、個別の宣言や原則を採択してきました。知的なハンディを負ったひとのための権利宣言(71年)、障害をもつ人の権利宣言(75年)、精神保健ケアの改善に関する原理(91年)……。
そして、93年、障害をもつ人の機会均等化を様々な面で実現するための具体的で詳細な規則を定めた基準規則、通称「スタンダードルール」が国連総会で採択されました。
クラウス夫妻の日常生活を見ていると、スタンダードルールが掲げる「支援サービス」(規則4)、「アクセシビリティ」(規則5)、「教育」(規則6)、「就労」(規則7)、「所得保障と社会保障」(規則8)、「家庭生活と人間としての尊厳」(規則9)が、ごく自然に、さりげなくかなえられているのに感動してしまいます。
福祉に公的支出を惜しむ人々は「福祉に力を入れると国の経済が傾く」と言い続けてきましたが、デンマークは日本よりずっと景気がよいのです。
もちろん、北欧にも、不完全な分野があります。
スウェーデンのイエテボリで、知的なハンディを負った人々の組織「グルンデン」の人々に会ったら、政策決定への参画を保障する「規則18」がまだ不十分だ、という不満をきかされました。
ただし、グチに終わらせないのが北欧の人たちの凄いところです。
『みんなが同じように会議に参加できるようにするために』という冊子をつくって配りまくっているのです。 抜き書きしてみます。
「私たちは読んだり書いたりすることが苦手です。覚えておくことが苦手です。情報を理解するのが苦手です。会議で話についていくのが大変です」
「私たちが参加しやすい会議にするのために、こう助言します。会議の前に知っておくべき情報を会議の計画表と一緒に送りましょう。一番大切なことを最初に書きましょう。はっきりと書きましょう。1行に1つの情報を書きましょう」
「議長は最終的な決定を下す前に、次のように尋ねましょう。みなさん、分かりましたか、最後の決定に入ってもいいですか、最後の決定は理解できていますか」
知的なハンディをもっていない「ことになっている」人にも実に有益な助言だとお思いになりませんか?
この冊子をつくった「グルンデン」では、知的ハンディを負ったご本人たちが理事会を形成し、「指導員」と呼ばれていた人々を雇用するという思い切った挑戦をしていました。
デンマークでは本人たちが親の会から独立して「ULF(ウルフ)」という組織をつくっていました。写真Gは、独立オフィスでの会長(右)と事務局長。手にもっているのは、「私たちは指導員なしにこの夏ギリシャ旅行を楽しみました。お申し込みは、次の電話へ」とプリントしたTシャツです。
スウェーデンのストックホルムには、スタンダードルールを定着させるための国レベルの組織がありました。
そこを訪ねて驚きました。責任者のラーシュ・リンドベリさんが33三歳と若い上に、強度の難聴者だったからです。部屋には磁気ループが埋め込まれており、話しかける人はマイクで話すので補聴器がうまく働き、ほとんど不自由はないのだそうです(写真H)。
厚生省で立法に携わった後ここに移ったという経歴にも驚かされました。
「高校でも、私ひとりのために先生はマイクを使ってくれましたし、大学では手話もつけてくれました」
でも、昔からこうだったわけではありません。
スタンダードルールの生みの親でこの問題の国連特別報告官のベンクト・リンクビストさん(写真I)は網膜色素変性症という病気で失明した身ですが、高校生だった60年代には外国語の読めない父母を含め一家総出でラテン語や英語を音読して本人が点訳し、大学時代には新聞広告でボランティアを募り教科書を読んでもらったのだそうです。
そんな日々の積み重ねで、リンクビストさんは、英語教師、ラジオのディレクター、障害者組織の代表をつとめ、85年から91年まで名厚生大臣として国民の人気を集めました(写真I)。彼は、こう、話してくれました。
「74年には一般に出版された本の2.5%しかテープに吹き込まれませんでした。いまは、大きな図書館が買い上げる年間5000冊の本の半分が自動的に音声テープになり、残りの本も希望者があれば無料で吹き込む仕組みです。これを実現させたのは視覚障害者団体で働いていた私たちなのです」
日本は、「北欧の30年前」に、いつまでとどまっているのでしょうか?
(「リハビリテーション」鉄道身障者協会刊2002年1月号)
その後、ベンクト・リンクビストさんを1日半かけてインタビューし、「優しき挑戦者の部屋・海外篇」にアップしました。