物語・介護保険
(社会保険研究所刊「介護保険情報」の連載より)

第67話 施行直前に、亀風と小沢旋風が (月刊・介護保険情報2010年2月号)

◆過労のなか、無念の死◆

介護保険のスタートを10カ月後に控えた1999年5月31日の夜、わが家の電話が鳴りました。受話器をとると、むせび泣く女性の声。
「主人が、突然、亡くなりました」
羽咋市高齢者対策室長の定免修一さんの夫人、久美子さんからの電話でした。
朝日新聞が開いた国際シンポジウム『介護保険で日本を変える』を聴きに石川県から上京した定免さん。過労のなか、無念の死でした。

弔辞で本吉達也市長は声をつまらせました。
「貴方の死を現実として受け止めかねています」
「来年から始まる介護保険を軌道に乗せようと、持ち前の強い責任感で日常業務のかたわら連日、町内会を回り…」
介護保険一色の定免さんの日々を追った地元テレビの映像が焼香の間中、流れました。
夜、自ら車を運転して説明会場に向かう姿、住民の疑問に一つづつ答えている辛いそうな表情、会場の片づけを一人黙々とする様子。。。
ご本人の声も流れました。
「1000人を超える住民のみなさんに聴いていただけました」
「介護保険が始まれば、在宅サービスを利用する方の利用回数を増やすことができます」

本吉市長は弔辞を、こう締めくくりました。
「熊坂市長から電話があり、『これは言うなれば、定免さんの遺言です』といわれて、シンポジウムの夜、貴方が語った内容をつぶさに聞くことができました」
「意志を継ぎ、介護保険をしっかり立ち上げていくのが我々の使命であるとあらためて認識しました」

熊坂さんはシンポジストの1人で、岩手県宮古市の市長。ケアマネ資格をとった市長第一号です。
仕事熱心な定免さんは、シンポ終了後も東京に残って、熊坂さんや私たちと介護保険にかけた夢を語り続けました。
その中で、苦悩の言葉が定免さんの口からほとばしりました。
「毎晩、住民のみなさんと膝つきあわせて話をし、介護保険の思想をやっと理解していただけたのです。ところが、そこに、中央の政党幹部から寝耳に水の発言が流れてメディアで報じる。そのたびに、住民から質問が出る。現場の自治体の私たちは、いったい、どう答えたらいいのか」。
介護保険は、またまた政治の渦の中に巻き込まれていったのでした。

◆自自政権誕生で、「延期・凍結論」が浮上◆

1998年、自民単独政権が危うくなりました。自民党と自由党の連立政権が日程にのぼってきたことで、介護保険をめぐる政治力学が揺らぎ出しました。
介護保険は、自社さ政権が誕生したからこそ創設できた、と第35話に書きました。
「ヨメの介護こそ心あたたかい」「介護の社会化?とんでもない!」という自民党内の古めかしい考えの議員を抑え込んで、法案を政府提案にすることができたのは「さきがけ」と「社会党」が与党内にいたからこそでした。
ところが、「自社さ」が崩れ、自民をへて、「自自」へという政治の軸の移動で、暗雲が立ち込めはじめました。

98年12月10日、小渕内閣の官房長官、野中広務さんが「市町村が準備不足」という理由をあげて施行延期を発言。介護保険凍結論がにわかに浮上しました。
堀田力さん・樋口恵子さんを共同代表にいただく「介護の社会化を進める1万人委員会」は、これに素早く反応。わずか2日後の12日、「延期絶対反対」アピールを出し、野中さんは延期論を引っ込めることになりました。

年あけて、99年1月14日、自自連立政権が誕生します。
与党となった自由党の小沢一郎党首は社会保障全体について税方式論者です。
基礎年金も介護も税方式という「小沢一郎=税方式論」は、その後も社会保障制度改革に何度も波乱を巻き起こすことになります。
自由党の前身である新進党は介護保険創設に反対しました。
それは、小沢さんの影響でした。もしも、小沢さんがカナメだった連立8党の羽田内閣が続いていたら介護保険は日の目を見なかったことでしょう。
というわけで、小沢自由党の与党入りは、介護保険にとっては、きわめて大きな危機でした。

案の定、5月に入ると、小沢さんは「介護保険全面改革・消費税で」とぶち上げました。
野中さんは、「政権維持のためなら悪魔とでも手を組む」といって小沢さんにアタマを下げたわけですから、小沢さんの要求を無視できる状況ではありません。
「市町村の中に準備が順調なところとそうでないところがある。政府としても4月実施について悩んでいる」と発言しました。
小渕首相も「官房長官の言う通り」と語り、凍結論が再浮上することになりました。

総選挙が予想される政治状況の下で、「保険料の軽減」「介護保険見直し・延期」の声が渦巻くようになってゆきました。
7月20日の社説「勘違いしていませんか/介護保険料」に、私は、こう、書きました。

「(自自公3党の案に)共通していることが3つある。
第1は、どの案も、日本型介護保険制度の長所を理解せず、むしろ、長所をつぶそうとしているように見えることだ。(略)
第2の共通点は、財政の危機的状況を知りながら、保険料を減らした分、国に請求書を回そうとしていることだ。国債を発行するにせよ、消費税率を上げるにせよ、結局は国民全体の負担になる。
第3は、世論を見誤っているのではないかということだ。朝日新聞が先月実施した全国世論調査では、『介護保険料が高くなってもいいからサービスを充実してほしい』という人が52%あり、『サービスが充実していなくてもいいから保険料を低くしてほしい』を18ポイントも上回った。(略)住民はサービスの質や量に深い関心と不安を抱いている。保険料を減らせば、不安が消えるというものではない。
同じ世論調査では、いまの日本を『安心して老後を迎えられる社会ではない』と感じる人が85%もいることがわかった。それをくみ取る政治であってほしい」

◆続いて、神風ならぬカメ風騒動◆

施行が半年後に近づいた10月6日、再び見直し論議がアタマをもたげました。
自自公連立政権の政調会長に就任した翌日、亀井静香さんが、「子どもが親の面倒をみる美風を損なわないよう、介護している家族に現金給付を」と発言したのです。
亀井さんは、自自連立の立役者であるばかりか自自樹立のために清和会を割って野中さんと手を組んだ政権の実力者です。

日本記者クラブで亀井さんの会見があるというので、私は生まれて初めて政治家の記者会見に出かけました。そして、質問しました。
「子どもが面倒をみる美風とおっしゃいましたが、亀井さんの親御さんの介護はどなたがなさっているのですか?」
「それは、兄貴の奥さんと私の家内です」
「それでは、子どもではないではありませんか」
会見が終わった途端ベテランの女性政治記者が近づいてきていいました。
「私たち、あんなこと聞けない。凄いわ」
私にとっては至極、当然の質問だったのですが。


ところで、このとき、事情に通じている人たちが一斉に思い浮かべた人物がいます。衛藤晟一さんです。亀井派の"若党頭"とも、右腕とも呼ばれていました。
しかも、介護保険を推進した「自社さ政権」の福祉プロジェクトで自民党をとりまとめた座長でした。衛藤さんに、そのときのことを尋ねてみました。
「安倍晋三さんと一緒に亀井さんを口説きました。
「厚生省が軽々しく言う『介護の社会化』には、自分たちも大反対。ただ、これからは、老夫婦をみる子どもの数は3分の1に減り、介護期間はいまの10倍になります。掛け算すると30倍の負担です。介護保険やめたら家族の美風は崩壊してしまいます、こう説得しました。わかってくださいました」
1999年の政界地図を図にしてみました(クリックで拡大)。右側が「予定通りに2000年スタート」と主張する人々、左側は様々な思惑でこれに反対する人々。党派を超えた判断がうかがえます。

愛知県高浜市で開かれた全国在宅ケアサミットでは、首長を含む約1000人の参加者が、亀井発言を批判し、「介護保険の変質を許さず、住民本位の地域ケアシステムを創り上げよう」という宣言を満場一致で採択しました。
170人の市町村長でつくる「福祉自治体ユニット」も、「介護保険料の凍結案は運営主体である市町村の努力を踏みにじる背信行為。自治体の現場に混乱をもたらす」として、サービスの基盤となる人的・物的支援を行うよう要望しました。

10月29日、7項目の「3党合意」が纒まりました。
@介護の新制度は、計画通り2000年4月1日に実施
Aサービスの適正な給付が実現されるまでおおむね半年間は保険料部分は実施しない
E介護の財源については実施状況を見ながら3党で協議する
F家族介護支援については、慰労金やリフレッシュ事業等の適正な措置を講ずる。
小沢さんの反対をかわすために表題から介護保険という文字を消し、本文の中に「介護保険料」という言葉を潜ませる、というのが衛藤さんの作戦でした。

11月5日「介護制度の円滑実施に向けた方策」、いわゆる特別対策が打ち出されました。
介護保険でなく介護制度という表題になっているところにご注目ください。
自由党は「社会保険を前提とした案は受け入れられない」と官邸に現れず、自由党ぬきで政府案決定という異常事態となりました。
11月12日363の市民団体が「逃げるな・ひるむな・介護保険」という市民集会を開き、を小泉純一郎、菅直人、2人の元厚生大臣も駆けつけました。

◆人生をかけて時間を注いできた◆

雑誌『いっと』の特集には、様々な分野からの批判の声が載っています。
「まことに残念なのは『乱入者』たちが、すでに進み始めている分権改革についても正しい理解をもっているとはおもえないことである」(東京大学教授・大森彌)
「後ろ向きの介入を阻止するために使う時間と精力は願い下げである」(慶応義塾大学大学院教授・田中滋)
「保険料を取られないから国民は喜んだかというと、決してそうではない。国民は政治家より、おそらく進んでいたと思います」(岩手県宮古市長熊坂義裕)
「自治体職員としてこの仕事に携わった人間は、ただ単なる仕事ではなく、大袈裟にいえばすべてに優先して、人生をかけて時間を注いできたのであった」(所沢市介護福祉課・鏡諭)

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