くすりの部屋
「適切な治療を受ける機会を知らされなかった理不尽〜私は普通の生活がしたい」
厚生労働省・薬害肝炎検証検討委員会での 平井要さんの訴え 2009.5.27
本日、私がこの場で私の被害と私が今思うこと、私が委員会の先生方にお願いしたいことを話す機会を頂けたことに感謝します。
私は普通の生活がしたいです。朝起きて、家族と言葉を交わし、ご飯を食べて仕事に出かける。帰宅して、90歳の母親の一日の話を聞きながら、家内と一日の他愛もない出来事を聞きたい。時間があれば、家内や子供たちとお茶を飲み、共通の友人、趣味などを話す。そんな家族の何気ない会話が今の私にはどれだけ救いか、分かって欲しいです。ほんのわずかな幸せなときはいつまで続くのか、「負けないぞ」と思う気持ちと、「つらい、つらい」と口にできない思いが交互します。
1981年、31歳のとき、脳内出血で手術を受けました。そのときにクリスマシンを投与されました。2週間をすぎた頃、箸も持てず、脱力感で身体を起こすこともできませんでした。医師は「肝機能の数値は無限大に上昇してきている」と家族に告げました。私は一人隔離され、1週間面会もなし、食器や洗濯物も他の入院患者と一緒にしないよう注意を受け、やがて非A非Bの劇症肝炎を発症していると告げられ、家族はうつる可能性があるので、なるべく近づかないようにと言われました。
私は自営業を営んでいるため、肝炎だけに振り回されてもおられず、体調も著しく悪いという事もなかったので、そのまま月日が過ぎていきました。
私は、私の最も大切な治療時期を知らされることもなく、知るすべもなく、見過ごしてしまいました。血液検査をしたのですから、肝機能の状態も出ていたはずです。
2000年、足の骨折で整形外科にかかり、そのときの血液検査で初めて「退院後、大きな病院で肝臓の検査をするよう」に言われました。内科の病院では数値が異常に高く、肝生検、CTスキャン等の検査で、C型肝炎であると言われ、投与から18年目にして初めて自分の身体がすでに慢性肝炎の進んだ状態にあり、肝臓の周りには疱瘡のようなぶくぶくが無数についた状態である事を告げられました。
この病気にかかってからの私と、私の大切な家族はともにこの病気に振り回され続けました。高齢の母、家内、子どもへの気遣いや心配が常にありました。ウイルス肝炎になってしまった私だけでなく、治療の情報を手探りで探さなければならないことで、娘、息子、家族全員を巻き込みました。
国は、平成19年12月に、当時の福田総理の決断で訴訟をやめ、和解をすることを決めました。そして、平成20年1月に基本合意書を私たちと交わしました。
それが和解案が出るといっぺんに争う姿勢を消し、私や私たちに「大変なご苦労をされた」と言いました。裁判が続いていれば、まだ自分たちには非はなかったと争う様子を見せていたのにです。
私も訴訟に参加して初めて、この血液製剤の製造と販売がいかに危険で重篤な死に至るまでの副作用をもたらすものであることを知りました。
真摯な反省とはどのようなことをいうのか? それが分かるまで、それを許すことの難しい気持ちがあります。
私たち被害者も、それぞれが違った環境で長いこと医療費に苦しみ、生活が圧迫されてきました。「治るのであれば、治したい」と願い、この先どのようになるであろうかと不安で生きてきました。そして今、私はステージ4が進んでいます。それに負けず、いかにこのステージを長く維持できるかと闘っています。家族の支えと私自身の精神的に「負けるものか」という思いが、自分を励ましています。
この委員会に出席するのは初めてです。委員の皆様には今の私の様子がどのように写るのでしょうか。
この薬害の連鎖を断ち切って欲しいと切に思います。
提言だけで終わることのないよう、実行動をもって臨む委員会であり、委員の先生方であって欲しいと思います。今一度、先生方に思い出して欲しい事があります。
原告だけではありません。つい5月21日に、一人の女性が熊本でお亡くなりになりました。私はお顔は知りません。その方は、昨年の大臣交渉の機会に一つの文書を託し、大臣が受け取られました。
私も同じ気持ちです。厚労省の調査では、このようなことがわかっているのでしょうか。生活を優先するために治療を後回しにしたり、治療を断念する方々は実際にいます。私は、私の家族のためにも、私自身のためにも、生き続けたいです。「こんな理不尽なことで死んでたまるか」という強い思いで生き続けます。 |