目からウロコのメッセージの部屋
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福島智さん(東大助教授・厚生労働省社会保障審議会障害者部会委員)/2004.12
「グランドデザイン」で示された厚生労働省の基本方針には賛同できる部分も多い。たとえば、障害者施策における個別給付にかかる経費の国による義務負担化の明記は重要な前進であり、地域生活の重視、三障害種別横断の理念等も評価できる。さらに、財源を公的保険にとるか、新税の創設の可能性等も含めた税方式にするかなどの議論はあるものの、今後の中長期的な展望として、医療や介護も含め、全年齢のすべての国民の基本的な生活支援を「包括的なサポートシステム」に将来的に包含・統一しようという方向性自体は、正しいと考える。 しかし、現状で、障害者福祉施策に「応益負担」を導入することには理念的にも、制度・運用レベルでもさまざまな問題が存在するといわざるをえない。そこで、以下、理念レベルの問題を中心にしつつ、障害者福祉施策への「応益負担」導入への意見を述べたい。 ■応益負担は「{無実の罪で収監された}刑務所からの保釈金」の徴収に等しい【注】
国家のもっとも重要な役割のひとつは、国、社会、そして一人一人の国民の安全を守ることだろう。その意味で、重度障害者の多くは、個人レベルでの「安全保障」が脅かされている存在だといえる。 まず、トイレや風呂、食事といった日常生活動作における支援のニーズは、まさに命に直結する。さらに、それだけでなく、他者とのコミュニケーションや自由な外出ができなければ、人は仮に物理的に生きられても、心理的に、魂の側面で生きづらくなり、最悪の場合は魂が生きる力を失ってしまう。なぜならそれは、たとえば、「刑務所」に入っているようなものだからだ。 私たちの社会は、犯罪者に罪を償わせるために刑務所において、行動の自由とコミュニケーションや情報アクセスの自由などを奪い、制限するという法制度を持っている。そのあり方や内実の是非はともかく、それが罪の償いになると考えられているということは、すなわち人が生きるうえでこれらの自由の制限がその人に大変な苦痛を与えると私たちが考えているからだろう。そう考えると、障害者は行動の自由やコミュニケーションの自由が奪われているという意味で、いわば「目に見えない透明な壁に囲まれた刑務所」に{無実の罪}で収監されている存在だとも把握できる。 そこで、この「透明な壁」から抜け出し、解放・釈放されるためには、人的サポートを含めたさまざまな支援が必要だ。障害者がこの「透明な壁の刑務所」に入ったのは無論、罪を犯したからではなく、生まれながらの運命だったり、不慮の事故だったりするわけで、いわば自然災害などと同様、個人の力や責任のレベルを超えたところで生じてしまう事態だといえる。そして、こうした個人の責任を越えた困難な状況を社会全体で支援しようとするのが、本来の福祉施策の原則なのではないだろうか。 もしそうなら、こうした生きるうえでの基本的な自由を保障するための支援に利用料を求めることは、それはすなわち、障害者が{無実の罪}で閉じ込められたこの「透明な壁の刑務所」から開放されるための「保釈金」を支払うよう、本人や家族に求めることと同じではないか。しかも1回だけではなく、支援を必要とする限り、毎日でもこの「保釈金」を本人や家族が繰り返し支払わねばならないのと同じなのではないだろうか。 ■障害者施策に「応益負担」を導入し、他の制度と平等にするなら、障害者への対応全般を非障害者と平等にする必要がある
なぜ障害者だけが特別なのか、という議論がある。介護保険を必要とする高齢者も、医療保険を利用する病気の人も、障害者も同じなのではないか、と言われる。そして、もしそうなら、障害者のサービスも医療保険のように、応益負担を導入すべきだ、という議論がある。 私も、障害者だけが特別に取り扱われるのは適切でないという意見には賛同する。高齢者も病気の人も、障害者も区別なく、国民すべてに生存に不可欠な資源や自由が保障され、安全・安心に暮らせる社会を目指すべきだとも思う。 しかし、現実の法制度はそうなっていない。たとえば、重度障害者が働く作業所などでは最低賃金法が適用されていない。そして障害者の失業率は国民全体のそれよりもはるかに高い。こうしたことに代表されるように、障害者に対する差別的な取り扱いや仕組みは厳然と残っている。さらに、日本の障害者施策全体は、個人のニーズを基本としているのではなく、画一的な障害認定制度を中核とする「特別な枠組み」での取り扱いを基本としている。 こうした現状を温存する一方で、サービスの負担の部分だけ「みんな平等だ」というのは、理念的な一貫性に欠けるのではないか。
■過剰なサービス給付は「応益負担」導入でしか防げないのか
それでも、どうしても課題が残る面はたしかにあるだろう。たとえば、障害者の側はもともと支援サービスが多ければ多いほど幸福だ、というわけではないので、過剰なサービス給付を求める動機は原理的に存在しない。しかし、サービスの供給側が公的機関でない場合、利潤追求のために、必要以上のサービスを供給しようとする不正な動機が供給側に生じる可能性は否定できない。そうした問題を防ぐためのひとつの手段として、一定のルールに基づく応益負担を課す、という選択肢もあるだろう。 しかし、それはほかの方法や別の仕組み・工夫でもさまざまに対応可能なはずだし、それをまずめざすべきなのではないか。 なお、財源確保と供給の抑制を同時に目的としていると想定される「(本人所得が低い場合の)同一生計の家族」による負担という仕組みの導入にも、賛成できない。もとより、どのような公的支援制度が導入されたとしても、家族と同居する障害者は、その障害故に有形・無形の特別な支援を家族から受けているものであり、本来そうした「家族による支援」を社会的労働として認定するのが適切であるはずだ。ところが、現在の家族への手当は、「特別障害者控除」など税制面での間接的なもので、額も実質的には大きいとは言えない。そこに新たな家族の経費負担を導入すれば、障害者との同居で発生する有形・無形の特別な負担に、さらに新たな経済的負担が加算されることとなり、制度利用が不適切に抑制され、結果的に障害者の自立や社会参加はますます困難になりかねない。 たしかに、多くの場合家族は、同居する障害者を家族の一員として愛しているだろう。だからこの制度を導入しても、必要な経費負担を忌避する家族はそれほど多くはないかもしれない。しかし、仮にそうであったとしても、これは公正な制度なのだろうか。 これは、障害者のニーズを社会全体で支援しようという発想ではなく、「本来家族でめんどうをみるべきもの。それを社会が一部手伝うのだから、その見返りに家族が費用を負担せよ。それが障害者を家族に持ってしまったあなたがたの運命だ」と言っていることと同じであり、家族の連帯意識や愛情を逆手にとった財政削減の巧妙なしかけに思える。
■給付は「青天井」なのか
応益負担導入の議論の根底には、障害者のニーズに十分に応えようとすればきりがなく、社会的コストが果てしなく増えていくのではないか、という不安が暗黙裡に存在するように思われる。しかし、果たしてそうか。 障害者のニーズ、とりわけ人的支援のニーズには自ずから限度があり、同時に、支援を求める障害者の人数にも限りがあるため、一定の水準内には必ず収まる。今利用が伸びているのは、これまでニーズが隠されていた、つまり本人や周囲が犠牲になっていたからであり、利用の伸びは本来望ましいことであり、やがて一定の水準で概ね固定されるはずだ。 ところが、それなのに、制度利用の拡大が何か悪いことのように、とんでもなく不適切な状況ででもあるかのように語られるのはおかしいのではないか。 また、社会全体の負担の総量はこれまでと同じか、むしろ少なくなるだろう。なぜなら、これまで障害者のニーズは潜在していて顕在化していなかった。それは何を意味するかというと、本人が我慢していたこと、つまり、本人が自立や社会参加や就労が果たせずにいたことと同時に、家族や周囲の人、特に女性が犠牲になって支援をしていたことを意味するのではないか。
■障害者支援の充実は社会を活性化させるための投資だ
障害者への公的な支援が伸びれば、一見コストがかさみ、社会の負担が重くなるかのように思えるけれど、そうではないだろう。なぜなら、障害者自身の社会参加が進むことで、経済的効果の側面があるだけでなく、より本質的には、この日本という国と社会がどのような条件の人の尊厳や基本的自由をも大切にする国であり、社会なのだと国民が具体的に身近に実感できることで、国民の広い意味での心理的な安定・安心、豊かさの実感へと波及していくだろうと思われるからだ。 さらに、これまで家族として無償労働での支援を強いられるがゆえに、社会への参画が制約され、働く機会が事実上制限されていた人、主に女性が新たな労働力として社会に参画することで、経済的効果も含め、社会全体を活性化させるという中長期的なプラスの側面もあることを忘れてはならないだろう。
■それでも、導入するのなら、きわめて慎重な対処を
以上のことから、結論として、障害者福祉施策における「応益負担」は本来望ましくなく、できる限り避けるべきだと私は考える。なぜなら、そもそも「応益負担」の「益」という言葉自体が不適切だと思うからだ。求められているのは、「利益」なのではなく、生きるうえで最低限必要な身体動作、移動、コミュニケーション等に関する基本的な自由の保障なのである。 そして、それでもなお、どうしても導入せざるをえないならば、きわめて慎重な対処を求めたい。すなわち、それは、必ず障害者本人の所得保障や雇用機会の拡大とセットにすべきであり、所得に応じて利用料を徴収する場合でも、その算定基準はあくまでも障害者本人の所得に基づくべきだ。同時に、制度設計・運用への利用者の参画や現在のサービス給付量を低下させないなど、厳格な条件を前提とすべきである。また、過剰な不正供給を抑制するための方策も、「応益負担」や「家族負担」に頼るのではなく、ほかにもさまざまな工夫がなされるべきだ。 現在の日本では人口20人に一人が障害者と認定される。言い換えれば20分の1の確率で、障害という心身の条件は、人生のいずれかのタイミングでだれにも必ず生じうる。 障害者も税金を納める。医療保険も介護保険も、障害者は保険料を納入する。しかし、「障害者」という役割に伴う有形・無形の負担や不利益は、当然のことながら「障害者」しか引き受けておらず、経験していない。こうした役割を生きている障害者に、その状態が故に必然的に生じる最低限の支援の必要をさえ、社会は「応益負担せよ」と言うのだろうか。 社会とはなにか、福祉とはなにかを再考したい。 【注】 本稿で用いている「保釈金」、「刑務所」などのことばは法律用語としては正確ではない。本来、保釈金や保釈請求などは、拘置所に勾留されている被告人に関して生じる問題だが、ここでは、本稿の主旨を鮮明にするために、あくまでも比喩表現として用いている。 ゆき注・この文章は2004年12月14日開催の厚生労働省社会保障審議会第22回障害者部会で、福島智さんが、委員として配布した資料「今後の障害保健福祉施策について(改革のグランドデザイン案)に関する意見書」を元に、福島さん自身が加筆・修正したものです。原題は『生存と魂の自由を―障害者福祉への応益負担導入は、「保釈金」の徴収だ』です。 |
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