目からウロコのメッセージの部屋

野沢和弘さん(毎日新聞社会部次長)/2004.12


◇若者が「介護文化」を生む−−誰もが暮らせる地域に

 「若者の理解が得られない」「孫世代にまで負担させるのか」。介護保険の徴収年齢を引き下げる案に対し、経済界や地方自治体から異論が出ているが、何かおかしくはないか。日本の年金制度は賦課方式で、今だって若者に問答無用で負担させている。そもそも若者の理解を得ようとしたことがこれまでにあったか。企業や自治体が負担増を嫌って若者を引き合いに出しているとしか思えない。

 東京・新宿の飲食店で働くミュージシャンの卵は、自宅で祖父母の介護をしている。痴呆のおばあちゃんの介護をする孫娘もいる。負担と言えばそうかもしれないが、「介護入門」で芥川賞を取ったモブ・ノリオ氏のように、若い感性が老人介護に刺激されて新しい文化や価値観が生まれている。また、介護サービス事業所で働いている大勢の若者たちは、介護保険でメシを食っているわけだ。

 超高齢化を迎えようとしている日本で暮らす限り、要介護老人とまったくかかわらない生活は不自然であり、不可能だ。若者も子供も高齢者の存在を受け入れ、理解しなければ、社会は立ち行かなくなる。生産年齢に達した人にとって、介護が必要な人のために負担をするのは当然ではないか。引きこもりやニートの若者たちにも、介護の現実を知り、老人たちの魅力を吸収してもらおう。

 みんな自分の給料明細を見てほしい。私の場合、何に使われているのかよく分からない所得税や地方税よりも介護保険は1ケタも小さい。健康保険、厚生年金は言うに及ばず、労組費よりも少ない。これが世界に類を見ない高齢社会に見合った介護負担かと思うと、悲しくなる。

 介護保険の財源を大きくするのは、団塊世代が老いた時に財政が破たんするのを避け、障害者にも適用範囲を広げるためだが、介護サービスの内容をお年寄りがもっと社会参加できるように改善するためにも必要だと私は思う。「人生の晩年を迎えた人の介護と、若い障害者の介助は違う」。障害者の支援費と介護保険の統合に反対する人は言うが、そうだろうか。

 余命1カ月と宣告された末期のがん患者が「どうしても選挙に行きたい」と言い出し、同行したことがある。在宅医療を担う医師や看護師が酸素ボンベを抱え、患者を投票所まで連れて行った。涙をこらえられずにその様子をビデオにとっていた娘の顔を忘れることができない。また、痴呆のおばあちゃんを地域ぐるみで支えている人たちの話は感動的ですらある。

 要介護の高齢者だって社会参加する意欲はある。意欲がないように見えても、近親者や介護者を通して、いろいろなメッセージを絶えず社会に発している。どうして施設や自宅に閉じ込められなくてはいけないのか。もっと痴呆や寝たきりの高齢者と若者が出会い、“化学反応”を起こして、新しい時代の潮流を生んでほしい。

 地域格差についても触れなければならない。長野県で独り暮らしの高齢者が強盗殺人に遭う事件が相次いだが、昨年は広島県の山村部で独居老人たちが連続殺人の犠牲になった。過疎で集落がさびれ、助けを求める叫び声を聞く人はいなかった。孤立した老人を見回る民生委員は月に1回バスでやって来たが、その民生委員も70歳を超えていた。

 近代化や産業化に伴い、日本は地方から人材も豊かさも奪い、都市へと集中させてきた。しかし、そんな地方にも、当然ながら介護や介助が必要な人々が暮らしている。戦中戦後には辛酸をなめた父や母たちである。置き去りにされ、ひっそりと見殺しにされる老人たちを見捨てることができるのか。都市部の住人も含めて国民全体で支えていくべきではないだろうか。

 現在の介護保険には、劣悪な業者が制度を食い物にするなど問題点も多い。野放図な財政の膨張も許されるわけがない。負担増に反対しようと思えば理由はいくらでも思いつく。しかし超高齢化社会にふさわしい産業構造や文化、国民の精神を創出しなければ暗い未来が待っている。今からでは遅すぎるくらいだ。

 今夏、紀州地方を旅行した。過疎の村にペンションのようなしゃれた建物が新しく建つ光景に出合った。「デイサービスセンター」「グループホーム」など介護保険で作られたお年寄りの地域生活の拠点だ。

 どんな過疎地でも、どんな高齢や障害になっても、住み慣れた地域で暮らしていくことができる社会を、私たちは目指すべきではないか。そのための負担増に何を躊躇する理由があろう。

(毎日新聞11月17日朝刊「記者の目」より)

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大島伸一さん(国立長寿医療センター総長)/2004.12


◇対立する議論掲載の「記者の目」歓迎

 広くて浅いのが日本の新聞記事の特徴と言われているらしいが、署名記事になれば話が違う。記者の力量だけでなく、記事を追っかけていれば人間性までもが浮かんでくる。11月17日と12月7日の「記者の目」の、野沢和弘記者と吉田啓志記者のやり取りは意味があった、興味があった、面白かったを越えて、新聞の役割とは何なのかまで考えさせられる内容であった。

◇介護保険の考え

 同じ社の記者が、大騒ぎになっている介護保険問題を軸に、社会保障問題について、それぞれの主張を展開している。読みようによってはかなり異なる主張である。新聞記者といえども組織人だから、組織の倫理や掟(おきて)にしばられるのは当たり前である、と思っていたが……。毎日新聞には相当に自由な風土があるのだろうか。社会保障問題は国家安全や憲法問題、対北朝鮮問題に比べれば政治的に緊張度の高くない問題だから、内部調整などせずに言いたいように言わせ、世論に訴え、大きな意味で国民の意識を向上させようということなのか。私は何事も、がんじがらめよりは少々はめを外すくらいの方が、事は前に進むと思っているので、内部同士だろうと内部対外部だろうと議論は徹底的にすることを歓迎する。

 さて、記者の目である。野沢記者の「目」<若者が「介護文化」を生む>からは、「どんな高齢や障害になっても、住み慣れた地域で暮らしていくことができる社会を目指すべき」と将来の社会のあり方を明らかにし、「置き去りにされ、ひっそりと見殺しにされる老人たちを見捨てることができるのか」と問う。少々思い入れの強い論調ではあるが、日本を人でなしの国にしてはならない、という願いが迷いなく伝わってくる。そして、目指すべき社会の構築のためには「(社会保障費の)負担増に何を躊躇(ちゅうちょ)する理由があろう」と自らもリスクを負うことは当然と論を締めくくる。

 吉田記者の「目」<責任回避の厚労省に問題>はクールである。介護負担の「現段階での徴収年齢引き下げには反対」と立場を明快にしたうえで、野沢記者の論に反対を表明する。理由は「議論が生煮え」で、その責任は厚労省にあり、思い切った改革への理解を国民に求めるなら「これまでの対応を改め、若者にも負担を拡大して年齢で区別しない『一般介護』へ転換することの意義をきちんと説明すべきだ」と結ぶ。目指す社会がどんな社会か、吉田記者は言及していないが、それも含めて決めるのは厚労省の説明を聞いた後のことだ、説明もなしに選択などできるか、という立場のようだ。国からどんな説明がされるのか、されないのか、実はほとんど分かっているのではないか。分かっていても言わせるように追い込むことに意味がある場合も、もちろんある。

◇新聞記者の役割

 2人の記者の目が訴えたものは何か、以下は私の感想である。吉田記者の記事は渦中から一歩距離を置いた有識者の論説のようであるが、野沢記者の記事からは現場が見える。私は社会保障問題に関心を持っているだけでなく、大きな危機感を持っている。そのせいか、あそこまで言い切る野沢記者の姿勢に感動を覚え、敬意を抱いた。そして今回の記事から、新聞記者には正確に公平に事実を伝えるのはもちろん、事態をより詳しく知り得るものとして、時に体を張って危険を未然に防ぐ役割も求められるのではないかと思ったのである。

毎日新聞 2004年12月28日朝刊・新聞時評「対立する議論掲載の『記者の目』歓迎」より

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