目からウロコのメッセージの部屋
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金沢大学病院産婦人科講師 打出喜義さん
金沢大学病院産婦人科では、患者さんの同意のない「高用量」抗がん剤の臨床試験が行われていました。1999年6月、その臨床試験の被験者にされた患者さんのご遺族が提訴なさった際、私はご遺族側の証人となりました。その結果、この7年ぐらいを大学病院の中で「内部告発者」として私は暮らすことになりました。
この「内部告発」という言葉は、報道する側からすればインパクトのあるキャッチーなフレーズですが、何だか、「組織」の中の「仲間」を売るというイメージが先行して、どちらかと言うと、嫌な言葉だと思われているようです。でも、「内部告発」という言葉に、なぜそのような暗い響きがあるのか、私たちは考えてみる必要がありそうです。
たとえば、家庭という「組織」の中では、「内部告発」の言葉は似つかわしくありません。子供が「うちの親父は何時も酒ばっかり飲んで・・・」と祖父や祖母に「内部告発」する、そんな話は聞いたことがありません。では、親父の兄弟に「内部告発」する、これもないでしょう。となると「内部告発」は、もう少し大きな組織の中で、それも、他人同士の繋がりの中で行われることなのかと思います。
私の場合、もし私の所属する今の組織が「公」のものでなかったとしたら、私はこの組織の中に「内部告発者」として、おめおめと7年も踏みとどまっていなかったと思います。たぶん、そんな組織からさっさと足を洗って外部から、「金沢大学病院はこんなに酷い組織だ!」と一生懸命訴えていたと思います。しかし私は踏みとどまりました。「公」がこの組織の「本来の姿」だと思い、この組織に公理、公益、公正を願ったからです。
やはり「内部告発」と言うのは、その組織にその本来の姿を保たせるためにあるのでしょう。病院なら患者さんを中心に、マンション販売会社なら入居者中心に、自動車会社ならカスタマー中心に、官僚機構なら、他国の利益ではなく、我が国を中心に据える、そんな本来ある姿の組織おいては、「内部告発」なんてあろうはずはないのです。
しかし昨今、其処此処で「内部告発」が増えて来ました。これは、組織にとっては由々しい事態です。でも、それが組織の本来を慮ってのものであったとしたら、組織は冷静にその告発に耳を傾け、決してそれを咎めてはいけないでしょう。
この4月から施行された「公益通報者保護法」には、組織として咎めてはいけないこと、それに加え「内部告発」の作法が記されていますが、まだまだ、この法律にもいろいろと瑕疵があるようです。
この「公益通報者保護法」の施行で、医療現場でクローズアップされてくる問題は、「医療者が患者に事実を伝える(公益通報する)ことにした時、どんな困難がつきまとうのか?」でしょう。また、「医療事故が起こったときの患者と遺族の苦しみと同様に、医療事故を起こした医療従事者の苦しみも、お互い理解しあう社会になるには?」の問いも切実です。
その一つの答えとしてのこれからの発言は、これまで医局内で苦しみを味わってきた「内部告発者」だからとお許し頂きたいのですが、まず、医療に「ミス」(これは、患者さんのお立場からの言葉としてですが)は付きもので、例えその医師が一生懸命手術したとしても、もっと技術の優れた術者なら助かったかもしれない命が、無惨にも亡くなってしまう場合もあると私は思います。そこで考えますが、果たして、この「ミス」は「ミス」なのか?
ほとんどの善き医師は、心中ではそれを自分の「ミス」として、自分を責め立てることでしょう。でも患者さんご家族の前で「一生懸命しましたが、力、及ばずでした」と素直に謝罪することは、なかなか出来ないと思うのです。
もし、そんなことを言ったら責められるのが目に見えている、「ミス」を認めるなと言う圧力がかかるかも知れない、だから、謝罪の言葉は抜きにしてひたすら屁理屈をこねなきゃならない。
最近、医師に過失がなくても補償しようとする「無過失賠償制度」を医師会が提唱したようです http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20060111-00000166-kyodo-soci 。こんな流れが大きくなれば、素直な謝罪も可能でしょう。事故を隠蔽したり、資料を改ざんする必要も無くなります。
以上、「内部告発者」の独白でした。 |