シンポジウムの部屋

「平成患者学シンポジウム―医師が変わる、患者が変わる」

助けられ、助けて人間は生きる」ことを改めて実感/深刻だからこそリラックスが必要
シンポジストとして参加して 中川米造さん(大阪大学名誉教授)

■「岩の論理」から「水の論理」へ■

 いろんなシンポジウムにも参加させていただいたが、今回ほど楽しくやれたことはあまりない。
 シンポジストはお互いに初対面である。
 それに皇族が参加するのである。まずなんとお呼びしていいのかもわからない。しかし、控室に集まると、4人とも全く昔からの知己であるかのように話がはずみ、これでは本番になって話題がなくなるのではないか、と思われるほど盛り上がった。そして本番では大熊さんの形式にこだわらない司会にも助けられて、記録でご覧になるように場内に笑いが絶えなかった。中休みに大熊さんは、寛仁親王妃殿下が「こんな深刻なテーマに、これほど笑いがあっていいのでしょうか」と心配しておられましたけど、と報告された。

 深刻だからこそ、リラックスすることが必要なのである。生真面目に対応しようとすると、固くなって発想の展開や収斂が制限される。相手がある場合には、相手の受け容れや、参加、そして発想の成長を妨げる。水平思考など、創造性の開発についてさまざまな工夫を次々と提案し続けているデ・ボノの近著に『私は正しい、あなたは間違っている』という妙な題のついたものがある。自分だけが正しいと信じていると、それを受け容れない他人は間違っていることになり、それを論破しようと相手の弱点を見つけて、そこを攻撃したり、説得・脅迫、勧告などをやる。押しつけられると、多少とも自我のある人ならば、反感まではいかないまでも、まずは心の中で弁解を試みることで、受け容れに抵抗する。論理的に強固になるほど、新たに展開、成長は困難になる。

 デ・ボノがいうのは、自分の内にある固い論理、これを彼は「岩の論理」というのであるが、固いだけに変化が難しく創造性を妨げるというのである。そして、そのような論理は論争によって鍛えられて固くなったという点に注目し、岩の論理に代えて、「水の論理」、すなわち状況に応じて形を変えられるフレキシブルさを推奨するのであるが、癌や死など、強い否定的なイメージのある病気をもつ患者への対応においても、科学という固い鎧を着けての説明、説得は、患者の治療への参加、あるいは、特にこのことが重要なのであるが、身体的な復元の可能性が少なくなった場合に、自身の生命を新たな方向を見つけて可能性に意味をもたせることで、自己実現を図れる状況をつくるのを援助できるのである。

■患者と医師は異文化の世界に住んでいる■

 大事なことは、患者と医師とは異文化の世界に住んでいることを、特に、これは医師としては理解しておくことが必要であろう。同じ日本語をしゃべっているので、同じ価値観や生命感を共有していると思うと失敗する。まずは異邦人とつき合うつもりにならなければ理解できない。同じ言葉だと思っていても、意味が違うことがしばしばある。それは確かめなければわからない。

 その点、4人のシンポジストのうち、殿下は直接の大きな病気の体験者であり、それを皇族的なおおらかさで率直に語ってくださった。竹中さんは外科医としての世界と、癌を病んで患者の世界も体験されて、患者―医師関係を見直されての発言である。内坂さんは、バングラデシュでのボランティア診療で本当の異文化体験があり、さらに病院にこもっているのでなく、訪問診療活動を重ねる中で、大変な成長を遂げられたことが伝わってくるお話であった。それに会場の参加者と、直接言葉は交わせなかったが、終始温かく受けとめていただいたように感じた。
 中休みの時間に、つい先日、肺癌の手術を受けた婦人が控室に訪ねてこられた。電話や手紙では2、3度やりとりがあったのだが、直接顔は合わせたことがない方である。だいたいが気丈な方であるが、「シンポジウムを聞いてますます元気が出てきました」というあいさつであった。それを伺って、私もさらにまた元気が出てきた。人間は助けられたり、助けたりの相互作用で生きていることを改めて実感した。

 いま、あらゆることが変化している。政治も経済もつい数年前には予想もつかなかった事態が起きている。これらはどうやら、これまでとは全く異質な原理で動かされているように見える。これまでは強力な1人の指導者がいたり、1つの原理や方法のもとに動かされてきた。そうした一元論的な支配原理では動けなくなってきている。それに代わって、それぞれがそれぞれの思いを提示しあう中で、つまりは多元論的な新しい形式を求めて流動しつつあるのが現代である。患者一医師関係も当然、これまでのようにすべてを医師が仕切るといったあり方では対処できなくなっていると思われるが、どうであろうか。



シンポジウム内容


大熊由紀子 朝日新聞論説委員
おおくま・ゆきこ
朝日新聞科学部次長をヘて現職。東大医学部非常勤講師。著書に『「寝たきり老人」のいる国いない国』(ぶどう社)など

三笠宮寛仁親王殿下
ともひとしんのう
48歳。日本職業スキー教師協会総裁。日本レクリエーション協会総裁。社会福祉活動にも力を注いでいる。著書に『皇族のひとりごと』(二見書房)など。

竹中文良さん
たけなか・ふみよし
日赤医療センター外科部長。62歳。1986年、大腸癌手術を受ける。著書に『医者が癌にかかったとき』(文藝春秋)など。

内坂由美子さん
うちさか・ゆみこ
新生病院(長野県小布施町)内科医長。41歳。日本キリスト教医療協力会のボランティアとしてバングラデシュで活躍後、現職。在宅医療に力を注ぐ。日本女医会評議員。

中川米造さん
なかがわ・よねぞう
大阪大学名誉教授。67歳。耳鼻科医から医学概論を専門に。日本保健医療行動科学会長。著書に『素顔の医者』(講談社)など。

患者となって、「随分違う」と初めてわかった

大熊 きょうのタイトルは、「平成患者学シンポジウム―医師が変わる、患者が変わる」です。これまでの医療といいますと、「いいお医者様を見つけてその方にお任せする」という医療が何千年と言っていいくらい続いてきたわけでございます。それが今変わり始めています。
 「お医者様にお任せする医療」から、患者さん自身が納得して選ぶという、インフォームド・コンセントという言葉が言われるようになってまいりました。でも、納得するにも選ぶにも、そのもとになるのは正確な情報です。そこで、このようなタイトルを選ばせていただきました。まず殿下から伺ってみようと思います。殿下は健康保険がない、自費でいらっしゃるということで(笑)、根掘り葉掘りお医者さんにいろいろ聞かれるので、昔から札つきの患者さんだと伺ったのですけれど……。

殿下 私は皇族ですから、保険がありません。保険がないというのは簡単な話で、例えば我家で働いてくれている女の子たちは、私が給料を払っていますが、この場合は宮家と本人が払うというダブルですね。しかし、私の場合の事業主はおりませんので、事実上、払えないということが一つあるでしょうし、それから、私は国民ではありませんから(笑)。住民登録というのはなくて、皇統譜に入っているわけです。それでもちゃんと住民税を払っているのですから、法律の方がおかしいことになります。
 17年程前初めて竹中先生のところに入院したんですが、先生方は私を完璧に治療しようとなさるから、色々と問題が起こりました。大酒飲みでしたから、羽田空港で倒れまして、それでかつぎ込まれたんですが、あらゆるチェックをなさるのに驚きました。肝臓だけが悪かったはずなんですが。最後に、膨大な請求書が来ました。

 退院したあとも、毎月、血液検査をするわけですが、支払う場面で、前の患者さん方は大体1,500円とか3,000円とか聞こえていましたので安心していました。私の番になって3万9千なにがしと言われました(笑)。私は吃驚仰天して、「コンピュータが間違っている」と言って、「調べて欲しい」とまで言ったんですね。そうしたら、「間違っておりません」。「何でこんなに違うんだ」と質問しましたが、「あなたは自費扱いになっています」。私は保険のことがわかりませんから、「ああ、そうですか」と、ともかく払って、次回から内科部長に、「お願いですから血液検査は肝臓だけにして下さい」といいました。そうしたら半分以下になりました。それでも高いんですけれど。
 以後、入退院を繰り返しましたが、その都度「失礼ですが、これは何の注射でしょうか?」とか、「そのレントゲンは本当に肝臓に必要なのでしようか」とうるさく聞く癖がつきました。あげくの果てに、日本赤十字社の社長に電話して、「外泊するときに差額ベッド料をとるのはおかしいじゃないか」というようなことまで言いました。

大熊 そうやってお医者さんに根掘り葉掘り聞くのは、下々だとすごく躊躇しちゃうんですけれど。

殿下 母親は日赤の名誉副総裁ですから(笑)、何かあったらそっちにねじ込めばいいと思っていました。

大熊 ありがとうございました。殿下のざっくばらんなお人柄がわかってきたような感じがいたします。
 竹中さんの場合は、癌の外科医でいらっしゃったのが、一転して患者さんになられた。患者さんになられたことで、きょうのテーマ「医師が変わる」というご体験があったように伺っておりますので、どう変わられたのでしょうか。

竹中 私は、約30年近く外科医をやっておりまして、その段階で癌になったんですが、自分は切る側の人間だと思っていましたので、かなりショックを受けました。
 そして、医師の立場で考えていたいろいろなことが随分違うなと、患者になってみて初めてわかりました。その中で1つ申し上げておきたいのは、まず薬の問題なんです。
 ご存じのように、癌の手術というのは、悪いものを徹底的に取るわけです。早期の癌の場合はとるだけでいいんですが、ちょっと進んでおりますと、どうしてもあとに残る可能性がある。その残ったものを、術後、抗癌剤で治していく。それを補助化学療法と言います。
 抗癌剤には、例えば白血病とか悪性リンパ腫のように非常に効くものもありますが、残念なことに、消化器の癌にはあまり効かないんです。それを私は飲まされたんです。飲み始めてすぐ副作用が出まして、吐き気がする、食欲がなくなる。これはだめだなと思ったので、主治医に、「おれは抗癌剤はやめる」と言ったら、猛烈に反対されました。友人の医師たちも、「飲んだほうがいい」といろいろ言ってきました。結論的には、自分の考えで、抗癌剤で食欲をなくすよりは自然に任せようと思って、スパッとやめたんです。
 これは私が医師だったからできたということもあるんですが。ところが、今は元気になって、新しい癌の患者さんの手術をどんどんやっています。そうすると、これは再発するかもしれないなという患者さんが結構おられます。そういう人に、一切、抗癌剤を投与しないのかというと、やっぱりそうはいかない。これは危ないなと思うとどうしても処方することになります。自分では飲まないのに患者さんには飲ませるという、矛盾したことが起こってくるわけです。
 私はそれについていろいろ考えていました。あるとき風邪をひいて、内科のベテランの医者に「何かいい薬ない?」と言ったら、「ダンリッチというのをおれは飲む」と言うんです。ダンリッチというのは普通の風邪薬なんですが、これは朝晩1錠ずつ飲む薬で、「じゃあ、それを朝晩1錠ずつ飲むのね」と言ったら、彼は、「いや、その.カプセルを半分捨てて、半分だけ夜寝る前に飲むんだ」と言うんです。「そんな量で効くの?」と言ったら、「朝晩飲んでいて、白血球が減少した患者が何人かいるんだ。おれはそれが心配だから、飲まないんだ」と言うんですね。
 確かに私もその指示に従ってカプセルを半分飲んで、風邪は治ったんですけれど、それは恐らく飲まなくても治ったんだろうと思うんです(笑)。そういうことを何回か経験している間にハッと思いついて、「そうだ、医師というのは患者に薬を投与するときはその効力を考える。ところが、自分が飲むときは副作用を考える。こういう習性があるんじゃないか」と考えて、それ以来、薬というものに対する考え方をもうちょっと′慎重にしたほうがいいんじゃないかと思うわけです。
 やみくもに何でも薬に頼るのじゃなくて、人間の持つ自然の回復力をもっと引き出すような医療が望ましいんじゃないかと、最近、そういうふうに考えております。

「村が好き、離れたくない」という患者をそこで治療しよう

大熊 ありがとうございました。平成患者学心得第一、医師学心得第一を披露していただいたような気がいたします。内坂さんのいらっしゃる長野県小布施町の新生病院は、皆様まだご存じないかもしれません。小布施町は長野市から北のほうへ20分ぐらい行った小さなとてもきれいな町です。この町の方たちは、自宅で人生を終えたいなと思えば、かなり重い病気であっても、新生病院の先生や開業の先生に支えられてそのまま家で暮らすことができます。そういう世界ができ上がっています。

内坂 私の住んでいる小布施町は栗で有名な、人口1万2000人の小さな町です。その町に私たちの病院と開業の先生が数人いらっしゃいます。私が赴任したのは1986年でしたけれども、そのとき私の頭の中には、患者さんが家で生きている姿というのはあまり明確になかったと思います。それが地域の病院に働くようになり、往診するようになって、初めて自宅で生きて生活している患者さんの姿に出会うことで、私自身の医療の姿勢が本当に変わったと思います。
 一例をお話して、私たちの病院のイメージを持っていただけたらと思います。
 68歳の女の方なんですけれど、この方はシャイ・ドレーガー症候群という難病で、長野市内の病院から私たちの病院に紹介されてきました。手足も動かず、車いすにも乗れず、気管切開されて、何もかも介護が必要な患者さんでした。
 介護しているのが79歳ぐらいのご主人で、その方も大腸癌で手術をなさった後でした。状態が悪くなると家族がつかなくちゃいけないけれど、家から遠いということで、私たちの病院を希望して移ってこられたが、どうしてもうちに帰りたいと言うんですね。
 初めは、状態がいい時はうちに帰って、悪くなったら病院に入院するという繰り返しをやっていたんですが、気管切開はしているし、介護しているのは夫ひとりの上、気管から痰が詰まってしまうので吸引器を病院から貸し出すんですけれど、その吸引器が清潔に保てなかったり、肺炎を起こすとか、医療者の側から見ると非常に不安な要素が多くて、病院にとどめたかったのです。
 けれど、アイウエオ表を使ってベッドのサイドで「言いたいことがあったら、言ってごらん」と言うと、寝ている窓から見えるきれいな村の風景を指して、「私はここが好きで、ここから離れたくない」と言うんですね。「ここにいたいの?」と聞くと、「ここにいたい」と。それを私たちが聞いて、どういうことがあってもこの人をここで治療しようと。それが訪問看護の始まったころでした。
 89年に私たちの病院の訪問看護件数は年間252件でしたけれども、次の年からどんどん増加して、93年では814件になりました。そのように、患者さんの声にならない声が私たち医療者を変えてきたし、私たちが支えようとすることでその患者さんも誇りを取り戻して、「自分はここにいたい」と言えるようになるまでに成長してきたことを思うと、患者さんと私たちはお互いに本当に今変わっていっている時代なんだなということを感じます。

癌の色は黒いのか赤いのか

大熊 次は内坂さんの恩師のご登場です。本拠の大阪大学だけでなく全国、津々浦々に教え子がいらっしゃるという中川さんは、きょうのシンポジウムのレジュメの中に「癌は赤いか黒いか」という不思議なことを書いておられます。

中川 この間、新聞の投書欄にこんな話が載っていました。病院に行って診察を受けたのだそうです。そこで、「私のお母さんは脳溢血で、おばさんはくも膜下出血です」と言いましたら、医者は、「みんな頭がお悪いんですね」と(笑)。ひどいことを書いていましたが、この話はかなり意味がある。つまり、頭という言葉を、その患者さんや一般の方の思っている意味と、医者の思っている意味が違う。医者は、頭とは頭部と思っている。世間一般は知能も含めている。
 私はあちこち市民大学や老人大学などで話をさせられます。癌の話も一応させられます。話の前に聞くことがあります。「癌はどんなイメージでしょうか。例えば色は?」と。大体90〜95%までは「黒」とおっしゃる。残りは大体灰色、ときどき例外的に「ピンク」とおっしゃる方がありますけれど(笑)。
 一方、これは阪大在職中ですが、卒業間際の医学生に、「癌のイメージは?」と聞いてみました。3分の2が「赤だ」と言うんです。残りは大体「紫だ」と言うんです。「なぜ赤?」と聞くと、「手術」つまり血の色が浮かんでくるんですね。「紫は?」と聞きますと、顕微鏡で見ますと、癌は細胞の中の核の部分が非常に大きく、紫に染まるんです。そうすると、「癌は紫」となる。
 結局、医者の側は技術としてとらえている。ところが、患者さんのほうは、癌は患者さん個々の人生、将来、あらゆるものにつながる状況を否定する言葉として黒が出てくるのでしょう。
 つまり、近代科学は大変発達してきていますが、それは顕微鏡で見たり、手術の方法に関してです。医療というのは、本来患者対人間との間の1つのやりとりなんですね。その中に薬や手術があります。しかし、それで解決できる部分は実は2割はないだろうというのが、このごろの業界の内部情報なんです。しかし、それですべて解決できるかのような幻想を演出してきたし、また、患者さんのほうもそう思った。ですから、病院に行ったらすべて解決がつくだろう、黒を変えてくれるだろうと思い込ませる。
 だいたい、「患者」という字が悪い。口を2つ書いて、それを棒でかんぬきをかけている。それを心の上に乗っけているわけですから、物を言っちゃいかんというわけですね。英語ではペイシャント。辛抱ということもペイシャントというんですね。ですから、医者の前で物を言っちゃいかんのだ、医者のほうも患者に物を言わせてはいかんということになる。人間、危機になると、急に視野が狭くなる。心理学ではトンネル効果というんです。特に癌の告知―私は告知という言葉は嫌いなんですけれど、患者は「目の前が真っ暗になった」「真っ白けになった」と言いますね。このごろは「目が点になった」と言うんですね(笑)。そういうふうに壁ができて見えにくくなる。一方、医者のほうは自分の技術の枠でのぞく。例えば内視鏡手術なんて細い管を入れて、悪いところを取ればおしまいだという。
 つまり、病気や死という言葉が出ると途端に目が点になって、患者も医師も一層コミュニケーションが難しくなる。一種のタブーですね。
 しかし、そのタブーを冒して、殿下は経済的な考慮もあって(笑)、「これだけ払うからには、ちゃんと知らせる」となったのでしょうが、案外そういう人がよく治るんですね。あまり言うことを聞いていると、医者は、国では言わないけれども、統計でもって、「あなたはあとこのくらい」ということを、態度で見せてしまいますからね。
 感覚の鋭い人は、相手がうそを言っているか、うそを言っていないかわかる。近代的な医者は、コミュニケーションに鈍感になっている。固い言葉でしゃべれば正確だと思っている。正確にするには、不正確な部分は除けばよいと思っている。癌でも「何とか細胞癌」と言えば、それは確かに正しいけれど、それは限定的になるが、普遍化される。
 告知しない場合、「いや、癌じゃありませんよ」とか何とかうそを言うのですけれど、うそのつき方が下手なんですね。あちこちの病院の医者やら学生の研修会で「うそつきゲーム」というのをやることがあります。10人ぐらいのグループで1人を被テスト者にして、みんなに質問させるんですね。5分やるとして、そのうちの前2分半、後2分半に分け、どっちかをうその答えをさせるんです。バレなかったことはほとんどないですね。
 一般に医者は自分を科学者だと思っていますから、うそは言わないことになっていますから、うそを言うときにはやっぱり態度に出ますね。

名医は話術が下手、素人にもっとわかり易く話して

大熊 ありがとうございました。中川先生は医師免状をちゃんと持っていらっしゃる方でございます。おっしゃる通り、竹中さんも、主治医に逆らって抗癌剤をいやと言った。内坂さんの患者さんのおばあちゃまも、うちで空を見ていたいと。殿下は殿下で問題児の患者さんです。言うことを聞かない患者さんのほうが幸せでよく治る、という中川の法則はこのお三方については成り立っているようです。ところでお医者さんの患者さんへの伝え方について何か感想をお持ちでしょうか。

殿下 2つあると思います。私の場合は、癌の前にも肝臓をはらしてたびたび入院しましたが、病気もさることながら、それ以前に私の性格が、何でも知りたい人なんですね。
 ある意味ではワンマンだからかもしれませんが、学生時代の部生活においても隅々まで知っていたい人でした。部員の一人ひとりの家庭環境もきちんと把握して色々な悩みごとにも対応してましたし、スキー教師ですから、雪質から、斜面から、テクニックはもとよりすべて知っているという状況がなければ満足しませんでした。私は大会屋とも言われていまして国際大会や国際会議を組織する現場監督ですから、こういう会の運営管理も興味あるんですね(笑)。裏方がどうなっているかということまで知りたくなる人ですから。
 こういう性格ですから内視鏡が入ったときに、食道癌だという先生方の声が聞こえましたが、「まいったな」とは思いましたが、「ああ、そうか」と私は簡単に受け取りました。例えば先生が私の妻なり、あるいは、事務所の宮務官なり事務官に連絡されて、もし私が知らなかったとしたら、翌日からオーストリアにスキーの会議で行く予定でしたから、私は知らずに行っていたでしょうし、病状は悪化していたでしょう。
 従いまして見事に先生は私が計画魔であることを察知なさっており、古くからおつき合いしていましたからよくご存じだったのですが、私が何でも知りたがり屋さんであるということを認識した上でいってくださったから助かりました。我々の間には特段インフォームドコンセントとか告知とかいう難しい発想はなくて極めて自然でした。
 食道癌の手術というのはすさまじいダメージを受けます。今はニコニコしていますけれど、術直後は身動きがとれませんでした。ICUの中では呼吸困難を起こしていましたから、何も言えないんですね。頭の中では、「主治医は事前に呼吸困難になると言わなかったじやないか、ちくしょうめ」と思いつつ息もたえだえで大変でした。
 ムントテラピーと言いますが、医療上の話術というのでしょうか、前述の通り私はスキー教師ですから、生まれて初めてスキーをする初心者の生徒にどうやったらスピードという恐怖感の中で的確にわかってもらえる言葉で表現出来るかばかりを考えてきた人間です。従って、名医の方々の話術の下手さに心底がっかりしましたし、もっと素人にわかり易く説明して戴きたいと心から思います。
 少し元気が出てきますと、「先生のおっしゃっていることはよくわかりません。もっとわかり易く説明してください。日本語を勉強したほうがいいんじゃないですか」というふうにだんだん減らず口を聞くようになりました。わかれば私も納得しますから。

竹中 私は、そんなに耐えるというほどのことはなかったと思います。もう8年近くなりますので、大分忘れてまいりましたが。
 さっき中川さんがおっしゃった癌が何色かということであれば、私は、間違いなく赤という感じがいたします。それは、黒じゃ、これは闘う気にならない。やっぱり赤だからこれと闘うという意欲がわいてくるんだと思うんです。ですから、第一線の外科医であれば、皆さん、赤というイメージを持つんじゃないかという感じがします。
 それから、さっき中川さんも殿下も言っておられた点ですが、患者さんの立場から言うと、医療というか、医学というものを頭から信じ込んでいるという面は確かにあるように思うんです。こういうことで時々思い出す話があります。
 ちょうど二十数年前、ペニシリンショックが頻発した時があるんです。当時、私の恩師の提案で、盲腸の手術、いわゆる虫垂切除のときに、抗生物質を一切使わないでやってみようじゃないかと約10カ月間、抗生物質を全く使わない手術をやった時代があるんです。そうしたら、100例ぐらい、全く合併症なしに済んだんです。
 ただ、それから間もなく、今度は新しい抗生物質が出て、それを使い始めた。外科というのは昔から滅菌とか殺菌ということに非常にうるさくて、手洗いにしても非常に厳格さが要求されるし、おなかの中の操作にしても、ちょっとでも腸内容が外に漏れたら危ないというので厳格だった。ところが新しい抗生物質を使っておけばよく効くので、今までの外科の厳格さがダラダラと後退していった。そして、どんどん抗生物質を使うようなことになって、それが最近のMRSA感染へつながってきた様に思います。
 ですから、医療とか医学というもの、ひいては薬というものにあまり頭から信頼を寄せていると、やはりそのしっぺい返しが大きく来るという気がするんですね。

科学が発達するほど人間が見えなくなってくる

大熊 さっき殿下が、お医者さんはあまりにも伝え方が下手でがっかりしたとおっしやいました(笑)。それは医学教育にも問題があるのではないかと思われますが……。

中川 近代医学教育というのは、解剖から始めます。解剖死体は物を言わない。その後は生化学で、これも物なんですね。いくらたっても人間は出て来ない。しかも、日本の場合は、これは特に国立大学だけかもしれませんけれど、大学病院の玄関に「本病院は教育病院でありますから、いろいろご不自由をおかけすることがあるかもしれませんけれども、ご理解ください」と。つまり、「モルモットにするけれど、辛抱せい」ということなんですね(笑)。このごろだんだん文章が穏やかになってはいますが。
 つまり、教材なんで、人間扱いにしないということです。最初は学生は、「患者さんを材料にして」とショックを起こす。しかし、それがしばらくすると、慣れていきます。つまり、客観的な科学という形で教えますから、人間は見えてこない。発達するほど見えなくなる。それに反省が起こりだした。日本では何でも基準を決めて、その基準をどううまくクリアするかで動くのですが、ここ2、3年、その基準を文部省が大幅に外しました。「自由に」と。「そのかわり、何をやったか、どう成果が上がったかを報告しなさい」ということになった。そこで各大学とも、いろいろ工夫をしだしていますが、やはり基本的には自然科学――日本では、医学というのは自然科学の一部だと思われているんですね。
 欧米などでは、医学という言葉がない。メディシンなんです。わざわざ医学というときは、基礎科学とか、医学的科学というふうに言うわけです。日本では、大学医学部であって、医療部ではないんですね。日本では、医療というのは医学の社会的適用であるという定義があります。医学で教わらなかったことはしなくてもいい。相手はマテリアルですから。そう言うと今は身もふたもないですから、ちょっとニコッとしてみるけれども、すぐ仏頂面に変わる。対話は技術上の必要性からです。患者さんに質問はしますが、患者さんからの質問は、口を棒でふさげという態度が基本になります。
 インフォームド・コンセントという言葉がはやりだしていますが、これはまだ横文字なんですね。日本語にならない。日本医師会は「説明と同意」と訳された。しかし、これは大変評判が悪い。医者は説明する人、患者さんは同意する人とに分けている。医者にしてみれば、説明といっても、3分間診療の中で一体何分間説明するのか。それで一体なんぼくれるんだと。言葉としてのインフォームド・コンセントは出回っていますが、なかなか受け入れられにくい。
 医学をそんなふうに習ってきていますから、また、患者さんの協力がないものですから、そのために逆に忙しくなっているんですけれど、全部自分でやらなければならないと思っている。
 中国では、このインフォームド・コンセントをうまく翻訳をしておりました。それは、知に致る同意。これは日本語で言うと父同意になって、そうすると母不同意かということになるので(笑)。
 医学というのは、竹中さんもおっしゃったように、実はまだまだ不確実なもので、わかっていないんです。わかっていたら、もう研究なんかする必要はないですからね。また、研究ができたものだとしても、それは統計的な法則性ですから、一人ひとりはまた違う。また、人間は個性がありますから。人間の特徴というのは、一人ひとりが違っているということ。言葉の使い方から表情の出し方、みんな違うわけです。本当に自分が得心がいくまでわからなければいけない。得心がいくというのは、頭の中で「はい、わかりました」ではなしに、日から鱗が落ちたり、体に響く。それで、人間の治療につながるのです。
 ですから、患者さんに自分にかかわる必要な情報を、どうやって質問させるか。それによって患者さんが自分の主人公になる。それがインフォームド・コンセントの基本だと思うのですけれど。

患者としての告知と医者としての告知は違う

大熊 内坂先生は現場で、患者さんがそうやってどんどん質問するようにどういう工夫をしていらっしゃるでしようか。

内坂 赤か黒かにこだわって悪いんですけれど、私にとっては、癌というのは黄色なんですね。信号機で言えば、いったん止まれ、減速。それは事実ですね。医者としては"癌というものは、その人の体が、もう自分はこれ以上無理が利かないから、一回、休ませてくれと言っている"と私は感じるんです。一方、患者さんにとって癌というものは白であってほしい。新しく自分の人生を、その病気と出合ったことで書き直していってもらいたいと思うんですね。それがやはり患者としての告知と医師としての告知とは非常に違う点だと思うんです。
 今、告知について求められているのは情報の請求権だと思うんです。自分がどういう病気かを自分は知る権利があるということが1つの告知の意味ですね。これは風邪とか肝炎とか、普通の腎炎などでも、私たちの地域だと説明されていない患者さんがいて、長く5年も6年もある病院にかかっていて新生病院に移ってきた患者さんに、「あなたは病名は何と聞いていますか」と聞くと、「聞いてません」と言う方が非常に多いです。
 だから、病名についての情報というものをインフォームド・コンセントとするなら、知らせなければいけない。たまたま殿下は長いことかかりつけのお医者さんがいらして、その方からの情報伝達があったので、またその方が殿下のことをよく知っていらっしゃる方だったので、それなりに聞き続けることができたと思うのですけれど、そういう聞き続ける人間関係というか、患者と同行する関係の請求が2つ目のインフォームド・コンセントの意味だと思います。ですから今、医療者としては情報の提供だけではなくて、患者さんの病気とつき合っていける本当の人間関係を求められているということを考えると、一言に告知というふうに片づけてはいけないんじゃないかなという気がします。

大熊 インフォームド・コンセントをさらに進めたインフォームド・チョイスが提唱されるようになりました。殿下の場合は、たしか3通りの治療の方法を示されて、その中からお選びになった。とても先端的なことだと思いますが……。

殿下 最初のときは術式は1つであったようですが、2度目のときは、出先に先生が来られて、3時間ぐらい議論している中で、「どうすればいいのか」と伺ったら、3つあるというわけですね。
 第一は、内視鏡の先のレーザーメスで切除する。その場合、正確にはわかりませんけれど、食道の腫瘍は2センチ以内ぐらいですか。1.5センチでしたか。レーザーメスでとれる範囲というのは……。

竹中 1.2〜1.3センチですね。

殿下 ということですが、これが一番簡単だというわけですね。通院でいいとのことでした。「ただ殿下の場合はもうちょっと大きくなっている可能性が強い」とおっしゃる。「では、その場合はどうするんですか」と伺ったら「10分間ずつ60回、コバルトをかけましょう。今は食道の周辺のコバルト治療法は格段に技術が上がっているから、何の副作用もない」とおっしゃいました。そして、3つ目が手術で摘出する、でした。
 私は、運動選手の現役ですから、メスが体に入ることは、チャンピオンスポーツをあきらめるということで自覚はしていましたが、いやなわけですね。一度ダメージを食らっているのに、ダブルダメージはいやですから、できるだけそうでない方法をとろうとしましたが、レーザーメスはちょっと難しそうだと。2つ目の選択ですが、「コバルトをかけても副作用がないとおっしゃるけれど、それは違うでしょう」といいました。
 2カ月間も同じところに恐ろしいものがかかるわけで、確かに私の頸部食道癌は死滅するかもしれないけれど、その周辺は一体どうなりますか?と。もともと私の身体はダメージを食らって、5割ぐらいしか恢復していないのに、そこにまた強力なものがかかって、もし1〜2年後に死滅したところではないとしても、その周囲が何か違う要因で弱くなっていて、それを基本原因として何か違う病気になったら、副作用がないとはいえないでしょうと私は主張しました。「それはそのとおりだよ」とおっしゃるから、「それではいやです」と。
 結局、切除手術になりました。ただし、これは後で判明したことですが、頸部食道の場合には声帯に影響する手術になるので、声が出なくなる可能性もある。それを先生たちは非常に悩んでおられて、医師としては手術を一番やりたいけれども、コバルトのほうも捨てがたいということであったと思います。そこで「わかりました。どうも1、2はだめだと私も思いますから、3でいきますが、どういうリカバリーになるでしょうか」と伺いまして、「同症の患者さんを紹介してください」とお願いしました。
 つまり、下部食道に癌ができて、1年半後に頸部食道に癌ができて、先生が手術をされてなおかつ、今生きている患者さんを紹介してほしいと。そうでないと、私はとても怖くて挑戦は出来ませんでした。痛かったのか?今、食事はどれぐらいとれるのか?運動能力はどれぐらいあるのか?生きていたとしても、植物人間は嫌なわけですから、先生に伺ったら、「いない」とおっしゃるんですね(笑)。築地の国立がんセンターには少なくともカルテがないんだそうです。それでは私がモルモットではないかということです。そこで確認をしたのは、「では、体力はどうなりますか」と。先生は実に自信を持って、「きょうの殿下の調子までは間違いなく戻る」といわれるので、「それは本当ですね」と。「本当です」とおっしゃったので、「それではやりましょう」となりました。

医師も患者も成熟した社会としての知性を

大熊 なるほど(笑)。これで私がなぜ殿下をここへお呼びしたか、先端的な平成患者でいらっしゃるというわけがおわかりいただけたかと思います。でも、中には、「私は知りたくない」という患者さんがいるのではないでしょうか。

竹中 最近すごく多いのは、癌告知派のドクターから、最初に行った日に「あなたは癌です。これはかなり進んでいるから、助かる可能性はフィフティ・フィフティです」というようなことを一気に言われて、それで落ち込んで、母親か何かに付き添われて来られる方がおられるんです。
 よく聞いてみますと、一見、医者が悪いように思われ勝ちですが、そうではなく、お互いに何となく売り言葉に買い言葉という感じで、 ドクターも一気に最後まで言ったというような形になるんですね。ですから、こういった命にかかわる問題について話し合うときは、医師もそうですけれど、患者さんの側にもやはり殿下のような成熟した大人の感覚を要求されるのではないかという感じがします。
 もちろんプロとしての医者の責任というか、いろいろな価値観を持った患者さんに対応していくだけの懐の広さというのは必要だと思うのですが、これは医師の独り相撲だけではいかない。
 この分野での先進国であるアメリカに、サイコオンコロジーという癌患者の心理的な問題を扱っている教科書があります。その本の中に、患者に癌を知らせることについてこういうことを書いてあるんです。
 「診断を隠さず正直に話すとしても、医師はその感性でその正直さを和らげねばならない。医師は何の希望も持てないような事実をありのまま伝えることは避けなければならない」と。これは、医師に成熟した社会人としての知性を要求していると同時に、患者にも同様の大人の感覚を持つことを求めているように思うのですけれども。

大熊 内坂さんのいらっしゃる地方都市ですと、特に高齢の方などの場合、「先生に万事お任せします。私は知りたくない」という感じになりますか。

内坂 突然癌になってから、「あなたはもし癌だったら、知りたいですか、知りたくないですか。知りたくなければ言いませんけれど」と聞くわけにもいかないものですから、私はこの仕事をするようになって、よく患者さんと死の話などを普段からたくさんするようになりました。「80年生きてきて、どうだった?」とか、「死ぬならどんな病気で死にたい?」とか、「今、癌だったらどう思う?」とか。そうすると、患者さんがいろいろ自分のことを話してくださるから、その中でその人が本当に病気になったときに、「私はどういうふうにこの人と話していけるだろう」という情報を集めるわけですね。看護婦さんたちもみんな集めていると思います。それがこの地域の病院の一番のよさでもあるし、そういう病院をみんな都会でもどこでも持ち得たら、病院なり看護チームなり、開業医の先生でも、もうちょっと豊かな、お互いにチームを持った人間関係を持った方が、より幅広い支えができるのではないかと思います。
 私たちが住んで、心を開いて、なるべく真実を語ろうとしてきたこの8年間の地域活動の結果、患者さんたちもとても変わったと思います。
 以前は、「お任せします」「知りたくありません」「死から目をつぶっていたい」という方は多かったと思うんです。今も確かにおられるので、そういう方に無理やり知らせるということは私たちの望みではありません。
 しかし、患者さんというのは天涯孤独でひとりで生きているわけではなくて、生活の場で家族とかいろいろな関係の中で生きているわけですよね。ひとりでそういうことと闘える成熟した方もいるけれども、そういう方がすべてではなくて、どんな人も自分の未熟な部分とか、いろいろな人に支えられながら生きているわけですから一人の意志ですべてを決めるわけにはいきません。また、私たち医者も、そういう感性を持って常に成熟していければうれしいんです。現在は病院の中で大勢のスタッフやコ。メディカルや地域の方々に支えられて、正確な情報を伝えながら、その人が希望を持って生きられるように、そういう社会をつくっていこうというのが今の現状だと思います。

一番話をし易いのは病院の掃除のおばさん

大熊 中川先生、知りたくない患者、または知らせたくない家族、こういう問題についてのご意見をお間かせください。

中川 こういう問題の場合に、多くの医者は、「これは正解のない問題だ。ケース・バイ・ケースだ」と。その後がないんですね。正解がないから何もできないのだということではなくて、患者さんが一人ひとりどう違っているかは患者さんと話をしなければわからないはずだし、患者さんから間かなければわからないはずなんですね。
 赤・黒の話が何度も出てきますけれど、その黒の内容は、その人の人生であり、未来への期待が否定されるということなのです。その人なりに、癌をどうとらえているのか、死をどうとらえているのかを出させることで、自分が見えてくる。ですから、聞きたくないという方がいらしても、なぜ聞きたくないのかという、そこら辺を、「あなたはどうして聞きたくないの」というような言い方をしたのではとてもいけないので、「どうして、どうして」じゃなくて、逆にしゃべらせる雰囲気をつくることが原則です。患者が医者にしゃべる時間は短い。お互いに初めからブレーキがかかっていますから。看護婦の場合は少しましになる。一番話をしやすいのは、掃除のおばさんなんですね(笑)。あの人には遠慮がない。「ここにこんな患者さんがいて、死んじゃったわよ」なんて(笑)、ズケズケとあまり気にしないで言うものですから壁がない。ですから、言っているうちに、「あっ、こんなことを私は思っていたんだ」と気付くことができるのです。
 先ほど、内坂さんが、「一度、白くして書き直すのだ」と。そういう表現は大変大事なんですね。同じままで行ける人はいいんです。できるだけそれに近づけなければならない。援助すれば生活できるのはいいけれど、やはり変えなければならないものは変えなければいけない。変わるときに、人間は抵抗があります。それを乗り越えるためにはどうするか。
 まず、氷溶かしをしなければいけない。そういうこわばっているところを崩さなければいけない。崩せるように医療従事者も周囲の人も助けなければならない。そういう重大な事件のときに、みんながその言葉が壁になって物が言えなくなっているんですね。そこが一番障害になっているのですから、溶かせば、壁を崩せば、新しい情報が入って再編成できる。そこでまた固めるのです。
 医療が生物科学だけのものではなくて、人間科学だとすれば、基本には、一人ひとりは違っているのだと、そこから始まる。インフォ=ムド・コンセントも権利の問題ですね。権利というのは一人ひとりが持つもので、要求しなければ権利は実現できません。

大熊 内坂さんが掃除のおばさんに間違えられることがあったのだそうで(笑)、その話をお願いします。

内坂 私は今、41歳ですが、大阪の病院に卒業直後勤めていたころはもう本当に子供がアルバイトに来ているみたいで(笑)。当時、病院の掃除のおばさんは白衣を着ていたんです。それで、私白衣を着て歩いていると掃除のおばさんに間違えられて、たまたま別の病棟とか、新しく入院された患者さんのところに行くと、掃除のおばさんだと向こうは思い込んでいるものだから、いろいろなことを話したり、「テレビを消してくれ」とか「カーテンを引いてくれ」とか「お茶を飲ませてくれ」とか(笑)、そのうちに、「ちょっと、そこのおねえちゃん、こっちもお願い」とかって(笑)、一通り終わって、それから座り込んで、「すいません、内科の内坂と申しますけれど、あなたの主治医になったんですけれど」とか言うことが何年か続きました。患者教育じゃなくて、患者から医者教育をされてよかったと思います(笑)。

大熊 内坂さんの病院は、看護助手さんも、これから患者さんをどう治療していこうかというときの会議に加わっていますね。看護助手さんは「糖尿病食のこの患者さんは実はこっそりこれこれを食べてます」なんて、いろいろな重要な情報をおっしゃっていますよね。

内坂 そうですね。病院のチームカンファレンスのときには、介護のヘルパーさんも入ります。一番身近で、私たちに隠された情報を知らせてくださる方ですから。

大熊 そういう意味でもなかなか日本の先端を行っているなと思ったのですけれど。

内坂 先ほど中川先生が、医者はうそをつくのが下手だと言いましたけれど、患者さんはうそをつくのが上手なんですよ(笑)。本当にうそつきなんです。「酒は飲んでない」とか言いながら一升飲んでたりとか(笑)。ですから、患者さんに与える情報以前に、インフォームド・コンセントというなら、患者から正しい情報を聞くということがまずなければ何を説明していいか本当はわからないはずなのに、お互いにうそをつき合って化かし合っているこの状況はどうしても解決しなければいけないので、私たち医療者はうそつき患者さんの陰に回ってあらゆる情報を集めています(笑)。

中川 患者さんもうそつきですけれど、医者もうそつきなんです(笑)。この間、英語の字引で「ドクター」という字を引きましたら、最初は「医者」とか「博士」だとかが出てくるんですけれど、4番目ぐらいに「うそつき」という意味があるんです(笑)。昔から「医者のうそ」という言葉があります。問題は、どうすれば真実が出てくるかです。掃除のおばさんの場合は、非常に話がしやすい。リラックスできる。受け入れることができる。「この人に言ったって、後でしかられない」と。医者に言いますと、「一升飲んでる」なんて言ったらもうお目玉を食らうだろうと思って言わない。どっちもカッコつけてるんですね。そこら辺をどうやって除くかが、問題なのです。

患者が自立を希望するなら、自分から医師も病院も選ぶ

大熊 さっき殿下から、「パネラーの中でおれだけが患者専業だから、患者はこうあるべきだというのをおれから言いたい」とおっしゃっていましたので、殿下の患者学というのを披露してください。

殿下 患者学というほどカッコいいことではないんですが、例えば私の本業の障害者福祉で言いますと、20年前にこの仕事に入ったときに、私に福祉を教えてくれたのは片岡みどりさんという方なんですが、その当時、今もそういう部分はありますが、健常なる人が障害を持つ人々に一方的にサポートするというのが日本の社会福祉だったわけですね。その上、障害を持っている人たちは、健常者からサポートされるのが当たり前だと思っていたわけですね。
 片岡女史は、「違う」と。もし障害を持っている人々が本当にサポート、あるいはヘルプが欲しいのなら、その人たちは公道の真ん中であろうが家の中であろうが、どこであろうが、自分から何をサポートしてほしいのかをみんなにいわなければならないと主張しました。それを実行して初めて周辺の人々は気がついて、「ああ、そうか」といって手を貸してくれるのだと。
 健常なる人が、例えば私が両手に荷物をたくさん持って歩いていたとして、建物に入る時ドアに手が届かない時、「すみませんが」と周辺の人々に何かを訴えるはずです。従って、車いすの人でも他の障害でも、声をだす、手話を使う、身振りで示すという風にみずから意思表示をしなければ、本当の意味のギブ・アンド・テイクにならないし、本当の意味の完全参加にならない、ということを片岡女史は言い続けました。我々はそれを実現させるために、障害者の自立が一番大切なわけですから、そのために我々も努力するけれども、障害を持っている人たちも努力をしてくれということを20年間言い続けてきました。
 自分が重度の患者になってみてつくづく思いますが、ともすると患者はやはり障害を持ぅている人と同じように、医師団を神様とあがめ奉って、「おっしゃることはよくわかりました」という格好になりやすいわけですね。ですから、もし患者が障害者と同じように自立をしたいのだと希望するならば、やはり自分から医者を選ぶことはもとより、病院も選ばなければいけません。それから、実際にそれを決めた以上、徹底的に納得するまで先生方と議論するべきですし、看護婦さんに相談したり、掃除婦のおばさんでもいいんですが、納得する状況を自分でつくるべきです。それをしないで、医師団任せという場合、切り刻まれて、「あっ」と言ってもそれは仕方がないと。そういうことが、私たちの障害者福祉の観点から考えた、障害者とはどうあるべきかということだし、患者もそうあったほうがいいんじゃないだろうかということだと私は思います。

大熊 確かに障害を持っている方と病気を持っている方というのは非常に重なり合うところがたくさんあると思いますが、今の話を聞かれて、お三方、ご意見がありましたら。

竹中 私は、殿下がお書きになったことでいくつか非常に感銘を受けたことがあるのですが、その1つは、「癌患者はその個体差の落差が非常に大きいように思う」と。「私のデータをほかの人にそのまま応用できませんし、その逆も不可能です」というようなことをお書きになっておられる。これは私たち臨床医をやっていまして日ごろ非常に痛感していることで、30年ほど前に世界的な吉田肉腫の発明家である吉田富三先生がこういうことを言っておられます。
 「癌細胞には個性がある。二つの動物の同じ腹水の癌細胞の一つひとつが違った性質を持っている。それが抗癌剤が効かない大きな原因の一つだ」ということを言っておられるので、まさしくその癌細胞の個性によって非常に左右されることが多いということで、殿下の言っておられることとよく一致するような気がします。
 もう1つ、殿下が前に書いておられたところに、「癌になったときに、カウントダウンが始まったと理解した」とお書きになっておられるんですが、私もまさしく自分が癌になったときに、「あっ、カウントダウンが始まった」という感じを持ったものでございますから、非常にそれが印象深かったのですが、それが術後5年、6年とたつうちにだんだんカウントダウンの音が小さくなって、今ではもうほとんど聞こえなくなってきたという感じです。
 それから、今、殿下がおっしゃっておられたことで、「だれでも限りなく普通に生活したいと思っている。物理的にできないところだけサポートしたほうがいいし、してほしいと思っている」という、このお言葉は私は非常にすばらしいと思うのです。

カルテは医師のプライバシーを守るためにある!

大熊 会場から、「患者の知る権利におけるカルテの患者公開について。なぜ先進諸国の中で日本だけが難しいのか。これからどのようになるのか。医師の立場と患者の権利についての法律の確立についてお尋ねしたい」という質問が出ています。ご意見のある方、どうぞ。

竹中 今の日本で非常に古い体質を持っているところは相撲部屋と医局制度だという言葉があるくらい(笑)、確かに難しいんです。こういうところで公開するということをまず手始めにやるとすると、私はこのごろときどき考えるんですけれど、今、我々が書いているカルテを全部日本語で書くようにしたらどうかと。
 あれは患者さんを前にして、外人にも読めないような変なドイツ語とか英語とかをまぜたものを書いていますと、実際、何となく優越感を感じるんですね。そして、患者さんもそれにカリスマ性みたいなものを感じるような面があるので。あれを日本語で書いてみると、意外につまらんことを書いてるんですけれど(笑)、それを日本語に書いて、患者が希望する場合はコピーして渡すというようなことをやったら、もうちょっと公開ということが簡単にできるんじゃないかと思うのですけれど。

中川 あれは日本語で書いたとしても、大したことは書いてないんです(笑)。保険請求のためには大事ですけれど。カルテという言葉自体がおかしい。ドイツ語みたいに聞こえるんですけれど、ドイツ語の字引を引いても診療録というのはなくて、トランプだとか地図だとか。
 確かに18世紀の終わりから19世紀にかけて、ドイツというのは世界の医学で先進性を誇って、各国からドイツに勉強に行ったんですね。ところが、帰ってからは、みんな自国語で書いているんですね。公開ということを建前にしてまた、他人にもわかるようにということで書いていますし。もっともラテン語系の難しい学術語が多用されていることが問題になってはいます。
 このごろ、これはアメリカで始まったんですけれど、医療従事者みんなで書こうと。そういうある特殊なカルテの書き方ができまして、日本でも多少導入されています。それは、患者さんの言っていることをまず書く。それから、それにどんな所見があるかということを2番目に書く。3番目には、それで自分はどういうふうに考えて、どういうことをやろうと思っているかを書くんですね。
 これが書けないんです。つまり、思考過程をきちんと論理立てて出す習慣がないからです。これは日本の教育のまずいところなんですけれど、科学、科学と言うけれども、看板にしていて、思考過程を表に出さない。それには「患者さんのプライバシーを守るため」という大変便利な言葉があるんです。患者さんが自分のことを知りたいというのに、だれのためにプライバシニを守らなければならないのかと(笑)。むしろ、医者自身のプライバシーを守っている(笑)。
 ですから、なぜこの患者さんにこういう検査が必要なのか、どういう記録が必要なのかということをだれにでも言えるような教育をしなければならないんですけれど、日本の場合は、教育でも診療の現場でも注意されない。
 ドイツ人が見て、「これはドイツ語か」と言う。また、わからないように書くんです。医学生は、入学試験の答案を見ると非常にきれいに書いている。ところが、医学部にいる間にだんだん字が下手になって、臨床に行ったらまるでミミズがはったようになる。忙しいことは確かにあるんですけれど、やはり人に読まれたくないという気持ちも潜んでいるんじゃないかと思うのですけれどね。

大熊 内坂さんのところでは、まず看護婦さんたちが記録をするとき、ベッドサイドでされるんですね。

内坂 私たちの病院では、すべての職員はベッドサイドにというのが病院の方針でもありますので、見学に来た方が、「この病院は本当にナースコールが鳴らないね」と言われるくらいに看護婦さんがベッドサイドにいます。
 ですから、部屋持ちをすると、その部屋にもうほとんど一日中いて仕事をしているということで、用事のあるときだけナースステーションに戻るという形になっていまして、これは情報公開という意味とか、正確に記録をとるという意味で、だんだんいい働きをしていくだろうと思います。
 このカルテの公開というのは、どういう意味で質問されたのかがよくわからないのですけれど、1つは、医療者の側に、医療者のプライバシーをといったこと以外に、もう1つ、裁判という問題があるわけですね。それで、最近、インフォームド・コンセントの中でセカンド・オピニオンを聞きたいということで、自分が受けた治療を別の医者に、本当にその診療方針でいいかということを聞きたいということで、カルテを見せてもらう変わりに、例えば私のところに来まして、「こうこうこう言われているのだけれど、本当にこうだろうか」と聞く患者さんが増えました。
 そのような流れの中で、カルテは公開されるべき時期に来ているんじゃないかと思います。私自身は、公開してもいいんですが、問題点は、ただ見せればいいというのではないということだと思います。

大熊 殿下も、国立がんセンターで講演をなさるときに、かなりカルテの開示に近いことを受けられたんでしたね。カルテそのものをごらんになったわけではないけれども。

殿下 お二方の主治医に原稿を書いて下さいとお願いしました。食道癌学会であいさつを頼まれまして、これは食道癌の専門医ばかり150人余りが世界じゅうから集まって、がんセンターで会議が開催されました。私の主治医が組織委員をなさっていて、「お願いします」となりました。これは皇族のお言葉ということではなくて、患者の体験談をしゃべって欲しいということでした。参加者のほとんどは日本語が使えないので、全部英語でないとわからない人たちなので、苦労しましたが、「12月30日に、胃の上部に引っ掛かる感じを意識して」というところから、現在迄の状況の論文をまず日本語でつくりました。当然、三度の手術中のことは全然わからないわけですから、消化器外科の医長さんと頭頸外科の医長さんに全部文書にしていただきました。それをそのまま私の文章に組み込みました。
 ラテン語かギリシャ語かわかりませんが難しい言葉がたくさん出てきますし、素人の私が理解できるように詳細な術式の順序や人体図も書いていただきました。これは論文発表の為でありまして、別に「カルテを見せてくれ」と言ったわけではないんです。

大熊 その結果いろいろと知らなかったことがわかって、ご自身、おもしろかったですか。

殿下 すごくおもしろかったのは消化器外科の医長さんと頭頸外科の医長さんのおつくりになった原稿が微妙に違いましたので(笑)、妥協点をみつけるのに少々苦労しました(笑)。しかしながら、この辺りが患者のおもしろいところかと思いますが、もし私がそのことで重大なる疾患を得ていたとしたら即訴訟だと思いますが、その頃、恢復率はまだ5〜6割でしたが、論文の時点ではビューティフルなリカバリーをしていましたから、「微妙な違いは結構です」という気持ちに自分自身なってしまうものです。
 ですから、先ほどから私が申し上げているように、患者が自分の意志で選んだ以上、その結果がどうなろうが、それは仕方のないことだと患者自身できちんと覚悟しなければ話にならないのだと思います。

医療スタッフに多大な教育を残した餓死希望の女性

大熊 それでは、聴衆の皆様からいくつかいただいた共通の問題で、尊厳死のことについて、パネラーの皆さんはどのようにお考えになるでしょうか。たくさんのご質問があるものですから、取り上げさせていただきます。

中川 尊厳とは自己決定をしたいということでしょう。どういう医療を選ぶか、延命なら延命を選ぶか選ばないかを自分で決めるという考え方なのですが、今の段階でどこまでそれがうまくいけるか。尊厳死協会なんていうのもできまして、「こうこうこうしてください」と医療側に要求する。「今すぐにスイッチを切ってください」と言われても、「はあ」というわけにはいかんのですね。
 というのは、医療の建前が、生物学的な命がある限りは、とにかくどんなに苦しかろうと、苦しいというのは直接の問題ではない。まずは生物学的な命を1分でも1秒でも生かすのが仕事だと思っています。この間もあったんですけれど、家族が主治医のところにやってきて、「尊厳死してやってください」と。これは嘱託殺人になります。本人が言っていたというけれど、どうでしょう。
 日本では、家族関係が強いですから、尊厳死と自分が思っていても、案外、家族のことを考えてというようなことがあると思いますね。『楢山節考』というのがございましたね。家族の生活が苦しいから、自分はもうそろそろ行ってやらなければと思いやって、自分で歯を壊して、息子にかつがれて奥山に捨てられに行くわけですけれど、これは非常に日本的なというか、古い社会のやり方なんですね。
 近代的な社会では、自分が主人公だという前提からきている尊厳死と、家族関係の中から暗黙のうちに出てくるものと、どう折り合わせるか。それが一番難しい問題だと思いますね。本当に自分の意志ならば、もう全部外してもいい。「私はうちに帰りますよ」と 言えばいいんですね。うちならそれほど濃厚なことはしないし、医者のほうも、顔が見えなかったら、ほどほどになる。ときどき往診して経過を見守る形でいけるのです。
 病院は、本来、生物学的な命を、1分1秒でも延ばすということを建前にしてできていますから、それを急に切るわけにはいかない。ですから、本当に尊厳死したければ自分が自分で行動するという、そこまでいかなければいかんだろうと思います。

竹中 尊厳死というのは、実際上はなかなか難しいと思いますのは、私は、ご夫婦で尊厳死協会という協会へ入っている方を何人か看取ったことがあるんですが、実際上、ご夫婦の片一方が胃癌でだんだん悪くなって、もううちで亡くなりたいという形で家庭に帰られるんですね。
 ところが、やはり人間すべて眠れるごとく逝くわけではないんで、土壇場のところで吐血をしたり、普通の患者さんにとってはびっくりするようなことが次々と起こります。そのときに、中川先生がおっしゃったように、家族というのが大勢集まってきて、「このまま見殺しにするのか」と か 「ここで死なせていいのか」というようなことになって、そのまま救急車を呼んで来る。病院へ来たら、これはもう吐血の緊急患者ですから、今度はすぐ輸血が始まって、胃管を入れて、酸素吸入をやってと、簡単にスパゲティにされてしまいます。
 ですから、これは死というものの認識が根底にあるから、なかなか自分が考えるようには逝きにくいなという感じはしています。

内坂 私はいつも質問した方がどんな方かなというのがすごく興味があるんですけれど、一般的にしか答えられないんですが、死を取り巻く状況というのは非常にさまざまで、「尊厳死についてどう思いますか」と問かれて、一言で答えるのが難しい状況に病院はあります。
 これは1つは私の希望としては、患者さんがありのままに自分の生活の中で自己の尊厳を守って、生活者として死ぬまで生きられるのを援護するのが医療者の仕事と思っていますので、できたらそうなってほしい。ですから、「何が何でも自分は長生きしたいので、そういうときは何とぞ何でもやってください」と言われない限りは、尊厳を守りたいと思っています。
 ですけれど、非常に難しいことがあります。1つ例を挙げると、私の病院で2年前に、入院した方が、「餓死をしたい」と言ったことがあります。餓死希望者なんです。それで、子供さんもいなくて、ご主人も亡くなって、ひとりで暮らしていて、餓死したいと。ところが、家でひとりで餓死していくのは心配だから(笑)。
 主治医は私ではなかったんですが、主治医の先生が毎日毎日話しに行かれて、どうして餓死したいと思うに至ったかということをよくよく間かれてチームで取り組んだら、少し御飯を食べ出して、「おなかがすいたから」と言うんですね。それで、「なかなか餓死するのも楽じゃない」って言うんですね(笑)。
 それで今度は 「何かしてほしいことがあれば……」と言ったら、「お坊さんを呼んでほしい」と言うんです。私の病院はキリスト教病院ですが、その方は仏教徒の方で、「非常に有名なお坊さんに自分の葬式を頼んであるので、ここに至ったらその人を呼んでいろいろ話しておかないと安心して死ねないかもしれないから、呼んでくれ」という連絡を受けまして、連絡したら、そのお坊さんは世界宗教者会議で香港かどこかに行っていていないと言うんです。それで、とにかく帰ってくるまでは死なないようにしないといけないからということで(笑)、そうしたら、食べたんです。
 それで、そのお坊さんが来てくれて、いろいろ話をしたら、背後には妹さんとの確執がありまして、その妹さんを許せない。それで、なんとか世話にならずに死にたいということが私たちにもわかってきたんです。
 それで、ほかにもいろいろ悪い病気があったので、その妹さんに来てもらって、妹さんについてもらったらいいんじゃないかと。和解できないながらも、その妹さんはついてくれました。それで、2週間ぐらいついている中で、だんだん気持ちが溶けていくような感 じで、最後に餓死しました。点滴も何も拒否でした。
 私たち医療者は何ができたかというと、本当に何もできなかったなとは思います。でも、その人の死を看取り切ったということで、いろいろな財産が残ったと思います。そういう一人ひとりの死を尊厳を持って見送るとか、その人の権利をとことんまで守り切るという、一つひとつの症例の積み重ねの中でしか、一般的に尊厳死をどう思うかということには答えられないので、法律のような一刀両断にいくものではないから、新しい関係というか、死を見つめる心を培っていく以外にないと思います。
 その方は餓死なさいましたけれども、私たち医療者や看護スタッフや全員に多大な教育をして亡くなられたと思います。

大熊 殿下は、尊厳死について何かお考えをお持ちですか。

殿下 尊厳死などということは考えたこともありません。答えにはならないかもしれませんが、私の生き方は高校のときから決まっていまして、当時から仲間たちと、「棺桶に半分足が入った状態というのは必ずいつか来るわけだから、そのときに、あれもやりたかったとかこれもやりたかったとかいうことだけは根性ないから言うのをやめよう」ということを、仲間同士で言い続けてきました。
 そのためにどうすればいいのかというと、方法論は1つしかありませんで、いつ死ぬかわからないわけですから、今、生きているということを大切にして、日一杯しゃかりきになって生きるしか方法がないわけです。
 なぜそういう発想になるかといろいろ自分で考えますが、例えば、先ほどちょっと出ましたが、私は体が弱かったものですから、母がご相談をして高松宮様がご親切にも 「自然の中に放り込んでみる」とおっしゃってくださったわけです。そこで、山とスキーが我が家に定着しました。かなりハードな山登りも随分やりましたが、山はいかなる足場であっても踏み外せば「さようなら」という世界なわけです。
 スキーも、普通のスキー場で楽しんでいる分にはそれほど心配はありませんが、我々のレヴェルのスキーは、レースでもそれ以外でも、結構死と隣り合わせにあります。山岳スキーの場合は、当然、遭難を考えなければいけません。学習院はかって鹿島槍で大遭難を起こしましたし、私の妻の兄は、ヨットで遭難しましたし、我々の周りには、子供の頃から死というものが身近に沢山ありました。
 従って、どうしても棺桶の話しを小さいときから考えざるを得ない環境があったと思います。又、護衛官が周りにいるということは、過激派にせよ、その他の人々にせよ危害を加えようとすることに対処しようということですし、交通機関が発達したお蔭で、私のように無数の旅行をする人間にとって、どうしてあんな大きな飛行機が落ちないんだろうということも重要な問題でありますし。
 そういったことで、私なりに、いつおかしくなっても覚悟しておこうということになったのだと思います。その中には当然病気も入っていました。いとこが2人、伯父様がお二方癌でお亡くなりになっています。特に高松宮様の場合には1年半、一の子分でしたから、ずっと横で、「伯父様、頑張って下さい!」とか言いながら一緒に生活をしていました。又、すぐ下の弟が今、重度の車いすですが、彼も生死の境をさまよいましたし、何かうちの周りにはあぶないことが多いわけです。「癌だ」と言われたときに、「これは大変だ。では、これからできる最高の方法論は何だろう」という計画が私の場合すぐ始まりました。
 簡単ないい方をしてしまえば、その患者さんがいざというときに、それまでの人生の中でどういう考え方を持って、いかなる美学を持って生きようとしてきたかということが一番大切だろうと思います。ですから、これから先も、私の癌がどこに転移していくのかわかりませんから、今から、こういう場合にはこう対応して、違う形の時にはこう対処してと、いうふうに考えながら生きているわけです。
 それは当然、患者によって一人ひとり違うはずですから、先生方とそのことについても議論しておかなければいけないし、意志の疎通をきちんととっていかないといけないと思います。少なくとも私は世に言うスパゲティ症候群のような形になってまで生きていたいとは思っていませんし、カレンちゃんにもなりたいとは思っていません。既にがんセンターの麻酔科の名人に、「次はペインクリニックを考えておいて下さい」と依頼済です。そういう覚悟だけはしているつもりです。従いまして尊厳死云々のお答えにはならないと思いますが(笑)。

大熊 すばらしいお答えをありがとうございました。今日のタイトルは 「医師が変わる、患者が変わる」という順番になっておりますが、数からいけば患者並びに予備軍のほうがずっと多いわけですから、患者が変わることによってお医者さんにも変わってもらおうということになります。冒頭のお話ですと、言うことを聞かない患者さんはよく治るそうで、その生き証人みたいな方もここに2人おられますが(笑)。
 病気というのはお医者さんだけで対処できるものではなくて、看護職があり、薬剤師さん、栄養士さん、ホームヘルパーさん、さまざまな職種があるわけです。となると、今度は地域も変えていかなければいけない。
 患者としての視野を皆様が広げ、たとえば3300の市町村で今作られている老人保健福祉計画づくりに参画するといった、行動をなさると、ご自分の住んでいらっしゃるところで最後に生きたいという望みがかなえられるのではないかと思います。「名医100選」とかいうのを見てショッピングをしたとて、いい人生は送れないのではないかという気がしております。
 とても一言ではまとめることができませんけれども、これでお終いにさせていただきたいと思います。先生方、どうもありがとうございました。

シンポジウムは料理に似ています コーディネートを終えて

 シンポジウムもお料理も、美味しく食べていただくための秘密は3つ。どんなお顔ぶれをとりあわせるか。持ち味を100%発揮していただくためにどう下準備をするか。当日、どう盛りつけるか、です。幸い、今回は、個性あふれるお顔をそろえることができました。

 「ひげの殿下」の愛称で呼ばれる寛仁親王殿下は、実は、スキーのプロの先生です。手足や目や耳の障害をもつ人々がスキーの醍醐味を楽しめるよう、手をとって教えてこられました。筋ジストロフィーの患者さんたちでつくっている仙台の「ありのまま舎」の総裁でもあります。病んでも障害をもっても輝いて生きられるよう、長年、サポートしてこられた、ご本人の表現を借りれば"福祉の現場監督"です。
 かつて、患者は、「治るか」「死ぬか」でした。いまは、病気とともに、あるいは病気やケガが残した障害とともに生きる時代になりました。従来の医療専門家だけで患者さんのQOLを高めることは不可能です。殿下のような方からの助言は貴重です。それが、パネラーをお願いした第1の理由でした。
 その上、癌の手術を2度も体験し、「新時代の患者学」の模範回答を実践しておられます。主治医に遠慮して、言いたいことの半分も言えないシモジモの患者と違って、大胆に、しかもユーモラスに発言してくださいました。

 日赤医療センターの竹中文良外科部長は、8年前、大腸癌を発見され、「癌専門医」から「癌患者」へと境遇が変わる体験をなさいました。しかも、まな板の鯉に甘んじることなく、治療方針の決定に患者として参画なさいました。そうした体験をもとに、「医者が癌にかかったとき」をおまとめになりました。
 患者と医師の関係は、かつては「赤ちゃんと親」のような関係でした。病名を知らせず、治療法も医師がすべてを決める。それが、患者のためになる、と医師たちは考えてきました。急性伝染病が中心だった時代には、それも1つの方法だったでしょう。しかし、慢性病や癌が主流となった今、こうした患者―医師関係は、見直しを迫られています。
 それを患者の側に身をおいた医師である竹中さんから語っていただこうと考えました。竹中さんの本にはこう書かれています。「これまで自分は患者さんの気持ちがわかる医者のつもりでいたが、本当のところはよくわかっていなかった」。

 内坂由美子さんは長野緩和ケア研究会世話人、北信外国人医療ネットワーク代表として、知る人ぞ知る地道な仕事をしてこられました。内坂さんが内科医長をつとめる長野県小布施町の新生病院は、小さいけれども、これからの時代の病院の理想像に迫っています。医師、ナース、医療ソーシャルワーカー、薬剤師、栄養士などさまざまな職種がベッドサイドヘ、自宅へと足を運び、患者を支えています。「人生の最期を思い出いっぱいの自宅で、家族に囲まれて過ごしたい」という患者の望みがこの地区ではかなえられています。質の高い医療を医師だけでなく、チームワークで実現する時代の幕開けです。

 医学の進歩で、「未来」が分かってしまう時代が始まりました。「将来、どんな病気にかかるのか」「残された命はどのくらいか」を知ることができる時代は、おそろしさを秘めた時代でもあります。中川米造大阪大学名誉教授は、医療をめぐるこうした新しい事態を予言し、提言をしてこられました。
 それだけではありません。「お客さんを粗末な丸いすに坐らせて医者は背もたれの立派ないすに坐る。こんな国は日本だけ」「医療はサービスである」「薬のラベルをはがして手の内は見せない。そういう日本の医師の行動形態は魔法使いの流れをくんでいる」など医師と患者の関係をめぐる"過激"な発言で、医療界に旋風を巻き起こしてこられました。この日も、深遠なお話を軽妙な関西言葉で包んで会場を爆笑の渦に引き込みました。

 医師は秘密にし患者は公開を迫る、といった医療文化はどちらにとっても不幸です。病気と闘うために、あるいは病気と共存するために、情報を共有する時代が始まりました。このシンポジウムのことを報じた朝日新間を見て「私はカルテを日本語で書き、患者さんにコピーを渡しています。そのことで患者さんも私も成長しています」という手紙をいただきました。全国各地でさまざまな模索と試みが始まっています。

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