シンポジウムの部屋

 2000年2月27日、シンポジウム「尊厳ある生と死をどう支える」が、日本尊厳死協会主催、朝日新聞社後援で、東京・有楽町マリオンの朝日ホールで開かれました。この年の4月1日に迫った介護保険のスタートを前に、介護をふまえた人生の最期の時期を考えようという企画でした。ターミナル期の人にも介護保険によるケアを受けられるようにしてほしい、というこのシンポジウムでの提言は、6年たって2006年の4月から実現することになりました。

<パネリストのみなさん>
竹永睦男さん マーケティング企画会社代表。父の介護のため48歳で資生堂を退社。体験を「男の介護」(法研出版)にまとめました。同社でのコピーライター、商品企画などの経験もふまえ、医療・福祉・介護をつなぐシステムづくりを提案しています。
馬庭恭子さん 広島市にある「YMCA訪問看護ステーション・ピース」所長。テレビ局勤務をへて結婚。夫の看病を機に29歳で看護の道へ。訪問看護で10年以上の経験をもち、日本に当時2人しかいなかった日本看護協会認定の「地域看護専門看護師」。(このパネルの後、自身も癌を体験。その後市議会議員に。)
伊藤真美さん 「花の谷クリニック」院長。千葉県千倉町に一般外来・在宅医療・緩和ケア病棟の3つを柱にした独特の診療所を開設。大学病院などで内科的ながん治療の経験を積み、インド留学やホスピス研修をへて、地域密着の緩和医療に取り組んでいます。
北山六郎さん 弁護士、日本尊厳死協会理事長、元日本弁護士連合会会長。日弁連では人権擁護委員長も務めました。死刑囚が再審無罪となった財田川事件の弁護団長として活躍。ほかにも伊丹空港公害訴訟、スモン訴訟などを担当。
<コーディネーター・ゆき>

●死とは、生とは

竹永 父親を4年間介護した経験から「人間、死ぬときには死ねばいいんだ」と感じます。
 父は満88歳で亡くなりました。病院で、「もう打つ手がない」と医師に判断されてから自宅に連れて帰りました。それから30時間、背中をさすり、声をかけながら別れの時間を過ごしました。
 老いて死ぬことを通して家族のつながりを確認できましたし、死は惨めではないことを知りました。また、2年半の在宅介護で、医師や介護のプロがいかにすばらしい働きをするかも知りました。20世紀は、科学や家族の愛情、きずなを強調するあまり、どこかで死を拒否していたと思います。私たちが死や老いを受け入れるときに来ているのではないでしょうか。

馬庭 病院で暮らしていても治療効果がなく、家に帰りたい患者さんに、以前は、その選択肢がありませんでした。選択肢の一つとして、私たちは4年前に訪問看護ステーションを始めました。いま、訪問看護ステーションは全国で3800以上になりました。
 私たちがお世話させていただいた方々には、それぞれの死がありました。
 ご本人や家族の望む死に方を、ご自分たちでデザインし決定すること。その生き方が家族、医療者、社会にとって納得がいくものであることか。そして、医療、保健、福祉の三本の柱の中で、死に方の環境をきちっと整えていくこと。高齢社会にはこの三つが必要なのではないでしょうか。

伊藤 がんというと痛い、痛いと言って亡くなるイメージがありますが、私たちの経験ではそれはごく一部です。どんな病気でも自然の流れに任せると、最後は枯れ枝がポキッと折れるように亡くなります。それが自然な死なのでしょう。ところが、医療者は、今まで逆のことを続けてきました。もっと自然の死に近づける医療のあり方を考えなくてはいけないと思います。
 そのためにも、どうしたら尊厳ある生を支えられるかを、まず考えたい。介護保険は高齢者のための保険ですが、病気や障害とともに生活するには、どの年代でも介護は必要です。すべての年代に介護を保障する社会的な制度をつくらなくてはならないと感じます。

北山 尊厳死は、人間性を失った形で死にたくないという本人の意思を尊重することが基本です。これは基本的人権だと思います。
 医療技術が非常に進歩しましたが、我々は人間らしく生かしてほしいわけで、意思も理性も知性もないような状態での生命を望まない人が大部分でしょう。むだな生命を生かしてもらうより、人間らしい死に方、自然な死に方をというのが私たちの願いです。そのためには、意識がはっきりしているときに自分の意思を明確にしておくことが一番大事です。

●尊厳への願い

ゆき 尊厳死を望んで拒否される会員はどのくらいいるのでしょう。

北山 元気なうちに尊厳死を希望する意思表示「リビング・ウイル」をお医者さんに示している数が大体、年間500件ぐらい。その大部分はお医者さんに理解してもらっています。

ゆき 会場からいただいたショッキングな質問を一つ。大学名誉教授の68歳の女性からで、「自分で身の回りのことができなくなったら自殺したい。国立安楽死センターができて、希望者に青酸カリをくださればありがたい」と書いておられます。どうお考えでしょうか。

北山 私は賛成できません。自殺ほう助罪は犯罪です。現在の社会、法律では、少なくとも許さないことです。尊厳を持って死を迎えることは大事ですが、みずからの命を絶つこととは区別しなければいけないと思います。

伊藤 私は医師として受け入れられません。人が安楽死を願う状況はあります。だからこそ、安楽死を選択しなくてすむ社会にするにはどうしたらいいか、やれることをやりたいと思っています。「自殺をするなら、自分の責任でやってください」と申し上げたいです。

馬庭 過去が華やかだった人や、今まで自分の意思で自由に生きてこられた人ほど未来を失うことへの喪失感が強いものです。ぜひ、お訪ねして、どうしてそういう気持ちになったのかをいろいろお聞きしたいと思います。

竹永 生老病死と言うが、老、病、死も生きることのプロセス。その中の「生」だけいただきたい、というのは、今の社会がただ生きることを追求しているのと同じではないでしょうか。

●痴ほう症の場合は?

ゆき 「痴ほうになったら尊厳死させてほしい」という希望が会員には多かったそうですが。

北山 痴ほうだからといって死期が迫っているわけではありません。判断が非常に難しく、リビング・ウイルに盛り込むことはできない、という結論になりました。

馬庭 事例ごとに判断する必要があります。今まで出会った方の中には、次第に食事が十分とれなくなり、点滴で栄養をとる方法をとった方もいます。医療者と家族が十分に話し合い、「元気な時からそういうことはして欲しくないと言っていた」となって、自然の成り行きに任せたことも多いです。

伊藤 痴ほうと一言で言っても、非常にいろいろな形があります。病気はすべてそうですが、健康と病人のどこに境があるのか、難しい。尊厳死を考えるうえで痴ほうとほかの病気をそんなに区別しなくても、現実には対応できるケースが多いのではないでしょうか。

竹永 例えば生産する人はよくて、できなくなった人はいけないとなるから、何となく高齢社会が怖くなります。その延長上に「痴ほうの人はどうしよう」という考えがあるからです。痴ほうも老化の過程でしかないと考えます。
 「安心してぼけてもいい社会」をつくることが重要な過大なのではないでしょうか。介護保険と同時に、成年後見制度で、財産の管理とかは手続きの踏み方が見えてきました。恐れるあまり、痴ほうを問題にし過ぎではないかと感じます。

●痛みの治療は?

ゆき がんになったら痛い。だから、「いっそのこと殺して」というのが安楽死願望のもとにあったようです。今は、どんなふうに痛みを鎮めることができるようになっているのでしょう。

伊藤 身体的な痛みに対しては、モルヒネを始めとしていろいろな薬がよく効くようになってきました。私の経験では、疼痛コントロールに取り組まなくてはいけないケースは10人に2人、多くて3人。むしろ、肉体的な痛みに加えて、そうなりたくない恐怖や精神的なつらさがごっちゃになって「痛い」という表現になっているのです。本当に困難なのは、そういう痛みです。
 そういった痛みは、その人が暮らす空間や環境をより快適に整えることでかなりとれるものです。ただ、医学的な方法論がまだない。これからの緩和医療に求められていることではないでしょうか。

馬庭 環境が整えば在宅は最高の場所になります。けれど、整わないと最悪の場所にもなりがちなのです。
 がんの痛みや緩和ケアに関する医学的な知識や技術をきちんと持つ医師はまだ少ない。在宅で尊厳死や尊厳ある場面を迎えるには、そういう人たちをきちんと探し出す必要があります。そのためにも、情報を開示できる仕組みをつくっていかなければいけないとおもいます。

●治療と生活と

ゆき 竹永さんの場合は、お父様を奥の方の部屋から明るい部屋連れ出された、その環境がとてもいい結果を次々と生んだとうかがったことがありますが。

竹永 寝室は家の一番奥にありました。それを、玄関わきの一番明るくて広いところにベッドを据えました。そうすると、父が寝たきりで私たちが大変困っていると世間に知らせることになります。普通なら隠すものを全部引き出し、協力を得やすい環境をつくりました。この転換が、長い在宅介護にとてもよかったんじゃないかと思います。「環境」には、コミュニケーションや触れ合いも含めてと考えたいですね。

ゆき 病院での死についてどう思われますか。

竹永 病院はシステムに合わせて過ごさなくちゃいけない。病気の治療なら仕方がないとしても、死ぬとなった場合、病院での死には、どこか、病院の都合で自分たちの生き死にが決められてしまっているという不満が残ります。

馬庭 病院は治療の場で、生活の場ではありません。残念ながら社会復帰ができない、あるいは残された時間が決まっているとなれば、過ごすのは、自分の家でもホスピスでもホテルでも、自由な意思に基づいてどこでもいいと思います。自分たちの生き方はどうするんだということをいつも周りの方と話して方針を立てておいたほうがいい。

伊藤 ただ、病院は治療、最後は家やホスピスで、と役割分担をしてしまうのはどうでしょう。治療の場である病院も、私たち生活している人間が利用する施設なわけですから、病院にも、生活する人を支えるという視点が入ってこなくてはおかしい。
 これから、在宅医療、緩和医療が進んでいくでしょう。徐々に病院にもそういう考え方が普及しなくては。治療の場にも生活、介護が必要というふうに、変わっていかなくてはいけないと思うのです。

ゆき 子供が個室を持つ時代に、日本の病院は、1ベッド当たり4.3平方メートルの雑居、看護婦さんは夜は1人で33人の患者を受け持つ、終戦直後の基準のままです。国際水準に遠く、尊厳どころでないのに、変えようとしても変えられない状況があります。

●在宅医療の今

馬庭 在宅の場合、導尿とか、かん腸とか、私たちの判断でできる部分は結構あると思うのですか、法律で「医師の指示に基づいて」とあるのでできないのです。すべて、「医師の指示に基づく」ということは、医師が責任を負うということだと思いますが、在宅医療を進めていく上で役割分担をお互い協定し合うようなことをしていかないと進んでいかないのではないでしょうか。

ゆき 協会はカルテ開示の法制化に積極的ですね。

北山 医療面で、法律の不備はたくさんあると思います。改正には、医療関係者から声が上がることが大事です。もちろん患者からもですが……。そういう声が上がってくれば厚生省は嫌でも改正せざるを得なくなるでしょう。

伊藤 だれもが受ける医療であるにもかかわらず、一般の人には医療が日常とかけ離れてとらえられているようです。医者にセカンド・オピニオンが聞けて、身近なところでいろいろな情報が入ってくるようなシステムになっていかなくてはいけないと考えます。介護保険のように医療にもケアマネジャーが必要です。患者さんの立場で地域の中で情報提供していく役割の人が、医療の中にも育って欲しい。

竹永 病気と健康をなぜ×と○のように区別するのか。健康でありつつ病気でもあるし、病気でありつつ健康であるという状態もあるだろう。この考えのヒントは父からもらった最後の手紙です。
 脳こうそくで、つたなくて、だんだん小さくなっていく字で、「私たち病人も元気です」とありました。なるほど、あ、そうなんだ、と。きっとこれからの高齢社会は、そういう感覚を見つけて、いかにサポートするかを考えなくてはいけないと思います。

ゆき 人が人らしく、人としての誇りを失わずに安らかに死んでいく。これが真の意味の「尊厳ある死」だと思います。
 「チューブをつけなければ尊厳が実現する」とか「無駄な延命をやめればかなえられる」というような単純、簡単なことではないようです。それが今日のお話で浮き彫りになったように思います。
 安心してぼけられる、最後まで尊厳をもって生きられる、そういう社会に日本をつくりかえる運動が広がることを期待して、シンポジウムを終わらせていただきます。(拍手)

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