正直、私は政治に関心がありませんでした。
利権・私利私欲・権力・汚職等々のイメージが頭の隅から湧いてきてしまうのが、政治嫌いの要因なのでしょう。
しかし、地方自治体のあるべき姿という視点、私がケアタウンで働く意義を知ったとき、政治に対する思い、人生観が大きく変わりました。地方自治体における主人公は地域住民、"民意による意思決定"こそが政治の原点、と悟ったからです。
鷹巣町では、"住民こそが主人公"としてまちづくりが進められてきました。
住民が生活者の立場で自らの意思を明確に発揮し、行政は住民の意思を尊重しサポートする。その一連の過程において、住民と行政の間に合意と信頼感が形成されました。
私たちの職場『ケアタウンたかのす』もまた、地域住民の厚い要望に行政が応える形で誕生しました。
ケアタウンは本来あるべき民意の集大成。本来あるべき政治の集大成なのです。
"誰もがどんな状態になっても尊厳をもって自分らしく生活できる町"であってほしい。住民が要望したその想いが具現化し、ケアタウンの介護の理念・方針が形成されました。
ケアの5本柱「横に座る・その人を知る・うそをつかない・ゆっくりと穏やかに・市民生活を」を守り、地域住民の想い付託に答えることが我々職員の業務となりました。
実は、私は、ケアタウン入居者の家族という経験もしております。
私の祖父はケアタウンでの日々を幸せにすごすことができた一人です。
大腿骨骨折を境に祖父の痴呆症状は加速度的に悪化しました。ケアタウンへ入所する以前は、とある総合病院に入院しておりました。その中で祖父と私たち家族は悲惨な経験をしました。祖父は両手両足を紐で結ばれ、それがもとで不穏になり大声を張り上げました。それを抑制するために眠剤を打たれる。この繰り返しにより次第に祖父の顔から生気がなくなりました。
外科医として威厳を持って生きていた祖父にとってこの仕打ちは屈辱以外の何物でもありませんでした。私たち家族は面会に行く度、ベッド柵に繋がれた紐を外し、手に刻まれた紐の痕を擦りました。せめて、縛ることはやめてほしいと病棟の職員に何度もお願いしました。次第に病棟の職員にとって私たちは口やかましい家族として、疎ましい存在にされ、挙句の果てには面会に行っただけで、ヒソヒソと陰口をたたかれるようになりました。入院生活は祖父の尊厳だけでなく、私たち家族の心も深く傷つけました。
しかし、ケアタウン入所以来祖父の症状は日毎に好転していきました。生気が蘇り、痴呆症状も進行が止まったように思えるほどでした。
ケアタウンでは祖父の行動すべてが赦されました。慶応のボート部で染み込んだ全館に響き渡る大きな声も、歯に衣着せぬ辛辣な表現も、そして昼夜逆転の行動も、スタッフはすべてを呑み込んだ上で祖父を愛してくれました。もともと人付き合いが下手な祖父が、次第にスタッフを家族の一員として受け入れるようになりました。穏やかな環境の中で、いつしか「有難う」を口にするようになりました。
祖父の生涯の締めくくりもケアタウンの祖父の部屋でした。家族が駆けつけたときは既に言葉を発することはできません。しかし、家族を認識したのかのように祖父の唇が微かに「ありがとう」と動きました。不器用だった祖父が残した生涯最後の言葉は声にならない「ア・リ・ガ・ト・ウ」でした。
祖父はすべての人に感謝しながら、家族とスタッフに見守られながら94歳の生涯を閉じました。
祖父が人間として尊厳を保ちつつ最後の日々を過ごせたことは、家族にとっても身体的・心理的負担軽減となり、暖かい目を持てるようになりました。利用者の尊厳を守ることは利用者家族の尊厳を守ることにもなる、家族として、一町民としてケアタウンがあってよかった。そういう想いと同時にケアタウンを作った地域住民への尊敬の念がそれ以降のケアタウンでの私の業務へ向かうエネルギーになりました。
どんな状態になっても尊厳をもって生活できる町、そして、それを保障するケアタウン。町民だれもがその恩恵を預かる事が約束されたはずでした。
昨年4月に行われた町長選挙までは・・・・・
鷹巣町長交替により行政は、住民主導型から行政主導型へ逆行しました。住民が築き上げた福祉に対し、「これまでは福祉のレベルが高すぎた。」「金を使いすぎた。」「他の自治体に合わせて切り下げる必要がある」としました。福祉のまちづくりのシンボルであるケアタウンを"町の財政を圧迫する悪の元凶"であるかのように非難しました。
福祉切捨てを叫ぶ町長がケアタウン理事長に座るという事態になりました。
私たちは、住民が作り上げた福祉が切り捨てられ、この先それが遺跡化してしまうことへの危惧を覚え、組合を結成し、闘いを挑みはじめました。
ケアタウンバッシングの波は日を追うごとに加速していきました。
手始めに行われたのが議会で実施を決議した業務改善調査でした。調査員3名が町長である理事長の推薦を受け内定。その他は、理事会が推薦した東洋大学の大友教授1名でした。
町長が推薦した調査員の業務改善調査の結果は、あたかも最初から用意されていたかのように、サービスの質には一切触れず、町の財政を圧迫し続けるということに終始し、大半を推測と風聞をもとにしたでケアタウンへの中傷に費やしたものでした。福祉に金をかけることは悪であると公然と証明したかったのでしょう。
唯一、理事会が推薦した調査員、大友教授だけが、「効率とは利用者ニーズに沿った適切なサービスを行っているかどうかであり、コスト論から観るべきではない。利用者ニーズに沿ったサービスを今後も推進していくことが何よりも効率的な運営になる」とし、他の調査員に反論して下さった事が私たちの救いでした。
その後、続けざまに議会は地方自治法第百条に基づく百条委員会を設置。四ヶ月の期間にわたって、特別調査を実施しました。
ケアタウンの理事・評議員の参考人招致。ケアタウンの立ち上げに関わった人への証人訊問は言葉によるリンチのようでした。そして、ケアタウンたかのすユニオン執行委員長も証人訊問されました。
議会の名を大義名分にし、何でもできるといった具合で、利用者のプライバシーにも、さらには労使関係にすら考慮することなく、あらゆる資料の提出を強要してきました。
そのさ中、私たちの組合の立ち上げに深く関わり親身になって支援して下さった、元自治労秋田県本部泉書記次長が、ケアタウンを守るための打ち合わせをした夜、飲酒運転の車に轢かれて亡くなるという悲劇が起きました。なんと議会はそのことをも取り上げ中傷しました。
「酔っ払い運転に轢かれて死んだ人がいる。それもユニオンに関係している。ユニオンが存在していなかったらこういう事故はなかった」と・・・・・・
飲酒運転という犯罪行為の被害に会い、尊い命を失ったにもかかわらず、あたかも泉さんが悪いように、そして、その要因を組合に求めるといった悪質な発言でした。
私たちの怒りは頂点に達し、現在、名誉毀損で地検に告訴しております。
今年度に入るやいなやケアタウンのみならず、町全体の福祉の崩壊が進行しています。
鷹巣町の福祉は「保護と憐みの措置」になってしまったかのように、生きがいデイサービス切捨て、おむつの支給対象者削減、デイサービスの各種加算の徴収を開始、福祉用具レンタルの利用料金引き上げ等々、「福祉の切り捨てこそ町のため」と言わんばかりに進められています。
そこに、これまでの福祉のレベルを選択し、要望してきた住民の意志は存在していません。町が勝手に決め、住民に押し付けるやり口です。
私たちケアタウンたかのすユニオンは、ケアタウンだけを守りたいのではありません。今のケアタウンを作った十数年間の住民の声・意志、そして介護に直面している今の高齢者やその家族の思いを守りたいのです。
どんな状態に陥った方でも常に地域生活の主人公として『自分たちの地域は自分たちでつくる』という本来のあるべき姿に回帰するまで私たちケアタウンたかのすユニオンは闘い続けなければなりません。
地域住民の中に十数年前の福祉への思いは消えたわけではありません。先日行った家族会では
「ケアタウンが守れなくなって一番困るのは私たち家族。家族で死んでしまうしか道がなくなる。高齢者福祉は誰もが直面する問題。私たち町民が作った施設だからこそ私たちで守っていかなければならない」という声がありました。
地域住民の声がなくなったのではなく、声が出せない状況にあるのです。
昨年度当初、ケアタウンの補助金削除に対して復活を望んで結成された「ケアタウンを守る町民の会」が8204名の署名を集めました。けれど、それは、議会によってことごとく葬り去られました。「議会を誹謗中傷した言葉に基づく署名は効力がない」という理由でした。
「ケアタウンを守る町民の会」の会長は老人クラブの代表も務めていた方でしたが、「老人クラブの補助金を削除する」という脅しに、町民の会から身を引かざるを得ませんでした。町民の意思を反映するための議会制民主主義は、この時点で崩壊しました。議会には逆らえない。逆らったらつるし上げを食らう。そんな、イメージが蔓延したのです。
ケアタウンを守ること。それは私たちが「弱者に手を差し伸べる」ことではありません。
どんな状態になった方でも自らの地域生活のためにごく当たり前に意思を表明し、それが地域づくりに反映される。そのことを影で支援することこそ、結果的に守ることにつながるのではないでしょうか。
私たちユニオンは、地区ごとの地域座談会やチラシを通してそのことを訴え続けます。