卒論・修論の部屋

「ダスキン障害者リーダー育成海外研修派遣事業」と自立生活運動
大塚健志さん

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@日本の中では常に聞こえない自分を感じていた。携帯やEmailで便利になり連絡が取り易くなり、生きやすい世の中になってきたとはいえ、大学のなかや、日常生活でやはり不便な部分はあった。それは心理的な面でも、物理的な面でもあった。アメリカにいって、「障害は環境が作る」んだということを強く実感させられた。アメリカはやはり好きにはなれない。しかしすごい国である。それは認めざるをえない。アメリカに移住したいと思うようになった。英語も出来ないし、仕事もあまりないかもしれない。それでも、アメリカで暮らしてみたいと思う。またGallaudet大学の大学院で勉強したいと思うようになった。自分の考えが前より柔軟になったと思うし、同性愛やトランスジェンダーの友達が出来て交流したことで偏見と間違った知識がなくなった。なんでもやってみようと思う。世界をまわってみたい。世界中のろう者との交流をしてみたいと思っている。日本が前より好きになった。日本のよさを再認識した。
Aアメリカで経験した電話リレーサービスは24時間いつでも使え、病院にいったときには通訳を用意してくれた。ギャローデットでエレベーターに友達と乗ったときに、二人の先客がいて、彼らは手話で話し始めた。その手話と彼らの雰囲気から聴者だと分かった。それまで口話で話していたのに手話で話すことをはじめたような雰囲気だったからだ。つまり聴者が、ろう者の私たちを尊重して手話を使ったのである。これには心底驚かされた。つまり、ギャローデットのなかでは、たとえ聴者同士であっても手話を使う。それはギャローデットのなかでの礼儀みたいなものだ。ギャローデット大学は特別な場所である。ギャローデット大と同じ環境をどこでも作れるわけではない。しかし、ギャローデット大学はろう者のための大学であるという目的と理念があり、手話が公用語である。それは聴者同士で話すときには手話が使われないというような表面的なものではない。ほかに、店などでI am deaf.だというとすぐ筆談に応じてくれる。日本みたいに、口が読めますか?とゆっくり話すようやことや、まして日本語わかりますか?などとは聞かない(こういうことはたびたびあり、そのたびに私は苦笑する)。"I am deaf."という手話はみな知っているようだ。けして筆談を面倒くさがらない。レストランで筆談でサンドイッチを注文すると、それが運ばれてきたときに、メモを受け取った。見てみると「君のサンダルかわいいね」と書かれていた。嬉しかったと同時に、日本では絶対ありえないだろうと感じた。
B帰国してからホームページを立ち上げた。また、日本国内の電話リレーサービスを申し込み、利用している。アメリカ滞在中に読んだろう関係の文献がとても面白く、少しずつ読み進めている。また他にろうについて書かれた詩やろうの子どもが出てくる絵本を読んで、日本は"ろう文学"がまだ未開拓であると思った。翻訳など将来していきたいなと思うようになった。英語だけじゃなくて他の言語、中国語、ドイツ語などにも興味が芽生えた。いま少しずつドイツ語の勉強をしている。英語ももっともっと読めるようになりたい、英語の力を伸ばしたいと考え、英語の雑誌を読むなど、英語の力を落とさないように、前より伸びるように気をつけている。(菊池真里)

@生命力がパワーアップした。
A日々の生活の積み重ねによって。
B良い影響がある。問題解決能力への自信。

@性格はより積極的になった。また、強かにもなった。
A一言では言えないので私が書いた『あめりかガラガラ異邦人』(YMCA出版)をご参照ください。図書館に行っていただければあるかと思います。
B影響をおよぼしていると思います。まずはものを見る視点が大きく広がりました。それが物書きとしての可能性も大きくしてくれました。

@特に心境の変化、性格の変化はなかったように思えます。ただ、世界の医療、特に臓器移植の現状をみる機会が与えられ、実際にドナー家族、レシピエント(受腎心肝者)に会うことができ、その様子を知り、視野が広がったのは事実です。また現地の人々と触れ合う中で、言葉を越えた人間同志のつながり、国境を越えての友人を作ることができたのも有意義であったと思います。
C外研修で学んだ事をそっくりそのまま日本で役立てる事は難しいことでしたが、スピリットは十分感じ取り、それを伝えることはできたと思います。私の体調不良のため、病院の仕事は辞めてしまいましたが、アメリカでの友人は今でもメールをしたり、行き来したりしています。留学経験で得た一番の宝は友人を多くつくった事だと思いました。

@全くかわった。積極的になった。
A様々な交通機関を自分だけで利用できた。(日本と差のある1982年だったのでショック・今は日本も可能)介護者を雇うという発想。料理を自分で作れた。旅で各地に行けた。アウトドアスポーツの体験を得た。(キャンプ・ラフティング・乗馬・スキューバ)
Bすべてにおいてあの体験がなかったら、今の生活はなかった。人生の出発が、あの35歳の日々であった。交通・旅・レクリエーションにおいて人生を拡大し、人間関係を広くした。旅ができるようになった。結果的には施設に収容されて、国税を無駄遣いしないで地域の中で生活していけている。旅で健康が増し、自信がついて人生が楽しくなった。クヨクヨしなくなった。勇気が出た。友や後輩を指導して彼らの人生を変えるのに成功した。ダスキンの愛の精神を学べたのが一番の収穫。

@性格自身はあまり変わったとは思わない、が「どこに行っても生きていける」という自信がついた。
Aアメリカ人の国民性(個人主義・フランクさ)に触れる体験(街中で気軽に声をかけられる・スーパーで自然に手を貸してくれる人)アメリカの人のバイタリティはすごかった。 アメリカという自分の知っている人がほとんどいない場所で生活できたという実感
@17歳の時、水泳の飛び込みで頚椎損傷となり、地元の「徳島車イス友の会」という会に入会していたくらいで、大して活動はしていなかったのですが、バークレーでの7ヶ月間の生活で障害をもつ人もどんどん街に出て声をあげていかなければならない、権利を主張するべきだと、社会になるべく迷惑をかけない様に生きていくべきだとの考えは間違っている事に気がついた。
A7ヶ月の研修で学んだのは、現在のアメリカの状況も、歴史があり、障害をもつ者がデモを始め、郡、州、政府への設備改善の要求を激しく行なってきた上での結果で、決して簡単ではなかったということ。またCILのスタッフや障害者団体の方の話を聞けた事など。
B研修前は、われわれ障害者が社会に適応していかなければならない(無理をして)と思っていましたが、社会の方がわれわれにあわせるべきだと言うことを強く感じ、現在の活動に生かしています。

@色々な視点からものが見れるようになった。常識という感覚にとらわれずにものがみれるようになった。「スポーツを楽しむ」というスポーツの原点を実感した。またカナダという国と北海道という土地の地域性というものを意識するようになり、(日本は中央集権だが)地域というものの大切さを重んじるようになった。やはりカナダはみな自己主張が強かったのでその影響もあった。(→パラリンピアンズ協会)
Aカナダという国は、多国籍、他民族、多文化であることなど、日本との様々な違いを感じ、日本という国を外から見つめることが出来た。研修目的のスポーツのことに関しては、カナダでは障害をもつ子どもや大人の健常者も一緒になってスポーツを楽しんでいる光景があって、カナダの障害をもつ人たちは純粋にスポーツを楽しんでいると感じた。日本ではやはり「パラリンピック」というような勝ち負けのことが中心となっている。スポーツを楽しむという事に関しては障害者・健常者は関係がないと思うし、そういう区別が偏見や差別につながると思う。また障害をもっている人を町の中で見かけることが極日常にあって、「障害」ということを特別に意識しなかった。それゆえやはり街もアクセシブルであった。社会の認識が違うと感じた。
B(日本とカナダの違い、地域の違いを考えながら)日本ではマイノリティが目立つと思う。それはその国の文化や国民性が関係することだから、それをそのまま日本で真似するのは無理かもしれないが、その発想を、日本特有の文化や国民性に取り入れるべきだと思う。きっと過去の研修生の人たちも外国で学んだ事をそのまま日本に持ち込むというのは難しかったと思う。私自身はカナダで学んだ事をいかして、自分たちで声を上げていくことが大切と考えパラリンピックの選手協会を立ち上げ、また地域の面では、障害の有無にとらわれない総合型地域スポーツクラブを進めている。特に障害をもつ子ども達へのスポーツ教育という点と、障害をもつ人ももたない人も共に楽しむスポーツということに力を入れている。やはりスポーツは楽しいからやるのであり、スポーツに人を合わせず、人にスポーツを合わせればよいのでは、と考えている。

@中途障害(30歳のとき)で車いすユーザーになって、生活そのものが一変しました。研修で渡米したのは、2年後なのですが、そのまま日本での生活が続いていたら、恐らく、当事者としてのニーズをうまく伝える術を持てなかったと思います。つまり、周囲に合わせて、"好まれる障害者"になり、自分の本当の思いを飲み込んでしまっていたかもしれません。"自分はありのままで、市民として当然の権利を主張しながら生きていっていいのだ"と実感したことは、その後の考え方や行動に大きく影響したと思います。
A8ヶ月現地で生活しましたが、利用できない建物、乗り物、イベントに遭遇したのがわずか2回ほどでした。ADA法以前の諸法(リハビリテーション法504条、全障害児教育法、航空アクセス法、公正住宅法etc)が機能した社会だったのです。もちろんまだまだ問題もありましたが、「自分の障害を忘れそうな日常」は、私にとって大きな経験となりました。
B福祉サービスを受ける立場にいる訳ですが、卑屈にならず権利として要求していくことにひるまない姿勢を持ち続けています。その際、一方的で独りよがりな主張ではなく、当事者以外にも繋がる普遍的な主張をしてきているつもりです。つまり、当事者運動を、一つの市民運動という位置づけが不可欠だと思います。"これまでの障害者運動と何か違う"と感じてくれる人が周辺に多いことは心強いですし、その流れの中で、障害者議員となる道が拓かれたのだと思います。

@元々、好奇心が強いと感じていましたが、海外研修を通してさらにそれを感じました。ただ、好奇心が強い割りに行動に移すのに勇気がもてないことが多かったのですが、一人で海外で生活した経験から一歩前に出る勇気が多少強くなったように感じます。
A1年という期限ある期間ではあったが、一人で海外生活を送れた経験から。また、その間に出会った人達に様々な場面で助けていただいたことから。
B研修に行ったのは学生のころだったのですが、研修に行く前は大学を卒業したら地元で就職するんじゃないかなぁとか、一般の企業には就職できないかもと思っていました。しかし研修後は、地元という枠に限定せず出来るだけ自分の希望する道に挑戦していこうという気持ちが強くなりました。結局、今は地元を離れて働いています。

@私がバークレーに滞在していたのは、1988.9〜1989.3の半年間でした。その頃在籍していたソフトウェア会社を休職し、生まれて初めての海外での生活でした。今から十五年前で、まだ私も22歳の若者でした。海外研修に応募した動機は、母国とは違う文化や、違う人種の中で生活して見たいと思ったからです。それと同時に海外に出ることで外からの日本を見つめて見たいと思ったからです。またそれと同時に、当時は仕事が忙しく、深夜まで働く日々が続き、一度現実から離れてみて、自分自身を見つめ直してみたいという思いもありました。今から思えば、休暇を許してくれた会社に対して感謝しています。向こうに行って、一ヶ月くらいは言葉がうまく通じず、受入先の人やルームメイトなどともうまくコミュニケーションが取れず「何でこんなところに来たんだろう」と悩み、ホームシック状態でした。でも2ヶ月目くらいから急に相手の言葉がわかるようになり、生活がだんだん楽しくなってきました。文化の違いを身をもって体験し、アメリカのほうが障害者が生活しやすい文化であり、日本に比べて障害者と健常者の差が少ないのではないかと感じました。また完全な能力主義であるために障害に有無に関わらず、能力があるものは認められるが、そうでない人間は低いレベルの生活を強いられます。そのため本当の平等とは何なのかを考えさせられました。その当時は、アメリカの福祉は日本より十年先を進んでいるといわれていましたが、実際にいってみると、駅や道路の設備、各種の制度などは先進国だと思いましたが、日本との文化や土地の広さの違いを考えると単純には比較できないと思いました。(小林聡X)
A向こうで生活していて、一番大きく感じたのは文化と習慣の違いでした。まず、食事はスプーン、フォークで食べます。日本の箸とは違い、レストランなどの外食時でもスプーン、フォークを別に頼む必要はありません。またトイレは全てが洋式です。和式トイレに比べ、障害者にとってはすごく使いやすいです。今では、車椅子公衆トイレなどが多く見られるようになりましたが、その当時ではまだまだ普及されていませんでした。それ以外でも、家に入るときにはアメリカでは土足で入っていき、そのままの状態で生活します。車椅子や杖などを使用している人間にとっては暮らしやすい環境になっています。その反面、日本では玄関で履物を脱ぎ、一段上がってから家の中に入っていきます。畳の上での暮らしは、立ったり座ったりすることが多く、足の不自由なものには生活しづらい環境です。あれから十五年たち、、「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」という言葉が使われるようになり、かなり状況は変わってきましたが、今でも田舎の農村地域に行くとまだまだアメリカとは格差があると感じます。仮に障害者と健常者の差があるとするならば、文化や習慣の違いで、日本に比べてアメリカのほうがその差は小さいのではないかと実感しました。
Bやはり、語学力の重要性を実感しました。これからの国際社会では、必ず語学力(特に英語)が問われてくると思いました。帰国後もしばらくは、英会話教室に通っていました。また、障害があっても能力さえあれば認めてもらえることを改めて実感し、自分の仕事であるコンピュータの知識をより多く吸収しようと心がけました。半年間という短い期間であっても海外で一人暮らし出来たことが、今でも自分自身の大きな自信になっています。

@拙著「バリア・フル・ニッポン」にも書きましたが、それまでは外出するにしてもどこか肩に力が入っていましたが、研修後はそういうことがなくなって、自由になったという感じです。
A外という全く価値観が違い、社会的に何も拘束されない場所で、仕事などの義務もなく、自分の判断だけで行動していくという環境におかれたときに、自分独自の感覚を中心にものを見、考えていったことが、自分のこれまでとこれからを考えるうえで役立った。
B研修での経験がなければ、いまごろは田舎で仕事を続けていたと思います。それも一つの人生ですが、研修を経験したために積極的に社会に働きかける必要を感じるようになり、東京に引っ越し、外部に向けた活動をはじめました。

@変化はありました。何よりも、自信をもつことができるようになりました。米国では、自分から何かを働きかければかけるほど、周囲が協力してくれる社会でもあるということを身にしみて感じてきました。米国留学を通してより積極的になったと思いますし、国際交流をすることの楽しさを覚え、自分のもつ人的ネットワークにかなり広がりが出てきました。
A1年間の研修中にたくさんの研修施設を訪れました。いずれも、自分でアポをとり、自分でスケジュールを作り、毎日が挑戦でした。それは、TTYという聴覚障害者用のタイプライター式の電話を使用することでどこにでも自分で連絡をとることができたこと、リレーサービスという聴覚障害者の伝達方法を24時間サポートする米国の社会背景があったことが大きく影響しました。各施設先では、アメリカ手話を使っていろいろな方と直接コミュニケーションすることの楽しさを覚え、聴覚障害児に必要な視覚的言語環境がしっかり整っている教育システムを学び、帰国後自分にできることは何なのか、大きなヒントをもらったような気がしています。
B非常に思います。現在、JTBに勤務していますが、今の仕事ができるのは、1年間の米国生活があったからだと言っても過言ではないと思います。入社してから毎年、年に1度の聴覚障害学生の海外研修旅行を企画しています。米国に二回、北欧に二回行き、現在北欧3回目の企画作成中です。企画を作る際には、人との出会い、研修先での学び、交流、観光をミックスさせ、お客様にとって素晴らしい旅になるよう工夫しています。こうした企画ができるのは、米国で経験した各箇所とのアポの取り方、スケジュールの作り方などが大いに役に立っていますし、自信につながっています。ダスキン留学経験に感謝すると同時に、少しずつ恩返しができれば、と思っている今日この頃です。

@性格は変わらなかった。心境というか、印象に残ったことは、人間の多様性。時間の有限性。
A米国留学が、ひじょうに多数の人たちから、サポートを受けたことによります。++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業と障害をもつ個人の「成長の可能性」清家一雄ミスタードーナツ留学研修5期生今から15年前の1985年11月14日、ぼくは、1年間、アメリカ留学に行きました。当時、手動式車椅子の海外旅行もそれほど一般的でなく、電動車いすでの海外旅行というだけでもひじょうに珍しい時代でした。日本の総理大臣が、中曽根康弘氏で、アメリカ大統領が、ロナルド・レーガン氏の時代だったと思います。1984年4月、ようやく日本でヘルパーの有料派遣制度が開始され、(それまでは、どんな理由があっても、税金を払っている世帯には、ヘルパーの派遣は認められない時代でした)1984年、スズキから電動リクライニング車いすが発売され、1985年、シャープのミニ書院というワープロを購入し、使いはじめ、1986年、スペースシャトル・チャレンジャーの爆発事故、1986年4月、日本で国民年金障害基礎年金が成立、1986年6月、ワシントンD.C.で全米自立生活全国評議会(NCIL)が開催され、ブッシュ副大統領が会場で演説しました。日米の為替相場は、ぼくがアメリカに行ったころ、1ドル210円で、翌年、帰国するころ、1ドル150円でした。そういう時代に、戦争で負けた国からのこのこ電動車いすでやってきて、トイレの世話までアメリカ人の介助者に介助を頼みながら、留学するというのですから、極めてひじょうにまれな留学の事例だった、と思います。本人にも奨学金をもらえて勉強できるという喜びとともに、相当なプレッシャーがありました。当時のそのような時代状況の中で、C5頚髄損傷者のアメリカ留学を可能にしたのは、「ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業」というプログラムでした。これは、ダスキン・ミスタードーナツという企業グループの財団法人広げよう愛の輪運動基金が費用を負担し、厚生省の外郭団体である日本障害者リハビリテーション協会が、事務手続きなどの支援をしてくれ、ぼくの場合は、肢体不自由者として、自立生活センターバークレーenter for Independent Living in Berkeleyが、米国側の受入になってくれました。セントルイスの自立生活センターパラクォッドも、正式な、研修受入先になってもらいました。あと、ボストン自立生活センター、ボストン・トランジーショナル・ハウス、リハビリテーション&リサーチ研究所、ヒューストン自立生活センターなどでも、面接聞き取り調査を行なうことができました。当時、ダスキン社長で、広げよう愛の輪運動基金理事長が駒井茂春さんでよう愛の輪運動基金事務局長が金山和二六さんでした。ダスキンUSAが関博典さんでした。日本障害者リハビリテーション協会副会長で、ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業実行委員長が竹内嘉巳さんで、5期生の担当が、小野有紀子さんでした。実行委員(選考委員)が、竹内嘉巳(委員長)さん、中川修(副委員長)さん、大漉憲一さん、口亮さん、小島蓉子さん、下田巧さん、太宰博邦さん、花田春兆さん、松井新二郎さん、松友了さん、皆川正治さん、- 宮城まり子さんでした。5期生は、鈴木真由美さん、視覚障害、ニューヨークCIL。中野寿子さん、肢体不自由、バークレーCIL。木下香さん、中途障害、カリフォルニア大学ノースリッジ校。森口広恵さん、米てんかん財団。望月千雅子さん、視覚障害、ジェームズ・マディソン・メモリアル高校。清家一雄、肢体不自由、バークレーCIL 森川忠彦さん、視覚障害、ニューヨークIHB。松兼功さん、肢体不自由、バークレーCIL。松谷詩子さん、視覚障害、ペンシルバニア州立大学。旅行手続きでは、JTBの草薙威一郎さんが担当者でした。受入先の自立生活センターバークレーの所長は、Michael Winterさん、プログラムの担当は、桑名敦子さんでした。実際に、いろいろ教えていただいたのはDavid Galagherさん、Phil Draperさんでした。パラクォッド・自立生活センターセントルイスの所長は、Max Starkloffさん、研修の担当は、Colleen Starkloffさんでした。世界障害問題研究所(WID)では、代表のEdward V. Robertsさん、副代表のJudy Heumannさんに、自立生活全国評議会(NCIL)ではJustin Dart, Jr.さんにお世話になりました。ざっと思い出してみても、これくらいの関係者の支援のもとに可能になったアメリカ留学でした。この事業も、今年で20年目を迎えます。「ダスキン障害者リーダー育成海外留学派遣事業」とい名称で失行されています。 広げよう愛の輪運動基金の現在の理事長は、ダスキン社長の千葉弘二さんです。事務局長は、平塚常四郎さん、藤清徳さん、山本好男さんです。ミスタードーナツ障害者リーダー米国留学研修派遣事業は、障害をもつ個人の「成長の可能性」を限界まで展開させてくれるものでした。ありがとうございました。
B大熊由紀子さん、川名紀美さん、高橋真理子さんと知り合うことができました。

@海外研修に参加しようと思った契機の時点で変化が始まったのだと思います。障害はあるものの日常生活にさほど不自由を感じていなかったのですが、高校生の時友人から施設ボランティアや福祉活動に誘われるたびに拒否反応が出てしまう自分に不思議な思いがしました。「障害を持っている自分だからこそ人の痛みもわかることがあると思うけれど、福祉的なことに関わる事にこんなに嫌がるのは何故だろう」その答えを見つけようと大学では福祉を専攻しました。答えはボランティアサークルの活動を通して明確に出ました。それは「自分の障害にこだわりを持っている」ということでした。「私は何でもできる、他の障害者と一緒にしてもらいたくない」という気持ちがいかに強く自分の中にあったか、を思い知らされました。幸いな事に、大学四年間のサークル活動を通じて、嫌と言うほど自分と向き合う機会が得られました。変わりたいと思いました。あるがままの自分を受け入れたい、自然に自由になりたいと思いました。そのきっかけになればと研修に応募しました。研修そのものでの成果は、「きっと自分は変われる」という確信が得られたことでした。劇的な変化はありませんでしたが、この「変われる」という確信は、その後の帰国後の私の生活(現実の生活)を支える力となりました。
Aきっと五ヶ月間の生活全てが、きっかけだったとは思いますが・・・。それまで接触する事の全くなかった障害をもつ友人と一緒に、生活を共にし語り明かす日々。私自身は身体障害(下肢)ですが、サリドマイドやリウマチや脊損や心臓障害の同年代の友人と、障害について何のこだわりもなく話し合え、彼女彼らの姿を通して、日本での自分を考える機会がもてました。自分の障害やそれに関わる心の問題(というか葛藤)を口にする事は自分の弱さを見せることだとずっと思っていましたが、(口にしないことで自分を保っていられると思っていたのですが)口にすることで心が軽くなった。伝えていかなくてはならないものもあるのだと思いました。それまで毛嫌いしていた短下肢装具の装着も、がんばって見ようと思いました。仮装着(米国にいる間だけの)だというのに何人もの病院スタッフが何度も何度もよりフィットするように心を砕いてくれ、ルームメイトの友人も、私がよりよい診療が受けられることを自然に、心から望んでくれていることがわかりました。そうした日々の生活の中から、ある一つの思い、、変わりたい。うん、きっと変われる。ありのままの自分を受け入れられる。という確信が生まれました。
B1番最後に記したとおり、帰国後の私を前向きにしたのは、きっと自分は変われる、という思いでした。でも帰国後15年以上たった今、これまでを振り返ると、完全に変われているわけでは決してありません。行きつ戻りつです。でも1ついえるのは、決して一人では変われないということです。いろんな人とのふれあいの中で、たくさん笑って泣いて、自分の思いを記して、毎日毎日自分と向き合う事を続ける中でしか、私は変われないなあということです。

@性格に変化はないと思うが、積極的になった。
Aアメリカでの生活
B仕事には影響している。英語を使えるので、それが役に立っている。経験も役立っている。

@責任感が身についた。自分の意見、主張をさらに強く言うようになった。日本、アメリカに対する見方が変わった。
A異国での一人暮らしによって役所手続きなど自分でしなければならず、しかも、何でも自分の責任を持ってやるというアメリカ文化に影響を受けたのだろう。それからサポートなど自分のやって欲しい事をはっきり言って当たり前というアメリカの習慣に慣れ、自分のやって欲しいサポートをはっきり述べるに留まらず、自分の意見をずばずば言うようになった。アメリカの友達と日本とアメリカの文化などを話したりして、視野が広がった。
Bいろんな活動に参加するようになり、幅広く物事を考えるようになった。

@小さなことには、こだわらないように心がけるようになった。1障害者として自分をさらに打ち出そうとし始めた。外に自分を出す事が役目だと確信した。
A具体的にはないが、アメリカの障害者、非障害者の生活に接し又自分が一人で行動する事によって得たのだと思います。
B一般企業で働いていましたが、帰国の数年後自立生活センターに勤める為上京したこと、現在ピアカウンセラーとして障害者、非障害者とともに協力して生活していること。今までと全く違った、しかし自分が描いた生活をしていることです。

@社会的差別に対する怒りの感情が多くなった。
A仕事がない、バスに乗れない、ホテルの風呂に入れない、学校にいかれなかった、お金がない、家はダンボールハウス。そんな状況が社会的差別である。
B仕事がない、お金がない、家族はないので変わってない。今は地域生活北海道フォーラムを10月25日にするので、その準備をしている毎日である。内容は釧路に来ればわかる。みんなは私をリベート屋といっている。何もできない、いや、やらない障害者が多い。特に釧路は今の状況が当たり前、普通だと思い、かいぜんを望まないのでは、と思っている。来年は市長選に出馬しようかと思う、無理かな、、、。

@日本という狭い視野でしか物事を捉えていなかった自分の小ささを感じた。元々外交的性格なのが増長され、これでよかったのだという自信を得た。
A障害のある子どもでさえ養子として迎え、愛し育んでいる人々の姿、神の許にはみな平等、すべて神の子であるという信念の許、分け隔てなく家族として暮らしている姿に驚いた。日本では血縁や家系制度で隠そうとするが、彼らは全てOPENで語っている。障害のあるものは弱者ではなく、社会構成員の一部と考えられている。歩けないといっても"SO WHAT"という精神でどんどん社会参加している。私は日本では「明るい、積極的、元気」と言われているが、彼らはそれを超えるエネルギーで突き進んでいる感じがした。
B帰国後、病院ソーシャルワーカー等をし、その間患者さん達への指導が、非常に前向きにできたと思う。アメリカでの実際をみて、日本でもそうあるべきだと思う点が多くそれを生かした支援ができた。私事的には、自分が多く学んだ事で生活が充実し子育てにも大いに役立った。研修先はロスで、特異的福祉発達があったかもしれないが、私にとってはベストな研修先であったと思う。

@行くまではろう文化がどのようなものかわからなかったが、大学のろう教師やろう学生、ASL(アメリカ手話)を学ぶ聴者との交流を通じて肌で感じた。きこえないことはマイナスではなくその人のありのまま、あるがままの状態であり、きこえないために生ずる問題(大学の講義や職場での会議等の乗法保障)を解決するために必要な補助(手話、ノートテイクなど)を遠慮せず、当然のこととして求めることができるようになった。
A1つの部屋に、ろう者が一人、他はASLのできる聴者がいくつかのグループに分かれて雑談している。ASlのできる聴者はろう者がいると直接関係ない話でもASLを使う。ろう者は一見しただけで、あ、あのグループは昨日見たTVドラマの話をしているな、あそこは授業の話か、こっちは恋愛の話で私も興味があるから入れてもらおうと、自分で情報を得、選択し、行動に移すことができる。もし、それぞれのグループがASLを使わなかったら、ろう者はその場にいるだけで何の情報も入らず孤独を感じる。このような経験を多く経験したから「知る権利」「情報保障」について考えるようになった。
B地域でASL講座を開いたり、手話サークルやろう教育関係の大会などで留学経験を話すなどしてより多くの人々に広めている。現在、豊橋聾学校で英語の補助をしておりASLを教えている。名古屋にアメリカろう者がきた時に、ASL通訳をしている。留学先で学んだ映画制作技術を生かしドキュメンタリー作品を作っている(名古屋ビデオコンテストで2回連続優秀賞を頂いた)

@全般的に物事に積極的になった。人の手助けを借りる事を嫌がらなくなった。無理をせず楽に生きようと思った。自分に自信を持つようになった。
A私がホームステイした家は、奥さんが障害者だった。電動車イスを使い、片方の腕も少し不自由で、松葉杖を使って歩ける私より障害が重いと思った。あるその彼女が車イスから立ち上がり、不安定な姿勢ながら台所を歩いているのをみた。驚いて歩けるのか?と訊くと、[歩ける、でも遅いし疲れるので電動車イスを使っている]と答えた。少しでも歩けるのなら無理しても歩くのが当然、という考え方が頭に染み付いていた私は、彼女の答えに衝撃を受けた。「楽だから」という理由でも車椅子を使っていいのだ、無理しなくてもいいのだと痛感した。日本に帰ってから私は、足にコルセットをはめ、松葉杖で歩いていた生活をやめ、車椅子生活に転換した。不便な事も多かったが、気分は楽だった。これまでいかに無理をしていたかがわかった。またホームステイ先の女性が私よりも年上なのに弁護士を目指して勉強中なのにも感銘し、自分も何歳になっても新しい事に挑戦しようと思った。その他、アメリカの障害者が何事にも積極的で、自信に満ち溢れていることにも感心し、その姿勢をまねしようと思ったことを覚えている。
B研修の経験が縁で、日本でも自立生活センターの設立に関わり今も活動を続けている。六ヶ月間アメリカで暮らせたという自信が、その後の私の仕事、ボランティア活動、人との付き合い、すべての基盤になっている。

@クリスチャンになった。価値観が大きく変わり、例えば「自分が何のために生きているのか」ということではなく、「何のために生かされているのか」というような姿勢になったため、"人間"として生きやすくなりました。"海外"、"外国人"、"障碍者"といった境界線(壁)が感覚としてなくなってきました。
A自分のキャリアや経験、状況(障碍者であるかないか、日本人であるかないか等)・環境(日本かアメリカか)は関係なく、"今"の自分がどうあるべきかということを考えさせられる状況にあったとき。例えば、私の研修内容というのは、上記のような目的はあったものの、実際に一日にやる特定の仕事はありませんでした。日々自分で何かを探し出して聞いて求めていかないと、最悪の場合誰ともしゃべらず何もすることのない一日もありました。そんなとき、「これから障碍者としての自分が何をしていくべきか」ということよりも、「人間として自分は"今"何をするべきか」ということを考えていました。4月から、友人の紹介で近くのプロテスタント教会に通い始めていました。最初は「アメリカ文化を知るため」「友だちがほしいから」という理由でなんとなく通っていましたが、毎週の礼拝を通して、聖書は本物であり、自分は神さまに生かされているのだということを知りました。そして、神さまが自分に求めておられる生き方があることを知りました。
Bクリスチャンになったことで自分の絶対的な価値観を持ちました。そのことにより、様々な立場からの視点を受け止めることがより容易になりました。これまでは、自分が"聴覚障碍者"として何かをしなくてはならないという思いに捕らわれるあまりに、自分のやりたいことが見えなくなってしまっていました。また、私は補聴器を活用している難聴者であり、手話も日常的な手段ではなくしかも大学に入ってから覚えたものです。なので、以前は、「聴こえる人でもなく、ろう者でもない」という曖昧な立場でどこにも入り込めない感があり(それは当時の自分の気持ちが曖昧だったせいなのですが)、周囲の意見にも流されがちでした。そうではなく、"日本人"として"日本で生まれ育った"ことも、"生まれつき聴覚障碍者"であることも"聴覚を活用して口で上手にしゃべれる難聴者"であることも、何もかもが神さまに与えられた私の賜物、個性であり、今もこれからもその信仰と宝物を持って一日一日感謝しつつ誠実にこなしていこうと思うようになりました。帰国してから2年経った今、研修先でお世話になった先生や、教会の友だちと現在も親しい交流があります。また、友が友を呼ぶといった感じで、国内外に友だちが増えつつあります。本当に感謝ですし、学ぶこともたくさんあります。今もこれからも・・・。健常者と呼ばれる人でも、例えば英語しかわからない人が日本語環境に来たら、その人はある意味で「障碍者」とも呼べるでしょう。今現在では、私は補聴器の会社で普通に働き、いわゆる聴覚障害者のための特別な活動団体などには入っておりません。しかし、誰でもどこでも不便を感じたりそのことについて主張したくなったりする可能性は大です。私個人が何も特殊な人間ではないのです。どんな方々とも「主張と傾聴、受容」をし合うことができることが今の私のモットーです。(キリスト教的に言えば、それは「隣人を愛する」ことです。)これから先も、どのように自分が変えられていくか、どんな方々との交流があるか、何が学べるか、本当に楽しみです。

@20数年前のことで、当時の新鮮な感覚は残っておりませんが、就職して一年目、社会福祉の分野は素人だったのですが、語学力を評価されて留学することができました。米国の中でも特に、障害者・マイノリティがチャレンジングライフをおこなっているバークレーでの研修は町並み1つをとってもとても刺激的でありました。帰国後すぐに504の原文を邦訳しながら、改めて日米のギャップを痛感した記憶も残っています。
A心境・性格の変化に関してはあまり記憶にありません。性格はそんなに簡単に急変するものでもありませんし・・・。
B研修後もすぐに教員職に戻ったため、研修内容を積極的に生活の中で生かすような暮らしにはなりませんでしたが、障害(ポリオ後遺症)をもつ教師として、学生に命・差別等、教室の中で微力ながら何か心に残る話ができれば良いと思いながら、授業をしている間に20数年が過ぎてしまったということになります。

@海外研修帰国後、心境の変化としては何か自分から積極的に活動しないと何も起こらないし、変化もしないということが海外研修で実感できた。ただ帰国後20年もたっているので、その心境の変化も薄らいでいると思う。性格の変化はなかったと思う。
A私の場合、第一期生のせいか、研修先で私たちのためい何か決められているプログラムがあったわけではなかった。研修先についた次の日から自分はこういうことをしたいという明確に自分の意思を説明しなければ何も具体化しなかったし、進まなかった。言ったことに関してはなるべく実現してくれるように研修先のスタッフは動いてくれたが、なかなか全部実現しなかった。日常生活の面でも歩いていける距離に食料品店や雑貨店などはなかったので研修先に定期的に車(バン)での送り迎えを頼んでいないと生活自体出来なかった。
Bある程度日常生活の中で影響はあるとおもう。仕事の面では全く関連のない仕事なので影響はない。日常生活では自分の疾患の友の会との関わりがあり、その中では海外研修で経験した事と、日本の現状とを比較している。例えば寄付の集め方や、会の運営方法などであるが、今自分の体調の都合で会の運営には参加していないので残念な思いがある。

@あり。心理的・物理的・経済的抑圧からの解放があった。その結果、帰国後、聴覚障害に対して気持ちが穏やかになってきた。(念のために述べておくが、これは障害の受容ではない。)日本では障害を持つ人は様々な制約がある。そのことに対しての抑圧や制約が、物理的心理的経済的にあるので、社会の階層間移動がままならない。(詳しくは生活構造論・障害構造論・QWLを参照して下さい。)極論すれば、両親と同じ社会階層に暮らすことも難しい。それから、日本で積み上げてきたものはアメリカでは通用しない。海外生活はイチからのスタートではなく、ゼロからのスタートである。それ故、自己のアイデンティティががらがらと音をたてて崩壊した。その後に待っているものは、アイデンティティの再構築である。自己と徹底的に対話せざるを得なくなり、これは非常に苦しい作業であった。その過程で主観と客観とアイデンティティを切り離したりくっつけたりすることは誰にでも出来ることではないことに気がついた。
A心理的・物理的・経済的抑圧からの解放のきっかけは、アメリカでろう者のロールモデルに出会えたことである。私は研究者志望だが、日本にろう者の研究者がいなかったので、様々な制約がある日本において希望を達成するためにどのようにしていいのかが解らなかった。アメリカには博士号を持つろう者がたくさんおり(260名以上)、同時にろう者の大学教授がたくさんいる。それ故、私の志望する分野(職業リハビリテーション)で条件に合致する先生を探して研修をすることにした。現在、50歳代のアメリカ人ろう者の教授の若い頃は今の日本のろう者の環境と全く同じなので、先生方の過去の経験を聞いたり、心情を吐露することで、私の心は落ち着いてきた。専門用語で言えば、「ピアカウンセリング」ということになるだろう。また、彼らはリハビリテーションカウンセラーでもあり、教授でもあり、アメリカのろう者のリーダーでもあるので、当然、このおつきあいは非常に高度な内容のピアカウンセリングであった。これがアメリカ生活の中での一番の幸運ではなかったかと考える
B現在、日本社会事業大学大学院の佐藤久夫研究室に属している。そして私は佐藤久夫先生の元で研究のイロハを学んでいる。私の研究室はWHOのICF日本協力センターでもあるので、必然的に障害の構造的把握を行う。障害の構造的把握は、研究者に主観と客観とアイデンティティを切り離したりくっつけたりする作業を求める。この時にアメリカ生活の経験が非常に役立っている。それから佐藤久夫研究室では、障害を持つ当事者が院生の3分の2を占めており、障害者運動の次元を超えた作業を行う人たちの集まりとなりつつある。そして、私は障害の構造的把握を通して障害の種別を超えたつながりは一つであると実感出来るようになった。障害を巡る原理は一つである。それ故、障害の種別によった○○論というものを始し、それぞれの○○論が乱立するような学問の世界における原始的状況は、原理の追究が使命である研究者にとっては避けるべきことでもあるし、そうする必要性もないと考える。一方、共感出来る障害を持つ仲間が渡航前と比べていなくなってきているのも事実である。それ故、孤独感を感じることもある。これはうぬぼれと自己満足ではないかと自問自答をしたりしているところである。

@それまでよりももっと世界的な視野で物事を考えるようになった。せいじや経済にも関心を強く持つようになった。
Aこの町は障害者運動発祥地、だから車いすの人達が堂々と誇り高く暮らしています。観光客も多く訪れています。これらの人達と話をしていると視野が自然に広がって来ました。
B今、私はNPO法人として[JCIテレワーカーズ]という(障害者など就労弱者がITを使い就労のチャンスを得る)グループを立ち上げて、この仲間とともにがんばっています。そしてより積極的に物事にトライするようになりました。

@スウェーデンでは施設からグループホームにほとんどが変わっていました。親亡き後は僕もグループホームで生活しようと思いました。
Aスウェーデンではグループホームでみなが楽しく生活していたから、日本では年金で生活できるようになればいいと思います。長崎市育成会で本人部会を作りました。二ヶ月に一回会をしています。グループホームの見学(長崎では3箇所目ができています)や新聞を作ったり育成会の総会で発表したりしました。
B主に本人部会の活動。他見の本人部会の人たちとの交流や他国との交流もしていきたいと思います。

@あまり「車椅子」ということを意識しなくなった。「どこでもアクセシブル」という開放感はものすごかった。以下、らすかるつうしん「31. 交通機関編 (下) (1999.4.22) 」より引用:=================================「車社会」といわれるアメリカですが、ここバークレー周辺では様々な交通機関が車いすで利用可能です。どこへ行くにも「車いすでアクセスできますか? 身障者用の設備はありますか?」といちいち事前に聞かなくて済む、というのはこんなにも楽なことなのかと思わずにはいられません。そう、たぶん「ふつうの人」であれば感じることのない精神的なプレッシャーを、日本にいるときの私は知らないうちに受けていたのでしょう。車いすでどこかに出かける、というとき、たぶん日本では歩ける人の2倍ぐらいのエネルギーが必要だったのではないかな、と思います。ここでは、、。そう、たぶんここでは、日本で知らないうちに奪われていたエネルギーを、もっと他の部分にまわすことができます。もっとおしゃれしようかな、とか、パーティでもしようかな、とか。アメリカの障害をもってる人って元気だなあ、と思うとき、「日本の障害者は元気がない」んじゃなくて、「日本にいる」だけで知らないうちに元気を吸い取られちゃってるんじゃないかと思いました。おいしいレストランが雑誌で紹介されてても階段の上にあっていけない、なんてやっぱり疲れますよね?=================================「障害者」としての私ではなく、「私個人」を大切にできるようになった。以下、らすかるつうしん「27. 私らしさ編 (1999.2.18) 」より引用:=================================最近の私の悩み・・・それは、「私って、"ふつう"の人なんだ!」ということです。な〜んだ?という感じでしょう? でも、本当にそうなんです。例えば。長野県にいたとしましょう。そこで私が「何かその辺の同年代がやってるようなこと」をすると、とにかく何でもかんでも目立つわけです。デパートの駐車場で車いすをバックドロップなんかしていると必ず人が振り返りますし、ショッピングに行けばいったで必ずといっていいほどこどもがぎょっとしたような顔で見ていますし、その辺を歩いているだけでもじろじろ見られますし、そう、とにかく「人から注目される」度合いが高いわけです。いい意味でも悪い意味でも。外出する、ということはすなわち、私にとって「人の視線を浴びる」ことも意味します。それが背のひくい人々からの視線ならともかく、「車いすでいる状態から見て」見上げるような格好になる人々から浴びせられる視線というのは・・・。結構圧迫感があります。車いすの"身長"なんて1メートルくらいなんじゃないかなあ。よーするにひとつのストレス要因ですよね。ただでさえ車いすでバスにも乗れない、レストランにも入れない、街の歩道は段差だらけ、という状況下にあるというのに、その上さらなるストレスを感じるような環境にあるのだとしたら、、、。ま、外出するのが億劫になって「家に閉じこもりがちな障害者」になっちゃうのもしょーがないか、という気がします。私自身は結構目立ちたがりーな気質があるようで、好んでステージに上がる傾向があるのでまあいいんですけどね。自分の中で「オシャレ」がばっちり決まったときに人から注目される、というのはそんなに悪い気分じゃありません。ところが!この街では、だ〜れも私のことなんか見向きもしないんですよね。考えてみれば当たり前。電動車いすに乗ってついでに犬も散歩させてます、というような人や、私から見るとどーみても「パンクかハードロック系」のド派手なお兄さんが超高速の電動車いすで"暴走族"さながら街を突っ走っていたり、、、。ものすごい「強者」が街をひしめいているわけです。そりゃあ私のことなんて目の端にも入りませんよ。ついでに付け加えておくと、ここ、バークレーは「ヒッピー発祥の地」といわれています。つまりよく言えばリベラル、悪くいえばクレージーな人がたくさんいるわけで、髪の毛ピンクのお姉さんや金色のトサカのたってるお兄さんがいっぱい、います。というわけで、私はここで「ただのふつうの人」になってます。つまり、日本で使っていた「車いす」というアドバンテージを失った、ということ。「車いすで研修生やってひとりぐらししてます」が、「まあすごいわねえ、えらいわねえ」ではなく、「当たり前」なんですね。こういう状況に陥って初めて、私は「ふつうの人」って、辛いな、と思いました。だって何かをがんばってやったとしてももっともっと上の人がいて、「その他大勢」のなかの1人でしかなくて、とどのつまり全然目立たないんですもの。そうして、私は自分がずいぶんと「車いす」とか「障害者」とかいう部分によっかかっていたんだなあ、と思いました。例えば、私は心のどこかで「家に閉じこもりがちな障害者」という新聞の報道に反発を感じて、それでわざと派手な格好をして外に出掛けたりしていました。つまりこのバヤイ、私は「自分が外へ出掛けたいのかどうか」よりも、不特定多数のこれまたものすごく曖昧な「社会」というものがもっているであろう「障害者像」に反発して外出していたわけです。「自分がそうしたいのかどうか」の前に「自分が属しているであろう枠」に対する社会の評価、をおそれちゃったわけですね。他家に「嫁いだ」人が「いいお嫁さん」といわれたいがためにひたすら義母・義父につかえちゃったりとかね。この場合、本人が「私は他家に嫁いだ身。いい嫁といわれるようにがんばらなくては」と思っていないとだめなわけです。「私は××さんといっしょにいたいのであって、○○家の嫁になりたいわけではない」と思ってる人は、まあ別に「いいお嫁さん」にならんがために自分に嘘ついちゃったりはしないんでしょうね。ここでは、そんな「枠」に頼ってたんじゃ通じません。「障害者なのにすごい」とか「車いすなのに××」とかいうカテゴリーによった評価じゃなくて、余計な肩書きを抜いちゃった「私」という個人が何に興味を持っていて、何をしたくて、物事をどういうふうにとらえるのか。そういう「私らしさ」を前面に押し出していかなければ人から評価してはもらえません。ものすごく苦しみつつ、楽しみつつ、私はアメリカでの日々を過ごしています。================================「自己責任」とか、「自己決定」とか、自分の選択とか、そういうことをさらに強く意識するようになった。以下、らすかるつうしん「28. 選択の機会編 (1999.3.7) 」より引用:=================================アメリカのレストランで食事をするのは大変である。なんかの名言みたいですが、本当です。例えば、今夜はステーキを食うぞ! としましょう。まず、お肉の焼き加減を選ばなくてはなりません。ここまではまあいいとしても、肉につけるソースは何だ、付け合わせの野菜はどれにする、ジャガイモはマッシュポテトかフライドポテトかそれとも丸焼きか、付け合わせのサラダにつけるドレッシングはどれがいいか、オニオンは入れるのか入れないのか、レタスはチシャかレッドかプリーツか、といちいち決めなくてはなりません。さらに食後にコーヒーなんかを頼むと、コロンビアかフレンチローストかハウスブレンドかペカンフレーバーか、カフェイン入りかカフェイン抜きか、エスプレッソかカプチーノかオリジナルか、カップのサイズはラージかスモールかミディアムか、ミルクの種類は低脂肪か生クリームタイプかふつうの牛乳か脂肪抜きか、さらに砂糖はダイエットシュガーか上白糖か角砂糖かブラウンシュガーか・・・・。と永遠と選択し続けなくてはなりません。ま、これはかなり極端な例ですが。こちらの学校を訪れてびっくりしたのは、学校給食でもメインディッシュを「選べる」こと。こちらのいわゆる「給食」は、低所得者の家庭のこどもに支給されるものです。それに核当しないこは、家からランチをもってきたり、校内の売店でスナックを買ったりします。ま、どー考えても栄養学的には日本のいわゆる「学校給食」のほうが優れている、と思うのですが、それでも、「給食」ですら各個人に選択の権利がある、というのには驚きました。そう、そこなんです。日本でいうと、学校給食に代表される「きちんと1食分の栄養を準備しました! ごはんもおかずも汁物もみいんなあります!」的な"定食"形式が多いですよね? 何もいわなくても、向こうが勝手に考えて用意してくれる。こちらはただ黙って決められたものを食べればいい。これは、ものすごい私の偏見ですが、「いい年をした」男の人に、そういった傾向が強くありませんか? 何十年間も妻の作ったものか会社が世話してくれる弁当、あるいは食堂で出されるものをただ黙って食べる。そしてたまの休日、妻が何かの用事でと、昼食も食べずにただひたすら妻の帰りを待つ・・・。笑っちゃいけないことですが、何かの集会に出席したとき、えらそーな男の人が「こういうところに女の人がでてくるのはよいが、食事の用意をしていってくれなくては困る」というのを聞いたときに、私はオドロキのあまり何もいえませんでした。心の中では、「おいおいオッサン、年、いくつ?」とつぶやいていましたが。自分で食事を用意できないなら、ひとりで外食するなり、総菜を買ってくるなり、コンビニに走るなり、なんとでも手だてはあります。それ以前に、自分が食べるものを自分で作れない、ってのはかなり重大な問題だと思うんですが、、、。こちらで、「アテンダント」とよばれる有料介助者を使って「自立生活」する"重度身体障害者"がいます。「アテンダント」とは、日本でいうところの「ヘルパーさん」みたいなものなのですが、決定的な違いがあります。それは、障害者側に介助者を選択・決定する権利がある、ということと、アテンダントは障害者の手足の代わりに過ぎない、ということ。例えば、どこをどういうふうに介助して欲しいのか、どういうところで介助がいるのか、それらはすべて障害者側が決めてアテンダントを「教育」します。食事も、野菜の切り方から始まって味付けや調理時間など、すべて障害者本人が「指導」します。直接料理をすることはできないけれども、障害者は調理の全行程を知り、それを他の人に伝えて自分の好みの料理を整えるわけで、実質、「自分でつくってる」のとおなじことになります。そして、障害者は「社長」です。給料を払って人を雇い、その人を「指導」、「教育」して仕事=介助をしてもらうわけですから。"重度身体障害者"のためのアテンダントの費用は、国や州が支給します。障害者は広告やアテンダントを照会する機関などを使って介助者を募集・面接し、気に入った人を採用します。時給も様々ですし、仕事の内容も様々。ただ、「ヘルパーさん」と違って特別な資格がいらないので、アルバイトとして介助をする人が多いみたいです。でもこれって、「障害者」には結構きつい状況だと思いませんか? まず介助者を選択して、仕事の仕方を教え、さらに働きの悪いものを「指導」して・・・。ヘルパーさんならプロだし、介助の仕方もわかってるだろうし、まあ任せちゃっても良いか、というような気がするんですけど・・・。相手が適当に考えてくれてるんだからまあいいか、と任せてしまうのか、それとも自分が主体的に選択していくのか。確かにアメリカでは、なにかにつけ「選択できる機会」が保証されているように感じます。だからレストランでやたらと時間をくうんですよね、、=================================日本って、小国なんだ、としみじみ思いました。(塚越かえM)
A何でもかんでもアクセシブルだったこと。上記にあるように、街を歩いていても、人から見られなくなったこと。日本ではいまだにこどもに指差さますし、大人が何人も振り返りますから。(田舎に住んでる、ってことも影響しているかも)とにかく自分で選べ! と迫られる機会が多かったこと。アメリカのニュース番組で一度も「Japan」という単語を聞いたことがなかったこと。(塚越かえ)
Bまずは日常生活のあらゆる場面で。生活スタイルがアメリカ式にちょっと傾いているかも。パーティをよく開くとか。食べ物の好みとか。キッチンペーパーをよく使うとか。内面的には、交渉がうまくなりました。なんてたってアメリカではトラブル続きで、異国で一人、いろいろな問題を解決してきましたから(苦笑)。とにかく、研修のすべてが今の自分につながっていますし、自信にもなっています。うまく説明できませんが・・・。

@研修させていただいた事で、障害のある自分をまるごと愛せるように変化しました。私は両親より一人の人間として教育を受けましたので、生まれつき様々な障害はありますが、普通学校・県立高校、大学で学ばせてもらい、健常者の中で生きてきました。そういう意味では、広く社会経験を積むことができましたが、海外研修で、色々な人種・立場・障害のある方々と接することができ、障害を含めて、幅広く「人間」を知ることができました。日本人が一人もいない環境の中で暮らすことで、自己を主張する大切さを学べました。
A日常生活を生きるくらいの拙い英語力しかもたなかった私が、日本人の一人もいない、そしてテキサスなまりの強い英語圏で時を過ごせたことで強さを頂戴しました。又、ベイラー医科大学リハビリテーション学部障害女性問題研究所とヒューストン自立生活センターで研修させて頂いたおかげで、色々な境遇に置かれている様々な障害者と出会うことができました。アクシデントに遭い、一週間の入院生活も経験したので、自分の病気をより理解し、病気のある自分をまるごと愛せるようになりました。
B帰国後は渡米前より病気が悪化しまして、入退院を繰り返しております。けれども、福祉センターや、短大の福祉学科で、海外についての講演をさせていただいて、「障害者も、あなた方健常者と同じ人間ですよ。障害者も金銭管理を始め自分の人生をセルフプロデュースできるのですよ!!」とお話させて頂いております。私にとってかけがえのない実り多い海外研修です。

@それまでは障害をもっているということをある種のマイナスと考え、そのコンプレックスを打ち破るために「福祉に関する仕事につきたい」という感じの使命感のようなものをもっていて肩に力が入っていたが、障害をもっているということにとらわれない生き方を見つけることができ、良い意味で肩の力が抜けた。
Aある人との会話の中で「一人一人が特別なんだ(英語)」という言葉を聞いたときに、障害という特徴を一つの個性として捉えることができるようになった。アメリカという国はもともと日本と違って移民社会であり、様々な人の違いや個性に寛容であり、障害をもっていることも何か特別なものではなく、1つの個性であると認識されている。だからアメリカの障害者には、障害という特徴に自己規定されずに「自分のやりたいこと、興味のあることをやっていこう」とする姿勢があった。
Bアメリカでは統合教育についての研修を重ねたが、教員採用の状況などから日本に帰ってから研修で得た知識を生かすことはあまりできなかった。それは自分がアメリカに研修に行ったの時期が若すぎたからかもしれない。何かを学ばなければいけないということにとらわれてはいけないが、当時はやはりそういう気持ちがあったので、落ちこんだ時期もあった。日本に帰国後は(障害者=福祉の仕事というわけではなく)特にその英語力を買われ、町田市の公務員として働いている。仕事においても、日常生活においても、アメリカでの経験によって視野が広がったという自覚はある。

@愛の輪の海外派遣生に選ばれたこと自体が私の人生を大きく変えた出来事です。私が「障害者」になったのは、海外派遣事業に応募した年の1年前でした。私は三好型遠位型筋ジストロフィーといって、つま先から筋力が衰えていく遺伝にかかわる病気を持っています。そのため、15歳からジャンプができなくなる、歩くスピードが遅くなる、階段の昇降が難しくなるといった、日常行動に不自由さを感じています。でも、私の新しい状況に適応する力とそれにかかる時間に対して、病気の進行が緩慢であること、そして恐らく、私の基本的には楽観的な性格が手伝って、24歳になるまで、私がこの病気の患者であること、不自由さを感じている身体は「障害者」として分類されることなど思いもしませんでした。そんな状態の私が「障害者」になったのは、私自身にとってはアクシデント的なことでした。私には、大学を卒業した後、イギリスで人類学を勉強したいというが夢がありました。幸運なことに、不可能だと半ば諦めていた大学院からの入学許可を得ることができ、そのとき勤めていた会社を辞め、留学の準備をしていました。留学するのだから健康診断を受けたほうがいい、という提案に従ったところ、血液検査で異常な数値が発見されました。筋ジストロフィーは、珍しい病気であるため、この病気だという診断に達するまでに数ヶ所の病院で検査を繰り返しました。そのため、イギリスの大学院の入学月である10月を過ぎてしまい、その年の留学を諦めざるを得ませんでした。次年度の入学を待つ1年間、私は留学するべきか、留学する価値が私にあるのか?という疑問で頭が一杯でした。人類学は座学ではなく、足を使って、調査地の人々と交流しながら研究を進めていく学問です。私はインドを研究したいと強い願望がありました。しかし、日本の舗装された道であっても、歩道と道路の隙間や、エスカレーター、エレベータ、手すりのない階段に立ち往生する私が、弱くなっていく肢体をもって、一般的に考えて、日本よりも環境的に障害者には過酷であろうインドで、どうやって生活し、その上調査をしようか、できるものなのか、そんな障害者が人類学を勉強しています、調査活動をしています、と言えるものなのか。留学するために奨学制度に応募しても、落ち続ける状態。奨学制度には、「健康な体であること」と言う条件があります。それは「障害者ではなく健常者であること」という意味ではないのですが、そう解釈し、私自身の勝手な解釈で、「障害者はこういう扱いをされるのかあ」と落胆したり。留学をしたいと、強く願いながら、果たして私にそれをするだけの価値と能力がありのだろうか?とずっと考えていました。そんな時、それ以前からの知人に愛の輪の派遣事業のことを教えてもらいました(第1期生の勝矢さんですが、その時点で私は勝矢さんが派遣生だったことは全く知りませんでした)。他の奨学制度の「健康な体であること」という条件とは正反対に、「障害者に対して海外で勉強することを薦める制度があるとは!」とまず、驚きました。そして、「障害者であっても、本当にやりたいことをやるべきなのだ、『障害者だからそんな価値はない』と一般的には思われがちなのに、それを支えてくれる人がいるんだ!」と元気づけられ、気分が明るくなったのを覚えています。そして、私には留学する価値があるかどうか?と疑問に思っていた私は、「この派遣事業に選ばれることができたら留学しよう。選ばれなかったら、私には留学するという道が初めからなかったと諦めよう」と決心しました。その後、運良く、派遣生になることができ、それまで、障害者の方々と直接的に付き合うことがなかった私も、たくさんの障害者の方々と、それに関わる人々に会うことができています。彼らからは、これまでの人間関係にはなかったものを経験し、得ています(例えば、愛の輪運動やダスキンのスタッフの方たちのホスピタリティー。表面的ではなく、心からの行動。「社会のために働きたい」と以前から考えていた私ですが、彼らに会うことにより、自分がいかに表面的、偽善的であったかを気づかされたり。)派遣生としてイギリスに1年、その後も1年イギリスで留学、インドに1年近く、海外にいます。過ぎてしまえばたいしたことはないのですが、それなりにつらいと思う経験があります。それが、私の身体的不自由が原因であることもあります。そんな時、「私は愛の輪の派遣生だ」「派遣生として選ばれたからには、勉強させていただいたからには、こんなことではヘコタレマイ!」と思います。私にとって、愛の輪の派遣生になれたこと、そして、彼らの支えで留学できたことは、障害を肯定的に捉えることを可能にし、障害から来る嫌な出来事にも対処できる自信と恐らく誇りのようなものを得させてもらったと思います。
A留学1年目(愛の輪派遣生としてロンドンで暮らす) アメリカで研修された派遣生は、障害者も住みやすいように考えられた環境に接し、「障害者の『障害』の多くは、物理環境的に原因があり、それを改善すれば、障害者問題の大半が解決し、障害者・健常者の区別がない生活ができる」と思うような、経験をしたことと思います。私の留学したイギリスは、福祉政策が進んでいるようなイメージがあると思われますが、私の知る限り、決してそうではありませんでした。古い歴史を持つ英国鉄道は、ある一部の駅を除いて、その古さをそのまま残し、階段だらけ、道も狭く、車椅子利用者には全く考慮していなかったり、同じように歴史を感じさせる石畳の道は、障害者には難物であり、ロンドンを象徴するダブルデッカー(二階建て)・バスも、私は利用しましたが、障害者には利用困難。建物も、必ずと言うほど、2,3段の石段がある入り口があったり。それでも、私には、ロンドン(イギリス)は障害者の暮らしやすい街だと感じました。なぜならば、ロンドンという忙しい街であるにも拘わらず知らない人にも声を掛け合うという、「ゆとり」と優しさがあり、何か困ったことが起こっても、誰かが助けてくれるだろうという、安心感がありました。大学院で知り合った友達、特に、北欧から留学していた友達は、「福祉の国北欧」、という看板に偽りはなく、障害者に対して同情せずに理解するとは?と言うことを、私を通して実践して見せてくれたと思います。私自身の心の変化としては、環境不備により生じる困難にあいながらも、勉強、日常生活、友達との社会生活を自分の力で遂行することができ、いろいろな人に支えていただきながら、充実した1年間を過ごすことができたということが自信につながりました。留学2年目・博士課程は、ロンドン中心からロンドン郊外の大学院で勉強することになりました。そこは特に福祉に力を入れている町なのか、たくさんの障害者を日常茶飯事に目にしました。中心地のダブルデッカーの代わりに、バスの車体自体が昇降する、障害者やお年寄りのことを考えたバスが走り、店も石段の入り口の代わりに自動ドアがあったり、スロープがいたるところにありました。この年は、勉強のほかに、次年度からインドで障害者の生活について調査する下準備として、ロンドン在住南インド障害者のためのNGO団体でボランティアをしました。その団体は、南インド人が運営しているので、イギリスの福祉を学んだと言うよりは、南インド人による福祉に接しました。「福祉とはこうあるべき」というものを得たとは正直思っていませんが、ボランティアの表裏(ボランティアを奉仕活動としている人と、就職活動の際のイメージアップとして活動している人がある、など)があることを実際に目にすることができ、「慈善活動」の複雑さを学びました。その他の準備として、調査地となるインドのムンバイに3週間滞在し、障害者のための特別学校や障害者の友達を訪問することを通して、障害者に対する学問的関心は依然として変わらないものの、実際に何か行動を起こして、この人たちの生活をすぐにでも改善しなければならない、と思うようになりました。自分自身の心の変化としては、人類学という学問の世界にいるものの、障害者の生活に徐々に接し、時間を費やすことで、障害者に関わる世界に進んでいるのだなっと、こうするのが私の道なのかしら?運命なのかしら?と、不思議な感覚を持つようになりました。留学3年目・博士課程の2年目、調査の年度として、2002年11月からインドのムンバイ(8月からはプナ)に滞在し、調査活動をしています。物理環境的にインドは福祉から遠く離れています。でも、私は多くの人々に助けられ続けて生活を続けています。私が、道でバランスを失って転んだりする(筋ジストロフィーのために突然転びます)と、次の瞬間に人々は駆け寄って助けてくれます。勝手な思い込みかもしれませんが、インドでは「福祉」を学校で学んだりする機会は少ないと思います。彼らの、「助ける」と言う行動は、テキストで学んだものではなく、日常生活で学んだもの、表面的ではなく、生活に根ざしているものだと感じています。その一方で、全く他人のことを考えていない個人主義的な行動をしがちなインド人。この矛盾をどう分析すべきか。まだまだ、彼らを理解するのに私には時間が必要です。現在でも毎日起伏の激しい生活を送っており、自分自身に起こった心の変化をまだ言葉でまとめることができません。ただ、「インドでも何とかやっていっていけるかも」という風に思っています。インドに来て、現地の方々に、「日本という遠い国から一人でよくやって来た」「ご両親も許してくれたなんて素晴らしい」「インド人自身障害者に対して注意を払う人は少ないのに、日本人のあなたが彼らのために調査をしているなんて素晴らしい」「障害にも負けずに頑張っていて素晴らしい」とお褒めの言葉をよく頂きます。私としては、自分のやりたいことをやっているだけなのですが、やはり、誉めていただければそれはそれで嬉しいものです。そして、彼らが、「障害者であってもやればできる、やりたいことは諦めるべきではない。諦めなければ道は拓ける」と思って頂けるような活動を私がすることができれば、至福のよろこびになるだろうと思っています。そうなれるように、障害を理由に諦めることはしまい、と思うようになりました。(とはいえ、やはり、諦めざるを得ないことにも直面し苛立ちを覚えます。最近はこの苛立ちを少しずつ前向きな解決方法に持っていく術を考えられるようになってきている気がします。抽象的な表現をこれ以上具体的に説明できないのですが)。
B留学する以前、私は自分の病気、障害を受け入れられていたと思います。でも、それは、強い何かに支えられた「受容」ではなく、何かあるとすぐにグラツクものでした。外出する際に、杖を突いたほうが安全だと思っていても、杖に対して「劣等感」のようなものを感じたり。現在は、道路環境の整っているとはいえないインドでは必要に迫られていると言うのが本当のところかもしれませんが、杖をついていますし、未だに、時には「劣等感」を感じますが、以前のような「嫌悪感」を感じることはありません。私は人類学と言う学問が大好きなので、人類学が続けられる環境にある仕事に就きたいと思っています。学問の世界かNGOなどの分野か、まだわかりませんが。でも、障害者に関わることは、きっと、離れることなく、離れることができず、続けていくだろうと思います。日本に帰国すると感じることは、環境(建物、駅、道路など)の福祉は進んでいるものの、人による福祉はまだまだだと思います。空港でリムジンバスを拾う際、バランスを失ってスーツケースごと転んだ私をそのまま見ていたリムジンバスのスタッフ。杖を持っていても席を誰も譲ろうとしない電車やバスで乗り合わせた人々。私は自分の障害を特権として扱う気持ちは全くなく、そういう行動を恥ずかしいものとみなしています。しかし、イギリスやインドにおいて、人による福祉に接していると、日本人の障害者に対する態度はやはり疑問に思うことが多いです。日本に帰国し、就職した際には、こういう部分を変えられるような仕事を少しでもしたいと思っています。

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