福祉人材とコムスン問題の部屋

「介護サービスの効率化」は、決して「大会社化」ではない
内閣官房審議官 河幹夫さん 2007.6.12

 私は次の二つのことを考えています。
 物の製造、販売と「介護サービス」の製造販売の違いは、「移動と保存」による「合理化」の可能性だと思います。
 すなわち「トヨタ自動車」は豊田市(例えば)で製造した物をアメリカでも流通することが可能であるのに比較し、「介護サービス」はその場で製造し、その場で消費されるもので有ります。いずれにしても「地域社会の中で、自給自足しなければならない」ものであり、「移動と保存」による合理化の可能性はほとんどないといっても、過言ではありません。

 したがって「介護サービスの効率化」は、「移動の効率化」すなわち「面として利用者が固まっている」ことが必要であり、決して「大会社化」ではないということです。この点、経済界の「合理化論」は基本的な認識不足であるように思います。折口氏も同様であります。
 そうしますと第二に、最も「効率的な」サービスは「施設サービス」ということになります。これを政策的に「在宅サービス」にしていくためには、簡単に言えば、在宅サービスの「介護報酬」を施設サービスよりも「多く」しなければならないわけですが、多分、この選択は困難でしょう。これからも。

 かつて(四半世紀前)共産党を筆頭に多くの左の方々や、ほとんどのメディアが「在宅論」は「社会保障を後退させるもの」とレッテルを貼りました。これを乗り越えるために、大熊由紀子さんのご著作『寝たきり老人のいる国いない国』が何よりも社会的に意義がありました。
 今も障害者福祉の世界で、「アンチ在宅論」があり、支援費に対して同じような批判が起こっています。

 問題はここにあると思うのです。榎本コムスンの最大の社会的な功績は、介護保険の「在宅志向」を現実のものにするために特別養護老人ホームと同額かそれ以下で「在宅24時間 365日サービス」を実践して見せたということです。
 そしてこの課題、在宅サービスにより多くの介護費用の負担(受益者か、保険者かはともかく)を求めることなしに、介護報酬の「高い、低い」を論じても無意味であると思っています。
 ましてや「買い物費用(生活援助)論」に逃避しても仕方がないのではないでしょうか。

 榎本さんの遺言、久しぶりに読ませて頂き、「もう4年の月日が流れたのか」と感慨にふけっています。亡くなる一ヶ月前、第一回の「介護の学会」をしたいと言われ、「多分、お別れの時」と思い、北九州市に行った日のことを思い出しました。榎本さん宅で夕食を共にさせていただき、酒を酌み交わした後その盃を「君に渡す」と言われました。
 今、私の本箱の真ん中に置いてありますが、重い盃になっています。

 多分、榎本さんは、福祉関係に働く方に、「誇りと矜恃をもって貰いたい」(だから学会だつたのでしょう)と考えておられ、「それが利用者の信頼に繋がる」と思っておられました。

 であるからこそ私も、「経営者の所有物」としての「職員」という考え方が好きではありません。折口氏批判は当然のこととしても、職員が全て従属していたと考えると、何のための「措置制度からの脱却」だったのか、と職員に対しても言いたくなってしまいます。対人サービスの「本質」論なのではないでしょうか。
 余計なことを書きました。私には「盃」が少し重すぎるようです。

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