もしも眼鏡が、ある日、日本から消えてしまったらどうなるだろう。
近視の子は黒板の字が読めず落ちこぼれるだろう。職業につけない人が増えるだろう。観劇やスポーツの楽しみをあきらめねばならぬ人も大勢出ることだろう。
目や耳や手足や知能のハンディキャップを克服するために、人間は様々な発明をしてきた。デンマークやスウェーデンではイエルプ・メーデル(補助する道具)、英語圏ではテクニカル・エイド(技術的に補助するもの)と呼ばれ、長い歴史をもっている。眼鏡は、そのほんの一例だ。
たとえば、年のせい、あるいは病気や事故のために手足が不自由になると、先進諸国では、体に合わせた美しい車いす、ベッドから車いすに乗り移る仕掛け、不自由な手でも着替えや食事ができるための自助具などがタイミングよく提供される。教育や仕事や余暇での不利がかなり減る。
最近、わが国でもこの分野への関心が高まり、先週、2つの検討グループが発足した。
厚生省の「高齢者等の在宅生活支援方策に関する検討会」と、現場の専門職を中核にした「21世紀のテクニカル・エイド研究フォーラム」。両者はお互い連携をとりあって検討を進めるという。
こうした道具や機器は、日本でも以前から補助器具、福祉機器、生活支援機器などと訳され製造もされてきた。だが、供給体制や性能に難点がありすぎ、高齢者や障害者、さらには介護をする人々の助けとしては、まことに不十分だった。
補助器具の大きな効用に光があたってきたことは前進だ。この機会に、いくつか注文しておきたい。
第1は、先進諸国の試行錯誤の結果を十分学ぶことだ。
北欧では1960年代から補助器具の提供が始まったが、初めは専門知識のない人々が選んでいたため、体に悪い影響を与えたり、粗大ゴミと化してしまうものが出たりした。そこで、国レベルのハンディキャップ研究所をつくり、性能や耐久性について厳しくチェックするようになった。
また、補助器具センターを人口約30万人に1カ所つくり、訓練を受けた専門職が一人ひとりに合わせて補助器具を選び、技術者が調整、改造、修理する。
こうした仕組みで、適切な補助器具が必要とする人に公費で貸し出され、住み慣れた家での暮らしを可能にし、医療費の無駄を省くことにもつながっている。
第2は当事者の声に耳を傾けることだ。研究フォーラムには、障害をもつ当事者も参加し、不備な制度や硬直した運営のために補助器具が無駄になっている実態を実例をあげて訴え、専門家が見逃している現実を明らかにした。
スウェーデンのハンディキャップ研究所では、障害をもつ人々自身が機器の開発や評価に参加できるよう配慮し、成果をあげている。
第3は、各地での実践を大切にし、育てることだ。たとえば、横浜市では総合リハビリテーションセンターに専門医、技術者、作業療法士、理学療法士、ソーシャルワーカー、保健婦、建築家がそろっており、保健所などから連絡が入ると、チームで自宅に出向く。そして、本人の機能だけでなく、家族や家屋の状態も見極めて補助器具を調整し家の改造もする。年間400人を手がけ、3分の2が高齢者だという。
日本の文化と海外の知恵を生かした補助器具を適切にタイミングよく供給する仕組みを早くつくりあげ、障害をもっても豊かな人生を送れる社会にしたい。