初めての職場は、一階が焼き鳥屋というビルの上にあった。
浅黒い顔の支局長は、新しい黒革の住所録をテーブルに置いて、厳かにいった。
「これからここに書く人たちが、君の財産だ」
その住所録はボロボロになった。代を重ね、いまはパソコンの住所録の一部になっている。
駆け出し時代の取材先には亡くなった方もいるが、以来何10年もお付き合いが続いている人も多い。数えてみたら5000人近い。支局長の言葉通り、私のかけがえのない財産である。
昼に起きた事件を夕方には説得力ある社説に仕上げなければならない。そんなとき何度、この財産に助けられたことか。
もう一度、38年前に戻る。支局長はこう続けた。
「10を取材し、9捨てて、1を書くこと。1を聞いて10を知るヤツは記者としては落第だ」
この言葉が骨の髄までしみこんだのか、1本の社説を書くために、スーツケースとリュックに資料をつめこんで出社するのが習わしになってしまった。
その重さをひそかに量った同僚が忘年会の当てものクイズにした。
21キロだった。
「恵まれない施設の子に、プールの贈り物」と書いて、支局長にこっぴどくしかられたときのことも忘れられない。
「『恵まれない子』という文字をその子たちが読んだ時、どんな気持ちがするか、想像してみたのか」
ボランティアを紹介する際にはボランティアされる側を、医療や介護の記事を書くときは、医療や介護を受ける身のことをまず考えてしまう。
それは、あのときの怖い顔のせいかもしれない。
朝日新聞を去る前日、その支局長竹内広さんにあいさつした。新人の目にあれほど大きく映った人が、当時36歳の若さだったことを知った。〈雪〉