■普遍性のある清水さんの「新しいつながりが、新しい解決力を生む」■
パワハラいじめで自殺した製薬会社のMR(35歳)の労災初認定を報じた記事のことを、講義を聴きながら考えていた。まさに「追い込まれた末の死」であり、「避けられた死」である。製薬企業に限らず、どの企業でも成果主義の限界がきている。
働き盛りの自殺に加え、高齢者の孤独死、こどもの自殺などあらゆる年齢層に広がる自殺は放置できないところまできている。
「毎日90人もの人たちが自殺で亡くなっています。毎日1000人もが自殺を図っている。それが、日本の自殺の現実です」という清水さんの言葉は聴講者全員の心を捉えた。
NHKを辞めてまでも「自殺総合対策」で社会を動かしたいとする清水さんの使命感と勇気に感服した。その原点が、父親が借金苦に自殺した遺児の番組を手がけたときの体験である。
「僕のせいだ。あの時、優しいことばをかけておけば・・」と自責の念に苦しむ遺児。この番組の意義は「場」を提供し、遺児同士の触れ合い、語り合いにより孤独を解放したことにあるのではないだろうか。その後、遺児同士のつながりに発展するだけでなく、 "新しいつながりが、新しい解決力を生む" というライフリンクのモットーになる。
清水さんが「3年間の活動のなかで確信に変わった」というこのモットーは自殺対策に限らず。医療安全対策、医師不足対策、医療・介護難民対策、地域格差対策などあらゆる対策に応用できそうだ。その基盤は"自分の限界を認め、他者の可能性を尊重する"をいう考えだ。その基盤がないと"つながり"はできないだろう。たとえば、病診連携、チーム医療、企業の新規プロジェクトチームなどを考えればよくわかる。
また、「自殺実態1000人調査」の考え方は、"一緒に創り上げていく"という参加意識が"つながり"を生み、死から学ぶことで「自殺に追い込まれたプロセス」を明らかにし、おのずと有効な対策が見えてくるという。自殺大国日本の汚名は返上しなければならない。
ゆきさんと清水さんの活動は"縁(えにし)"、"つながり"で共通する。人は一人では生きられない。年間自殺者3万人、格差社会の殺伐とした日本は、いま行動を起こさないと取り返しのつかないことになる。
医療福祉ジャーナリズム分野修士課程2年 石塚 稔さん(製薬会社元函館所長)
■自殺を考えた小学生のとき、そして、同僚の自殺■
「自殺の問題は、自分には関係ないと言い切れるか?」
清水さんの問いを聞いて、はるか昔だと思っていた記憶がフラッシュバックを起こした。今でも苦しむことがある。10年経っても、20年経っても、30年経っても忘れない、いや忘れられない記憶である。
私が初めて自殺というものを考えたのは、小学校の時。何回もあった。実際に飛び降りようと、身を投げ出そうとしたこともあった。中学校のときは、手首を切ろうとしてみた。
しかし、現在も、私は生きている・・・。
10年前に、「いじめによる同僚の自殺」も経験した。
お話の中でもあったように、「私が救えたかも知れない」、「気が付いてあげられなかった」と何年も自分を責め続けてしまう。「自殺は、周りの人間をも長きに渡って苦しめてしまう。」・・・その通りである。その同僚とは、毎日、職場で朝から夕まで、顔を合わせていた。ある意味親よりも過ごした時間は長い。そういう点では、親しい同僚は、親と同じくらいの影響があった。
もうすぐ、その同僚の命日が来る。その度に思い出し、うなされる日が来る。
その上、自殺へと追い込んだ人間は、近所に勤めており、会ったりうわさを聞いたりする。
結婚し、子供も生まれ、幸せそうに歩いているのも見た。その時の衝撃は、言葉では表現できない。亡くなった友のことが頭に浮かび、「彼女だって、幼い子がいた。生きていて幸せになる権利があったのに!」とに嫌悪の気持ちを抱く。「人を恨んだり、悪く思うのはいけません」なんて道徳は、この時ばかりは"クソクラエ!"であった。
死について考えた時、色々な引出しがいっぺんに開いて、騒ぎ出す。
しかし、今は落ち着いてそれを元に戻すことが出来る。それは何なのか。
やはり時の力が一番大きい。
誰も私の経験の、感情の、身代わりなんて出来ないし、全く同じ気持ちになることなんて有り得ない。
仕事柄、一般的に生きている人達よりも、たくさんの死に出会ってきている。
自然に訪れる死から、交通事故の死、医療ミスの死、介護ミスの死、介護放棄の死、虐待による死・・・。この仕事に入って、こんなに人の死に目に会う仕事をしていたら「死に慣れてしまうのだろうか・・・?」と心配になって事もあった。けれども、私の経験が、それをさせない。今となっては、それが救いかも知れない。
「死に至る病は、絶望である」とは、キルケゴールの言葉である。高校のときに知り、衝撃を受けた。このことを心に、今、自分に出来ることを行っていきたい。表面的なことだけでは、言葉だけではなく、キレイ事だけではなく・・・。「普通でない経験が、人として普通の感覚を保っている・・・」、ちょっと皮肉っぽく笑ってみた。
医療福祉経営専攻修士課程1年 ケアマネジャー
■助産師としてできる「生きる支援」を■
今回の授業で最初に「自分には関係ないと言い切れるか」と問われ、はっとした。
自殺を避けるために、自分にも何かできることがあるのではないかと考えるようになった。
「生きる支援」ということを考えると、自分でも出来ることが沢山あるのではと考えた。
そういった、小さなことも、一つの自殺を防げるのではないかと思う。
私は、今、助産師の資格取得に向けて日々勉強している。
今後は、子供を産んだお母さんが、育児を楽しくできるような、そんな手伝いが出来たらと考えている。
よく、育児ノイローゼで虐待、そして、自殺などという事もある。数は多くないが、そのような人たちに関わって行く事ができると思った。
身近なところでも、「生きる支援」は小さなことから出来ることが多い。これをきっかけに、色々出来ることなど考えていきたいと思う。
自殺対策を社会で取り組んでいこうという団体が無く、それぞれが、「点」で動いていた中で、仕事を退職し、この活動に飛び込まれた清水さん。
国が「自殺」を個人の問題といっていた中で、「自殺対策基本法」「自殺総合対策大綱」を発表するまでに国を動かした、この苦労は計り知れないなと思う。人と人のつながり、連携が大切なことであると思い、人と人をまとめるというのは、本当に大変であっただろうと思った。
清水さんが最後に、「この私たちの活動は、ずっと続けるわけではなく、今はこうやって活動しているが、いずれ、解散する。そして、また必要な時、自殺対策が何か間違った方向に行ってしまっているときまた活動する」といっていたのが、すごいと思った。
保健医療学専攻 修士1年 横田雅子さん(看護師)
■自殺企図をくりかえされたかたにも調査を■
清水さんのお話を伺い、医療現場にも通じるものがあると感じました。
病院では、交通事故や急病で救急車などで病院に運ばれ、治療の甲斐なく間もなく亡くなられる方もいて、ご家族が最期に間に合わないといったことも少なくありません。
ご家族は、大切な人が亡くなったことが信じられず、動揺し、突然のことで実感のないまま、混乱されたままご遺体と一緒に自宅に戻られます。入院患者でないこうした急患の場合、私たち医療者は、亡くなられたご本人ともご家族とも、大して時間を共有しないまま別れています。そのため、ご家族がその後どのように悲しみを受容し、過ごされているのか・・・私たち医療者は知らないでいます。
清水さんのお話にあった自殺された方々とそのご遺族は、こうしたご家族のように突然大切な人を失い、(病死でないが故に、それ以上に)自力で悲しみを受容していかなければならない現状にあるのだということを知りました。そして、大切な家族を救えなかった自責の念がある分、苦しみも悲しみも深いのだと知りました。
そうしたご遺族の支援という、大切なのにこれまで眼を向けられてこなかったことを、法律の制定という域までもってこられた清水さんたちのご尽力に敬服します。
講義のなかで、ご遺族に行った調査の結果についてもお話しいただきましたが、私はご遺族だけでなく自殺企図を繰り返された方々にもお話が伺えたら、と思いました(不謹慎な提案でしたらお許し下さい)。
ご遺族はあくまでご遺族であって自殺されたご本人ではありません。ご遺族が必ずしもご本人の気持ちを代弁しているかというと必ずしもそうではないと思います。何度も自殺企図を繰り返したけれど今生きておられる方々が、なぜ再び生きようと思われたのか、そのきっかけが何だったのか、そうした方々への聞き取りを重ねることで、自殺を防止できるヒントが見えてくるのではないかと思えるのです。
医療保健学課程1年(看護師)
■「調査のための調査ではなく」に同感しました■
この授業を聞いて、「自分には関係ない」なんて言葉は絶対に言えない。そう強く感じました。
「ごめんね…」と、自殺者は自ら謝りながら死んでいくと清水さんは言います。この言葉の裏には、『本当は生きていたい』という思いがあると聞いて、正直驚きました。謝りながら最後を迎える人の気持ちは、どんな思いなのだろうか…と考えさせられました。私は、その自殺していく人々の裏の感情までは考えていませんでした。
清水さんは、会社の経営者はなかなか相談に行けないと話されました。大変でも従業員にも言えず、家族にも話せない、と。
私の父も会社経営をしています。『従業員の生活を守るのは自分の役割だ。会社がうまくいかなくなったら、自分が死んででも従業員やその家族の生活は守ってあげなくてはならない。』と話している事がありました。その真面目さや責任感から自殺を選択してしまう人が多いのだと改めて感じました。
年間自殺者は、9年前より3万人以上を続けており、一日に90人もの人が自殺している現状。その中でも、親を自殺で失った子供達は9万人いるという事実に驚きました。
「あの時、気づいてあげられれば…。」「あの時に声をかけてあげられれば…。」
この言葉があまりにも印象的で忘れられません。子供達は、親が自殺してしまった事を自分が殺してしまったと思っている。その思いを一人で抱え込み生きていくというのは、大変な事だと感じました。『残された遺族の思いは…?』そう考えると苦しくなりました。
皆で支えていくという事は、要するに治療的環境が必要だという事だと思います。治療的環境を創ることができれば、精神科医の所に行かずとも支える事はできると思います。
清水さんは「調査のための調査ではなく」と話されました。私自身も、「評価のための評価ではない」と、臨床の中で常に思っています。調査や研究を積み重ねても、それを現場や臨床で活かさなければ意味がないと思っています。清水さんのお話を聞いて熱意が伝わってきたと同時に、私自身も刺激を受けることができました。場所は違っても人を支えるという事は同じだと感じました。ありがとうございました。
医療福祉学分野 修士課程1年 岡本光代さん(介護職)
■胸が締め付けられる言葉『追い込まれた末の死』■
『ごめんね』という言葉がとても印象的であった。
『追い込まれた末の死』とはなんと胸が締め付けられる言葉だろう。
"誰にでも起こりうること"、その通りであると思う。実際に私の身近にも自殺はあった。1人が自殺すると6人が深刻な心理的影響を持つ、とうかがったが、それに加えて周囲の1〜20人の人の胸に"自殺"という現実が重くのしかかる。私自身、それを周囲に発するまでに時間がかかった。自殺しなければならなかった人のすぐそばにいた人や家族は、なおさらその事実を抱え込む。そして一生、自分自身を責め続ける。周りがなんと言おうと、この気持ちは内にこもっていくものだと思う。
私の周りにも、言いたくても言えない人がいるのかもしれない。
自殺で苦しむ人たちが少しでも前を向いていけるよう、背景を知り、社会を何とかしなければならないのだ。そのことを、この講義で明確にすることができるようになった。
私たちに今できることは、自殺へ追い込まれる人が1人でも少なくなるよう、この現状を周囲に伝えること。他人事ではないと自分の中に感じること。そして、医療従事者として、患者様の生活背景を知り、介入する機会に感じることがあった場合、すぐに出来る限りの手を差し伸べ、人として気持ちを寄せて、できる限りのことをしたい。
まずは自殺の当事者が生まれないよう、また、自殺で大切な人を亡くした人が安心して悲しむことのできる環境を少しでも様々な角度から整えていけるようにしなければならないと強く感じた。
助産学分野修士課程1年 矢島藍さん(看護師)
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