栃木で開かれた福祉フォーラムの夜の立食懇親会場でのこと、「ぶどう社の市毛研一郎さんが会場に来ているらしい」という情報に、福祉専門職の若い女性たちが色めき立ち、とり囲みました。
「私の本棚は、ぶどう社の本でぎっしりです」「ぶどう社の本に導かれ、元気をもらってきょうまで来ることができました」「社員は何10人くらいおられるのですか?」
市毛さん、身の置きどころがない、という風情です。
実は、ぶどう社は、超零細出版社なのです。
本づくり以外は実に不器用な市毛さんの奮闘を見るに見かね、教師をやめて手伝うことになったパートナーの未知子さん、最近加わったばかりの娘のsayaさん、あわせて「社員3人」。にもかかわらず、この25年間に150冊を送り出し、福祉界でぶどう社を知らない人はまずいない、という不思議な存在です。
福祉改革をテーマに仙台で開かれたフォーラムでも「舞台の上のスピーカーたちの大半が、ぶどう社の市毛さんの助けで本を出した人物」という事態になりました。
たとえば、北海道伊達市での実践をもとに『施設を出てまちに暮らす(1993)』を書いた小林繁市さん、コロニー雲仙の改革を描いた『ふつうの場所でふつうの暮らしを(1999)』の筆者、田島良昭さん……。
どちらの本も、発刊したときは「過激で危険」と行政当局からにらまれた本ですが、福祉行政は、いまや確実にその方向に舵を切り替えつつあります。
日本にだけおびただしく存在する鼻腔栄養の人々に、口から食べる楽しみを取り戻させる実践のきっかけをつくったのは、当時中央法規、いまは医学書院の白石正明さんです。聖隷三方原病院リハビリテーション部長の藤島一郎さんを口説きに口説いて『こうすれば食べられる(1994)』というビデオ、続いて『口から食べる(1995)』というこの分野のバイブルを世に出しました。
白石さんが凄いのは、尊厳を奪われた人々を蘇らせる仕事、専門家の常識を覆す仕事を次々とやってのけてきたことです。
紙屋克子さんのビデオ『新しい体位変換のテクニック(1992)』は、「寝たきりは起こせる」という意識革命を支える技術として日本中に広がりました。吉岡充さんと田中とも江さんの『縛らない看護』(1999)は、厚生省が「身体拘束ゼロ作戦」を打ち出す技術的な後ろ盾になりました。
2002年6月に出た『べてるの家の「非」援助論−そのままでいいと思えるための25章』は、「真面目に」「暗く」語られるのが常だった精神医療と福祉の本の世界に、「笑い」と「儲け話」を持ち込みました。
三省堂の阿部正子さんも世の常識に挑戦する本を次々と送り出しています。『抗がん剤の副作用がわかる本(1994)』『薬害エイズ−原告からの手紙(1995)』『誕生死(2002)』は、いずれも、社会に揺さぶりをかけました。
喧嘩っ早かったり、物静かだったり(誰がそうなのかは、内緒です)、年齢も13歳の開きがある3人(写真)ですが、そっくりなことがいくつかあります。
その1つは、文章を書いたことがない人々から、ブロには真似のできない迫力ある本を書く力をを引き出していることです。
たとえば、HIV感染者やその家族、遺族は、名前を出すことを怖れていました。その上、文章に自信のないという人々がほとんどでした。その気持ちを綴りやすいように、阿部さんは、「特定のだれかにあてて手紙を書く」という方法を編み出し、70通の手紙をもとにした本をつくり上げました。
たとえば、「製薬会社の販売担当へ---君はいつ、毒を売っていることに気づいたのか?」「霞ケ関のハゲタカたちへ---私を、ただの血友病患者に戻してほしい」
一人の若者が名前を公表する決心をしました。彼、川田龍平さんは、この本の中で宣言します。「ボクは実名で闘う決心をした『薬害エイズの被害者』として」。同世代の若者たちが共感しました。厚生省を、「人間のくさり」で取り囲む抗議行動を考えました。1995年7月、3500人が黄色い布を振って厚生省前に集まりました。新しい形の市民運動の誕生でした。それが人々の考え方を大きく変えてゆきました。
共通する第2は、「いい本だけど売れないは、敗北」という信念です。
絵や写真も駆使し、読者に分かってもらおうという熱意が伝わってきます。しかも、実に丁寧な本づくりです。たとえば、『原告からの手紙』の表紙は地味なベージュ色ですが、手にとると「ヘモフィリア・ホロコースト」という英語が浮き上がります。
第3は、迷いと挫折の20代をへて、「現場にこそ宝がある」という確信にたどりついたという経歴です。
みなさまの現場にも、宝が埋もれてはいませんか?
(医歯薬出版刊「歯界展望」2002年8月号より)