埴岡(はにおか)健一さん。8年前までは、ボランティアを「遠い世界のもの」と思い込んでいた、働き中毒の経済ジャーナリストでした。
その埴岡さんがいま、ホームページとインターネットメールを駆使する、これまでに例のなかった政策提言ボランティア「KENさん」として閉鎖的な医療の世界を揺さぶっています。
この夏も、2つのうねりを引き起こしました。
そのひとつは、セカンドオピニオン・ネットワークhttp://www.2-opinion.netの立ち上げです(写真@)。
医学が進み、一つの病気の治療にいくつもの選択肢が生まれるようになりました。でも、医師は属している科、過去に受けた教育、自身の経験にとらわれがちです。
治療方法は日々進歩しています。けれど、主治医が国際的な最新情報をキャッチしているかどうか、患者の側からは不安です。
それに、どんなに優れた医師、親切な医師でも、本人のように24時間その人のことを考えているわけにはいきません。
とはいえ、そんな疑問を今かかっているお医者さんにぶつけて嫌われたら大変、そもそも、誰に、どう聞いたらいいかわからない、と患者や家族は悩んでいます。
埴岡さんたちは、情報満載の冊子「ガンのセカンドオピニオンを上手にとるコツ」やリーフレット(写真A)を惜しげなくホームページで公開し、パソコンとプリンターがあれば誰でも無料で手に入れられるようにしました。
がん体験者、編集者、医師がそれぞれの特技と持ち味を発揮してつくったので、内容が充実しているだけでなくエレガントな雰囲気です。苦労して集めた「セカンドオピニオン 協力医」の名前、連絡方法などの詳しいリスト(写真B)も無料で見ることができます。
埴岡さんのこの夏のもうひとつの成果は、がん治療成績の格差をなくすための検討会を厚生労働省に誕生させたことです。格差を見て見ぬフリをしてきた医療界と行政にとっては画期的な出来事です。
坂口厚生労働大臣は第1回の検討会に最後まで出席。「予算をつけ、数値目標をおき、計画的フォローをする」と約束しました。
徹底的な調査で悲惨なまでの地域格差の実態をつきとめ、そのことを、ホームページ「がんの治療成績を読む」などで多くの人に知らせたKENさんの活動、それを広めたテレビや新聞のジャーナリストがいなければ、不可能だったことでしょう。
http://medwave2.nikkeibp.co.jp/wcs/leaf?CID=onair/medwave/tpic/301148
医学にもボランティアにも無縁だった埴岡さんを変身させたのは、妻朋子さんの闘病と死でした。写真Cは、日経ビジネスのニューヨーク支局長になって半年後、93年1月4日の正月休みにフロリダのディズニーランドで遊ぶ埴岡さん一家。一粒種の大樹くんが3歳のときです。
その3年後、96年2月、埴岡さんは、医師からこう告げられました。
「奥さんは白血病です。3年後に生きていられるかどうか、五分五分です」。
人目もはばからず泣きながら、現実感がまるでなかった埴岡さん。支えてくれたのは、インターネットでした。
英語を読む苦労をいとわなければ、医師と同じ最新情報を得ることができました。勉強していることが分かると医師の態度が確実に変わりました。電子メールで患者同士、家族同士が質問や情報を交換することで、かけがえない仲間ができました。
http://www.sainet.or.jp/~hisashi/rakuda.html(現在は閉鎖)
人生観を大きく変えたのは、朋子さんに骨髄を提供してくれた見知らぬドナーの存在でした。骨髄提供には、わずかながらリスクが伴います。にもかかわらず、縁もゆかりもない人のためにリスクをおかしてくれる。朋子さんは言いました。
「助かったら、何かひとの役にたつことがしたい」
朋子さんは97年3月世を去りました。
茫然自失して帰国した埴岡さんが蘇ったきっかけの一つは、今は亡き新保久史さんとの出会いでした。重い血液疾患の身で「寿」という名でホームページを立ち上げ、仲間に「情報」という命綱を提供していました。http://www.sainet.or.jp/~hisashi/
当初、その一隅を提供してもらって、「KENの超・闘病法」を連載。
http://www.marrow.or.jp/KEN/index.html
さらに、米国と比較にならないほど立ち遅れている日本の骨髄バンクの実態を「ニュース」の形で掲載していきました。「ニュース」は骨髄バンク関係者が毎朝一番に読むニュースソースになりました。厚生省の担当課には「KEN」というファイルができました。
「メドックプロジェクト」http://www.marrow.or.jp/MEDOC/ も企画しました。世界の標準的医療情報を、英語が不得意な人も手に入れられるようにしなければと考えたのです。仲間を募ってメール上の編集会議を開催することにしました。医師向けの国際的な情報を素人のボランティアが翻訳し、それを専門医がチェックするという仕組みです。
埴岡さんは、仲間に勧められ、「骨髄バンク(骨髄移植推進財団)の事務局長になって格差をなくしたい」とネット上で宣言しました。すると、バンクから「事務局長に迎えたい」という異例の打診がありました。
思い切って日経ビジネスを退社し、1日18時間労働、睡眠3時間、事務所に住み込み同様で猛烈に働いて、当初描いた目標を4年間でほぼ達成しました。そして、ジャーナリスト、ただし経済分野ではなく、医療専門のジャーナリストに再転身したのでした。
埴岡さんは言います。
「政策に働きかけ、実際に動かすことを重視しています。仕組みに働きかけるボランティアを意識しています。外から批評したり要望するだけでなくて、実際に手伝ったり、代案を出したり、担っていこうというスタンスでやってきました」
骨髄を提供してくれたボランティアから贈られた充実した時間で、夫妻は結婚前のデートのときのように話しこみました。
文字が読めるようになってからの息子に読んでもらおうと、朋子さんは遺言を書き始め、書き足していきました。
8歳、10歳、13歳、15歳。そして、17歳のとき読むはずの手紙の途中で、筆は絶えました。
大樹くんは、いま15歳です。
(大阪ボランティア協会『Volo(ウォロ)』2004年10月号より)