優しき挑戦者(国内篇)
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2000.12.24朝刊社説■世紀を築く(44)
![]() 絵入りの利用案内には「笑いのある楽しいひととき」「だれでも、必要な時に、必要なだけ」「年中無休」「手続きも簡略」とある。 赤ちゃんも、手助けが必要な障害をもつ人も、物忘れの激しいお年寄りも、申し込めばその日から利用できる(写真@)。必要なら、「お泊まり」も引き受ける。 ●居場所と役割をつくる ![]() 滋賀県知事や愛知県高浜市長は、この方式にほれ込んで同じような仕組みをつくった。似た家は富山県の9カ所から福井、大分、兵庫、宮城、佐賀、長野へと広がる勢いだ。居心地がよくて、と近所の人が手伝いにくる。どこに魅力があるのだろう。 秘密のひとつは、だれが利用者でだれがスタッフか分からなくなってしまう、不思議で温かな雰囲気である。たとえば、86歳になるキヨさんだ(写真A)。 「こんなむさくるしいところへ、ようこられた。若い者んちゃ、気いきかんけど、入られ、入られ」と笑顔でお客を迎えるので、この人を代表の惣万佳代子さんと取り違える人がいる。赤ちゃんを抱いてあやしたり、寝かしつけたりする名人なので、ボランティアだと思いこむ訪問者も多い。 キヨさんは実は、重症の痴ほう症である。自宅にだけいたときは、排せつ物を靴の中に詰め込んだり、「実家に帰る」と行方不明になったり、家族をきりきり舞いさせた。笑わなかった。ここにきて、がらっと変わって明るくなった。魔法は、役割がある、頼られている、という誇りにあるらしい。 ![]() まげを結って表情豊かだった老婦人が髪を短く刈り上げられ、仮面のような顔になっていた。別の男性は転院するやいなや、おむつをつけられ、それをはずさないように手足を縛られていた。「どうして、畳の上で死なれんがけ」という訴えが、耳にこびりついた。「人生の最後の場面で泣いている。なんとか力になれないだろうか」 18坪のプレハブを建て、年齢制限なしのデイセンターを1983年以来続けていた群馬の田部井康夫さんの話をきいて、惣万さんの決心は固まった。「私には80坪の土地と20年の看護婦経験がある」 障害のある3歳の子が最初の利用者だった。若い母は、その子をここへ送り届け、3年ぶりに美容院に出掛けることができた。 3年後、富山県と富山市が「この指」にとまった。自宅で暮らす障害者、障害児のデイケア・モデル事業を創設して、1回1人2100円の利用費を補助するようになったのだ。翌年にできた民間デイサービス育成事業からは年間180万円の補助金が届いた。 介護保険も追い風になった。要介護、要支援のお年寄りは、利用料の9割を介護保険が負担してくれる。利用者が増え、その収入増でスタッフを増やし、ボーナスも出せるようになった。利用者は、4割が子ども、2割が障害のあるおとな、4割がお年寄りだ。 キヨさんは、いま、がんの末期にある。床の間を背に床をのべ、スタッフが食事を1口ずつ運ぶ。2時間がかりだ。赤ちゃんがはってくる。キヨさんの顔がほころぶ。 「このゆび」では、本当の意味の安らかな死への試みも始まっている。 ●制度はあとからついてくる ![]() 「地域密着、小規模、多機能」「小さいことはいいことだ」が合言葉だ。法に基づいた「郊外の、大規模な、収容施設」への反省をもとに、多くの無認可組織が誕生した。 名称はさまざまだ。福岡から広まった宅老所、埼玉の夢家族、栃木のデイホーム、富山のデイケアハウス、北欧の影響を受けたグループホーム。それらがゆるやかに連携する「宅老所・グループホーム全国ネットワーク」も昨年、誕生した。大きな施設や医療機関をこぢんまりした生活の単位に分けていく「ユニットケア」の運動も広がっている。 とにかく始める。制度は後からついてくる。そんな心意気が行政を変えている。
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