優しき挑戦者(国内篇)
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■「日照権」から生まれた「嫌煙権」■
タバコの煙に悩む人たちが、「嫌煙権」を合い言葉に、1978年2月18日、東京・四谷の小さな会議室に集まりました。
「嫌煙権」という新語の生みの親は、まだ25歳だったコピーライターの中田みどりさん(写真)。コンシュートピア創造群という小さなデザイン会社で働きながらボランティアとして公害の絵本作りにかかわっていました。
当時、日照権という言葉が生まれていました。
ヘビースモーカーだった先輩の藤巻和(しずか)さんは、スモーカーとの摩擦を心配して、犬と猿を向かい合わせた愛嬌のあるイラスト(図)を描いて応援してくれました。
「僕は愛煙家と思っていたけれど、タバコという麻薬から逃げられない哀煙家だった。世を惑わす『愛煙家』という言葉をなくさなければ……。」
■夫がヘビースモーカーだと、妻が肺がんに!■
旗揚げの反響は想像以上でした。
強い援軍が、国立がんセンター疫学部長だった、故平山雄さんの調査結果でした。平山さんは、1965年秋から、29の保健所管内に住む40歳以上の26万5818人を追跡調査していました。その分析から、夫がヘビースモーカーだと、妻の肺がんによる死亡率が2倍以上になることをつきとめ、1980年10月の日本癌学会総会で発表。
■メディア内でも"戦争"■
一連の動きは、毎日新聞の科学記者、牧野賢治さん(現・科学技術ジャーナリスト会議理事)によって、丁寧にフォロウされ社会に浸透していきました。 ◇ これは、まさに「戦争」である。口に出すか出さないかの違いはあるものの、日本全国、津々浦々、両派のいるところ、即、戦場である。私の職場、論説委員室も例外ではない。「たばこをやめて長生きしようなんて男は、男じゃない」 「きっぱりやめる意志の強さこそ、男らしさの象徴だよ」 「一服のこのやすらぎが分からないなんて、気の毒に」 「このいやなにおいが他人を苦しめているのに気づかないなんて無神経だなあ」 「吸わないと、社説の書き出しが浮かばないんだ」 「キミきような公害に厳しい論客が、たばこ公害にだけ甘いのはおかしい」 ◇
月日は流れ、2008月3月1日、30周年を祝う会記念フォーラムが東京で盛大に開かれました。
嫌煙権訴訟を弁護士として支えた伊佐山芳郎さん(左下)、「日本たばこ産業は麻薬の売人みたいなもの」と高校生40万人に講演行脚して保健文化賞を受けた医師、平間敬文さん(右下、無煙世代を育てる会代表)、自社の運転手の健康を考えて、禁煙タクシーに早い時期から取り組んだ郭成子さん(大森交通社長)が、こもごも歴史を語りました。 ※郭さんのリンクをクリックするとパワーポイントの資料がダウンロードされます。
この運動が始まった時、新幹線の禁煙車は「こだま号」の自由席に1両だけ。会の最初の活動は「ひかり号にも禁煙車設置を」でした。会の活動をきっかけに禁煙・分煙を求める声は次第に広がり、航空機、列車、駅ホーム、病院、学校などで、分煙・禁煙があたりまえになりつつあります。
問題に気付いた当事者、客観的に裏付ける研究者、メディア、行政、政治のボランティア精神がつながると、社会か変わる、というのが「おゆきの世直しの法則2001」です。 (大阪ボランティア協会の機関誌『Volo(ウォロ)』4月号より) | ||
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